第3話「茶会の棘」
この場に味方はいない、と最初から分かっていた。
伯爵邸の離れを出て、馬車で半時。王都の中心部に位置するリンデン子爵邸の庭園で、社交界の茶会が開かれていた。
白いテントの下に円卓が幾つも並び、令嬢たちが華やかなドレスで談笑している。春の陽光が銀の茶器に反射して、庭園全体がきらきらと光っていた。
私は護衛騎士と侍女を伴い、庭園の入り口で軽く一礼してから歩を進めた。
視線が集まる。
ほんの一瞬だけ会話が途切れて、すぐに何事もなかったように再開される。あの間が、すべてを語っていた。
王太子との婚約を解消した侯爵令嬢。冷え切った契約婚約の相手は剣しか能がない伯爵家の息子。
彼女たちの頭の中にあるのは、その二つの噂だろう。
庭園の奥のほう、ひときわ人が集まっている一角があった。
ルクレツィアだ。
純白のドレスに身を包んだ少女が、令嬢たちに囲まれて座っていた。透き通るような肌と、伏し目がちな淡い瞳。話すたびに息を切らせるような、儚げな仕草。
「わたし、まだ社交の場に慣れなくて……皆さまにご迷惑をおかけしていないでしょうか」
控えめな声。令嬢たちが一斉に「そんなことありませんわ」「聖女様はそのままでいてくださいまし」と口を揃える。
完璧だった。弱さの演出。庇護欲を引き出す距離感。計算された無害さ。
ゲームで見た通りの、いや、ゲームの画面越しよりもずっと精度の高い演技だった。
私は聖女の近くには寄らず、庭園の反対側の円卓に腰を下ろした。
ユリアンの姿は、庭園の端にあった。壁際に立ち、出された茶にも手をつけず、ぼんやりと空を見ている。剣術バカの無関心。いつも通りの仮面だった。
私たちは目を合わせなかった。不仲の婚約者同士が、同じ茶会に出ても別々に過ごしている。誰が見ても自然な光景。
茶が運ばれてきた頃、私は同じ卓についた令嬢たちに向けて、さりげなく話題を切り出した。
「最近、王都の南区にある孤児院を訪ねる機会がありまして」
令嬢の一人が、形式的な微笑みを浮かべた。
「まあ、孤児院ですの?」
「ええ。子どもたちの教育環境が想像以上に厳しくて。侯爵家として何かお手伝いできないかと考えているところです」
前世の営業で叩き込まれた技術がある。相手に興味がない話題を振る時、最初から結論を出さない。まず「現場の状況」を具体的に語る。すると聞き手は自分で結論に辿り着いた気になって、当事者意識を持ちやすくなる。
「子どもたちは薄い毛布一枚で冬を越しているそうです。食事も一日に二度。それでも修道女たちが懸命に面倒を見ていらして」
別の令嬢が、少しだけ表情を変えた。
「それは……確かにお気の毒ですわね」
「もし慈善事業として支援の枠組みを作ることができれば、毛布や食料の継続的な提供が可能になります。成果が目に見える形で――」
「ニーナ様」
声が割り込んだ。
柔らかくて、息を切らせたような声。
振り向くと、ルクレツィアが私の卓のすぐ傍に立っていた。令嬢の一人に手を引かれてこちらに来たらしい。
「ニーナ様のご活動、素晴らしいですわ。孤児院の子どもたちのために動かれるなんて」
微笑みは穏やかで、瞳は潤んでいた。善意そのものに見える表情。
牽制だ。
「聖女が称賛する慈善活動」という構図を作ることで、私の行動をルクレツィアの下位に位置づけようとしている。聖女が褒めた善行。つまり聖女の枠組みの中での話にすり替わる。
「お言葉、ありがとうございます。ルクレツィア様の奇跡に比べれば、私のすることなど微力ですわ」
私は立ち上がり、聖女として侯爵家に準じる礼遇を受ける相手に対して、丁寧に頭を下げた。
謙遜ではない。この場を穏便に切り抜けるための処世術だ。
ルクレツィアはにっこりと微笑み、元の席に戻っていった。その足取りは、少しだけ弾んでいるように見えた。
取るに足らない悪あがき。
彼女の中では、そう片づけられたのだろう。
それでいい。今はまだ、その判断でいてくれたほうが都合がいい。
令嬢たちの関心は再び聖女に戻った。だが、私が語った孤児院の話は、少なくとも三人の令嬢の耳に残ったはずだ。種は蒔いた。芽が出るまでには時間がかかる。
