第四章 そらの視た世界の終わり
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第四章 そらの視た世界の終わり
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1
予知は突然来る。
そらはそれが嫌いだった。来る、ということがわかっていてもコントロールできない。忘れた頃にやってくる。眠っている時も、授業中も、人と話しているときでも——視界が一瞬白くなって、断片が映る。
映ったものが必ず起きるわけではない。確率だから。でも映ったものを忘れることはできない。
そらが一人でいる時間を好むのは、そういう理由だった。
城崎荘に通うようになった理由は、最初は「シュノを観察するため」だった。でも正直に言えば、今はもっと単純な理由で来ている。
ここは居心地がいい。
アキラは厳しいことを言うけれど、嘘をつかない。御堂さんは怖いけど頭がいい。シュノは——不思議な人だけど、傍にいると落ち着く。能力者特有の「場の圧迫感」がないのだ。むしろ、シュノの傍では予知が来にくい。何かが緩和されているような感覚がある。
それに、シュノはそらを子ども扱いしない。
「十五歳に見えない」と言う人は多いが、「ちゃんと見る」人は少ない。シュノはそらを年下として扱わず、同じ高さで話す。それがうれしかった。
だから、その日の予知が——シュノについての最悪の断片だったとき、そらはしばらく動けなかった。
授業中のことだった。
突然、視界が白くなった。
映ったのは——シュノの腕だった。包帯が、写っていなかった。真っ白な光を放ちながら、腕全体に走る文様が広がって、広がって——そして、シュノの輪郭が、溶けていく。
溶ける、という表現が正確かどうかわからなかった。でも「崩れていく」というより、「定義が消えていく」というか——シュノという存在の輪郭が、霧散していく感じだった。
「そら、具合が悪いの?」と隣の席の子が言った。多分、顔が青かったんだろう。
「大丈夫」と言って、そらは窓の外を見た。
大丈夫では、なかった。
*
シュノと出会ってから、そらの予知の傾向が少し変わっていた。
頻度は変わらない。でも「種類」が変わった。以前は知らない人の断片が多かった。名前も顔もわからない誰かが、何かをしている断片。関係性もわからないまま、ただランダムに映ってくる映像。
それが今は——シュノに関わるものが来やすくなっている。
シュノの傍にいると予知が落ち着く、とアキラに言った。それは本当のことだ。
でも同時に、シュノに関係する予知の精度が上がっている。
「場の近さ」が精度に影響しているのかもしれない。能力者として接触が続くことで、予知のチューニングが特定の方向に向く。
それは——シュノの未来がよく見える分、悪い断片も鮮明に来る、ということだ。
この日の予知は、そらが今まで見た中で最も明確で、最も怖いビジョンだった。
2
その日の放課後、そらは城崎荘に向かいながら、途中でアキラと鉢合わせた。
「……顔が悪い」とアキラが言った。
「私の顔に失礼なこと言わないでほしい」
「顔色が悪い、と言った。何かあったか」
そらは少し迷って、歩きながら話した。
「昼間に見えた。シュノさんのこと」
「どんな」
「前に話したののやつが、進んでた。もっとはっきり見えた」
「崩れる、というやつか」
「崩れるより、もっと具体的。……溶ける、に近い。形が保てなくなる感じで、その原因が——能力の過剰使用だった」
「何がきっかけで過剰使用になる」
「……見えなかった。でも、なんか強いプレッシャーのある状況に見えた。焦ってたみたいで、シュノさんが。それで」
「防ぐ方法は」
「シュノさんが能力を使わない状況を作るか、使っても消耗しない方法を探すか。どっちかだと思う」
アキラは無言で歩いている。そらは続けた。
「……でも、これ確率の話だからさ。必ずそうなるわけじゃない」
「わかってる」
「だから、誰かと一緒にいてシュノさんを落ち着かせておくのが一番有効だと思う、今のところ」
「誰かと、というのは」
「アキラくんと、みたいね」
アキラが少しだけ歩く速度を変えた。ほんのわずかだが、速くなった。
「……関係ない」とアキラは言った。
「赤くなる言葉ですか?」
「知るか」
「自分の言葉は自分では確認できないんでしょ」とそらは言った。「そういうの、なんか不便だなと思う」
「お前の能力の方が不便だ」
「それはそう」とそらは素直に同意した。「でも最近、マシになってきた気がする。……シュノさんの傍だと、予知が出にくい」
「なぜ」
