第二章 結界の中の戦場
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第二章 結界の中の戦場
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1
謎のメッセージの送り主は、三日経っても特定できなかった。
アキラは携帯のログをあらゆる方向から分析したが、発信元のアドレスは使い捨てのフリーアカウントで、IPアドレスは複数のVPNを経由していた。追跡するには相応のスキルと機材が必要で、高校二年生のアキラには限界がある。
代わりに、別の方向から考えることにした。
「俺がシュノを信用するようになってきた」という一文。
これは観察だ。俺の行動を見ている何者かがいる。そしてそれを「順調」と表現した。俺の行動が変化したことが、送り主にとって都合のいい進捗を意味している。
つまり——俺がシュノと距離を縮めることを、誰かが望んでいる。
アキラは観察ノートの「外部干渉者」の項目を書き足した。
【外部干渉者(仮称:X)】
・俺の行動を監視している
・シュノが俺に近づくことを望んでいる
・技術力がある(VPN、使い捨てアカウント)
・シュノを「送り込んだ」可能性あり
→ 俺にシュノを信頼させる目的は何か?
答えは出なかった。
でも一つだけ方針が定まった。シュノをすぐに追い出すのではなく、近くに置いて観察し続けることで、Xの目的を把握する。
これが今の最良の手だ。感情的な理由ではない。戦略的な判断だ。
そう確認してから、アキラはノートを閉じた。
台所からシュノがご飯を炊く音が聞こえてくる。今日は何を作るのだろうと、なぜか考えた。
感情的な理由ではない。
栄養管理上の問題だ。
*
能力者同士の小競り合いは、この街では珍しくない。
アキラが通う高校——私立天誠学院は、表向きは普通の進学校だが、実態はそれだけではない。能力者が一般の割合よりも高く、在籍している。国の管理局が意図的に誘導しているのか、それとも自然にそうなるのかは不明だが、いずれにせよアキラのような「特別な感覚を持つ」生徒が他よりも多い。
ただし、大半の能力者は能力を表に出さない。日常の中でひっそりと使うか、使わないかを選んでいる。
公に能力を使った場合、管理局が動く——それはほとんどの能力者が知っている暗黙の了解だ。
管理局というのは、表向きには「特殊技能者支援機構」という名称で、能力者の福祉と社会適応を支援する組織だということになっている。しかし実態は、能力者を「資産」として管理し、必要な時に動員できる体勢を維持する、国の機密機関に近い。
アキラはその事実を、親から聞いていた。父親が離婚前まで管理局の末端で働いていたからだ。
「嘘喰い」の能力が社会に知れれば、管理局が来る。だから黙っておけ。
それが父親の最後のアドバイスだった。
だから昨日、学校の講堂の隅で「それ」が起きた時、アキラは直感的に状況の異常さを感じ取った。
放課後の自由時間、特に用事のないアキラが図書室に向かおうとしていたとき、廊下の角を曲がったところで足が止まった。
前方、講堂への渡り廊下の入口あたり——空気が歪んでいた。
正確には、光が微妙に屈折しているような感覚だ。透明な壁があるような、見えない段差があるような。経験のない人間には気づけないが、アキラはこの手の気配に敏感に反応できる。
「御堂か?」
呟いた瞬間、前方から声が聞こえた。
「そこにいるの、九条くん?」
御堂リリアの声だった。間違いない。つまりこの「見えない壁」は——
「結界が、お前の能力か」
渡り廊下の先から御堂が歩いてきた。眼鏡のフレームに指を添えた、いつもの仕草。
「先週の交渉の返事を持ってきたわ」
「ずいぶん引っ張ったな」
「手札を出す準備に時間がかかったの。入って」
御堂が手を振ると、空気の歪みが広がった。アキラが一歩踏み出すと、視界が少しだけ変化した。音が外から遮断される感覚がある。
「防音まで使えるのか」
「基本的な機能よ。——これが私の能力。結界師、と呼んでいる」
「バリアを展開する、か。攻撃には使えないのか」
「形状と密度次第では使えないこともないけれど、得意ではないわ」
御堂は制服の上着を少し直しながら、アキラの向かい側に立った。
