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第一章 同居宣言と嘘の方程式

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第一章 同居宣言と嘘の方程式

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 1


 世界は嘘で満ちている。

 それを知ったのは、九条アキラが六歳のときだった。


 母親が「大丈夫よ」と言ったとき、その言葉がぼんやりと赤く滲んだ。幼いアキラには意味がわからなかった。でも、その夜に父親が家を出ていったとき、あの赤い滲みが何を意味するのかを、骨身に染みて理解した。

 嘘だ、と思った。

 大丈夫じゃなかった。でも母は「大丈夫」と言った。

 以来、アキラには世界がわずかに違って見えるようになった。


 人が嘘をつくとき、その言葉の輪郭が赤く滲む。ほんのわずか、毛細血管が滲み出るような感覚で。慣れるまでは気分が悪くなるほどの不快感だったが、今では自然に識別できるようになっていた。

 「嘘喰い」——自分でそう名付けた、この能力のせいで、アキラの人間関係は十七年かけてじりじりと壊れていった。


 小学校時代、よく知らない女の子に「友達になりましょう」と言われたことがある。その言葉が、赤く滲んだ。

 友達になりたいのではなく、アキラが親の仕事のことを知っている子供だから近づいたのだということが、後でわかった。

 言葉の意味が正直でなくても、それ以上のことは能力ではわからない。ただ「この言葉は嘘だ」というシグナルだけが来る。

 それを受け取り続けることが、どれだけ消耗することか——六歳のアキラには、まだわかっていなかった。


 中学にあがってから、少し楽になった。赤い言葉を識別できるなら、赤くない言葉だけを「真実」として扱えばいい。それ以外は無視する。人間関係を層で分ける。「どうせ嘘の人間」と「たまたま嘘をついていない人間」と「まれに本音を言う人間」の三層。

 三層目は、ほとんどいない。


 中学三年のとき、唯一の親友だと思っていた男に裏切られた。

 あいつは「ずっと友達だ」と言いながら、ずっと嘘をついていた。アキラの能力のことを教師に売り渡した。「気持ち悪い奴がいる」と言いながら、笑顔で声をかけ続けた。

 嘘の言葉は赤く滲む。でも、笑顔は赤くならない。

 能力は「言葉の嘘」しか見えない。「行動の嘘」も、「沈黙の嘘」も、「表情の嘘」も見えない。

 だから裏切られた。


 その日以来、アキラは決めた。

 人を、信じるな。

 嘘が見えても、全てが見えるわけではない。だから、やはり信じてはいけない。


 今日も、電車の中で向かい側に座ったサラリーマンが「今日は残業しません」と電話口で言ったとき、その言葉が赤く滲んでいた。アキラはイヤホンを深く押し込んで窓の外を見た。この街は嘘であふれている。赤に慣れすぎて、もう驚きもしない。


 目的の駅で降り、商店街を抜け、少し外れた場所にある築三十年のアパート——城崎荘の前に立った。

 二階建て、全八室のボロアパートに、アキラは吉野家と郵便局と二十四時間営業のドラッグストアを愛しながら一人で住んでいる。家賃は四万三千円。両親が離婚した後、父方の叔父が「せめてこれくらいは」と手配してくれた部屋だった。

 そこそこ快適だった。一人でいれば、赤い滲みを見なくて済む。


 外階段を上りながら、アキラは今日の夕食の段取りを考えた。冷蔵庫には卵と豆腐と醤油がある。玉子豆腐でも作るか、面倒なら豆腐に醤油をかけるだけでいいか。高校二年生の晩ごはんとして最低だが、誰に見せるわけでもない。

 二〇五号室の前に来た。

 鍵を取り出そうとして——止まった。


 扉の前に、誰かがいた。


 白い少女だった。

 正確には、白い服を着た少女だった。くたびれた白のワンピース。銀色の髪が風もないのにわずかに揺れている。足元にはスニーカーではなくパンプスが一足、脱いで置かれていた。