「わかんない。でも多分、シュノさんが周りの能力場を吸収してるんだよ。模倣だから。そのせいで場が安定して、私のビジョンが出にくくなるのかな」
「シュノがそらの予知を緩和している可能性があるか」
「確証はないけど。でも感覚的にはそう思う。……シュノさんがいなくなったら、またビジョンが戻るかなって、少し怖い」
そらは自分でそれを言いながら、驚いた。
シュノがいなくなったら、という想定を——きちんと怖いと感じた。
「……私も、シュノさんのことが心配なんだな」
「当たり前だろう」
「普通、能力者同士でそんな感情にはなりにくいんだけど」
「お前はなりやすい方だ。シュノにも、他の人間にも」
「アキラくんには言われたくない」
「なぜ」
「自分が一番なってるくせに」
アキラは返事をしなかった。
そらはそれを見て、ちょっとだけ笑った。否定しなかったからだ。
*
城崎荘に着くと、御堂リリアが一足先に来ていた。
シュノと並んでカウンターに座り、何かを話していた。珍しい絵面だ。御堂がリラックスした表情をしているのを、そらは初めて見た。
「御堂さん、何の話してたんですか」
「能力制御の呼吸法について、少し」
「そんな話、してたんですか」と御堂がシュノを見た。
「はい。私、呼吸で少しだけ抑えられる気がしていて」
「それは正しい直感よ。能力は感情と連動する部分があるから、呼吸で感情を安定させることで抑制に繋がる」
「教えてもらえますか」
「座って」
御堂がシュノに呼吸法を教えている間、アキラは部屋の隅に座ってそらに今日の予知の内容を再確認した。
そらが話し終えて、御堂が聞いた。
「一つ聞いてもいい? シュノ、その呼吸法を練習して、能力の発動を「意図的に」できるようにすることを考えている」
「使えるようになった方がいいですか?」
「使えない状態より、制御できる状態の方が安全。——ただし、それはリスクが伴う」
「どんなリスクですか」
「制御できないまま使うよりも、意図的に使う方が、総量が増える。……腕への負担も」
「でも制御できれば、不意打ちで出てしまうよりはいい、ですよね」
「それも正しい判断よ」
シュノは少し考えてから、アキラを見た。
「アキラくんはどう思いますか」
「御堂の言う通りだ。ただし、練習は少しずつしろ。腕の状態を毎日確認しながら」
「わかりました」
御堂が眼鏡を押し上げた。
「もう一つ聞かせて。——シュノ、あなたは今、誰かの能力をコピーできていると思う?」
「……できていると思います。ただ、どれをコピーできているのかが、あいまいで」
「あいまい、とは」
「感覚的に「似た何か」はあるのですが、そのまま出すと昨日みたいにぐちゃぐちゃになる。形がうまく整えられない」
「原本を見ながら使えないから、か」とアキラが言った。
「原本?」
「コピーの元になっている能力を「使っている状態で見る」ことができれば、その形を参照できる。でもコピーするのは一瞬の接触だから、形が不完全なまま取り込まれている可能性がある」
御堂がアキラを見た。
「……それ、私も考えていた。つまり、訓練としては——原本の能力者が能力を使っている状態でシュノが接触することで、形が補完される可能性がある」
「御堂が結界を使いながら、シュノを触れさせるか」
「先日の結果を見ると、段階的にやらないと危険ね。でも——試す価値はある」
シュノが手を上げた。まるで授業中の生徒のように。
「あの、私が聞いてもいいですか」
「言え」とアキラ。
「アキラくんの能力を、私はコピーしてますか」
部屋が少し静かになった。
「わからない」とアキラは言った。
「でも、最近思うことがあって」
「何だ」
「アキラくんと話していると、誰かが嘘をついたとき——私も、なんとなく気持ち悪くなる感じがするんです。言葉にうまくできないけど、何かが「ずれている」感覚が来る、ちょっとだけ」
御堂が静かに言った。
「……それは、嘘喰いの初歩的な発動ね」
「そうですか?」
「嘘の言葉に、感覚的な違和感を覚えるの。あなたが感じているのは、おそらくそれよ」
アキラはシュノを見た。シュノが自分の「嘘喰い」をコピーしている——そうなら、シュノはアキラの嘘も識別できる可能性がある。
そしてその状態で、この一ヶ月近くを過ごしてきた。
「……シュノ」
「はい」
「俺がついた嘘は、わかったか」
シュノは少し考えてから言った。
「……ついてないと思います」
「本当か」
「はい。ずれている感覚が、アキラくんの言葉では来たことがないから」
赤くない。シュノも嘘をついていない。
つまり——アキラはこの一ヶ月、シュノに対して一度も嘘をついていなかった。