「条件は一つ。あなたの能力の詳細を教えて。私はあなたに手札を見せた。同等の手札を見せてほしい」
「……嘘が赤く見える。言葉の嘘だけだ。行動の嘘や隠し事には反応しない」
「有効範囲は?」
「視界に入っていれば十メートル程度。聞こえていれば、もう少し広い」
「制御は任意に?」
「常時発動だ。止められない」
「大変ね」
「お前の能力も常時発動か?」
「展開と解除は任意よ。ただし維持にエネルギーを使う」
公平な交換だと思った。アキラは次の問いに進んだ。
「先週、シュノのことを警告した。能力者だと言った。お前は何を見たんだ」
「彼女が教室の廊下を歩いたとき、空気の流れが変わった。能力者が無意識に周囲の場を変える感覚——私の結界はそれに敏感に反応するの」
「どんな能力だと思う」
「模倣系、と私は見ている」
アキラは少し眉を上げた。御堂は続けた。
「他者の能力を読み取り、コピーする。そういった能力者は稀だけど、存在する。シュノが教室の廊下を通ったとき、私の結界の形が微妙に変わった。……まるで彼女が私の能力の形を感知して、自分の場に取り込もうとしているように」
「模倣か」
「あくまでも推測。でも、一つ確認したいことがある」
御堂は今まで以上に真っすぐにアキラを見た。
「シュノが模倣者なら——今まで彼女の近くにいた能力者の能力を、すでに取り込んでいる可能性がある。あなたの「嘘喰い」を含めて」
アキラは無言で、その意味を処理した。
シュノがアキラの能力を「模倣」していたとしたら——彼女はアキラの嘘も見えている可能性がある。
なのにアキラは今まで、何の疑いもなくシュノの前で本音を話してきた。
「……可能性の話をするな、と言いたいところだが、それは俺も考えていた」
「やっぱり」
「ただ、だからといって今すぐ態度を変える気はない。観察を続けることが最良だ」
「賢明ね」
御堂は結界を一部緩めた。外の音が微かに戻ってくる。
「九条くん」
「なんだ」
「あなた、シュノについて感情的になっていない?」
アキラは即答した。
「なっていない」
「赤くないわよね、その言葉」
「ああ」
「でも、赤くない言葉が全て真実とは限らないでしょう? 自分の感情に気づいていない嘘は、能力には引っかからない」
アキラは何も言わなかった。
御堂は小さく笑って——しかし笑顔が薄く、どこか憂いを含んで——言った。
「気をつけなさい。彼女に感情移入すればするほど、あなたの能力的な警戒は薄れる」
それだけ言って、御堂は結界を解いた。廊下に普通の空気が戻ってきた。
二人は別々の方向に歩き出した。
アキラは一人になってから、ノートに書き足す内容を頭の中で整理した。
御堂リリアは、確かに情報を持っている。そして、少なくとも今日のところは嘘をついていなかった。
問題は——御堂の言った「感情移入」という言葉が、どういうわけか頭から離れないことだ。
2
その二日後に、事件は起きた。
放課後、図書室でアキラが調べ物をしていると、携帯が震えた。
シュノからのメッセージだった。
────────────────────
「アキラくん、講堂の裏に来てください。
急いで」
────────────────────
一言、文字だけ。
アキラは本を閉じて立ち上がった。シュノが自分から助けを求めてくることを、今まで一度もなかった。
図書室を出て廊下を走った。周囲に生徒はほとんどいない、放課後の人流がほぼ終わった時間帯だ。
階段を二段飛ばしで降りながら、最悪のパターンを想定した。シュノの能力が何らかの拍子で暴発した。あるいは誰かに能力を使われた。あるいは——
講堂の裏は、校舎の死角になる場所だ。部活動の格技場と倉庫の間の細い通路で、放課後でも人が滅多に来ない。
アキラが角を曲がったとき——空気の層を感じた。
透明の壁だ。御堂の結界ではない。もっと硬く、圧縮されたような感触がある。
そしてその向こうに、シュノがいた。
銀髪が風に乱れている。白い包帯を巻いた右腕を前に出して、何かに対峙しているような姿勢。
その前方に、御堂リリアがいた。
二人の間に、見えない何かが充填されている。空気の密度が違う。御堂の結界と、それに対する別の「何か」が衝突して、視覚的に空間が歪んでいた。
「──御堂!」
