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「私たち、最初から味方同士でした」~偽りの不仲が、本物の溺愛に変わるまで  作者: 月雅


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第1話「共犯者の条件」

「つまり、私と婚約していただけませんか」


沈黙が落ちた。


侯爵家の書斎。窓の外はとうに日が暮れている。油灯の火が揺れるたび、壁に並ぶ革装の書物の背表紙が微かに光った。


向かいの長椅子に腰を下ろした青年は、私の言葉を聞いてもなお表情を変えなかった。


ユリアン・フォン・ヴァイスフェルト。伯爵家嫡男。十八歳。


社交界では「剣しか能がない朴念仁」で通っている男だ。


寡黙で、愛想がなく、茶会に出れば隅で壁を見つめている。令嬢たちの間では「話しかけるだけ無駄」と評判の、救いようのない剣術バカ。


――という設定を、この男が自分で作っていることを、私は知っている。


「条件を聞こう」


低い声だった。抑揚のない、短い敬語。社交場で見せる「朴訥な剣士」そのものの口調。


だが目が違う。油灯の明かりの下で、灰色の瞳が冷静にこちらを観察している。品定めではない。査定だ。


この提案に乗る価値があるかどうかを、すでに計算し始めている目。


やっぱりね。


前世でイベント企画会社の営業を八年やっていた私の勘は、こういう目をした人間を見逃さない。取引先の担当者が本気で検討に入った瞬間の、あの目だ。


「条件は三つです」


私は背筋を伸ばしたまま、指を一本立てた。


「一つ。人前では不仲を演じること。冷え切った契約婚約だと社交界に思わせてください」


ユリアンの眉が僅かに動いた。先を促す沈黙。


「二つ。聖女ルクレツィアの『奇跡』について、証拠を集めること。あなたの情報網を使わせていただきたい」


三本目の指を立てる。


「三つ。期限は一年。王家主催の夜会まで。それまでにすべてを終わらせます」


言い切った。


書斎の空気が、ほんの少しだけ変わった。


ユリアンが長椅子の背にもたれ、腕を組んだ。社交場では見せない姿勢だった。朴訥な剣士なら、侯爵令嬢の前でこんなふうにくつろがない。


「聖女の不審な点を、具体的に」


声のトーンが変わっていた。短い敬語が消え、低く淡々とした、けれどどこか皮肉の利いた口調。


仮面を外した、と思った。


少なくとも、半分は。


「教会認定の聖女の奇跡。治癒の力。でもあの奇跡、発動するのは常に特定の教会関係者が立ち会っている時だけです」


私は用意しておいた羊皮紙を卓上に広げた。ここ二年間、私が記録し続けてきた情報の一部だ。


「患者の回復を証明するのは聖女本人と教会の証言のみ。客観的な検証手段がない。そして、王太子殿下はその奇跡を信じて、聖女を庇護下に置いた」


ゲームではこの時期、聖女が王太子に接近するイベントが始まる。


あの清楚で儚げな少女が、息を切らせながら王太子に「わたし、皆さまのお役に立ちたいだけなのです」と訴えかける場面。王太子の目が感動に輝く場面。


そして一年後の王家主催夜会で、王太子が元婚約者の侯爵令嬢を公衆の面前で断罪する場面。


――私がその侯爵令嬢だ。


乙女ゲーム『聖女の光』。前世で友人に勧められて一周だけプレイした、ごく普通の乙女ゲーム。まさか自分が悪役令嬢として放り込まれるとは思わなかった。気づいたのは二年前、十五歳の時。以来、私はゲームのシナリオを頭の中で何度も反芻しながら、この日のために準備を進めてきた。