自分でも気づいていなかったことだった。
*
呼吸法の練習が終わった後、四人でテーブルに座った。御堂が淹れてくれたほうじ茶を飲みながら、しばらく静かに過ごした。
四人がそれぞれ自分のことを考えているような、でも同じ空間にある静けさだ。
「御堂さんって、いつから能力があるんですか」とそらが聞いた。
「小学校のころよ」と御堂は答えた。「最初は、自分が見えない壁を作っているとはわからなかった。授業中に壁際に寄ったら、先生の声が急に聞こえなくなって、先生が困惑しているのを見て気づいた」
「先生の声がシャットアウトされてたんですか」
「そう。結界が授業中の退屈を感じた私の感情に反応して、無意識に防音壁を展開した、ということらしいけど、当時はわからなくて、先生に謝り続けた」
「それ、かわいすぎる」とそらが笑った。
「かわいくはなかったわ、当時は。先生に謝りながら泣きそうだった」
「泣いたんですか?」とシュノが聞く。
「……泣かなかった。泣き方がわからなかったの。誰も正しい対処の仕方を教えてくれなかったから、泣くより先に対処しようとしていた」
「いまもそうですか」
「今は……だいぶ違う。あなたたちを見ていると、特に」
「私たちが何をしてますか」
「感情を出すでしょう、普通に。泣きそうなら泣きそうにするし、嬉しいなら嬉しそうにする。……それが、できることだと思い出させてくれる」
そらが照れたような顔をした。
「御堂さん、なんか優しいこと言ってる」
「感想はいいわ」
「でも言っちゃったじゃないですか」
「……人と話すと、たまに言ってしまう」
シュノが小さく笑った。御堂も、少し笑った。
アキラは黙ってほうじ茶を飲んだ。
この部屋で起きていることが——感情の連鎖だということが、否定できなかった。
3
その夜、四人でテーブルを囲んでいる時、シュノがアキラに聞いた。
「ねえ。私のこと、好き?」
テーブルが静かになった。
御堂の箸が止まった。そらがみかんを握り締めた。アキラは——言葉が出てこなかった。
「……突然なんだその質問は」
「聞いてみたかったんです」
「文脈も準備もなく聞くな」
「アキラくんが準備していると、本音じゃない答えを返す気がして」
シュノは真っすぐにアキラを見ていた。御堂とそらは見ていないふりをしながら、全力で聞いていた。
アキラは——もう少し間を置いた。
この問いへの答えを「考える」のと「感じる」のは違う。考えれば分析できる。でも今要求されているのはたぶん、感じた答えだ。
「……好きか嫌いかで言えば」とアキラはゆっくり言った。「嫌いではない」
「それだけですか」
「それ以上言うことがない」
「本当に?」
「……今は、それだけだ」
「わかりました」とシュノは言った。少しだけ微笑んで、また食事を続けた。
満足したのか、しないのか、アキラには読めなかった。
「ふつうに答えたじゃないですか」とそらがにやにやしながら言った。
「黙れ」
「逆ギレだ」
「御堂も笑うな」
「笑っていないわ」と御堂は言ったが、口元は微かに弛んでいた。
食事が終わって、そらと御堂が帰った後、アキラはソファでノートを開いた。
何を書くつもりか、自分でもわからないまま、ページが開いた。
真っ白なページに、一行だけ書いた。
【シュノに嘘をついたことがなかった】
それを見てから、アキラはノートを閉じた。
「人を信じれば必ず裏切られる」という信念を、十七年かけて積み上げてきた。
でも——シュノに嘘をついたことが「一度もなかった」という事実は、何を意味するのか。
自分が知らない間に、誰かを信じていたということか。
その答えを出す前に、アキラは眠くなった。
ソファに横になって、目を閉じる前に、ベッドの方を見た。
シュノが本を読んでいた。なんてことのない、日常の絵だった。
それが怖くないどころか——ただ、落ち着いた。
*
「アキラくん」とシュノが声をかけてきた。
「なんだ」とアキラは目を閉じたまま答えた。
「眠れますか」
「眠れる」
「眠そうですね」
「眠いから眠くなってる」
「何か考えてましたか、さっき」
「……少し」
「何を」
アキラはしばらく黙ってから答えた。
「お前に一度も嘘をついていないということを」
シュノが黙った。しばらくして言った。
「……それって、すごいことだと思います」
「なぜ」
「私に嘘をつかない理由がないからです。知らない人に正直に話す必要はないのに」
「知らない人じゃない。観察対象だ」
「それでも」
「……まあ」
「私も、アキラくんに嘘をついたことはないと思います」
「確認できないか」
「できません。でも、「嘘だ」という感覚が来たことがなくて」