アキラが声を上げると、御堂が少し視線を動かした。シュノも振り返る。
「九条くん、」
御堂の声は平静だったが、顎の角度に力が入っているのがわかった。
「邪魔をしないで。これは確認作業よ」
「何を確認している」
「シュノの能力が模倣系かどうか。実際に試してみようと思って」
つまり、御堂はシュノに結界を展開してみせて、シュノが反応するかどうかを試していたのだ。
問題は——シュノの様子が、想定外のことが起きているように見えることだ。
「シュノ、お前は今何をしている」
「わからないんです」とシュノは言った。声が少し揺れていた。「御堂さんが何かをやったら、体の中から何かが出てこようとして、」
「止められるか」
「止め方がわからない……」
御堂の展開する結界と、シュノの内側から溢れ出ようとしている何か——それが拮抗して空間が歪んでいる。制御できないままにしておくと、どちらかが突破する。
「御堂、結界を解け」
「解いたら——」
「解いて、シュノの方も止まる。解かなければ、シュノの方が突破する」
御堂は一瞬だけ考えてから、結界を縮小させた。
同時に、シュノの右腕から白い光の膜のようなものが広がり——そして、消えた。
しん、と静かになった。
シュノが膝をついた。アキラが駆け寄って肩を支える。
「大丈夫か」
「……はい、たぶん」
「痛いか」
「……少しだけ」
右腕の包帯の端が、わずかに赤く滲んでいた。血ではなく、皮膚の下で何かが充血したような色だ。
「御堂」
「……謝るわ。思ったより強度があった」
御堂はシュノの右腕を見て、僅かに顔色を変えた。
「シュノ、今起きたこと、自分でわかる?」
シュノはゆっくりと顔を上げた。
「……御堂さんが何かをした。それを体が感じて、同じ形が作られようとした。でも形がわからなくて、形の分からないまま出てきたから、ぐちゃぐちゃになった」
御堂がアキラを見た。
「模倣系で間違いない。だが、未完成ね。能力の形を読み取るまではいいが、そこから先——完全に再現する段階が制御できていない」
「使い方を知らないんだろう」
「教えれば使えるかもしれない。……それが吉と出るか凶と出るかは、別の話だけど」
「今日のところは引け、御堂。これ以上は実験のやり直しができない」
「……わかったわ」
御堂は結界を完全に解除した。通路に普通の空気が戻ってくる。御堂はシュノをもう一度見てから、アキラに向かって言った。
「一つ忠告。シュノの能力は想定以上に広い可能性がある。……近くにいる能力者全員に影響する可能性を、念頭に置いておいて」
それだけ言って、御堂は去った。
「……アキラくん」
シュノが肩に手をついたまま、上を向いてアキラを見た。
「ごめんなさい」
「なんで謝る」
「心配させたから」
「心配はしていない」
「観察か分析か、どっちかはしていましたよね」
「……」
「それでもいいです。来てくれたから」
アキラはシュノの肩を掴んで立たせた。
「歩けるか」
「歩けます」
「帰るぞ」
「はい」
通路を出ながら、アキラはシュノの右腕の包帯を横目で見た。先ほど赤く滲んでいた部分は、すでに戻っている。
模倣系。御堂の分析が正しければ、シュノは他者の能力を読み取れる。
そしてアキラの能力も——すでに読み取られているかもしれない。
シュノがアキラの嘘を見えているとしたら、今日まで話してきたことは全て「そのまま」見られていた。
不思議と、それが怖いとは思わなかった。
むしろ——それでもいいかもしれないと思いかけたことが、少し怖かった。
*
帰宅しながら、シュノは少し遅れてアキラの後をついてきていた。いつもは並んで歩くのに、今日は少し距離がある。体が疲れているのか、気持ちが落ちているのか。
アキラは振り返らずに言った。
「ペースを落とすぞ」
「大丈夫です」
「落とす」
速度を緩めた。シュノが追いついて、また並んで歩くことになった。
「御堂さんは、意地悪な人じゃないですよね」
「そうだな」
「私を調べたかっただけで」
「そうだ」
「でも怖かった。あのまま出てきたものが止められなかったら、どうなってたんだろうって」
「御堂が止めただろう」
「でも御堂さんもわからなかった、って言ってましたよね」
「……そうだな」
シュノはアキラの横顔を見た。
「アキラくんは、怖くないんですか。私が何をするかわからないのに」
