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〈五〉さりとて疑惑の映し鏡

想一そういちさん、見てください! これが! これがネットで有名な『逆写真詐欺』のスイーツです! 本当にメニュー写真を上回るボリュームなんですね……! 私、感動しました!」

「うるさい。店の中ではしゃぐな」

「ほら、想一さんはいつもネットの情報を鵜呑みにするなって言いますけど、これは事実だったじゃあないですか。というわけで、想一さんは今すぐ私のこの功績を讃え、土下座謝罪すべきでは?」

「その功績はネットでもお前でもなく企業努力の賜物だろうが。いいから黙って食ってろ」


 ソフトクリームがトッピングされた温かなデニッシュパンに蜂蜜シロップがたっぷりとかけられた、このカフェチェーンを代表する名物スイーツを目の前にして瞳を輝かせる唯宮ゆいみやに、想一は厚口の白いマグカップを傾けながら、うんざりとした様子で言葉を返した。



    ◇



 さすがに、大学の通用門前で話し込むわけにもいかない。特に主題が『不思議な力を宿した古い手鏡』などという奇天烈な話なのだから尚更だ。

 手鏡の持ち主たる羽織はおりの話を詳しく聞くために想一たちが移動した先は、ナチュラルな木材とレンガを基調とした、あたたかみのあるログハウス風の内装が特徴的なカフェチェーンの一店舗だった。


 志堂館大学の近辺はキャンパスが多い立地ということもあり、新旧問わず個人経営のカフェや喫茶店も少なくない。

 実際、ひとまず落ち着ける場所に、と羽織が当初提案した店も、最近のお気に入りだという一軒家を改装したらしい小洒落こじゃれたカフェだった。


 その提案を拒否し、大通り沿いにあるカフェチェーンの店を選んだのは想一だ。

 すべてがそうだとは言わないが、個人店は店舗面積の関係上、席同士の間隔が狭かったり従業員との距離が近かったり、はたまた客層によっては店内がひときわ静かであったりと、様々な理由であまり人に聞かれたくない話をする場としては適していない、というのが想一の弁だった。


 しかし、想一が羽織の提案を拒否したのは、おそらく場所を指定されたことへの警戒だろう、と唯宮は感じていた。もちろん、説明した通りの理由も少なからずあるだろうが、この再会の糸を引いたのはあの霧室きりむろだ。羽織に対して何らかの指示が出ていてもおかしくはない。その意図を羽織が理解していようがいまいが、関係無く。

 さすがに用心深すぎるのでは、とも思うが、あの男のことだ。己の求める成果ネタを手に入れるためならば、想一や唯宮はもちろん、依頼人たる羽織さえもあっさりと捨て駒にするだろう。


 羽織の「あそこのカフェ、コーヒーがとっても美味しいんだよ」という言葉に後ろ髪が引かれなかったといえば嘘になるが、ともかく想一が指定した店は、大通りに面している店舗なだけあって適度に客で埋まっており、ほどよい賑わいを見せていた。一部のカウンター席を除いて、ほぼ全席がナチュラルウッドの仕切りで区切られたボックス席であるのもありがたい。


 想一にとっての想定外は、唯宮がこのチェーン店のメニューのボリューム感についての知識をネットで得ていたことで、メニュー表を見ながら大はしゃぎで「実物を見てみたい」と、いくつも注文しようとするのを制するために無駄な労力を使ってしまったことだろうか。

 ともあれ、想一のコーヒーと羽織のカフェオレ、そして空気など読むつもりもない唯宮が注文した名物スイーツとミルクティーがテーブルに揃い、各々(おのおの)数口すうくちぶん味を楽しんだところで、ようやっと想一が口火を切った。


「それじゃあ、羽織。その手鏡について、知っていることや体験したことを聞かせてくれるか」

「うん……」


 想一から真正面から見据えられ、言い聞かせるような口調で促された羽織は、その細い指を絡めていたマグカップをゆっくりとソーサーへ置いた。

 ふちの厚いカップは、満たされたカフェオレを今なお温かく保っている。立ち昇る湯気にその言葉を溶け込ませるように、羽織は訥々(とつとつ)と語り始めた。


「……ええと、どこから話せばいいかな。まず、この手鏡、もともとわたしが持っていたわけじゃなくて、貰ったものなの」

「貰った? 誰から?」

「知らない女の子」


 羽織が平然と言ってのけた言葉に、思わず想一の眉根が寄る。


「実は、半年くらい前にね。わたし、ちょっと精神的に参っちゃってた時期があって。当時はいっぱいいっぱいで、自分でも気づかなかったんだけど、相当追いつめられちゃってたみたいで。お茶をしに一人で入ったカフェで、急に涙が止まらなくなっちゃったの」

