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抱きしめたまま、石になる

作者: はまゆう
掲載日:2026/02/23

夜になると、街は名前を失う。


昼間には確かに存在していたはずの交差点も、白いガードレールも、古本屋の軒先に吊るされた色褪せた世界地図も、夜になると輪郭を曖昧にして、どこにも属さない風景になる。僕はそういう時間が好きだった。すべてが少しだけ嘘になるからだ。


彼女と出会ったのも、そんな夜だった。


駅から十分ほど歩いた、川沿いの遊歩道。街灯が切れている区間があって、そこだけぽっかりと暗闇が落ちている。まるで誰かがそこだけ丁寧に夜を置いたみたいに。


彼女はその暗闇の中央に立っていた。


「ここ、好きなんです」


それが最初の言葉だった。


理由を訊くと、彼女は少し考えてから言った。


「世界が途中で終わってるみたいだから」


声は小さく、けれどはっきりしていた。僕は頷いた。そういう言い方をする人間を、僕は信用することにしている。


それから僕たちは、何度も同じ場所で会った。名前は最後まで交換しなかった。必要なかったからだ。彼女は猫の話をし、僕は井戸の夢の話をした。彼女は夜になると時々、自分の影が遅れてついてくると言った。僕はそれを羨ましいと思った。


ある晩、彼女は言った。


「私、呪われてるんです」


軽い調子だった。冗談みたいに。


「悪魔に?」


「ええ」


僕は少し考えてから答えた。


「それは大変だ」


「でも安心してください。伝染りませんから」


彼女は笑った。風が吹いて、川面の匂いがした。少し錆びた鉄みたいな匂いだった。


「期限があるんです」


「何の?」


「私が人間でいられる時間の」


僕は何も言わなかった。こういうとき、言葉はたいてい役に立たない。


「その日が来たら、私は石になります」


「石?」


「ええ。ちゃんとした石像に。博物館に置けそうなくらい立派なの」


僕は彼女の横顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。だから僕は言った。


「じゃあ、その日まで一緒にいよう」


彼女は少し驚いた顔をして、それから静かに頷いた。


それからの夜は、やけに透明だった。時間が薄いガラスみたいで、触れたら割れてしまいそうだった。僕たちは並んで歩き、同じ自販機で同じ缶コーヒーを買い、同時に開けた。プシュ、という音が二つ重なった。


「もし私が石になったら」


彼女は言った。


「あなたはどうしますか」


「考えてある」


「聞いてもいい?」


「止める」


「どうやって?」


「抱きしめて」


彼女は少し笑った。


「物理的解決ですね」


「わりと得意なんだ」


彼女はしばらく黙って、それから小さく言った。


「……そのとき、逃げていいんですよ」


僕は首を振った。


「逃げない」


「後悔しますよ」


「たぶんしない」


彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、僕の袖をほんの少しだけつまんだ。


その日が来たのは、予告もなく、いつもの夜と同じ顔をしてだった。


彼女の足元から白いひびが走り、音もなく広がっていく。氷が張るみたいに滑らかだった。


「来ちゃった」


彼女は言った。


僕は答えず、すぐに彼女を抱きしめた。


驚くほど細かった。折れそうな骨の感触。背中に回した手のひらに、彼女の心臓の振動が直接伝わってくる。速い。けれど確かだった。


暗闇の奥で、何かが笑った。


それは姿を持たない気配だった。空気の裏側に潜んでいるみたいな存在。そいつが愉快そうに囁いた。


――無駄だ。


彼女の肩が白く変わり始める。石の色だ。月明かりを吸い込む冷たい色。


僕は抱く力を強めた。


「離して」


彼女が言った。


「嫌だ」


「あなたまで――」


「いい」


僕は言った。


「一緒がいい」


沈黙。


気配が、少し興味深そうに近づいた。


――望むのか。


「望む」


次の瞬間、僕の腕の感覚が消えた。皮膚が硬質に変わる。血液が固まり、温度が遠ざかる。けれど胸の奥だけは、なぜか熱かった。


彼女の額が僕の肩に触れている。


その重さだけが、最後まで人間だった。


やがて視界も閉じていった。音が遠ざかる。世界が石の厚み越しになる。


そして、止まった。


二人を石像に変える。ところが、抱き合ったまま固まった二人の心臓は一つになって生きており、悪魔がどれだけ石像を叩いても鼓動を止めることはできなかった。


鈍い衝撃が胸を打つ。


ごつん。

ごつん。


外側では石が打たれている。けれど内側では、


どくん。

どくん。


鼓動が鳴る。


気配が苛立ったように何度も叩く。肩を、背を、重なった胸を。石の欠片が砕けて落ちる音がする。それでも鼓動は止まらない。


やがて叩く音が止んだ。


――なぜだ。


答える者はいない。


ただ、石の内側で続く音だけがある。


どくん。

どくん。


それはもう、どちらの心臓なのかわからなかった。僕のものか、彼女のものか、それとも抱きしめ合った瞬間に生まれた、まったく別のひとつの心臓なのか。


気配は長い沈黙のあと、つまらなそうに言った。


――くだらん。


そして消えた。


夜が戻ってきた。


それからどれくらい経ったのか、わからない。朝も昼も夕方も、石には区別がない。ただ、外の世界の振動だけがかすかに届く。川の流れ。遠い車輪。誰かの笑い声。季節の匂い。


そして、腕の中。


もう感触はないのに、確かに抱いているとわかる。


どくん。

どくん。


音は続く。


世界が終わっても、この音だけは残る気がした。


夜が来るたび、街はまた名前を失う。

そして名前のいらない暗闇の中で、抱き合った石像だけが、本当の意味で生きている。

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