抱きしめたまま、石になる
夜になると、街は名前を失う。
昼間には確かに存在していたはずの交差点も、白いガードレールも、古本屋の軒先に吊るされた色褪せた世界地図も、夜になると輪郭を曖昧にして、どこにも属さない風景になる。僕はそういう時間が好きだった。すべてが少しだけ嘘になるからだ。
彼女と出会ったのも、そんな夜だった。
駅から十分ほど歩いた、川沿いの遊歩道。街灯が切れている区間があって、そこだけぽっかりと暗闇が落ちている。まるで誰かがそこだけ丁寧に夜を置いたみたいに。
彼女はその暗闇の中央に立っていた。
「ここ、好きなんです」
それが最初の言葉だった。
理由を訊くと、彼女は少し考えてから言った。
「世界が途中で終わってるみたいだから」
声は小さく、けれどはっきりしていた。僕は頷いた。そういう言い方をする人間を、僕は信用することにしている。
それから僕たちは、何度も同じ場所で会った。名前は最後まで交換しなかった。必要なかったからだ。彼女は猫の話をし、僕は井戸の夢の話をした。彼女は夜になると時々、自分の影が遅れてついてくると言った。僕はそれを羨ましいと思った。
ある晩、彼女は言った。
「私、呪われてるんです」
軽い調子だった。冗談みたいに。
「悪魔に?」
「ええ」
僕は少し考えてから答えた。
「それは大変だ」
「でも安心してください。伝染りませんから」
彼女は笑った。風が吹いて、川面の匂いがした。少し錆びた鉄みたいな匂いだった。
「期限があるんです」
「何の?」
「私が人間でいられる時間の」
僕は何も言わなかった。こういうとき、言葉はたいてい役に立たない。
「その日が来たら、私は石になります」
「石?」
「ええ。ちゃんとした石像に。博物館に置けそうなくらい立派なの」
僕は彼女の横顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。だから僕は言った。
「じゃあ、その日まで一緒にいよう」
彼女は少し驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
それからの夜は、やけに透明だった。時間が薄いガラスみたいで、触れたら割れてしまいそうだった。僕たちは並んで歩き、同じ自販機で同じ缶コーヒーを買い、同時に開けた。プシュ、という音が二つ重なった。
「もし私が石になったら」
彼女は言った。
「あなたはどうしますか」
「考えてある」
「聞いてもいい?」
「止める」
「どうやって?」
「抱きしめて」
彼女は少し笑った。
「物理的解決ですね」
「わりと得意なんだ」
彼女はしばらく黙って、それから小さく言った。
「……そのとき、逃げていいんですよ」
僕は首を振った。
「逃げない」
「後悔しますよ」
「たぶんしない」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、僕の袖をほんの少しだけつまんだ。
その日が来たのは、予告もなく、いつもの夜と同じ顔をしてだった。
彼女の足元から白いひびが走り、音もなく広がっていく。氷が張るみたいに滑らかだった。
「来ちゃった」
彼女は言った。
僕は答えず、すぐに彼女を抱きしめた。
驚くほど細かった。折れそうな骨の感触。背中に回した手のひらに、彼女の心臓の振動が直接伝わってくる。速い。けれど確かだった。
暗闇の奥で、何かが笑った。
それは姿を持たない気配だった。空気の裏側に潜んでいるみたいな存在。そいつが愉快そうに囁いた。
――無駄だ。
彼女の肩が白く変わり始める。石の色だ。月明かりを吸い込む冷たい色。
僕は抱く力を強めた。
「離して」
彼女が言った。
「嫌だ」
「あなたまで――」
「いい」
僕は言った。
「一緒がいい」
沈黙。
気配が、少し興味深そうに近づいた。
――望むのか。
「望む」
次の瞬間、僕の腕の感覚が消えた。皮膚が硬質に変わる。血液が固まり、温度が遠ざかる。けれど胸の奥だけは、なぜか熱かった。
彼女の額が僕の肩に触れている。
その重さだけが、最後まで人間だった。
やがて視界も閉じていった。音が遠ざかる。世界が石の厚み越しになる。
そして、止まった。
二人を石像に変える。ところが、抱き合ったまま固まった二人の心臓は一つになって生きており、悪魔がどれだけ石像を叩いても鼓動を止めることはできなかった。
鈍い衝撃が胸を打つ。
ごつん。
ごつん。
外側では石が打たれている。けれど内側では、
どくん。
どくん。
鼓動が鳴る。
気配が苛立ったように何度も叩く。肩を、背を、重なった胸を。石の欠片が砕けて落ちる音がする。それでも鼓動は止まらない。
やがて叩く音が止んだ。
――なぜだ。
答える者はいない。
ただ、石の内側で続く音だけがある。
どくん。
どくん。
それはもう、どちらの心臓なのかわからなかった。僕のものか、彼女のものか、それとも抱きしめ合った瞬間に生まれた、まったく別のひとつの心臓なのか。
気配は長い沈黙のあと、つまらなそうに言った。
――くだらん。
そして消えた。
夜が戻ってきた。
それからどれくらい経ったのか、わからない。朝も昼も夕方も、石には区別がない。ただ、外の世界の振動だけがかすかに届く。川の流れ。遠い車輪。誰かの笑い声。季節の匂い。
そして、腕の中。
もう感触はないのに、確かに抱いているとわかる。
どくん。
どくん。
音は続く。
世界が終わっても、この音だけは残る気がした。
夜が来るたび、街はまた名前を失う。
そして名前のいらない暗闇の中で、抱き合った石像だけが、本当の意味で生きている。




