エピローグ 本当のことを言う
1
冬が来た。
城崎荘の窓から見える銀杏の木が、葉を落とし切って、細い枝だけになった。
その枝に雀が来る朝を、シュノは毎日見ていた。
「アキラくん、雀が来てますよ」
「毎日来てるのは知ってる」
「でも毎日報告したい」
「なんでだ」
「同じことを一緒に見るのが好きだから」
アキラはソファから立ち上がって、窓の傍に来た。並んで雀を見た。
枝に三羽。一羽が飛んでいく。また一羽来る。
「変わらないものが、変わり続けてますね」
「哲学的なことを言うな、朝から」
「アキラくんが昨日読んでた本に似たようなことが書いてありました」
「読むなと言っただろう」
「勝手に目に入りました」
「嘘だろ」
「赤いですか?」
「……赤くない」
「ですよね」
シュノは笑った。
アキラは少しため息をついてから、シュノの隣に並んだまま、外を見た。
「包帯は?」
「今日はあまり感じません。昨日の練習の疲れがちょっとだけあるくらいで」
「御堂に言った通り、少しずつにしろ」
「ちゃんと守ってます」
「本当か」
「嘘をついているかどうか確認できますよね」
「……赤くない」
「ですよね」
文様は、今もある。でも拡大はしていなかった。御堂との訓練で少しずつ制御を身につけて、意図しない暴発はほとんどなくなっていた。
月に一度の局への報告も、二回分をこなした。一度目は慶吾が付き添ってくれた。二度目はアキラが付き添った。
「慶吾さん、最近来ますね」とシュノが言った。
「お前の訓練の監修をするとか言い出したからだ」
「アキラくん、最初嫌そうでしたよね」
「今も嫌だ」
「でも追い出してはいない」
「観察対象だから」
「また観察」
「……まあ」
「慶吾さんは、管理局を辞める手続きをしているみたいです」
「本人に聞いたのか」
「昨日来たとき、少しだけ言ってた。怒ってる感じじゃなくて、すっきりした顔でした」
「そうか」
「アキラくんは、どう思いますか」
「自分で選んだなら、それでいい」
「うん。私もそう思います」
雀がまた一羽、飛んできた。
*
そらは相変わらず、しょっちゅう来ていた。
「予知が来た」「何かあった?」「ないなら帰る」「でも夕ごはん食べてから帰る」——を毎週繰り返している。
アキラはそれを「うるさい」と言いながら、「夕ごはんの量を一人分余計に作るな」とシュノに頼まなかった。シュノは毎回、自然に四人分を作った。
「そらが一年なのに中学生みたいだ」とアキラが言うと、そらが「ひどい」と言い、シュノが「可愛いですよ」と言い、そらが「シュノさんの方が好き」とアキラに向かって言った。
「俺も可愛いと思ってないわけじゃない」
アキラが言ったら、全員が少し驚いた顔をした。
「……言いすぎた」
「言いすぎてない! 素直!」とそらが言った。
「初めて聞きました、アキラくんのそういう言葉」とシュノが言った。
御堂は何も言わなかった。でも少し、口元が弛んでいた。
御堂リリアは今も生徒会長で、放課後の結界訓練を週に二度、シュノに提供していた。授業中はあくまでも「別の生徒」として扱い、訓練の時だけ率直に話す——その距離の取り方が御堂らしかった。
でも先日、シュノが「御堂さん、シュノって呼んでください」と言ったら——少し考えてから「わかったわ」と言っていた。
それが、御堂なりの変化だと思った。
2
その日の夜、アキラとシュノが二人になった。
いつもの六畳。本棚、勉強机、スチールラック。漫画の山。観察ノートの入った木箱。
何も変わっていない。でも何かが変わった部屋だ。
シュノがベッドの上で本を読んでいた。アキラがソファで観察ノートを開いていた。
いつもと同じ光景だ。
「アキラくん」
「なんだ」
「今日、ちゃんと聞いてもいいですか」
「何を」
「前に「タイミングがある」と言ってたこと」
アキラはペンを止めた。
