医工業ギルド内部 ーとある若手技術者の視点
夜明け前の工房は、いつもより静かだった。蒸留釜の火を落とし、俺は記録帳を閉じる。
今日で三度目だ。規定より薄い配合での製作命令を監督役から告げられる。
「……これで認証品かよ」 声に出すと、背後から監督役の視線を感じる。だから、それ以上は言わない。医工業ギルドに入ったのは、6年前。薬学を学び、効率化と安全性を信じていた。大量生産こそが市民を救う―そう教えられてきた。
だが、最近は違う。薬草の搬入量は増えているし原料は潤沢だ。それなのに、製造数は抑えられ、価格は下げるなと言われる。さらに帳簿と実際の瓶の数が合わない。
「原価計算は触るな」上役はそう言った。理由は言わない。
昼休憩。事務員たちが、薬棚の影で小声を交わすのが聞こえてしまった。
「おい聞いたか。」「……数字、合ってたな」 誰も大声では言わない。だが、皆が同じ記事を読んでいる。文字が読めないやつだって読めるやつから聞いている。他都市との価格差、関税、供給制限のデータ、長年勤め上げたベテランの事務員は今の体制に変わってから思うことがあるのだろう。
「無許可ポーションが出回ってるらしいぞ」別の技術者が言う。「効くらしい」。誰も「危険だ」とは言わなかった。
その日の夕刻。緊急の内部通達が貼り出され、監督役から告げられた。「外部製ポーションとの成分比較を禁ずる」「配合比率の問い合わせには、秘密と回答せよ」俺は通達を見つめたまま動けなかった。比較されたら困るという意味だ。技術者として、守秘義務は理解している。だが、安全性の検証を拒む組織は、もはや医療ではない。
夜。一人俺は工房に残った。棚の奥から古い配合表を引き出した。そこには、数年前、価格が今の半分だった頃の、正規配合が記されている。「……できるじゃないか」 効率も品質も両立できていた。問題は技術ではなく決定権にあるのだろう。
俺は、紙を元に戻す。盗むつもりはない。まだ、そこまではできない。だが―翌日から、帳簿の写しをこっそりととるようになった。誰にも見せない。ただ、失われた整合性を、記録するためだ。
帳簿の写しは、増えていった。原料の搬入量、製造指示数、卸値と、市場価格。どれも単体では不正とは言えないが、並べると数字は歪んでいる。
俺はこれを流す、のではなく、「置く」ことにした。医工業ギルドの文書庫。教会、新聞社の記者が出入りする、半ば公開の閲覧室。俺は、資料棚の整理を命じられた。古い帳簿を戻し、分類し直す。誰でも閲覧できる「参考資料」の束。その一番下に、意図的にずれた年代の写しを混ぜ込む。
書式は正規。署名もない。ただの整理だと自分に言い聞かせる。持ち出していないし渡してもいない。存在する場所を、変えただけだ。
数日後。新聞社が、続報を打つ。「医工業ギルド内部資料に見る、製造量と市場価格の乖離」
内部告発という言葉は、使われていない。情報源も不明だ。だが、記事の数字はエルネストが混ぜた資料と、完全に一致していた。
工房内が、ざわつく。「誰が出したんだ」「文書庫は、外部も出入りしてるだろ」
疑いは、分散する。そして、誰も特定されない。
俺は、何も言わず顔色も変えなかった。その夜、初めて眠れなかった。
医工業ギルドは、慌てて動いた。文書庫の利用制限、技術者への守秘誓約の再確認、「外部の扇動」を非難する声明。だが、遅い。すでに記事は、商業ギルドに渡り、医師たちの手にも届いている。しかも、告発者がいない。潰せない。締め上げる対象が、存在しない。
俺は、技術者であって、革命家ではない。それでも俺は、配合を戻し始める。
わずかに、監督が気づかない程度に、患者に届く分だけ、ただしくありつづけよう。




