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第六章 包帯の中の人間

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第六章 包帯の中の人間

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 1


 夜の十時を過ぎた頃、足音が来た。


 外階段を上る音ではない——もっと静かな、でも確かにある、複数の人間の気配だ。

 御堂が先に感知して、手のひらを広げた。透明な壁が室内に広がる。シュノがその中心に収まるよう、自然に位置取りが変わった。


 アキラはドアの前に立った。


「来るな」


 廊下の気配が少し動いた。返事はない。

 そらがシュノの傍に寄った。二人でじっと息を潜めている。


 ドアのノブが動いた。

 施錠されているから開かない。しばらく止まって——それから、気配が引いた。

 建物を回っている。別のルートを探している。


「窓側に来る」とアキラ。


「わかった」と御堂。


 窓の外に人影が見えた瞬間、御堂の結界が窓枠まで広がった。外側から何かが押してくる——強い、圧力だ。物理的なものではない、もっと概念的な力。支配域に似た、でも質が違う「押し込み」の感覚。


「来てる。支配域系の担当者ね」と御堂が言った。声が少し緊張している。


「維持できるか」


「今はまだ。でも長くは——」


 その時、携帯が鳴った。慶吾からだった。


 ────────────────────

 「担当者と交渉中です。

  ですが、手こずっています。

  もう五分、もってください。」

 ────────────────────


「五分だ、御堂」


「わかった。やる」


 御堂の結界が、一段階密度を上げた。外からの圧力と拮抗する。室内の空気が重くなる。

 シュノが御堂の方を見た。御堂が眼鏡の奥で目を細めて集中している。汗が滲んでいる。


「御堂さん、」


「喋らないで。集中している」


 シュノは黙った。

 そらが「大丈夫?」と呟いた。誰に向けた言葉かは、わからなかった。


 外から見えない力が押してくる。

 御堂の結界が——わずかに揺れた。



 2


 揺れた瞬間、シュノが動いた。


 立ち上がって、御堂の傍に来た。御堂の右腕に、そっと自分の右腕を重ねる。

 白い包帯が、御堂の制服の袖に触れた。


「シュノ、」


「模倣します」


「能力の消耗が——」


「わかってます。でも今は御堂さんの方が大事だから」


 御堂は一瞬だけ迷いの顔をしてから——「使い方は、感覚で掴んで」と言った。


 シュノの右腕が、薄く光り始めた。

 同時に、御堂の結界の密度が一段跳ね上がった。


 二人分の「結界」が、同じ形で重なっている。

 二枚の壁が、二つのエンジンで維持されている。


 外からの圧力が、ぴたりと止まった。

 三十秒の沈黙。

 そして——気配が、引いた。


「……行った」とそらが言った。


「慶吾が交渉したのか」とアキラ。


 携帯にメッセージが来た。


 ────────────────────

 「担当者を引き上げさせました。

  一時撤収です。ただ——まだ終わっていない。

  明朝、局の上位から接触が来るかもしれません。

  今夜は全員、動かないでいてください。」

 ────────────────────


「一夜の猶予か」と御堂が言った。


「使える」とアキラ。


 御堂が結界を緩め始めた瞬間、シュノの右腕から光が消えた。そしてシュノが膝をついた。


「シュノ!」


 アキラが支えた。シュノの顔が少し青ざめている。右腕の包帯の端が——また滲んでいた。

 あの赤みだ。文様が活性化した痕。


「どこか痛いか」


「……少しだけ。大丈夫です」


「大丈夫に見えない」


「でも本当に大丈夫。御堂さんは?」


 御堂が少し息を整えてから言った。


「……私は大丈夫よ。あなたのおかげで保った」


「よかった」


「礼を言うのは私の方よ。——ありがとう」


 御堂が礼を言った。珍しいことに、そらが目を丸くした。

 でも御堂の声には迷いがなかった。

 シュノは「どういたしまして」と言って、アキラの腕を借りながら立ち上がった。


    *


 全員が床に座った。城崎荘の六畳が、戦場の後片付けの場になった。


「御堂さん、今の担当者の能力はどんなものでしたか」とそらが聞いた。


「支配域系、ということは確かね。でも、皇くんのと少し質が違った。もっと直接的な「押し込み」の感じ。皇くんのが「信念を植える」なら、あちらは「今すぐ従わせる」に近い」