「怖いかどうかより、知りたいことが先だ」
「知りたいことがなくなったら?」
「その時考える」
「怖くなりますか、その時」
アキラは少し考えてから答えた。
「今の段階では、怖くなる理由がわからない」
「それって、今は怖くないってことですよね」
「……そうだ」
「なんで」
「お前が嘘をつかないから」
シュノは少し黙ってから言った。
「嘘をつけない人は信用してもいいですか、アキラくんの中で」
「嘘をつかない、とはまた違う」
「どう違うんですか」
「嘘をつけないことと、俺に対して正直であることは別の話だ。嘘をつかない人間でも、俺に言わなくていいことは黙っている権利がある」
「じゃあお互いに隠してることがあってもいいですか」
「必要なことを話してくれれば、全部話す必要はない」
「……アキラくんは、私に言っていないことがありますか」
「ある」
「何ですか」
「お前に言う必要があると判断した時に言う」
「わかりました」
シュノはそれ以上聞かなかった。
アキラはそのことに、少し安堵した。
言っていないことというのは——シュノが作る卵焼きが、六ヶ月前まで毎朝食べていた母の卵焼きの味に、少しだけ似ていることだ。それを言うつもりはなかった。感情的な理由はない。ただ、言う必要がないからだ。
……なかった。
3
翌日の朝、城崎荘の玄関前で待ち伏せしていたのは、見知らぬ小柄な女の子だった。
金色のショートカット。ボーイッシュな顔立ち。背が低く、一瞬中学生かと思ったが、制服のデザインが天誠学院のものだった。
女の子はアキラを見るなり、大きく一歩後退した。
「あ、あー、えーっと」
「なんだ」
「えっと、ここの部屋のひと、ですか?」
「そうだが」
「あー、ちょっと、待って」
女の子は自分の両頬を平手で挟んで、ぱちぱちと目を瞬かせた。何かを頭の中で整理しているような仕草だ。
「……見たまんまだった。じゃあ間違いない」
「誰に何の話をしている」
「えっと、あの、私、流月そらって言います。さっき学校で会った人を見て、ビジョンが来て——」
「ビジョン?」
「予知、みたいなもの。正確じゃないんだけど。でも今回のは、はっきりしてて。アンタのこと見えて、この場所のことも見えて」
アキラは女の子——流月そらを上から下まで観察した。嘘はない。本当に「見えた」と思っている。
「予知系の能力か」
「あ、普通に信じてくれるんだ」
「お前が嘘をついてるようには見えない」
「……え、なんで分かるの」
「こっちの話だ。用件を言え」
そらは深呼吸してから、直球で言った。
「シュノって子のこと。この部屋に住んでるって見えた。あの子、やばいことになるよ」
「定義してくれ、やばいというのは」
「崩れる。……人の形をやめる、みたいな感じの。正確に言葉にできないんだけど、とにかく、見ていて気持ち悪いくらい、ひどいビジョンだった」
赤くない。そらは自分が見たものを本当にそう感じている。
アキラは腕を組んだ。
「お前、何年だ」
「一年。十五歳」
「なぜ俺のところに来た」
「ビジョンの中に、アンタが映ってたから。……シュノを変えられる可能性がある人として、アンタが見えた。確率は低いけど」
「低い確率に賭けに来たのか」
「じゃないとやることないし」と、そらは諦めたような顔で言った。「私の能力、コントロールできないからさ、勝手に見えるんだ、嫌なものが。ならせめて動いた方が気分がまし」
その言葉に、赤はなかった。
自分がコントロールできない能力を抱えながら、それでも動く。
「お前は予知が来るのを止められないのか」
「全然。寝てる時も来る。授業中も来る。昨日なんか、昼食の唐揚げを食べようとしたら来て、気づいたら全部食べ終わってた」
「ビジョン中は何も覚えていないのか」
「覚えてる。でも体は自動で動いてるらしい。気持ち悪いでしょ」
「……なかなか大変だな」
「そうなんですよ!」とそらは少し前のめりになった。「学校でも生活全体でも、いつ来るかわからないし、なんで私がこんな能力を……ってたまに思う」
「そういう能力の場合、感情が昂ると来やすいか」
「あ、そうそう。ストレスがかかってるとよく来る」
「逆に、穏やかな状態だと来にくいか」
「多分。でも普通に生活してると穏やかって難しくて。気づいたらなんか来てる」