 少女はドアノブに頬をくっつけて、目を閉じていた。

 眠っているのか、死んでいるのか。


「……おい」


 アキラは声をかけた。少女がぱちりと目を開けた。黒目がちな目が、ゆっくりとアキラの方を向く。

 なんの感情も読めない目だ、と思った。感情がないのとは違う——感情があるのに、それをどう表現すればいいかわからないような、まっさらな瞳だった。


「九条アキラくん?」


 少女が言った。正確な名前を呼ばれて、アキラは一歩退いた。


「誰だ、お前」


「シュノって言います。今日からここに住みます」


 断言だった。疑問符も言葉の揺らぎもなかった。

 アキラは少女の言葉を注視した。赤くない。滲んでいない。

 この少女は、嘘をついていない。


「……意味がわからん。出て行け」


「行くところがないんです」


「関係ない」


「記憶もないんです」


「もっと関係ない」


 少女——シュノは少しだけ首を傾けた。困惑しているようだったが、傷ついているわけでも、怒っているわけでもなさそうだった。まるで天気の話を聞いているような顔で言う。


「でも、ここに来なきゃいけないって、わかってたんです」


「誰に言われた」


「……わかりません」


 また、赤くない。

 アキラは内心で舌打ちした。


「ここは俺の部屋だ。お前の来るところじゃない」


「一週間だけでいいです。一週間経っても記憶が戻らなかったら、出ていきます」


 少女は真っすぐにアキラを見ていた。懇願でも脅迫でもなく、ただ事実を述べているような目だった。

 言葉は赤くない。

 「一週間経っても出ていかないかもしれない」という嘘も、「記憶がある」という嘘も、「ここに来るように言われた人物を知っている」という嘘も——何もない。

 全部、赤くない。


 アキラは十七年の人生で、これほど「嘘がない」人間に会ったことがなかった。


    *


「入るな」


 アキラは鍵を開けながら言った。


「えっ」


「入るなと言った。俺が調べる。お前はここで待ってろ」


 部屋に入り、施錠した。

 スクールバッグを床に投げ、アキラは考えた。赤がない。それは嘘をついていないということだ。だが、嘘をついていないことイコール、真実を話しているということにはならない。真実を「知っていて」隠しているのとは違い、ただ「知らない」という可能性もある。