「強制力が強い、ということか」とアキラ。


「瞬間的には。でも持続には弱い。そういう特性の可能性があるわね」


「だから五分で引いたのか」


「そう。私の結界が五分持てれば——あとは慶吾が時間を稼いでくれれば——という計算だった。うまくいった」


「シュノが……ありがとう」とそらが言った。シュノに向かって。


「そらが傍にいてくれたから」とシュノは言った。


「私、何もしてないけど」


「いてくれたのが大事でした」


 そらは少し照れたような顔をして、膝を抱えた。


「……私、ビジョンが来てたんだ。今夜」


「どんな内容だ」とアキラ。


「悪い方向じゃなかった。……うまくいく可能性が高い未来が見えてた。だから、今夜は来て良かったと思う」


「来て良かった、と最初から思ってたのか」


「うん。でも怖いは怖かったよ。でも来た」


 アキラはそらを見た。


「お前は、怖くても来るやつだったな」


「そうだよ」


「……それは、いいことだと思う」


「アキラくんに褒められるの初めてかも」とそらが少し得意そうに言った。


「褒めたとは言っていない」


「言ったけど実質褒めたじゃないですか」


「うるさい」


 御堂が小さく笑った。シュノも笑った。

 六畳に、少し緩んだ空気が流れた。


    *


 深夜。全員が落ちついて、軽く食べ物を食べた後、御堂とそらが仮眠を取るために壁際に並んで座っていた。

 慶吾は廊下に出た。

 アキラとシュノがテーブルを挟んで向かい合っていた。


「アキラくん」


「なんだ」


「今夜のこと、どう思いましたか」


「どう、とは」


「全員が来てくれたこと」


「……妥当な判断だったと思う」


「そうじゃなくて」


「……嬉しかった。それでいいか」


「はい」


「お前が御堂の結界を補助したことも——评价に困っているが」


「なんで困るんですか」


「無茶だったから。文様が広がったら困る」


「でも御堂さんの結界が切れたら困ります」


「俺がなんとかした」


「アキラくんには嘘喰いしかないじゃないですか」


「言葉で相手を止める手段がある」


「どんな言葉を言うつもりでしたか」


「……用意していなかった」


 シュノは少し目を丸くしてから、笑った。


「なんですか、それ」


「準備が間に合わなかった。シュノが先に動いたから」


「……私の方が速かったですね」


「そうだ」


「それは少し嬉しいです」


「なんで」


「アキラくんより先に、守れたから」


 アキラは返す言葉を考えてから、やめた。

 言葉がうまく出てこなかった。悪い種類の言葉が出てこないのではなく、普通に——表現の手段が追いつかなかった。


「シュノ」


「はい」


「ありがとうと、言う」


「いつもは「言うな」って言いますよね」


「今夜は言う」


「……受け取ります。私も、ありがとうございます」


「何に」


「「いる」と言ってくれたから。今夜の前に。あの言葉が、すごく力になりました」


「俺の言葉が力になるか」


「なります。嘘をつかない人の言葉は、ちゃんと届きます」


 アキラはシュノを見た。

 テーブルを挟んで、灯りの少ない六畳の中で、シュノが静かにアキラを見ていた。


「……お前は、変なやつだな」


「そうですか?」


「俺の言葉を力にするやつが、今まで一人もいなかったから」


「これからはいますよ」


「……そうだな」


 短い沈黙があった。


「アキラくん」


「なんだ」


「好き、って言いましたね。前に」


「……「嫌いではない」と言った」


「同じです」


「違う」


「でも同じ気持ちですよね」


「……」


「今はどうですか」


 アキラはシュノを見た。灯りの中で、包帯を巻いた腕が静かにある。


「今夜のことがあって」


「はい」


「……もう少し、はっきりした気がする」


「どうはっきりしましたか」


「失いたくない、と思った」


 シュノの表情が、少しだけ変わった。


「……それ、好きって言ってるのと、ほとんど同じですよね」


