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「私たち、最初から味方同士でした」~偽りの不仲が、本物の溺愛に変わるまで  作者: 月雅


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第2話「焼き菓子の嘘」

窯の中で薪が爆ぜる音が、離れの廊下まで届いていた。


伯爵邸の離れに仮住まいを始めて、二日目の朝。寝室の窓を開けると、バターと焦がし砂糖の匂いが冷えた朝の空気に混じって流れ込んできた。


昨日と同じ匂いだ。


着替えを済ませ、侍女を伴って廊下に出る。離れの管理権は侯爵家が保持しているから、ここは実質的に私の領域だ。だが厨房だけは、伯爵邸の本館と共有になっている。


厨房の入り口で足を止めた。


ユリアンが窯の前に立っていた。昨日と同じ光景。ただし今日は、焼き型が二種類に増えている。


「おはようございます、ユリアン様」


侍女の耳がある。私は侯爵令嬢の声を使った。


「ああ」


ユリアンは振り向きもしない。粉まみれの手で焼き型を裏返し、小さな焼き菓子を布の上に並べている。朴訥な剣士の無愛想。完璧な演技だった。


侍女が私の後ろで控えている。


「お先にいただきますわ」


「好きにしろ」


短い。素っ気ない。社交界で噂されている通りの、冷え切った契約婚約者の態度。


侍女が小さく眉をひそめるのが気配で分かった。噂は本当だったと思っているのだろう。


狙い通りだ。


焼き菓子を一つ手に取り、離れの居間に戻った。侍女に茶の用意を頼み、一人になった瞬間に齧りついた。


さくり、と軽い歯触り。甘すぎず、バターの風味がしっかり残っている。


昨日のクッキーより甘さが抑えてある。


昨日、私が「もう少し甘さ控えめでもいいかも」と独り言のように呟いたのを、聞いていたのだろうか。


偵察の副産物。製法の試作。共犯者の体調管理。


どの言い訳を使うつもりか知らないが、焼き上がりが毎回私の好みに寄ってくるのは、さすがに説明がつかない。


――いや、今はそれどころじゃない。


ゲーム通りなら、聖女はそろそろ王太子の前で最初の「奇跡」を披露するはずだ。宮廷で病に伏せた侍従の一人を、聖女が祈りで癒す場面。王太子がそれを目撃し、聖女への信頼を決定的にするイベント。


時間がない。奇跡のパターンを分析しなければ。


侍女が買い出しに出た午後。


離れの居間の卓上に、二人分の資料が広げられていた。


私がまとめた聖女の行動記録。ユリアンが騎士団の訓練仲間から聞き取った宮廷内の動向。


「奇跡の発動記録、これまでに確認できたのは七件」


私は羊皮紙の一覧を指で示した。


「七件すべてに共通する条件がある。教会の特定の神官――高位神官のベネディクトか、その直属の補佐が必ず立ち会っている」


ユリアンは向かいの椅子に深く腰掛け、腕を組んで資料を見ていた。社交場の朴訥さは消えている。灰色の瞳が、一行ずつ情報を精査する動き。


「患者の選定にも偏りがある」


低い声で、ユリアンが続けた。


「治癒対象になった七名のうち、五名は軽度の症状だ。発熱、打撲、慢性の関節痛。残りの二名は重病だが、奇跡の後も完全には回復していない。『楽になった』と患者本人が証言しただけだ」


「つまり、客観的に治癒を確認できた例はゼロ」


「ゼロだ」


私たちの目が合った。


同じ結論に辿り着いている。聖女の奇跡は、祈りによる超常現象ではない。何らかの手段で症状を一時的に緩和し、患者の主観的な報告を「証拠」として積み上げている。


「問題は手段だ。症状を一時的に緩和できるものは限られる」


ユリアンが指を一本立てた。


「薬草の精製品。特に鎮痛と解熱に効くものなら、祈りの最中に患者の近くで焚くか、事前に飲ませておけば辻褄が合う」


「教会の出納記録に、そういった薬品の購入履歴があれば決定的ね」


「出納記録の閲覧は教会内部の人間しかできない。だが、騎士団の訓練仲間に、教会の警備を担当している下級騎士がいる。出入りの記録なら引き出せるかもしれない」


私は頷いた。そしてもう一つの道筋を口にした。


「教会の下部組織。孤児院や救護所を運営している修道女たちがいるはず。聖女の奇跡の恩恵を直接受ける立場の人たち。彼女たちと信頼関係を築ければ、内側からの情報が取れる」