 彼女の記憶が本当にないなら、赤は出ない。

 彼女が「記憶はないが誰かに指示されたことを知らない」なら、赤は出ない。

 あるいは——彼女が嘘そのものを、感知できない何らかの仕組みで覆い隠しているなら。


 アキラは引き出しの奥から古いノートを取り出した。「観察記録」と書かれた、中学時代から使っている思考整理用のノートだ。

 新しいページを開いて書く。


 【シュノ(仮)】

 ・能力:不明

 ・目的:不明

 ・危険度:要判定

 ・特記事項:俺の「嘘喰い」に引っかからない


 赤がないなら、基本的には真実を語っていると判断していい。問題は、彼女が「何を知らないか」だ。

 知らないふりができる人間は危険だ。でも彼女は、知らないふりをしている様子すらなかった。

 本当に空白な目をしていた。


 アキラは日用品の棚を確認した。タオルが一枚余っている。着替えは——女性ものはないが、古いTシャツとスウェットならある。サイズが合わないのは致し方ない。

 それから冷蔵庫を見た。卵と豆腐と醤油だけでは、二人分の食事にならない。

 最寄りのドラッグストアに一度行く必要がある。


 アキラはため息をついて、玄関に戻った。


「……名前」


「シュノです」


「フルネームは」


「わかりません」


「生年月日は」


「わかりません」


「どんな服が好きか」


「……白いのが好きな気がします」


 最後だけ、少し間があった。「気がします」という言葉に赤は出ていない。本当に「気がする」程度の認識なのだろう。

 アキラは少女を上から下まで観察した。外傷なし。栄養状態は悪くない。包帯は——右腕に、白い包帯が手首から肘にかけて巻かれている。


「その包帯、怪我か」


「……わかりません」


 また間があった。でも赤くはない。自分の腕の状態さえわからないということか。あるいは——


「剥がしてみろ」


「それは」


 シュノは少し顔を背けた。初めて見る、明確な拒絶の仕草だった。


「それは、嫌です」


「なんで」


「……嫌だから、です」


 赤くない。感情的な理由で拒んでいる。もし包帯の下に「隠さなければならない何か」があるとしても、それをシュノは「意識的に隠している」わけではない可能性が高い。

 アキラは腕を組んだ。


「一週間、か」


「はい」


「勘違いするな。お前を信頼したわけじゃない。俺がお前を追い出せない理由がある」


「どんな?」


「調べることがある」


 シュノはきょとんとした顔でアキラを見た。


「私のことを?」


「ああ」


「どうして」


「知りたいからだ」


 今度はアキラが赤くなった言葉を発していないかどうかを、シュノが確認できないだけで、アキラ自身はわかっていた。

 本当のことを言った。この少女が「赤くならない」理由を知りたい。それが全てだ。


 シュノは少し間をおいてから、にこりと笑った。

 温度のある笑顔だった。計算のない、ただ嬉しいという気持ちがそのまま顔に出たような。


「よかった」


「喜ぶな」


「でも嬉しいです」


「うるさい。ルールを決める」


 アキラは扉を全開にして、部屋に入るよう顎で示した。


「一、俺の荷物に触れるな。二、俺の食事を勝手に食うな。三、深夜以降は物音を立てるな。四、俺の許可なく他人を部屋に入れるな。五、俺が嫌だと言ったことはしない。以上、守れるか」


「はい」


「破ったら即刻追い出す」


「わかりました」


「……部屋は狭い。二部屋はない」


「じゃあ、並んで寝ますね」


「俺がソファで寝る。お前はベッドを使え」


「えっ、でも」


「うるさい。早く入れ、蚊が入る」


 シュノは小走りで部屋の中に入った。アキラが後から入って施錠する。

 振り返ると、シュノが部屋をきょろきょろと見渡していた。六畳のワンルームに、本棚と勉強机と二段重ねのスチールラック。隅に積んである漫画の山と、観察ノートを入れた引き出し付き木箱。飾り気はないが、物の多い部屋だ。


「狭いですね」


「わかってて言ってるなら失礼なやつだ」


「でもなんか、温かい感じがします」


 赤くない。感想を正直に言っている。アキラはそれを認識しながら、また舌打ちした。


「さっさと荷物を降ろせ」


「荷物、ないんです」


 言われてみれば、手ぶらだった。着の身着のまま、というやつだ。アキラはため息をついて、タオルと着替え用のTシャツ(サイズが合わないのは致し方ない)を棚から引っ張り出してシュノに渡した。


「風呂を使え。その後、飯を食え。それ以上のことは今日は期待するな」


「ありがとうございます」


「礼はいい」


「でも」


「うるさい」


 シュノはまた少し笑ってから、おとなしくバスルームに向かった。

 アキラは独りになった部屋で、観察ノートを開いて続きを書いた。


 【特記事項(追記)】

 嘘をついていない。少なくとも今のところ。能力が効かない理由、三つの仮説——

 ①嘘をつく能力がない(精神的・能力的な制約)

 ②嘘だと自覚していない(認識の欠如)