「それは……大変だったんだな」


 感情を欠片も乗せていない曖昧な定型文の労いを伝える想一に、唯宮は思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪え、ソフトクリームが絡んだデニッシュをフォークで刺すと、ぱくりと口に放り込んだ。


「わたしが人目もはばからずにボロボロ泣いちゃったものだから、隣の席に座ってた子が心配してくれて。高校生の女の子。ちょっとギャルっぽい明るい子でね。『お姉さん、そんな顔してたらせっかくの可愛い顔が台無しじゃん』なんて、ナンパみたいなこと言いながら手渡してくれたのが――」

「その手鏡だったのか」

「うん」


 言葉を継いだ想一に、羽織はこくりと頷き、その視線をテーブル上の右傍みぎかたわらに置いた藤紫色の風呂敷包みへと滑らせた。当時を懐かしむように、羽織の指がそっと柔らかな布を撫でる。


「わたし、相当ひどい顔してたんだろうね。手鏡を手渡してくれた女の子も、わたしと一緒に鏡に映り込みながら『ホラ、あたしみたいに笑って笑って』とか言いながらおどけてくれて。その子の優しさに、わたし、とっても救われたの」

「でも、手鏡はその高校生の私物だったんだろ? どうして羽織が譲り受けることになったんだ」


 唯宮は温かなミルクティーを口に含みながら、先ほど見た風呂敷の中身を思い出し、確かに、と思う。

 さすがに本物の銀製では無かったし、ある程度の年季も入ってはいたが、重厚な質感と精緻に施された装飾はとても安物には見えなかった。安価なコンパクトミラーならまだしも、高校生という立場や年齢も考慮に入れると、そう簡単に他人へ譲るような代物だとは思えない。ただカフェで隣の席になった女性へ、となると猶更なおさらだ。


 羽織は記憶の引き出しの奥を探るように、右手で頬に触れながら小さく首を傾げ、


「……たしか、その子も貰った物だって言ってた。誰から、とまでは聞かなかったけど」

「……自分が貰った物を人に譲ったってことか?」

「うん。あ、でも、でもね」


 想一が、やや不道徳とも言えるその行ないにわずかな抵抗を滲ませると、羽織は慌てて眼前で手を振った。


「別に不用品を押し付けてるとか、そういうイヤな感じじゃなくて。その子もね、つらかったときに、知らない人から貰ったらしくて。この手鏡を持つようになってから、不思議と心が軽くなったそうなの。だから、今度は自分が辛そうな人を見かけたら、この手鏡を渡そうって思ってたんだって」

「……それで、羽織が譲り受けたのか」

「うん……今思えば、知らない人からモノを貰うなんて不用心だったなって思うんだけど……当時のわたし、本当に参ってたから、その子の優しさがたまらなく嬉しくて。彼女の好意を無下むげになんて出来ないって思ったの」


 肩を落とし俯いたまま、ごめんなさい、と呟く羽織に、想一は無表情のままかぶりを振った。


「別に、羽織を批難してるわけじゃないし、俺に謝る必要もない」

「……ありがとう。想くんは、本当に優しいね」


 今の「ごめんなさい」は、誰かに向けた謝罪ではなく、己への慰めと肯定を引き出す為の言葉どうぐだったのだろうな、と、デニッシュの最後のひときれを頬張りながら唯宮は思う。

 想一は、当たり前のことをほとんど思考回路すら経ず返答したに過ぎないのだろうが、それに対して優しい、と浸るあたり、羽織は日常的にこうした手法で自分にとって都合の良い『真実』を積み上げ、己が見る世界を構築しているのだろう。


「――で、実際には、譲られたソレは心が軽くなるどころか、おかしな力を持ってるってことでしたが、具体的にはどういった事例ことがあったんですか?」


 唯宮が、ラミネート加工されたメニュー表を開いて次の獲物を物色しながら、羽織には一瞥いちべつもくれずに問いかける。

 まさか追加注文をする気か、という疑念と呆れが混じった想一の視線と、礼儀のなっていない少女への不快げな羽織の視線が、ほぼ同時に唯宮へと突き刺さる。


 二人の人間からの眼差しなどまったく意に介さず、ものたる唯宮はメニュー表から目を離さないまま、気だるげに息を吐いてみせた。


「まあ、どうせ気のせいか思い込みでしょうけど。古い鏡に不思議な力が宿ってるなんて、そんな話今どき小学生でも信じませんよ」

「気のせいとか、思い込みなんかじゃない。わたしが身をもって体験したことなんだから」


 羽織が毅然とした語調で反論を返すと、唯宮は顔を覆うように広げていたメニュー表の上部からその深紅の瞳を覗かせ、色彩とは裏腹の温度の無い眼差しで彼女を射貫いた。


「では、その話を聞かせてくださいよ。()()()に」


 少女然とした愛らしい声音を象ったはずのその空気の振動が、羽織の背筋をぞくりと震わせた。


 それはおそらく、闇夜にうごめく異形へのおそれという、人間の生存本能と強く結びついた恐怖と畏怖いふに似たものだったのだろう。しかし、今まさに背を凍らせたものの正体が何であるかすべを、人間は、科学の進歩と引き換えに錆びつかせてしまった。