今朝、王太子との婚約辞退が正式に受理された。侯爵家から王家への辞退願い。名目は「家の事情」。父の署名と王の裁可を経た、手続き上は完璧な解消。


断罪イベントの前提条件を、自分の手で潰した。


でもそれだけでは足りない。聖女がいる限り、別の形で侯爵家に火の粉が飛ぶ可能性がある。


だから聖女の嘘そのものを暴く必要がある。そのためには――


「俺の情報網の存在を、どこで知った」


ユリアンの声が割り込んだ。目が鋭くなっている。


当然の質問だ。社交界で「剣術バカ」を完璧に演じている男の裏の顔を、なぜ侯爵令嬢が知っているのか。


ゲームのシナリオに書いてあったから、とは言えない。


「王太子殿下の婚約者だった頃、宮廷騎士団の訓練を見学する機会がありました」


これは事実だ。


「訓練場であなたが下級騎士たちと話している場面を何度か見かけました。剣の指導をしながら、さりげなく宮廷内の人事について聞き出していましたね」


ユリアンの指が、組んだ腕の上で一度だけ動いた。


「剣術しか能がない男が、わざわざ人事の話を聞く理由はありません。あなたが集めている情報の質と方向性を考えれば、答えは一つです」


嘘は言っていない。ゲーム知識で「この男には裏がある」と知っていたから、注意して観察しただけだ。観察した結果、ゲームの設定通りの情報網が実在することを確認した。


根拠はゲーム知識。でも裏付けは現実の観察。この順番なら、辻褄は合う。


前世の営業で学んだことがある。嘘は吐かない。ただし、真実のどの部分を見せるかは選ぶ。


長い沈黙が落ちた。


油灯の芯が小さく弾ける音がした。


「十三の時、叔父が家督を狙って動いた」


唐突に、ユリアンが口を開いた。


「表では敬愛する甥を演じながら、裏で父の信用を切り崩していた。俺はそれを見抜いて、証拠を父に渡した。以来、人の表と裏は別物だと知っている」


灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。


「お前も同じだろう。侯爵令嬢の顔の下に、別の頭がある」


お前、と呼ばれた。


侯爵令嬢に対して、伯爵家の嫡男がその呼び方をすることは、本来なら社会的制裁の対象だ。


でもこの男は、それを分かった上で使っている。試しているのだ。この距離感を、私が受け入れるかどうかを。


「ええ。別の頭がなければ、王太子殿下との婚約を自分から解消するような真似はしません」


私は微笑んだ。侯爵令嬢の微笑みではなく、前世の営業職が契約成立の瞬間に浮かべる、あの笑みだ。


ユリアンの唇の端が、ほんの僅かに上がった。


「聖女の件は、俺の側でも引っかかっていた。教会への出入りが不自然に多い神官が二名いる。伯爵家にも火の粉が飛びうる話だ」


立ち上がり、卓上の羊皮紙に目を落とした。私がまとめた聖女の行動記録を、一行ずつ目で追っている。


「……正確だな。時系列にずれがない」


「企画書は得意なんです」


前世のスキルが、まさかこんな形で役に立つとは。過労死した甲斐があったとは、さすがに思いたくないけれど。


ユリアンが羊皮紙から顔を上げた。


「条件を呑む。契約婚約に応じよう」


「ありがとうございます。では明日、正式な書面を――」


「一つ追加がある」


遮られた。


「人前で不仲を演じるのは構わない。だが、俺の前で侯爵令嬢の仮面を被るな。時間の無駄だ」


油灯の光の中で、灰色の瞳がこちらを見ていた。


朴訥でも寡黙でもない。冷静で、鋭くて、こちらの仮面の継ぎ目を正確に見ている目だった。


この人、剣術バカなんかじゃない。


分かっていたはずなのに、実際に仮面の下を見せられると、想像以上だった。


「……了解しました。お互い、仮面は外しましょう」


「ああ」


契約が成立した。


人前では不仲を演じる。聖女の証拠を集める。期限は一年。


最適な共犯者を得た。そのことへの安堵が、胸の内側にじわりと広がった。


そしてもう一つ、奇妙な感覚があった。


この人の本性を知っているのは、今この瞬間、世界で私だけだ。


そのことが、なぜかほんの少しだけ、嬉しい。


「――面白い女だ」


書斎を出る間際、背中に投げかけられたユリアンの声。小さく、独り言のように。


私は振り返らなかった。


振り返ったら、侯爵令嬢の顔が保てない気がした。


翌朝。


私は荷物を抱えて、ヴァイスフェルト伯爵邸の離れに足を踏み入れた。


侍女と護衛騎士が後ろに控えている。離れの管理権は侯爵家が保持する取り決めだ。ここは婚約者の仮住まいであると同時に、私の作戦拠点になる。


荷解きを始めようとした時、風向きが変わった。


厨房のほうから、焼き菓子の甘い匂い。


バターと砂糖の、温かい香り。


まさか。


厨房を覗くと、ユリアンが窯の前に立っていた。


粉まみれの手で、焼き型から何かを取り出している。


「……何をしているんですか」


「偵察先の厨房で覚えた製法を試している」


こちらを見もせず、淡々と答える。


焼き上がったそれは、小さな丸いクッキーだった。ほんのり甘い匂いが離れの廊下にまで漂っている。


偵察の副産物。


なるほど。


――いや、なるほどじゃない。


契約初日に共犯者がお菓子を焼いている状況、前世のどの営業マニュアルにも載っていなかった。

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もう、始まり方から好き!
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