 ③俺の能力を上回る何かで覆い隠している

 ①か②が有力。③は現状では証拠不足。

 要継続観察。


 書き終えて、ペンを置いた。

 浴室からシャワーの音が聞こえてくる。六畳のワンルームに、二人分の気配がある。

 アキラは同時に、ドラッグストアで食材を買ってくるという選択を、さりげなくしていたことに気づいた。


 「信じるな」と言い聞かせた。

 でも今まで感じたことのない奇妙な感覚が、胸の中でざわついていた。

 あの目に、嘘がなかった。


    *


 アキラがドラッグストアから戻ると、シュノはバスタオルを頭にかぶったまま、本棚の前に立って本の背表紙を読んでいた。


「……本棚に触れるなとは言っていなかったか」


「触っていません。見ているだけです」


「屁理屈だ」


「そうですかね」とシュノは頭のタオルを外しながら言った。「アキラくんは、こういう本をよく読むんですね」


「なんの本を見た」


「心理学と、犯罪捜査と、あと哲学が多いですね。小説は少なくて、漫画は多い」


「分析するな」


「していません。観察です」


「同じだ」


「違います。観察は事実を集めることで、分析はそこから結論を出すことです。私はまだ観察しかしていない」


 アキラはレジ袋を台所に置きながら、その定義が正確だということに内心で舌打ちした。


「本が好きか」


「わかりません。でも見るのは楽しい気がします」


「図書館に行けば大量に読める。外出は——当面は制限するな」


「制限しないんですか」


「お前が勝手に出て行っても追いかける手段がない」


「監視カメラで見るとか」


「設置する気はない。プライバシーの問題がある」


「自分のプライバシーより私のプライバシーを気にしてるんですか」


「……共同生活のルールとして、だ」


 シュノはうなずいてから台所をのぞいた。


「食材を買ってきてくれたんですか」


「俺の分だ」


「一人暮らしにしては多いですね」


「俺がよく食べる」


「そうですか。……あの、作ってもいいですか」


「お前が料理できるのか」


「わかりません。でも、やってみたい気がします」


 赤くない。本当に「わからない」が、やってみたいとも感じている。

 アキラは少し考えてから言った。


「やってみろ。ただし、失敗してもお前の責任だ」


「わかりました。一緒に食べますか」


「……食う」


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


 シュノは台所に立った。初めて入った台所のはずなのに、どこに何があるかを迷いなく確認して、自分で把握していく。その素早さと無駄のなさが、少し不思議だった。

 料理を「したことがある」人の動きではない。でも「したことがない」人の動きでもない。まるで、体が知っているのに頭だけが知らないような——


 卵焼きと、豆腐の味噌汁と、ご飯が出てきた。

 アキラは一口食べて、黙った。

 普通に、うまいと思った。


「どうですか」


「悪くない」


「それはよかった」


「お世辞は言わない」


「本当にそう思うんですね。……ありがとうございます」


 赤くない。シュノの「よかった」は本当に良かったと思っている感情だ。

 アキラは黙って食べ続けた。

 六畳に温かいものが二人分ある、という事実が、奇妙に非日常的だと思った。



 2


 翌朝、目が覚めたらシュノが机の前に座っていた。


「……何してる」


「アキラくんのノート、読んでました」


 アキラはソファから跳び起きた。


「読むなと言っただろ!」


「そういえば言ってませんでした」


「言ったも同然だ! というかなぜ開けられる、鍵がかかってるはずだ!」


「壊れてます」


 アキラは引き出しを確認した。確かにロックが外れていた。内側から押すと開く構造だったのに、シュノが引っ張ったら開いてしまったらしい。

 安物のロックだ、と後悔しても遅い。


「何を読んだ」


「色々。アキラくんて探偵みたいですね」


「……」


「人を観察して、分析して、ノートに書いて。面白かったです」


「面白いじゃない。俺の個人情報だ」


「私のことも書いてありましたよ」


「見たのか」


「見ました。嘘をついていない、ってありましたね」


 シュノはにこっとしてアキラを見た。


「じゃあ、アキラくんは私が嘘をつくと赤くなるって見えるんですね」


 アキラは固まった。

 彼女は今、笑顔でアキラの能力の核心を言い当てた。ノートには「赤く滲む」とは書いていない。「嘘喰い」という名前すら書いていない。ただ「俺の能力に引っかからない」と書いてあるだけだ。


「……何で知ってる」


「なんとなく、そんな感じがしました」


 赤くない。

 嘘をついていない。でも「なんとなく」の一言では説明できないはずだ。


「どうやって気づいた」


「アキラくん、人が話すたびに目の動きが変わるんです。嘘をついてない人には興味なさそうな目をして、そうじゃない人を見るとき、少しだけ力が入る。昨日からずっと観察してました」


 アキラは一瞬、言葉を失った。

 観察していたのはこっちのはずなのに、観察されていた。


「人のことを観察するな」


「でもアキラくんもしてますよ」


「俺は目的があってしてる」


「私も目的があってしました」


「なんだ、その目的は」


「アキラくんのことを知りたかった、です」


 赤くない。

 目的はそれだけだということだ。

 アキラはいつの間にか椅子に座っているシュノの向かい側に立って、じっと彼女の顔を見た。見られていることに気づいているはずなのに、シュノは逃げ出さない。正面から受け止めている。