 想一からカラーコンタクトだと説明はされたものの、人工的つくりものとは思えないほど鮮やかに彩られたその瞳から逃れるように目を逸らすと、羽織は心を落ち着かせるように、風呂敷に包まれたままの手鏡をそっと手に取った。


「……羽織に向けられた嫉妬とかの感情を、相手に跳ね返すって話だったよな」


 促すように、想一が言葉をかける。


「そして、相手は不幸に見舞われる」


 羽織はこくりと頷くと、まるで記憶を紐解くように、ゆっくりと包みを解いてゆく。

 再び姿を現した、銀色の鏡背きょうはいに伸びる蛇の装飾を見つめながら、羽織が震える声で言葉を紡いだ。


「…………最初は、たしか、ゼミの友人」


 俯いたままに発せられた声はか細く、ともすれば店内の賑わいに掻き消されそうになる。想一は聞き逃さないようにと少し身を乗り出すが、唯宮は変わらずモケット生地の赤いソファへと背を預けたままだ。恐らく視力だけではなく、聴力も人間離れしているのだろう。


「わたし、卒論のことでゼミの教授に色々とお世話になってたの。別に不正とか、変なことはしてないよ。ただテーマに関する参考文献の選定とか、調査方法とかの相談に、ときどき乗ってもらってただけで。教授も、わたしのことを熱心な学生だって気に入ってくれていたみたいでね。でも……」


 辛い過去を思い出したくないのか、羽織が一層顔を俯かせる。


「……同じゼミだった友人は、それが…………教授に気に入られて、卒論も順調なわたしが……気に食わなかったらしくて。うまいこと取り入って、ラクして卒論を仕上げるつもりだろうって……」

「友人なんだろ? 誤解なんだから、話せば分かってくれるんじゃないのか」


 筋金入りの厭世家とは思えない、人間の善性を信じて疑わないような疑問を述べる想一に、羽織は苦笑すら浮かべて首を振った。


「想くん。ひとの嫉妬って、こわいんだよ。理屈じゃないから」


 羽織が子どもに言い聞かせるような口調でそう言うと、想一はわずかに眉を顰めた。それを異議だと捉えたのか、羽織はゆっくりと頷くと、


「もちろん、誤解だって説明したよ。だけど、信じてくれなかった。『あんたは要領が良くていいよね。真面目にやってる私がバカみたい』とか言われちゃって……」

「……それで、その友人が羽織に向けた『嫉妬』が、手鏡の力によって跳ね返されたっていうのか?」

「……そう」

「不幸って、何があったんだ?」

「……その子が作成途中の卒論の中に、わたしが在学中に書いたレポートからの大量の剽窃ひょうせつが見つかったらしくて」

「剽窃……盗用ってことか?」

「……うん……」


 まるで自身がその罪を犯した張本人かのように、項垂うなだれる。

 つまり、羽織に嫉妬する友人が、卒業論文の作成中に、羽織が書いたこれまでのレポートから盗用を行なった、ということらしい。


「もちろん提出前だから書き直せば済むんだけど、その子、その一件で教授には厳しく叱責されたし、他の学生たちからは白い目で見られるようになっちゃって……以前、年度別の優秀レポートに選ばれたこともあったから、それもどこかから盗用したんじゃないか、なんて噂まで立って……」

「……それは、言っちゃなんだがその友人の自業自得というか……不幸と言うには少し違和感があるな」

「わたしもね、このときはそう思ってたんだよ」


 胡乱うろんげな表情で首を傾ける想一に、羽織がやや語調を強めて否定した。


「その次は、レストランでのバイト先の先輩だった。わたしが、常連のお客さんに色目を使ってるとか言われて。そんなこと、ぜんぜん無いの。その常連さんがわたしを気に入ってくれてたのは事実だけど、わたしは普通に接客してただけで。先輩、その常連さんのこと好きだったみたいで……好感を持たれてるわたしが、妬ましかったんだと思う」

「その人は……どうなったんだ?」

「クビになっちゃった。ご家庭が貧しいらしくて、たくさんシフトに入って頑張ってたんだけど、実はあまり勤務態度や能力が褒められたものじゃなかったみたいで。詳しくは知らないけど、大きなミスをしちゃったことで、今までの積み重ねもあって解雇されたらしいの」