「……そうかもしれない」


「わかりました」


「なぜ追及しない」


「アキラくんのペースがあるから」


「……」


「待てます。いつか直接言ってもらえれば」


「タイミングがある、と言ったな」


「はい、覚えてます」


 アキラはため息をついて、テーブルに肘をついた。


「急かすな」


「急かしてないです」


「……そうだな」


 また短い沈黙があった。

 外から風の音が来た。

 城崎荘の夜は、静かだった。



 3


 全員が少し眠った後、アキラは一人でいた。


 ソファに座って、観察ノートを開いていた。今日起きたことを書こうとして——ペンが止まった。

 書けなかった。

 いつもは分析的に書ける。今夜だけは、書き方がわからなかった。


「外部干渉者が来た。御堂の結界で対抗。シュノが補助してくれた。慶吾が交渉した」と書けばいい。でもそれでは足りない気がした。


 アキラは手元のノートに一行書いた。


 【俺の間違いについて】


 「人を信じれば必ず裏切られる」という考え方は、十七年かけて築いたものだった。

 でも今夜、御堂が結界を守り続け、そらがシュノの傍を離れず、慶吾が組織に背いて交渉し、シュノが自分の腕を削って助けた。

 裏切りがなかった。


 能力があるから信用しているのではない。嘘がないから信じているのでもない。

 ただ——それぞれが、自分の選択で動いた。その選択がここにある。


 一行書き足した。


 【俺の信念は、一つ間違っていた。

  嘘がなければ信じられる、ではなく——

  選択が見えれば、信じられる】


 ペンを置いた。

 シュノの寝ている方を見た。包帯を巻いた腕を胸の前で抱えるようにして、規則正しく呼吸している。あどけない顔だ。


 「俺はお前のことが嫌いだ」と言ったとき、シュノは「赤い」と言った。

 それは嘘を見破ったということだ。つまりシュノは——アキラが「好きじゃない」と言ったのが嘘だとわかった。


 アキラはそのことを、今まで意識的に見ないようにしていた。

 でも今夜、シュノが「失いたくないと思った=好きってことですよね」と言ってきて——見ないことをやめた。


 人間は、自分の感情について嘘をつくことがある。でも「自分が信じている嘘」は、嘘喰いには引っかからない。

 「俺に感情はほとんどない」という言葉が赤くならなかったのは——アキラ自身が、それを信じていたからだ。


 でも今、ノートに書いた言葉は——赤くない自信がある。

 「失いたくない、と思った」。


 それが「好きだ」と同じかどうかは、まだわからない。

 でも、少なくとも今夜から——アキラは感情を「観察対象の外」に置くのをやめることにした。



 4


 翌朝、慶吾が来た。


「明朝の接触は、局の副長官自身が来る予定です」とアキラたちに言った。全員が起きていた。シュノもいる。「さらに上の人物ということですね」


「交渉の余地はあるか」


「あります。昨夜、書類の準備が整いました。シュノさんの人格的自立の証跡。それと——」


 慶吾はシュノを見た。


「一つだけ確認させてください。シュノさん」


「はい」


「あなたを作った計画に、私が関わっていたことを——怒っていますか」


 シュノは少し間を置いた。


「……今は怒っていません。でも複雑な気持ちはあります」


「そうでしょうね」


「慶吾さんは、今日、どんなつもりで交渉しますか」


「シュノさんのために、です」


「私のために動いてくれることは、嬉しいです」


「でも?」


「慶吾さん自身は、どうしたいですか。管理局に戻りますか」


 慶吾は少し目を細めた。


「……まだ、決めていない部分があります」


「決めていいですよ」とシュノは言った。「私のために全部犠牲にしなくていい。自分の選択をしてください」


 慶吾は静かにシュノを見た。

 しばらくして、小さく笑った。


「……あなたは、設計以上の人物ですね」


「慶吾さんの一部が入っているなら、賢いのは慶吾さんのおかげかもしれません」