「……お前は面倒なやつだな」


「性格ですかね」


「記憶がないのに性格はあるのか」


「性格って、記憶じゃないと思います」


 アキラはその一言を脳内で反芻した。

 確かに。記憶は後天的なものだが、性格の核は記憶以前に存在する可能性がある。あるいはこの少女の「性格」は、記憶と切り離された何か別のものに根ざしているのかも——


「朝ごはん、作ってもいいですか」


 思考を断ち切る声だった。


「食材があるなら」


「見ました。卵と豆腐と醤油がありましたよね」


「見るな」


「でも冷蔵庫って開けていいですか」


「ルール二を読み返せ」


「アキラくんの食事を勝手に食うな、ですよね。私が作るのはアキラくんの食事じゃなくて私の食事だから、大丈夫ですよね」


 理屈だった。穴のある理屈だが、それなりに筋は通っている。


「……好きにしろ」


「ありがとうございます。アキラくんの分も作っていいですか」


「……好きにしろ」


「ありがとうございます」


 シュノは立ち上がって台所に向かった。体格は小柄で、アキラより頭二つは低い。でも動きに無駄がない。狭い台所を自然に把握して、迷わず卵を手に取った。


 これが日常になるのか、とアキラは思った。

 嫌な予感と、嫌だとは言えない感覚が、胸の中で混在していた。


    *


 三日目の夜、アキラは布団に入らないで本を読んでいた。シュノは眠っている。

 城崎荘の廊下が静かで、外の道路を走る車の音が遠くなっていた。秋の夜だ、と思った。


 ノートを開いて、追記した。


 【シュノ観察記録・三日目】

 行動パターン:朝は自分から起きる、食事は必ず作ること(俺の分も)を前提にしている、本棚の本を勝手に開いて読む、しかし元の場所に戻す。物の配置を乱さない。

 会話傾向:質問が多いが、返答を急かさない。俺が黙っていても待つ。

 感情表現:豊かだが、計算がない。嬉しい時は嬉しい顔、困った時は困った顔。「感情を管理している」様子が見られない。


 特異点:「性格って、記憶じゃないと思います」という発言。

 → 記憶のない存在が「性格」を保持しているとしたら、それは何に由来するのか。

 → 能力に付随する何かか、元の設計に含まれるものか。


 疑問:彼女は「今日の自分」をどう認識しているのか。

 「昨日の自分」がない存在は、「今日の自分」をどう定義するのか。


 ペンを止めた。

 自分が「哲学的な問いを立てている」ことに気づいて、少し驚いた。観察記録のつもりだったのに、いつの間にか問いになっている。

 シュノのことを、純粋に「分析対象」として扱えなくなり始めているということかもしれない。


 それは良くない傾向だ。

 と思いながら、アキラはペンを置かずに、もう一行書いた。


 【昨日と今日で変わったこと】

 部屋に帰ることが、昨日より億劫でなかった。



 3


 高校には黙って行った。

「同居人ができた」などと言える相手もいないし、言う気もない。アキラは学校で口数が少ないことで有名だった。有名、というよりも「関わるな」というオーラを発していた。いじめられているわけではない——むしろ、迂闊に関わると痛い目にあうと本能的に感じているのか、クラスメートは全員が適切な距離を置いた。

 アキラとしても、それが好都合だった。近くにいれば、嘘が見える。嘘が見えれば、人を信じられなくなる。人を信じられないのは、すでに十分だ。


 午前中の授業——現代文の時間に、隣の席の女子が「昨日塾に行きました」と先生に言った言葉が赤く滲んでいた。

 行かなかったな、とアキラは思った。それがどうした、とも思った。

 赤い言葉に一々傷ついていたら生きていけない。今は観察するだけだ。


 しかし今日、いつもと少し違った。

 授業中に、シュノのことを考えていた。

 考えているというより——引っかかっていた。「性格って、記憶じゃないと思います」という言葉が、朝から頭の隅に居座っている。


 現代文の先生が黒板に書いた。「自己同一性」という文字。


 アイデンティティの話だ、とアキラはぼんやりと思った。

 記憶が自己を形成するとする考え方がある。昨日の自分を覚えているから、今日の自分が続いていると感じる。

 では、記憶がない存在は——自己同一性を持てないのか。

 シュノは昨日のことを覚えている。おとといのことも覚えている。ただ「城崎荘に来るより前」のことを覚えていないだけだ。

 だとすれば、シュノの自己は——城崎荘に来た日から始まっている、ということになる。


 それは——歪なようで、しかし誰にでも「最初の一日」がある以上、特別に変なことでもない。


 先生の声が聞こえた。「自己同一性は、連続性の感覚です」


 連続性。

 昨日のシュノと今日のシュノが繋がっているなら、それで自己は成立する。

 過去の「全部」が繋がっていなくてもいい、ということか。


 教科書を閉じながら、アキラは考えを手放した。

 授業中に哲学をする習慣はなかったはずだが——今日は止まらなかった。


    *


 昼休み、屋上への扉が開いていたので、弁当を持って上がった。

 いつものことだ。一人で食べると誰かが遠巻きに心配したような視線を向けてくることがあるが、屋上にいれば誰も来ない。空と風と遠くの街だけがある場所で、アキラは弁当のふたを開けた——