ユリアンが僅かに目を細めた。


「孤児院への支援か」


「侯爵家の慈善事業として。名目も立つし、社交界での体面も保てる。一石二鳥よ」


「三鳥だ。教会内部の情報源、社交界での評判、そして聖女との差別化。あいつの奇跡は検証できないが、お前の慈善は目に見える成果を出せる」


三鳥。


この男、私が言う前に先を読んでいる。


前世で優秀な同僚と組んだ時の感覚に似ていた。こちらが企画の骨子を見せた瞬間に、実行上の利点と障害を同時に洗い出してくる人間。あの時は仕事仲間として心強かった。


今も、心強い。


「役割分担を決めましょう」


私は新しい羊皮紙を引き寄せ、二列に分けて書き始めた。


「私が社交界の表。茶会、慈善活動、令嬢たちとの関係構築。教会下部組織への接触もこちらで」


「俺が裏。騎士団経由の情報収集、教会の出入り記録、宮廷内の動向監視」


「不仲の演技は継続。社交場では別々に行動。情報の共有は、この離れで二人きりの時だけ」


ユリアンが頷いた。


「異論はない」


簡潔だった。余計な確認も、追加の質問もない。提示された条件を精査し、合理的と判断すれば即座に受け入れる。


この噛み合い方は、契約初日から変わっていない。いや、初日よりも精度が上がっている。互いの思考の癖が、二日で少しだけ見え始めているからだ。


調査対象が明確になった。聖女本人だけではなく、教会内の協力者。奇跡を成立させている仕組みそのものを解体する必要がある。


資料を片付けながら、私はふと訊いた。


「ところで、あの焼き菓子。今日は甘さを変えましたね」


「生地の配合を調整しただけだ」


「昨日の私の独り言、聞いてました?」


「偵察では対象の好みを把握するのが基本だ」


ユリアンは資料を丸め、立ち上がった。こちらを見ない。


「共犯者の体調管理は作戦の一環だ。それ以上の意味はない」


嘘つけ。


前世の営業職で培った勘が、はっきりと告げている。この男の声のトーンは、嘘をつく時にほんの僅かだけ低くなる。昨夜の契約交渉で確認済みだ。


今、低かった。


でもそれを指摘する理由がない。作戦に集中すべき段階で、共犯者の好意に構っている暇はない。


仮にそれが好意だとして。


仮に、だ。


夕刻。社交界の噂話が、侍女経由で届いた。


「王太子殿下とアルトシュタット侯爵令嬢の婚約解消」に続いて、「伯爵家との契約婚約は冷え切っている」という噂が、王都の貴族たちの間に広まり始めているらしい。


私は侍女の報告を聞きながら、内心で頷いた。


狙い通り。


不仲の噂が広まれば広まるほど、聖女は私を「取るに足らない存在」と見なす。警戒されなければ、こちらは自由に動ける。


同時に、もう一つの噂。


聖女ルクレツィアが、近日中に社交界の茶会に初めて出席するという話。


ゲームのスケジュール通りだ。聖女が社交界に本格的に姿を現し、令嬢たちの支持を集め始める段階。


茶会の日程を確認しなければ。


離れの居間に戻ると、卓の上に温かいスープが一杯、置かれていた。


湯気が立っている。作りたて。


隣に、紙が一枚。


ユリアンの筆跡だった。


「聖女が次の茶会に出席する。日程は三日後。情報源は騎士団の侍従係」


私はスープに手を伸ばした。


一口含むと、優しい味がした。根菜と鶏肉を丁寧に煮込んだ、体が温まる味。


紙にはスープの説明は一切なかった。情報の伝達。それだけ。


でもスープは温かくて、今日一日の緊張が、ほんの少しだけほどけた。


共犯者の体調管理、ね。


……嘘つけ。


そう思いながらも、スープを最後の一滴まで飲み干してしまう自分が、少しだけ悔しかった。

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