「賢さは、環境で決まる部分の方が大きい。あなたがこうなったのは——」


「アキラくんや、みんなのおかげです」


「そうですね」


 アキラはこの会話を聞きながら、慶吾の顔を見た。

 慶吾が今日どういう選択をするか——それはアキラにはわからない。でも、慶吾の表情に「決めた」という感触があった。

 何を決めたかは、行動で見ればわかる。


    *


 交渉の準備として、全員で段取りを決めた。


「副長官が来るとき、俺が一緒に部屋に入る」とアキラ。


「私は結界で待機」と御堂。


「私は外から慶吾さんをサポートします」とシュノ。


「え、シュノさんが?」とそらが驚いた。


「今日のビジョンは来てませんか?」とシュノがそらに聞いた。


「……一個来てた。悪くない方向のやつ。でも、シュノさんが何かをしてる場面があった」


「それですね」


「何をするつもりですか」


「……慶吾さんが嘘をついていたら、言えます。嘘喰いで」


「副長官を内部から崩す、か」とアキラが言った。


「もし副長官が慶吾さんに嘘をついていたら——たとえば「書類を認める」と言いながら嘘をついていたら——私には見えます。慶吾さんに教えられます」


「有効だな」


「……でも」


「でも、なんだ」


「副長官が嘘をついていない場合も想定しておきたいです。正面から「認める」と言っているなら、裏で手を回す可能性がある」


「それは俺が読む。俺の嘘喰いで、副長官の言葉が赤いかどうかも確認する」


「二人で対応すれば、確率が上がりますね」


「ああ」


 シュノとアキラが作戦を詰めている間、そらが「二人、すごくうまくなってる」と御堂に小声で言った。御堂が「最初からそうだったわよ」と答えた。


「最初からですか」


「最初から、互いに向いていたわ。方向性が。……ただお互いに、それに気づくのが遅かっただけ」


「それが一番かわいいですよね」


「そうね」


 御堂が素直に同意したことが、そらには少し意外だった。でも確かに——そうかもしれない、と思った。



 5


 局の副長官——中丈の男が城崎荘に現れたのは、朝の九時だった。

 外で慶吾が先に応じて、話し合いの場として城崎荘の一室を借りることになった。


 部屋に副長官と慶吾が入り、アキラが同席した。御堂、そら、シュノは一歩引いた位置に控えている。御堂の結界が薄く展開されていた。


 副長官は五十代の男で、表情が少ない人間だった。アキラが目を向けると——言葉を発していないから確認できないが、動作に迷いがない。自信のある人間だ。


「九条くんですね」と副長官が言った。


「そうです」


「シュノの件、皇くんから詳しく聞きました。書類を確認しました」


「それで」


「——有効です。人格的自立の条件を満たしていると認めます」


 全員が動かなかった。


「ただし」と副長官は続けた。「シュノの今後の行動には報告義務を課します。月に一度、状態の報告を局に提出する条件で、現状の環境を維持することを認める」


「監視条件付きか」とアキラ。


「そうです。ただし、拘束ではない。あくまでも「把握」のために」


「シュノ本人の同意が必要だ」


「もちろん」


 アキラは振り返った。シュノを見た。


 シュノが一歩前に出た。


「その条件を受け入れます」


 副長官がシュノに目を向けた。


「わかりました。——一つだけ聞かせてください。あなたは今、この生活を続けたいと思っていますか」


「はい」


「なぜですか」


「ここに、いたい人たちがいるからです」


 赤くない。

 副長官はそれを聞いて、静かに頷いた。


「……一点、追加で確認させてください」


「はい」とシュノ。


「あなた自身は——今後、管理局に敵対する行動を取る可能性がありますか」


 全員が固まった。

 シュノはしばらく考えてから答えた。


「敵対するかどうかではなく、正しいと思うことをします」


「それが管理局の方針と対立する場合は?」


「……その時は、正しいと思うことを選びます。でも、不必要に対立することは望みません」