「あ、ここにいた」


 入口の扉が開いて、シュノが顔を出した。


「……なんで来た」


「学校まで来てみたら知ってる人がいなくて、でもアキラくんのことは知ってるからって職員室で聞いたら屋上だって教えてくれました」


「職員室に行ったのか」


「はい。先生、優しいですね」


「俺の担任は心配性なんだ。部外者を校内に入れるな」


「記憶喪失だって言ったら、とりあえず案内してくれました」


 アキラは頭が痛くなってきた。

 シュノは当然のようにアキラの隣に座り、自分の弁当を開けた。朝、台所で作っていたものだ。唐揚げ弁当だった。


「どこで食材を買った」


「朝だから開いてるお店がなくて、昨日の夜中に買い物に行きました」


「夜中に一人でか」


「はい」


「危険だろう」


「何も起きませんでした」


「起きなかったから安全とは言えない」


「そうですね。……でも行かなきゃ唐揚げが作れなかったから」


「唐揚げのために危険を冒したのか」


「……アキラくんに食べてほしかったので」


 赤くない。シュノが「食べてほしかった」というのは本音だ。

 アキラは少し返答に詰まった。


「……こういう時、なんと言えばいいかわからん」


「「ありがとう」でいいと思います」


「言いたくない」


「なんで」


「動機を作り出したくない」


「どういう意味ですか」


「礼を言えば、お前がまた俺のために何かしようとする。俺にそれを望む気はない」


「でも私が望んでるんです」


「……俺の望みの方が優先されるべきだ」


「なんでですか。私の望みも同じくらい大事じゃないですか」


 アキラは返答できなかった。

 シュノは唐揚げを一口食べて、アキラを見た。


「お金は」


「五千円持ってました」


「誰に貰った」


「わかりません」


 赤くない。シュノ自身も「なぜ持っていたか」を知らないのだろう。

 アキラはそれ以上聞くのをやめた。追及しても答えが出ない質問は時間の無駄だ。


 二人で屋上で弁当を食べた。会話はほとんどなかった。シュノは空を見ながら唐揚げを食べ、アキラは街を見ながら弁当を食べた。

 沈黙が苦にならなかった。


「ねえ」とシュノが言った。


「なんだ」


「記憶って、なくても生きていけるんですね」


「……」


「生きるのに必要なことはちゃんとできる。料理も、歩くことも、話すことも。記憶がなくてもできる」


「何が言いたい」


「なくてもいいものって、案外あるんだなって思っただけです」


 その言葉に、赤がなかった。

 アキラはそれが何か重要なことを示している気がしたが、うまく言語化できなかった。


「記憶は大事だ」と言ってから、どうして言ったのか自分でもわからなかった。


「どうして?」


「過去がなければ、今を判断できない」


「今だけで判断すればいいじゃないですか」


「今だけで生きてみろ。騙される」


 シュノは少し考えてから、首を傾けた。


「アキラくんは、騙されたことがあるんですか」


「ある」


「その人を、今でも嫌いですか」


 アキラは答えなかった。

 嫌いより深い感情が、ある。でも何と形容していいかわからなかった。


「嫌いじゃないなら、記憶があっても許せてるってことですよね」


「それは違う」


「どう違うんですか」


「許せてない。でも嫌いでもない」


「どっちつかず、ですね」


「……そうだ」


「それって、まだその人のことを気にしてるってことじゃないですか」


 アキラはシュノを見た。

 シュノは弁当の蓋を閉じながら、なんでもない顔をしていた。責めているわけでも、慰めているわけでもなさそうだった。ただ、思ったことをそのまま言っているだけだ。


「……記憶喪失のくせに人間関係に詳しいな」


「そうですかね」


「うるさい」


 アキラは弁当の蓋を閉めて立ち上がった。

「次から勝手に来るな。俺の昼休みが潰れる」


「じゃあ一緒に食べていいですか」


「違う、そういう意味じゃ——」


「毎日来てもいいですか」


「聞けよ」


