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残された祈り

洞を抜けたとき、日はすでに高く昇っていた。

それでも、思ったほど眩しくはない。

青空の下、商隊の馬車が二台、道の脇に停まっている。

見張り役の男がこちらに気づき、目を丸くした。

「おい、二人とも! どこへ行ってたんだ。昨日から姿が見えなくて心配したぞ。もう出発だ、乗りねえ!」


キアランはすでに女性の姿に戻っていた。

長い髪が風を受け、緩やかに揺れる。伏せ目がちの大きな瞳が一瞬こちらを捉えるが、何も言わない。そのまま荷台に身を預けた。


ロウェナは、最後にもう一度だけ、洞の方角を振り返った。

ハジマーリの村を離れる直前、ロウェナは一人の老女を見かけていた。

村外れの、小さな祠の前。

彼女は毎朝、そこに膝をつくのだという。

誰に教わったわけでもない。ただ、そうしなければならない気がするのだと、村人は言った。

老女は、祈りの言葉を知らなかった。

それでも、手の組み方だけは、異様なほど正確だった。

「何を祈っているのですか」

声をかけると、老女は困ったように笑った。

「さあねえ。昔から、こうしているから」

その視線は祠の奥ではなく、村の外、洞のある方角を向いていた。

だが、そこに何があったのかを、彼女自身は思い出せない。

村人は言う。

「熱心な方でね

「教会のおかげで何も起きなかったから」

老女は、今日も祈る。

理由も、対象も失ったまま。

ロウェナは、足を止めた。

胸の奥に、説明のつかない重さが残る。

竜はいない。

少なくとも、今この地には存在しない。

それでも祈りだけが、ここに残っている。

移動中、荷台の向こうからアルノーの声が聞こえてきた。

「明日、教会の方が洞を見に行くらしいぞ」

「またか」

「善い牧師様だそうだ。村のために祈ってくださるって」

ロウェナの胸の奥が、わずかに冷える。

竜を縛っていた魔法陣。

あの陣形は、教会の人間が好んで用いるものだった。

翌日、街から一人の牧師がやってきた。

名を、エルネストという。

年嵩ではあるが足取りは確かで、白い法衣はよく手入れされている。

洞の入口に立つと、迷いのない動作で十字を切った。

洞内は、異様なほど静かだった。

瘴気の名残はほとんどない。

それどころか、過剰なまでに清浄で、空気が軽い。

「……なるほど」

祭壇跡まで進み、崩れた魔法陣を見下ろす。

中心は砕け、線は途中で途切れていた。

「封印が、解かれたわけではないな」

竜の痕跡は残っている。

巨大な鱗が擦れた跡。岩肌に刻まれた、古い傷。

だが、死体はない。

牧師は膝をつき、床に指を当てた。

意図的に隠された、小さな符号。

教会の正式な記号ではないが、彼には読めた。

「……参照点、か」

短いため息が漏れる。

この竜は、守るための存在ではなかった。

王太子の来訪に合わせ、異変を演出するための装置。

暴走させ、討伐させ、教会の威信を示すための生きた証拠。

何回も教会付きの冒険者に竜を討伐させ、その度に復活させることで瘴気を増幅させていたのに。

その復活装置を床に張っていたのだ。

「予定より早すぎるな」

誰かが、途中式を壊した。しかも、結果だけを残して。

「厄介なことを……」

牧師は洞を出た。

村へ戻れば、こう報告するだろう。

「異常はありません。竜など、最初からいなかった」

それが、この世界で最も都合のいい真実だった。

その頃、王都は静まり返っていた。

執務室の扉が開いた瞬間、鋭い声が響く。

「アルアリック!」

この国の王太子たる彼の名を敬称無しで呼べる人間は限られている。

そこに立っていたのは、王弟の娘、エイフェ王女だった。

遠征帰りのままの軍服。

男装の麗人と呼ばれる姿だが、金髪碧眼の巻毛と、力強く王太子を睨みつける青色の瞳、背筋の通った立ち姿は隠しようがない。


半年に及ぶ皇国への遠征で、

彼女は一級の魔法剣士として、最前線に立ち続けていた。


腰に差された剣が、かすかに鳴る。

社交界では「豊穣の薔薇」と称され、市井では隠し撮りの肖像画が出回るほどの美貌。

そのすべてが、今は研ぎ澄まされ、刃のようだった。

「私の友を、どこへやった」

詰問というより、確認に近い声だった。

王太子は答えない。


代わりに、傍らの神官が一歩前に出る。

「殿下のご判断は、王国の安定を、」

「黙れ」

低く、冷たい声。

エイフェの視線は、王太子でも制止する従者でもなく、その神官に向けられていた。


「半年、皇国で戦っていた。その間に、王国が何を選んだかは知らぬ」

一歩、踏み出す。

「だが、ロウェナは切り捨てる類の人間ではない」


その名が出た瞬間、室内の空気が変わった。

王太子は咳払いを一つする。

「……決定は、すでに下された」


「承知している」

王命は覆せない、今更呼び戻したとしてもロウェナはこの王国の地に足を踏み入れることは2度とできないのは知っている。それでもなお、

エイフェは神官を見据えたまま、感情のこもらない微笑を浮かべた。

戦場でしか見せない笑みだ。


「ならば聞こう。彼女は無事か?」

沈黙が落ちる。

王女は踵を返した。

「妾は探しに行くぞ!」

敵の位置を確かめた者の、淡々とした声だった。

扉が閉まる。

誰も、彼女を止められなかった。

エイフェ(Aoife)

貴婦人が男社会にいる癖。

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