そんな時だった。
「ニーナ様」
別の令嬢が、扇で口元を隠しながら近づいてきた。目が笑っていない。
「契約婚約のお相手は、剣術しか能がないそうですわね。お気の毒ですこと」
周囲の令嬢が数人、くすりと笑った。
腹の底が、一瞬だけ熱くなった。
ユリアンの本当の姿を知っている。あの男が社交界で見せている顔がすべてだと思い込んでいる令嬢たちの浅はかさが、なぜか自分のことのように腹立たしかった。
――落ち着け。
前世の営業職で、理不尽なクレームを笑顔で捌いた経験は数え切れない。
「ユリアン様は誠実な方ですわ。剣のお腕前も確かですし、私にはもったいないお相手です」
微笑み。声のトーンを一切変えない。感情を押し殺すのではなく、別の感情で上書きする。
扇の令嬢は、つまらなそうに目を逸らした。
反応が薄い相手に嫌味を言い続けても楽しくない。それは前世でもこの世界でも変わらない人間の性質だ。
庭園の端で、ユリアンが壁にもたれたまま微動だにしていなかった。聞こえていたかどうかは分からない。でもあの観察力で、この距離なら、読唇くらいはしているかもしれない。
茶会が終わりに近づいた頃。
令嬢たちが三々五々と帰り支度を始める中、一人の女性が私の前に歩み出た。
背筋がまっすぐで、歩幅が一定。ドレスの質は最上級だが、装飾は控えめ。隙のない佇まい。
マルグリット・フォン・ゼルヴィッツ。公爵令嬢。
社交界の最上位に立つ令嬢だった。
「ニーナ様」
落ち着いた声。感情を載せない、けれど冷淡でもない、精密に制御された響き。
私は即座に姿勢を正し、深く頭を下げた。公爵家は侯爵家より上位だ。
「マルグリット様。本日はお目にかかれて光栄です」
「先ほどのお話、少し聞こえておりました」
マルグリットの視線が、一瞬だけ庭園の奥――ルクレツィアがいた方向――に向いて、すぐに戻った。
「孤児院の支援計画、詳しくお聞かせ願えまして?」
心臓が跳ねた。
表情には出さない。出してはいけない。
「もちろんです。お時間をいただけるのでしたら、改めて資料をお持ちいたします」
「結構ですわ。日程は追ってお知らせいたします」
それだけだった。マルグリットは小さく頷き、侍女を伴って庭園を去っていった。
公爵令嬢が、侯爵令嬢の慈善計画に関心を示した。
社交界では、それだけで意味を持つ。
伯爵邸の離れに戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
護衛騎士と侍女に下がってもらい、居間の扉を閉める。
卓の上に、スープがあった。
陶器の蓋がされていて、まだ温かい。蓋を取ると、白い湯気と一緒に、鶏と根菜の優しい匂いが立ち上った。
ユリアンの姿はなかった。茶会から先に戻って、これを用意して、どこかへ行ったのだろう。騎士団の訓練場か、あるいは情報収集か。
紙も、書き置きもない。スープだけが、無言で卓の上にある。
私は椅子に座り、匙を手に取った。
一口。
温かい。
嫌味を言われた日に限って、テーブルにスープが出る。まだ二回目だけれど、法則になりかけている気がする。
茶会でルクレツィアの牽制を受け流し、令嬢の嫌味を笑顔で捌き、マルグリットの関心を引き出した。一日の成果としては上出来だ。
でも、帰ってきてスープが待っていることの安堵のほうが、成果の手応えよりも大きいことに、私は気づいてしまっていた。
共犯者の体調管理。
嘘つけ。
もうその言い訳には慣れた。慣れたことが、少し怖い。
扉が開く音がした。
ユリアンが戻ってきた。外套を脱ぎながら、卓の上の空になったスープ皿を一瞥して、何も言わずに向かいの椅子に座った。
「教会の出納記録に不審な点がある」
前置きなし。いつもの低い声。
「だが閲覧には教会関係者の協力が要る。騎士団経由では出入りの記録が限界だ。帳簿そのものには手が届かない」
私は匙を置いた。
「孤児院への接触を本格化させましょう。教会の下部組織に入り込めれば、内部の人間に繋がる道が開ける」
「いつから動く」
「明日から」
ユリアンが微かに頷いた。
それだけで、次の作戦が始まる。言葉の少なさが、もう苦にならなかった。




