第6話「王太子の影」
ユリアンが仮面を被ったのは、十三の時だった。
伯爵邸の離れ。夜。卓の上に王太子の紋章が押された書簡が置かれている。面会要請。明後日、宮廷の謁見室にて。事実上の命令だった。
書簡を読み終えた私が顔を上げると、ユリアンは向かいの椅子に腰を下ろし、腕を組んでいた。いつもの姿勢。だが、灰色の瞳の奥に、普段とは違う色があった。
「ルクレツィアの入れ知恵だろう」
ユリアンが言った。
「お前の活動が社交界で話題になり始めた。聖女がそれを王太子に吹き込んで、元婚約者としての名目で接触させる。筋は通っている」
「ゲームには、この面会はなかった」
口にしてから、しまった、と思った。
だがユリアンは追及しなかった。私が時折、まるで先の展開を知っているかのような言い方をすることに、この男はとうに気づいているのだろう。問い詰めない代わりに、観察している。
その距離感に、私は助けられている。
「対策を練ろう。王太子からの面会を断る選択肢はない。王族の要請だ」
「分かっている」
ユリアンが腕を解き、卓に片肘をついた。
「問題は、俺が同席できないことだ」
不仲を演じている婚約者が、元婚約者との面会にわざわざ同伴する理由がない。同席すれば演技の矛盾が生じる。
「一人で大丈夫よ」
「大丈夫かどうかの話じゃない。王太子が何を言い出すか分からない場に、お前一人で行かせることが問題だと言っている」
声の温度が、ほんの少しだけ変わった。
普段の低く淡々とした口調とは違う。抑えてはいるが、苛立ちに似た何かが混じっている。
私はそれに気づいて、そして気づかないふりをした。
「事前に想定問答を作る。あなたが持っている情報を全部出して」
「……分かった」
ユリアンは一度目を伏せ、それから顔を上げた。
「一つ、先に話しておくことがある」
声が変わった。さっきとも、普段とも違う。静かで、硬い声だった。
「十三の時、叔父が家督を狙って動いた話は、契約の夜にした」
「ええ」
「その時に学んだことがもう一つある。仮面は、一度被ったら外す場所がなくなる」
ユリアンの視線が、卓の上の油灯の火に向いた。
「叔父を追い落とした後、俺は父の前でも仮面を外せなくなった。剣術バカを演じ始めたのは、あれからだ。裏で情報を集めていることを誰にも知られたくなかった。知られたら、また誰かが俺を利用しようとする。あるいは、排除しようとする」
沈黙。
油灯の火が揺れた。
「お前には仮面を外せと言った。契約の初日に。だが俺自身は、仮面を外す場所を五年間持っていなかった」
灰色の瞳が、こちらを見た。
「お前の前では外している。それだけは、嘘じゃない」
胸の奥が、きゅっと締まった。
この人は、感情を言葉にすることを怖れている。それを知っていた。知っていたけれど、実際にこうして、不器用に言葉を選びながら自分の過去を差し出してくる姿を見ると、予想とは違う重さがあった。
「……ありがとう。話してくれて」
それだけ言うのが精一杯だった。
想定問答の作成に移った。だが、ユリアンの言葉は、頭の片隅に残り続けた。
宮廷の謁見室は、高い天井と磨かれた石の壁に囲まれた広い部屋だった。
窓からの光が白い石床に反射している。部屋の奥に、一つの長椅子と、その向かいに椅子が一脚。
アレクシス・ロイ・ヴァルトシュタインが、長椅子に腰を下ろしていた。
金の髪と青い瞳。端正な容貌。王族の正装を纏い、背筋を伸ばした姿は、まさに理想の王子そのものだった。
「お呼びいただき光栄です、殿下」
深く一礼した。侯爵令嬢として、完璧な角度で。
「かけてくれ、ニーナ」
柔らかい声。だが、かつて婚約者だった頃の声とは微妙に違っていた。気まずさを形式で覆い隠しているような、どこかぎこちない響き。
私は勧められた椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、手を膝の上に揃える。
「久しいな。元気にしているか」
