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「私たち、最初から味方同士でした」~偽りの不仲が、本物の溺愛に変わるまで  作者: 月雅


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第10話「共犯のその先」

契約の目的は、達成された。そのはずだった。


夜会から数日が経った。


教会の審問会議が開かれ、ルクレツィアの聖女認定が正式に取り消された。複数の証拠と証人、そして公爵家からの調査要請を受けた王家の同意。手続き上の要件はすべて満たされた。


聖女の称号を失ったルクレツィアには、もはや庇護者がいなかった。王太子の庇護は証拠の前に瓦解し、教会内で聖女育成を主導した派閥は最高神官の審問対象となった。社交界から完全に排除され、彼女の名を口にする者はもういない。


アレクシスは父王から叱責を受けた。王族の判断ミスは王家全体の信用問題であり、国王が直接介入するのは当然のことだった。社交界での求心力は大きく低下し、王太子としての信用回復には相当の時間がかかるだろう。


そして私は、伯爵邸の離れの居間に座っていた。


夜会での行動と、それ以前から積み上げてきた慈善事業の実績。その両方が社交界に知れ渡り、侯爵令嬢としての発言力は確立されていた。マルグリットが公の場で支持を表明したことで、私の社会的立場は盤石になった。


かつて「王太子に捨てられた女」と嘲笑した令嬢たちが、手のひらを返して取り入ろうとしてきた。茶会への招待状が立て続けに届き、「以前からニーナ様を応援しておりましたの」などという書簡が添えられている。


私は、それらに最低限の社交辞令を返しただけだった。


嘲笑していた相手に媚びを売る人間を、信用する理由はない。


すべてが片づいた。断罪イベントは消滅し、侯爵家は安全で、聖女の嘘は暴かれた。


契約の目的は、達成された。


なのに、私はこの居間を離れられずにいた。


午後。ユリアンが外出先から戻ってきた。


夜会の後処理――騎士団への証拠品の正式な引き渡し、教会側との事務的なやり取り――がようやく一段落したらしい。外套を脱いで、向かいの椅子に腰を下ろす。


私は、口を開いた。


「契約の目的は達成した」


ユリアンの灰色の瞳が、こちらを見た。


「婚約を解消するなら、今が一番自然よ。夜会の功績で互いの評判は上がっている。『共闘を終えて円満に解消した』と言えば、社交界も納得する」


言葉は、前日の夜に何度も頭の中で練り直したものだった。


ユリアンに選択肢を渡す。続けるか、終わるか。その判断を、この人に委ねる。


前世の仕事中毒が抜けていない。自分から「続けたい」と言えない。相手に選ばせることで、自分が傷つかない位置に立とうとしている。そのことに気づいていた。気づいていて、やめられなかった。


ユリアンは何も言わなかった。


数秒。


それから、淡々と口を開いた。


「契約は婚約であって、婚約は継続中だ。問題ないだろう」


私の呼吸が、止まった。


「……それは、契約の延長という意味?」


「問題ないと言った」


ユリアンの声に、いつもの皮肉は混じっていなかった。低く、静かで、不器用なほどまっすぐな声だった。


だが、それだけでは分からなかった。この人は感情を言葉にしない。行動で示す人だ。「問題ない」が契約の事務的な延長なのか、それとも別の意味なのか、言葉だけでは判断がつかない。


「あなたにとって、この婚約はまだ必要なの」


「必要かどうかの話をしているんじゃない」


ユリアンの声が、僅かに強くなった。


それきり、黙った。


私も黙った。


離れの居間に、沈黙だけが残った。


答えは出なかった。まだ出せなかった。


翌朝。


目を覚まして、離れの廊下に出た。


バターの匂いがした。


厨房から、焼き菓子の甘い香り。


足が止まった。


作戦は終わった。契約の目的は達成した。共犯者の体調管理も、偵察の副産物も、もう理由として成立しない。


なのに、この人は焼いている。


厨房の入口に立った。ユリアンが窯の前にいた。粉まみれの手で焼き型を裏返し、小さな焼き菓子を布の上に並べている。契約の最初の朝と、同じ光景。


「……作戦は終わったんだけど」


私の声は、自分で思ったよりも小さかった。


ユリアンの手が止まった。


今までなら、「偵察の副産物だ」とか「生地の配合を試している」とか、何かしらの言い訳が返ってきた。


ユリアンが振り向いた。


灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。仮面のない目。あの夜会の大広間で証拠を持って現れた時と同じ、剥き出しの目だった。


「……お前が好きだからだ。最初からそうだった」


声が低かった。不器用だった。言葉を選んでいるのではなく、初めて言葉にすることの重さに耐えているような声だった。


最初から。


契約の初日。あの焼き菓子の時点で。


好みの甘さに寄せてきたのも。嫌味を言われた日にスープが出たのも。孤児院の妨害を一人で対処していたのも。王太子との面会の前に過去を打ち明けたのも。


全部。


目の奥が、熱くなった。


涙が出た。泣くつもりはなかった。でも、止まらなかった。


この人の溺愛、どこから本気だったんですか。


答えは、最初からだった。


前世で、誰にも頼れなかった。頼り方を知らなかった。一人で走って、一人で倒れた。


今度は違う。


この人が、最初からずっと、傍にいた。


「……ずるい」


声が震えた。


「全部、全部言い訳だと思ってた。偵察の副産物とか、体調管理とか。嘘つけって思ってたのに、まさか本当に最初からだなんて」


ユリアンは何も言わなかった。


ただ、粉まみれの手を布で拭いて、一歩だけこちらに近づいた。


手を差し出された。


まだ少しだけ粉がついている、大きな手。


私はその手を取った。


温かかった。焼き菓子を作り続けていた手の温度。


契約婚約が、この瞬間に、本物の婚約に変わった。


夕刻。離れの居間。


卓の上に、一通の招待状が置かれていた。マルグリット・フォン・ゼルヴィッツからの茶会の招待。


「マルグリット様から、私的な茶会に招いていただいたわ」


ユリアンは向かいの椅子に座り、焼き菓子を一つ手に取った。自分が焼いたものを自分で食べている。その姿がおかしくて、少し笑った。


「教会の審問で、聖女育成に関わった派閥の中心人物が聖職を剥奪されたそうよ。マルグリット様の書簡に添えてあった」


「教会の自浄が始まったか」


「ルクレツィアの後ろ盾は完全に消えた。アレクシスも当分は動けない」


言いながら、窓の外を見た。夕日が伯爵邸の庭に落ちて、長い影を作っている。


ゲームのメインシナリオから、完全に逸脱した。ここから先のゲーム知識は、もう参考程度にしか使えないだろう。


でも、不安はなかった。


「私たち、最初から味方同士でした」


ユリアンを見て、微笑んだ。


ユリアンは焼き菓子を咀嚼したまま、少しだけ目を細めた。


笑った、のだと思う。


前世で過労死した私は、一人きりで終わった。


今度は違う。隣に、共犯者がいる。共犯者で、婚約者で、毎朝お菓子を焼いてくる、嘘つきの剣士。


今度は一人で走らなくていい。


それだけで、生きていける気がした。


(完)


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― 新着の感想 ―
完結ありがとうございました♪ 納得の結末ですが お菓子が美味しそうで、羨ましかったです
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