「嘘喰いの発動、か」
「たぶん。……少し遠まわしだけど、それがうれしいです」
「何が」
「アキラくんに嘘をついていないってことが。……ちゃんと話せてる感じがして」
アキラは目を開けた。天井を見た。
「シュノ」
「はい」
「お前は——正直に生きるのが、得意か」
「……わかりません。でも、嘘をつきたいと思ったことが、ないかもしれません」
「なぜ」
「嘘をつく理由が、わからないんです。嘘をつくと何かいいことがあるんですか?」
「隠したいことを守れる」
「でも守りたい隠し事が、私にはないから」
「ないのか」
「……今のところ。もしかしたら、昔はあったかもしれないけど、今はない」
アキラはしばらく天井を見てから、目を閉じた。
「そうか」
「アキラくんは、私に隠したいことがありますか」
「……一つだけ」
「なんですか」
「いつか話す」
「いつ」
「タイミングがある」
「……わかりました。待ちます」
その後は二人とも黙った。
シュノが本を閉じる音がした。
少しして、という短い声がした。
「おやすみなさい」
「……ああ」
アキラは目を閉じたまま、眠りに入った。
その夜は——めずらしく、夢を見なかった。
4
翌朝、慶吾からメッセージが来た。
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「そろそろ動きます。
準備ができたら、知らせてください。」
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アキラはその文面を見て、すぐに三人に転送した。
御堂から返信が来た。「わかった。私も準備する」。
そらからは「えっマジで? 怖い」と来て、五秒後に「でも行く」と来た。
シュノからは——しばらく返信がなかった。
十分後、シュノから一通だけ届いた。
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「アキラくん、私はどうすればいいですか。」
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アキラは返信を考えてから、書いた。
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「何もしなくていい。
俺たちが動く。お前はそこにいるだけでいい。」
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送信して、すぐに後悔した。
「そこにいるだけでいい」——それはつまり、シュノがそこにい続けることを、アキラが前提にしているということだ。
まるで、追い出すつもりがないと言っているようなものだ。
返信は来た。
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「わかりました。
ありがとうございます。」
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アキラはスマホを置いて、観察ノートを取り出した。
慶吾の項目に書き足す。
「動く」とは何を意味するのか。「回収」か「別の手」か。
パターンは三つ——
①シュノを物理的に連れ出す
②シュノに直接接触して支配域を使用する
③俺を排除してシュノに近づく
③の可能性が——最もやっかいだ。
「支配域」は意志を植え付ける能力だ。もしアキラ自身に「シュノを引き渡すべきだ」という確信を植え付けられたら、本人は気づかない。
その防衛策は——支配域が作動したかどうかを確認する手段を事前に他者に委ねておくことだ。
アキラは御堂にメッセージを送った。
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「俺の判断がおかしくなったと感じたら、すぐ言ってくれ。
支配域が俺に来た可能性がある。」
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御堂から即座に返信。「わかった。結界の中なら遮断できるかもしれない。試してみる」。
そらにも。「私のビジョンが変なこと言い出したらそれも教えてくれ」。
返信。「了解。変になったら言う。ていうかみんな変だけど」。
アキラは少し笑いそうになって、やめた。
嘘をつかない仲間が三人いる。これは——かなり珍しいことだと、思った。
そして——珍しいことが、失われる前に守りたいと思っていることを、今この瞬間に確認した。
第四章 了