 副長官はシュノの答えを聞いて、少し目を細めた。


「……それは正直な答えだ」


「嘘をつくのが得意ではないので」


「わかりました」


 書類が取り交わされ、副長官は帰った。


 扉が閉まった後、御堂が結界を解除した。

 そらが「終わった?」と小声で聞いた。

 慶吾が「終わりました」と言った。


 シュノはアキラのいる方を向いた。

 アキラはシュノを見た。


「終わったな」


「はい」


「月一度の報告は、俺が手伝う」


「ありがとうございます」


「礼はいい」


「言いたいので」


「……好きにしろ」


 そらが「またそのやり取りだ」と笑った。御堂が微かに口元を弛めた。慶吾が、少し遠くを見るような目をした。


    *


 慶吾は全員に向かって言った。


「少し——自分のことを話させてもらえますか」


「聴く」とアキラ。


「私は今日の交渉を最後に、管理局から正式に離れようと思っています。シュノさんに言った通りです」


「決めたのか」


「シュノさんに「自分の選択をしてください」と言われして、決まりました」


「シュノに言われて決めるのか」


「笑いますか。設計者が、自分が設計した者に言われて決意が固まった、というのは」


「笑わない。そういうものだろう」


 慶吾は少し安堵したような顔をした。


「離れてからどうするかは、まだわかりません。ただ——そよ風のイメージで生きていこうかと」


「そよ風?」


「余計な力を入れずに動く、という意味で。……明日以降のことは、また考えます」


「……お前は、意外と詩的なことを言うな」


「設計者として、言語に少し力を入れてきただけです」


「才能があるんじゃないか、文章の」


 慶吾は少し目を丸くした。


「……アキラくんに褒められるとは思っていなかった」


「褒めたとは言っていない」


「でも実質褒めましたよね」とそらが言った。


「うるさい」


 シュノが笑った。御堂が笑った。そらが笑った。慶吾も、小さく笑った。

 六畳が、笑い声でいっぱいになった。



 6


 その後、アキラはシュノと二人で城崎荘の外に出た。


 御堂とそらと慶吾は部屋でお茶を飲んでいる。アキラとシュノは「少し外の空気を」という理由で外に出た。

 秋の朝の空気が、冷たく清潔だった。


「アキラくん」とシュノが言った。


「なんだ」


「俺はお前のことが好きだ、って言えますか」


 直球だった。

 アキラは少し間を置いた。


「……さっきより近いな」


「さっきより近い?」


「昨夜は「失いたくない」だった。今は「好きだ」に近い」


「どう違いますか」


「語感が違う」


「内容は似てませんか」


「……似ている」


「じゃあ、言えますか」


 アキラはシュノを正面から見た。秋の朝の光の中で、シュノが静かに立っている。白い包帯が、袖から少しだけ見えている。


「俺はお前のことが——好きだ」


 言葉に、赤はなかった。

 アキラ自身も——嘘をついている感覚が、なかった。


 十七年かけて積み上げた「信じるな」という壁の上から、その言葉が出た。

 壁を壊したわけではない。ただ——その上から、扉が一枚、開いた。


 シュノは少しだけ目を細めた。


「私も」


「……」


「好きです。——これは嘘じゃない」


 アキラは答えなかった。

 シュノも黙った。

 城崎荘の外の、秋の朝に、静かな時間があった。


 どちらも追加の言葉は言わなかった。でもそれは言葉がないからではなかった。言わなくても、伝わっているからだ。

 シュノが嘘喰いを持っているから。アキラが嘘をつかないから。


 赤くない言葉が、ただそこにあった。


「入るか?」とアキラが聞いた。


「もう少し外にいたいです」


「……そうか」


 二人並んで、秋の空の下に立った。

 城崎荘の屋根の向こうに、空が広がっている。嘘の赤ではなく、ただの青だった。


 第六章 了



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