アキラは少し考えてから、内部に通じるドアホンのボタンを押した。
「シュノ、下に来い」
『——はい』
少しして、シュノが外階段を降りてきた。そらを見て、少し目を丸くする。
「初めまして」
「あ……シュノ、さん?」
そらがシュノの顔を見た途端、顔色が少し変わった。
「……あ。見えた通りだ」
「私のこと、何か見えましたか?」
「見えた。でも、今は言えない」
「そうですか」
シュノは怖がる様子もなく、そらの目をまっすぐに見た。
「何か言いたいことがあって来てくれたんですよね」
「……うん」
「じゃあ、上に来てください」
こうして、四人目が現れた。
アキラはため息をつきながら、後ろをついてくる二人を見た。部屋が狭くなっていく。
4
六畳のワンルームに三人は普通に収まらなかった。
アキラが勉強机の椅子に座り、シュノがベッドに、そらが床にあぐらをかいて座っている。これ以上人が来たら本当にどうにもならないな、とアキラは思った。
「で、具体的に何を見たんだ」
そらは床に視線を落として、思い出すように話した。
「最初に見えたのは、シュノさんの腕のこと。包帯の中。……何か、崩れてるものが見えた。人間の体に見えなくて、機械みたいな、でも機械でもなくて、もっと奇妙な何か」
シュノは自分の右腕を膝に乗せて、包帯の上をそっと左手でなぞった。
「崩れるって、具体的にはどういう状態ですか」
「……すごく使いすぎると、その、手が——壊れていく感じ」
「能力の使いすぎで、肉体に損耗が来るということか」
アキラの言葉に、そらが頷いた。
「でも私の予知は確定じゃない。確率の話だからさ、今そうなってるわけじゃないし、なるかどうかも絶対じゃない」
「副作用として既に発動しているかどうか、確認手段があるか」
「私には見えなかった。今、に近い未来しか見えなかったから」
アキラはシュノを見た。シュノは包帯を巻いた腕を静かに見ている。
「シュノ、包帯は自分で外せるか」
「……外したくない」
「嫌か」
「はい」
「理由は」
「怖い」
「何が怖い」
シュノは少し間を置いた。
「……中を見るのが。きっとよくないものが見えるから」
赤くない。シュノはすでに何かを感じている。でも「知りたくない」という選択をしている。人が知りたくないことから目を背けるとき、嘘喰いは反応しない。認識の問題ではなく、感情の問題になるから。
「見なくていい」
アキラは言った。シュノが顔を上げる。
「見なくていいから、俺が確認する。痛みが走ったらすぐ言え」
「えっ、でも」
「いいから。腕を出せ」
シュノは少し躊躇してから、右腕をアキラの方に差し出した。アキラは包帯の端を解き始めた。そらが少しだけ息を詰める。
一巻、二巻、三巻——包帯が緩んでいく。
最後の一枚が外れた。
シュノの手首から肘にかけて、細い筋のような文様が走っていた。青みがかった、光の通り道のような線が何本も。人体の血管と似ているが、位置も深さも違う。それが表皮のすぐ下を走っていて、光の角度によって微かに光を帯びる。
そらが小さく息を飲んだ。
「……これ」
「見覚えがあるか」
「ビジョンの中で見えたのと……同じ」
「今は崩れていないな」
「うん。今は安定してる。でも、もし大きく能力を使ったら——」
「文様が広がっていく、か」
「たぶん。そしてある段階を超えると」
そらは言葉を切った。アキラが先を促す目を向けると、
「……戻れなくなる、かもしれない」
静寂があった。
シュノは自分の腕を見ていた。驚いた顔ではなかった。むしろ——「やはり」というような、静かな顔だった。
アキラにはその顔が、何かを――ずっと前から知っていたような顔に見えた。
「怖いか」とアキラは聞いた。能力者として聞いたのか、別の意味で聞いたのかは、自分でもわからなかった。
「怖い、かな」とシュノは言った。「でも、どうすれば怖くなくなるかは、わからないです」
「怖くなくなる方法は、いつもある」
「何ですか」
「理解することだ。わからないから怖い。わかれば、対処できる」
「……アキラくんらしい答えですね」
「違うか」
「違わないかな、と思います。でも一つだけ聞いていいですか」
「言え」
「アキラくんは、私が怖くなりましたか?」
アキラは一瞬、間を置いた。
自分の中を確認するように。そして答えた。
