第5話「商会と伏兵」
この取引を成功させれば、証拠の輪が閉じる。本当にそう言い切れるだろうか。
王都の商業区。石畳の通りに面した、三階建ての堅牢な建物。商会の看板が掲げられた正面扉の前で、私は一度だけ呼吸を整えた。
護衛騎士と侍女が後ろに控えている。侯爵令嬢が商会を直接訪ねること自体が異例だった。普通なら使用人を介して書簡を送るのが作法だ。
だが、前世の営業で学んだことがある。重要な取引は、必ず顔を見せて始める。
「アルトシュタット侯爵家のニーナと申します。先日お送りした書簡の件で、商会長にお目通り願えますでしょうか」
受付の商人が目を丸くした。侯爵家の紋章入りの書状を確認し、慌てて奥に走っていく。
程なくして、商会長が自ら出迎えた。恰幅の良い中年の男で、商人らしい如才ない笑みを浮かべている。
「これはこれは、侯爵家のご令嬢がわざわざお運びくださるとは。どうぞ奥へ」
応接間に通された。茶が出される。商会長は卓を挟んで向かいに座り、両手を膝の上に揃えた。貴族に対する商人の礼儀作法。
「孤児院への物資調達の件でございますね。書簡は拝読いたしました」
「ええ。毛布、穀物、衣類を中心に、継続的な納入をお願いしたく存じます。侯爵家の慈善事業として、年間を通じた契約になります」
商会長の目が変わった。一回限りの取引ではなく、年間契約。侯爵家の名前と資金力が裏付けにある。商人にとって、これ以上ない条件だ。
「ありがたいお話です。品目と数量を確認させていただければ、すぐにでもお見積もりを」
私は用意した資料を卓の上に広げた。品目、数量、納入頻度、支払い条件。前世の発注書のフォーマットをこの世界の様式に翻訳したものだ。
商会長が資料に目を通す間に、私はさりげなく本題に寄せた。
「こちらの商会は、教会への納入実績もおありと伺っております」
「ええ、薬草類を中心に、長くお取引をいただいております」
「孤児院は教会の管轄下にありますから、納入先が近い商会にお願いするのが合理的と考えました。輸送の効率もよろしいでしょうし」
商会長は頷いた。疑う様子はない。合理的な理由がある取引先選定。それ以上の意図を読み取る必要は、商人にはない。
「教会への納入品目で、薬草の精製品も扱っていらっしゃいますか。孤児院の子どもたちにも薬が必要になる場合がありますので、そちらもお願いできれば一元化できて助かります」
「もちろんでございます。教会への納入実績も含めて、品目の一覧をお渡しいたしましょう」
取引記録へのアクセスが、自然に開いた。
孤児院支援という正当な名目。商会との年間契約という実利。その延長線上で、教会への薬品納入記録を確認できる立場を手に入れた。
前世の営業で言うところの、「本命の案件を別の案件に包んで通す」技術だ。
伯爵邸の離れに戻ると、ユリアンが居間で待っていた。
「商会との取引は成立した。教会への薬品納入記録の写しも、商会の取引一覧として入手できる見通し」
私が報告すると、ユリアンは腕を組んだまま頷いた。
「こちらも動きがあった」
低い声。表情が硬い。
「ルクレツィアが社交界の令嬢たちに噂を流し始めた。『ニーナ様は商人と親しすぎる。身分を弁えていないのでは』と」
腹の底が冷えた。
ゲームの中のルクレツィアは、もっと受動的だった。社交界で微笑みを振りまき、王太子の庇護に甘んじているだけの存在。能動的に他人の評判を攻撃するような行動は、少なくともこの時期にはなかったはずだ。
「……早い」
「何が」
「ルクレツィアの反応。こんなに早く私を警戒するはずがなかった」
口に出してから気づいた。ゲームの知識が前提にある発言だ。ユリアンは私がゲームの知識を持っていることを知らない。
「ゲームの知識」ではなく、「私の予測」として言い直す。