「聞きました。返事を聞いてません」


 アキラはため息をついた。シュノは真っすぐな目でアキラを見ていた。交渉の余地がある顔ではなかった。


「……好きにしろ」


「ありがとうございます」


 シュノはまた笑った。温度のある笑顔だった。計算がない。裏がない。

 アキラは目を逸らして扉に向かった。

 この笑顔が嘘ではないことは、わかった。

 でも笑顔には、赤が出ない。

 だから、シュノが本当に無害かどうかは——まだわからなかった。



 4


 三日目、状況が変わった。


 下校して城崎荘の前に近づいたとき、一階の廊下に人影があった。

 見知らぬ女だった。いや——学校で見たことがある。生徒会長の、御堂リリアだ。

 眼鏡をかけた黒髪の、縦に長い女子。整った顔に冷静な表情。均整のとれた立ち姿は制服が似合うというより、服が彼女に従っているように見える。

 御堂リリアは一階の廊下の中程に立ち、アパートの二階を見上げていた。


「……御堂」


 アキラが声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。驚いた様子はない。予測していたような目だ。


「いい部屋に住んでいるのね、九条くん」


「訂正。ボロい部屋だ。何の用だ」


「あなたの部屋に、変な子がいるでしょう」


「変な、とは」


「銀髪の。包帯を巻いた」


 アキラは一歩詰めた。


「なんで知ってる」


「昨日の昼に屋上で見かけた。あなたと一緒に弁当を食べていたわね。あなたが人と一緒に昼ごはんを食べているのを初めて見た」


「俺の観察をするな」


「私はあなたを観察していたのではなく、あの子を観察していたの」


 御堂リリアは少し視線を上に向けた。


「あの子、能力者よ」


「……」


「気づいてた?」


「前提として、お前が能力者であることと、俺が能力者であることを、なぜ前提に話している」


「九条くんがそうじゃなかったら、あの子に関わる理由がないから」


 論理的だ。そして問いへの答えになっていない。アキラは御堂の顔を見た。嘘をついている気配を確認しようとして——赤くはないが、言葉を選んでいる雰囲気はある。


「御堂、お前の能力は何だ」


「友達に教える程度にはまだあなたと関係が育っていなくてよ」


「友達になる予定はない」


「残念ね」


「本気で残念そうな顔するな、気持ち悪い。用件を言え」


 御堂は眼鏡のフレームに指を添えた。癖なのか、それとも考えるときの仕草なのか。


「あの子のことを信用しないで、ということ」


「なんで」


「あなたの能力で引っかからないから、信用できると思っているでしょう」


 アキラは何も言わなかった。図星だったからではなく、情報の出所に引っかかったからだ。


「俺の能力を、どこで知った」


「人の嘘が見えるでしょう。——だから私はここに来たの」


 御堂は一歩引いた。帰るつもりのようだ。


「嘘が見えないことと、全てが真実であることは違う」


「それは俺も思ってる」


「じゃあ、私の話は役に立ったわね」


 御堂は踵を返した。アキラは彼女を引き止めなかった。

 代わりに一言だけ言った。


「俺のことを知りすぎてる。次に来るときは、もう少し手札を出してから来い。じゃなければ話せない」


 御堂は少し立ち止まってから、振り返らずに答えた。


「交渉ね。……考えておくわ」


 その言葉に、赤はなかった。


 御堂リリアが去っていく後ろ姿を見ながら、アキラはまた観察ノートの項目を一つ増やした。


 【御堂リリア(生徒会長)】

 ・能力:不明

 ・俺の能力を知っている

 ・シュノのことに関心がある

 ・接触目的:シュノへの警告

 → 敵か味方かは不明。ただし今日の言葉に嘘はなかった



 5


 その夜、アキラはソファに座ってシュノを観察していた。シュノはベッドの上で本を読んでいた。本は近所の図書館で貸してもらったらしい。「普通のことがちゃんとできて偉い」とアキラは思いながら、同時に「なぜ普通のことができるのか」という疑問を手放せなかった。