「なってない」
赤くない——アキラ自身は確認できない。だが嘘をついた感覚はなかった。
シュノはもう一度、自分の腕の文様を見てから、ゆっくりと包帯を巻き直し始めた。
「巻き方、手伝おうか」
「大丈夫です」とシュノは言った。「慣れてるから」
その「慣れてる」という言葉に、かすかな哀しみが混じっているような気がした。
アキラには、それが気になって仕方がなかった。
*
そらはそれから、シュノの腕の文様をスマホのメモに記録した。
「記録するのか」とシュノが聞いた。
「うん。比較できるように。今が安定してるなら、今を基準にして、変化を見る」
「できるものなんですか、未来の予知で」
「予知って、ほっとくと流れてっちゃうんだよね。記録しておくと、後で「あっあのビジョンはこういう意味だったか」ってなる」
「なるほど。メモを取る感じですね」
「そう。でも書いてる途中にまたビジョン来ることがあって、気づいたらメモが別のことで埋まってたりする」
「それは大変だ」とアキラが言った。
「でしょ!」とそらが少し嬉しそうに言った。「人に大変って言ってもらえることが少なくて。「そんな便利な能力じゃん」って言われるんですよね、だいたい」
「便利ではない。制御できない能力は制御できないだけ不便だ」
「そう!! アンタ、なんかわかりますね」
「俺も制御できない」
「あっ、そうか」
そらが少し考えてから言った。
「じゃあ、私とアンタって同じ感じですね。ずっと見たくないものが見えてる、って意味で」
「……少し違う。俺は嘘を「見たくない」と思ったことはあまりない。ただ、見えた後の対処が面倒だと思うことがあるだけだ」
「それって……どう違うんですか」
「見えることは受け入れた。それを使って何をするかが問題だと思っている」
そらはしばらく考えてから、少し顔を下向けた。
「……私は、見えることをまだ受け入れてない気がする」
「そうか」
「なんか、もし受け入れたら、ビジョンが来ることを前提に生きなきゃいけない感じがして」
「今でも来るだろ」
「来てるけど、まだ「たまたま来てる」って思ってる。認めたら「常にくる」になる」
「それは変わらない。認めても認めなくてもビジョンの頻度は変わらない」
「……そうですよね」
「ただ——認めると、準備ができる」
そらはアキラを見た。
「アキラくんも、準備してる人ですか」
「ある程度は」
「ずっと一人で?」
「今は、すこし違う」
アキラがそれを言いながら、自分が「今は違う」と言ったことに気づいた。
そらも気づいたらしく、ちょっとした顔をした。でも何も言わなかった。
シュノがにこっとしているのを、アキラは見なかったことにした。
5
そらはその日から城崎荘に出入りするようになった。「予知がいつ来るかわからないから、近くにいた方がいい」という理由だったが、単純にシュノが気に入ったのだと、アキラは思った。
御堂リリアも翌日には状況を把握して(どこから情報を得ているのか謎だが)、「経過観察という意味で」と城崎荘に来た。
六畳のワンルームに、アキラを含めて四人が詰め込まれた。
「狭い」
「私のせいですか?」とシュノが聞いた。
「六割お前のせいだ」
「ひどい」
「でもそこまでは嫌じゃない」とアキラは言ってから、自分でも驚いた。なんで言ったんだ、と思ったが、言ってしまったものは取り返せない。
シュノはにこっと笑った。御堂が少し眉を動かした。そらが「あ〜」と言ってニヤニヤした。
「何がああだ」
「いや別に〜」
「うるさい、黙れ」
「御堂も笑うな」
「笑っていないわ」と御堂は言ったが、口元は微かに弛んでいた。
四人の城崎荘時代が始まった。
それはアキラにとって、奇妙に——悪くない日々の始まりだった。
それぞれが能力を持って、それぞれが能力に縛られていて、それぞれが何かを抱えていた。
でも——同じ六畳の中に集まると、その重さが少しだけ軽くなる感じがあった。
互いの重さを受け止め合っているような。あるいは、単に人の気配があるだけで少し楽になる、そういう単純な話なのかもしれない。
しかしその三日後、アキラの前に——また新しい登場人物が現れた。
それは「嘘が赤くなる」能力に対して、初めて「真正面から対抗できる」何かを持つ存在だった。
第二章 了