「聖女の立場を考えれば、元婚約者の慈善活動をこの段階で脅威と見なすのは早すぎる。つまり、ルクレツィアの情報収集能力は私の想定よりも高い」
ユリアンが目を細めた。
「あるいは、誰かがルクレツィアに入れ知恵している」
教会の派閥。聖女を育成した側の人間が、社交界の動向を監視している可能性。
考えていなかったわけではない。だが、こちらの動きが聖女側に察知される時期を、私は見誤っていた。
「俺が表に出ようか」
ユリアンが言った。
「商会との交渉を俺が引き継げば、お前に対する『商人と親しすぎる』という批判は弱まる」
「駄目よ」
即答した。
「あなたは剣術バカでいて。そのほうが都合がいい。あなたの情報網は、誰にも警戒されていないから機能している。ここで表に出たら、その利点が消える」
ユリアンが黙った。
数秒の沈黙の後、小さく息を吐いた。
「分かった」
納得したのか、それとも別の感情を飲み込んだのか。灰色の瞳からは読み取れなかった。
ルクレツィアの中傷に対しては、あえて反論しない道を選んだ。
理由は二つ。一つは、反論すればするほど噂が広がること。もう一つは、ルクレツィアを泳がせることで、彼女の情報源と行動パターンが見えやすくなること。
「侯爵家の慈善事業」という名目は盾になる。実際の支援の成果が出始めれば、根も葉もない噂は説得力を失う。
前世のクレーム対応と同じだ。反論は相手の土俵に上がること。成果で示すほうが、結果的に速い。
商会から届いた取引一覧を、その夜、ユリアンと二人で精査した。
油灯の下、羊皮紙に並ぶ品目と日付と数量を、一行ずつ照合していく。
見つけた。
聖女の奇跡が行われた日付の直前に、特定の薬品が教会に納入されている。鎮痛と解熱に効く薬草の精製品。七件の奇跡のうち、記録が残っている五件で、同じパターン。
「一致した」
ユリアンの声が低く響いた。
「奇跡の直前に薬品が納入され、奇跡の後に患者が『楽になった』と証言する。薬が切れれば症状は戻る。修道女の証言とも整合する」
証拠の輪郭が、はっきりと形を取り始めていた。
聖女の奇跡は、祈りではなく薬品による一時的な症状緩和。教会内の特定の派閥がそれを支援し、偽の奇跡を演出している。
ルクレツィアの中傷は一部の令嬢に浸透していた。だが、孤児院への物資が実際に届き始めたことで、修道女たちからの感謝の声が少しずつ外に漏れ出していた。噂と実績がぶつかった時、残るのは実績のほうだ。
羊皮紙を片付けながら、ユリアンが口を開いた。
「お前は一人で全部やろうとする癖がある」
手が止まった。
「商会の交渉も、孤児院の訪問も、父親の説得も、社交界の風評対策も。全部自分で抱え込んでいる」
前世の記憶が、一瞬だけ閃いた。
終電で帰るオフィス。積み上がった企画書。「頼める人がいないなら自分でやるしかない」と言い聞かせた夜。その果てに、体が限界を超えた。
「……わかってる。だから共犯者を選んだんでしょ」
言葉は軽かったと思う。でも声が、ほんの少しだけ震えたかもしれない。
ユリアンはそれ以上何も言わなかった。
ただ、卓の上に残っていた焼き菓子の皿を、無言で私のほうに寄せた。
この人に頼ることに、だんだん慣れてきている自分がいる。
それが戸惑わしいのは、前世では一度も、誰かに頼ることに成功しなかったからだ。
夜更け。
一人になった居間で、私は油灯の火を見つめていた。
ゲームにはなかった展開。ルクレツィアがこんなに早く私を警戒するはずがなかった。
何かが変わり始めている。
ゲームの知識は有用だ。でも、万能ではない。私がシナリオを変えた分だけ、相手の行動も変わる。
不安がないと言えば嘘になる。
だが、一人ではない。
それだけが、前世と違うことだった。