「シュノ」


「はい」


「お前の右手を見せろ」


 シュノは少し固まった。本のページをめくる手が止まる。


「包帯を外せとは言ってない。服の上から見るだけだ」


 シュノはゆっくりと右腕を差し出した。白い包帯が均一に巻かれている。端を留めているきぬを見ると、プロの手当てに見えた。自分で巻いたとしたら、相当慣れている。


「これは自分で?」


「……そうだと思います」


「毎日巻き直してるか」


「はい、朝に」


「痛みはあるか」


「……ないです」


 一瞬の間があった。赤くならなかったが、何か躊躇したような感覚があった。


「なあ、シュノ」


「はい」


「能力を使うとき、腕に何か感じるか」


 沈黙。

 今度は長い沈黙だった。シュノは自分の右腕を見ていた。


「……よくわかりません」


「使ったことがあるか」


「……ないと思います」


 「思います」。確信がない言い方だ。でも赤くない。


「今日、学校の廊下で消しゴムを落とした後輩がいた。拾ってやったか」


「はい」


「その後輩の顔を覚えているか」


「覚えています。眼鏡をかけた、小さい男の子でした」


「その後輩が消しゴムを落とした理由を、直感的に感じたか」


 また間があった。でも今度は短かった。


「……緊張してたんだと思います。急いでたのかな、って」


「当たってる」


「当たってたんですか」


「見てた。その子は部活の発表で焦ってた。消しゴムを無意識に持ち出して、廊下で落とした」


「……なんで私が当たったんですか」


「お前が何かを感じ取ってるからかもしれない。能力の一端として」


 シュノは自分の右腕を見て、包帯の上から左手で静かに触れた。


「怖いですか、能力って」


 アキラは少し考えた。


「怖いというより、面倒だ」


「使いたくないですか」


「使いたいときに使えるなら、使う。使いたくないのに引っかかるから面倒なんだ」


「じゃあ、私の能力も、使いたいときに使えるといいですね」


 アキラはシュノの目を見た。

 まっすぐな目だった。心配しているのか、慰めているのか、ただ言っているだけなのか、判断できなかった。でも赤はない。


「お前の能力が何なのかがわかってから言え」


「わかったら教えてください」


「……ああ」


 頷きながら、アキラは奇妙な感覚を覚えた。

 気づいたらシュノと会話をしていた。しかも、かなり長い会話を。

 三日前まで一人だったこの部屋が、今は——人の気配がある。

 それが不快だと思う理由を、今夜は上手く見つけられなかった。


 同居の一週間が、終わらなければいいとは思わなかった。

 でも、早く終わるべきだとも思わなかった。

 それがアキラにとって、非常に珍しいことだった。



 6


 一週間が過ぎた。


「部屋を出て行け」


 アキラは言わなかった。シュノも「出て行く」と言わなかった。

 暗黙のうちに、同居が続いていた。


 八日目の夕食に、シュノが豚の角煮を作った。

 台所の鍋に四時間かけてゆっくり煮込んでいた。アキラが「なぜそんな時間のかかるものを」と聞くと、「作りたかったから」と赤くない言葉が返ってきた。


「食えるのか」


「食べてみないとわかりません。でも、たぶん食べられます」


 食べてみると——うまかった。

 アキラは黙って二切れ食べてから言った。


「……また作ってもいい」


「今まで「また来るな」とか「また食べない」とか言ったことがないですよね」


「そういう決まりがあるわけじゃない」


「でも、またって言いましたよね」


「……言った」


「嬉しいです」


「うるさい」


 十日目の夜、アキラがシュノに言った。


「お前が俺の部屋にいる理由が欲しい。学校で会うのは問題があるから、編入したことにしてやってもいい」


「……いいんですか」


「うるさい、条件がある。お前は他の同居人のふりをして、表向きは遠縁の親戚ということにすること。それで通るか?」


「通ると思います」


「本当に出身地も親の名前も何もわからないのか」


「はい」


「……じゃあ、そういうことにする」


 シュノはアキラの顔を見た。


「なんで、してくれるんですか」


「調べることがまだ終わってないから、追い出す理由がない」


「それだけですか」


「それだけだ」


 赤くない。

 そしてアキラ自身、嘘をついている感覚はなかった。

 本当に、「それだけ」が理由だった。少なくとも、今はまだ——。


 その夜遅く、アキラの携帯に知らない番号からメッセージが届いた。


 ────────────────────

 「シュノを信用するようになってきたようですね。

  順調で何よりです、九条くん。」

 ────────────────────


 差出人は空欄だった。

 アキラはその文面を三度読んで、観察ノートを開いた。

 「外部の干渉者」という項目を新しく立てた。


 同居は、最初から誰かに見られていた。


 第一章 了



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