「……タイミングがある、と言ったのは俺だ」
「はい」
「お前が先に聞くのか」
「まだですか」
「……さあ」
「さあって何ですか」
「言えないことには理由がある」
「どんな理由ですか」
「……お前が正直すぎるから、俺が正直に言うと、逃げ場がなくなる」
シュノは本をゆっくり閉じて、アキラを見た。
「逃げたいですか」
アキラは少し間を置いた。
「……逃げたいとは思ってない」
「じゃあ言えますか」
「……」
「嘘でも、赤くなっても、構わないです」
「嘘をつく気はない」
「じゃあ」
「……お前のことが——」
止まった。
シュノは待った。焦らず、急かさず、ただ待っている目だった。
「——好きだ」
その言葉に、赤はなかった。
アキラ自身も——嘘をついている感覚が、なかった。
十七年かけて積み上げた「人を信じるな」という壁の上から、その言葉が出た。
壁を壊したわけではない。ただ——その上から、扉が一枚、開いた。
シュノは少しだけ目を細めた。
「私も」
「……」
「好きです。——これは嘘じゃない」
アキラは答えなかった。
シュノも黙った。
六畳の部屋に、静かな時間があった。
どちらも追加の言葉は言わなかった。でもそれは言葉がないからではなかった。言わなくても、伝わっているからだ。
シュノが嘘喰いを持っているから。アキラが嘘をつかないから。
赤くない言葉が、ただそこにあった。
3
それから数ヶ月が経った。
春が来て、アキラは三年生になった。シュノは、遠縁の親戚として二年生に在籍することになった。御堂は卒業した。そらは二年生になった。慶吾は管理局を辞めて、別の道を探し始めたと聞いた。
月に一度の報告は続いている。
シュノの能力は今も文様とともにあって、それは消えていない。でも制御が上手くなった。御堂がいなくなった後も、自分で練習を続けている。
ある日の昼休みに、屋上で弁当を食べながら、シュノが言った。
「アキラくん、私のことを調べるのは、まだ続けてますか」
「ああ」
「どのくらい、わかりましたか」
「お前が何者かという問いへの答えは——まだわかっていない部分がある」
「そうですよね」
「でも」
「でも?」
「お前が誰かという問いの答えは、もうわかっている」
シュノはアキラを見た。
「どんな人ですか、私は」
「正直で、ひたむきで、感情が豊かで、観察眼が鋭くて、料理が上手くて、朝が弱くて、本を読むのが好きで、雀が来るのを報告したがる人間だ」
シュノは少し笑った。
「全部合ってますね」
「観察の成果だ」
「嬉しい」
「そういう顔するな」
「なんで」
「……俺が困る」
「困ってもいいじゃないですか」
「困りたくない」
「でも困ってる方が、アキラくんは顔がほぐれますよ」
「心理分析をするな」
「観察の成果です」
アキラは笑いそうになって、止めた。止めきれなくて、少しだけ笑った。
天誠学院の屋上で。春の空の下で。
シュノがアキラの笑った顔を、じっと見た。
「初めて見た」
「何を」
「アキラくんが笑うところ」
「……笑うことくらいある」
「でもこんな顔は初めてです」
「どんな顔だ」
「自然な顔」
アキラは答えなかった。
シュノが続けた。
「自分の能力で、人の嘘を全部見てきて、それで疲れて、誰も信じない方が楽だと思ってきたんですよね」
「……そうだ」
「今も、そう思いますか」
「思わない」
「どうして」
「お前が俺の嘘も見えるから。俺がお前の嘘も見える。——隠しても仕方がない相手がいるというのは、思っていたより、楽だ」
シュノは少し目を細めた。
「私も、そう思います」
「赤くないか」
「赤くないです」
「じゃあ、本当のことだ」
「本当のことです」
弁当の蓋を閉じて、二人で並んで空を見た。
春の雲が動いていた。
嘘のない空の下で、二人は——しばらく、そのまま座っていた。