「おかげさまで。殿下こそ、ご壮健のご様子で何よりです」
形式的な挨拶。婚約を解消した元婚約者同士の、社交場のような会話。
アレクシスが一拍、間を置いた。
「君の最近の活動は耳にしている。孤児院への支援、商会との取引仲介。侯爵家の慈善事業として、精力的に動いているそうだな」
「身の丈に合った範囲で、できることを行っているだけです」
「その姿勢には敬意を表する」
王太子の声が、一段低くなった。
「だが、ニーナ。君の活動が聖女の名誉に関わるような動きにつながるのであれば、王家として看過できない」
来た。
ルクレツィアの入れ知恵。ユリアンと想定した通りの展開だった。
だが、想定通りであっても、王太子の口から直接この言葉を聞く重みは、事前の準備では賄いきれないものがあった。
この人の言葉には、法的効力がある。警告であっても、王太子が発した以上、社会的な重みは桁が違う。
「殿下のご懸念は理解いたします。ですが、私の活動は侯爵家の慈善事業の範囲内であり、聖女様のお名前を損なうようないかなる意図もございません」
声を平静に保った。前世のクレーム対応よりも、はるかに神経を使う。
アレクシスの青い瞳が、じっとこちらを見ていた。
「聖女は多くの民を救っている。その功績を貶める動きがあれば、民の心を傷つけることになる」
「仰る通りです」
「君にそのような意図がないと信じている。だが、周囲からどう見えるかも重要だ。気をつけてほしい」
忠告の体裁。命令ではない。だが王太子の言葉として、十分な圧力があった。
「承知いたしました」
深く頭を下げた。
面会は、それ以上長引かなかった。形式的な挨拶を交わし、謁見室を出る。
廊下を歩きながら、私は面会の一部始終を頭の中で反芻した。
アレクシスの言葉の端々に、ルクレツィアの影が見えた。「聖女の名誉」という言葉を持ち出すこと自体が、聖女からの入れ知恵を示している。アレクシス自身の判断で「元婚約者に警告する」という行動に出る理由は薄い。誰かが「ニーナ様の活動が気がかりで」と吹き込んだから、ここに至った。
ルクレツィアが、ニーナを明確に脅威と認識し始めた。
ゲームにはなかった展開。だが、これで状況は確定した。
伯爵邸の離れに戻ったのは、日没後だった。
ユリアンが居間で待っていた。私が入った瞬間に立ち上がり、こちらを見た。
「終わった。想定通りだった」
私は椅子に座り、面会の内容を一語一語、正確に伝えた。
ユリアンは黙って聞いていた。腕を組み、目を伏せ、時折僅かに頷く。すべてを聞き終えた後、低い声で言った。
「ルクレツィアの入れ知恵だな」
「間違いない。アレクシスの言葉遣いに、聖女の語彙が混じっていた。『民の心を傷つける』なんて表現、王太子の発想じゃない」
ユリアンが小さく息を吐いた。
「ゲームになかった展開を、お前と二人で乗り越えた。シナリオの外に出ても、この共犯関係は機能する」
口にした瞬間、自分でも驚いた。自然に出た言葉だった。
ユリアンの目が、僅かに見開かれた。
それから、視線を卓に落とした。
「当日、お前の傍にいられなかった。それだけが」
言葉が途切れた。
その先を、ユリアンは言わなかった。
私は聞いてはいけない気がした。今ここで、その先を聞いてしまったら、「契約上の共犯者」という枠組みが、取り返しのつかない形で揺らぐ気がした。
だから、話題を変えた。
「ルクレツィアが動いてきた以上、証拠固めを急ぐ必要がある」
ユリアンは一瞬だけ沈黙し、それから頷いた。仮面を被り直したのが、分かった。
「マルグリット様を味方につけなければ。公爵令嬢の支持がなければ、証拠を提示しても社交界を動かせない」
「マルグリットへの接触は、お前がやるのか」
「ええ。私しかできない」
ユリアンは何も言わなかった。
ただ、立ち上がって厨房に向かった。
しばらくして、温かい茶が卓に置かれた。
何も聞かなかったことに、私は「ありがとう」とも言えなかった。