「……なるほど」

「わたしが内定をもらえた企業から不採用にされた、って、同じ学部の子に逆恨みみたいな嫉妬を向けられたこともあった。その子は、他に受けた小さな会社からの採用を取り消されたの。素行不良を匿名でリークされたらしくて」


 羽織からの言葉の群れを咀嚼するように、想一は腕を組んで黙り込んだ。

 唯宮はといえば、半ば安心半ば呆れといった複雑な胸中ながら、心の中で「ほらやっぱり」と、隣で何やら考え込んでいる想一への優越感に浸っていた。


 確かに、羽織の話を全面的に信じるならば、彼女へ嫉妬や羨望などの感情を向けた人間たちが、ことごとく『不幸』に見舞われていると言っても間違いではないかもしれない。

 しかし厳密にいえば、羽織が語ったそれらの事象は、元を辿れば各々の行動に積み重ねによる身から出た錆であり、人を選ばず降りかかる『不幸』とは異なっているようにも思える。

 とはいえ、これだけ重なったとなると、羽織が不気味に感じるのは当然だろう。ともすれば自分へと向きかねない責任や原因を、何か人智を超えたモノへと転嫁したくなるのも無理はない。


 つまり、『そういうこと』だったのだろう。


 羽織は、唯宮から見ても容姿に恵まれた女性だ。優美な顔立ちはもちろん、すらりと伸びた四肢や白い肌、唯宮が言うところの凹凸おうとつも申し分ない。整った外見に加え、難関大学のひとつにも数えられる志堂館しどうかん大学の学生で、内定もしっかり取って、卒業後も順風満帆な人生が約束されているように見える――ともなると、嫉妬のひとつやふたつ受けるというのは何ら不思議ではないだろう。


 羽織佳澄(かすみ)に近しく、彼女へ羨望めいたものを抱いていた人間たちが、偶然、相次いで自滅した。


 ただそれだけの、単純な話だ。


 その単純な事実を深読みし、無理やり点と点を繋いで線とし、自分のせいかもしれないと恐怖を感じた羽織が、ある意味運命的に譲り受けた、古ぼけた手鏡による不可思議な超常現象だと思い込んだ。

 こうした思考展開は、人間の心理として至極自然なものだ。人間は、責任や罪過ざいかはもちろん、己の感情さえ自分以外のありとあらゆるものへと押し付け、自己を正当化するための道具に仕立て上げる。己の行動や感情を真に理解した上で自ら受容している人間が、果たしてどれほど居るだろうか。


 ともあれ、これならば心理的な説明で『古物による超常現象』を否定できるだろう。

 やはり、『奇妙な力を持った古物』などこの世に存在などしていなかったのだ。

 

 唯宮は密やかに安堵の息を吐いた。



 ――自分にしか創れず、自分にも創れないモノが、存在しているわけがないのだから。



「……それから、これは、つい最近なんだけれど」


 思案にふける想一と、多彩なメニューから食べたいものを絞ることに集中しはじめた唯宮をよそに、羽織がぽつりぽつりと呟くように語り出した。


「えっと……自分で言うのも恥ずかしいんだけど、わたし、結構容姿を褒められることが多くて。あっ、別に自分ではそうは思ってないんだよ。わたしなんかよりもっと魅力的な子、たくさん居るし。それでも、やっぱりこう……外見で、妬まれることが多くて……」


 スキンカラーのジェルネイルで丁寧に整えられた羽織の指先が、鏡に施された蛇の装飾をなぞってゆく。


「……以前から、わたしの容姿を羨ましがって妬んでた同じ学部の子……二人居るんだけど、その二人が――――相次いで事故に」

「……事故?」


 羽織の発した不穏な響きに、想一と唯宮が殆ど同時に顔を上げた。

 一人の人間と一匹のものからの視線に促されるように、羽織は弱々しい声色で言葉を続ける。


「ひとりは……交通事故で大怪我をしちゃって……もうひとりは、階段から落ちて……顔に酷い怪我を……」

「…………それは……」


 想一が言い淀み、口をつぐむ。隣の唯宮も、開いていたメニュー表を無言のままゆっくりと閉じた。


 同情し、かける言葉が見つからないといった理由ではない。

 つい最近、と前置きされて語られた二名は――これまでの話に挙がった『嫉妬の感情を跳ね返された対象者』とは、あきらかに異なっていた。

 自身の不正や失態の報いを受けただけとも言える前者とは違い、この二名に関しては、自業自得や因果応報といった言葉では片付けられない不穏さを宿している。


 羽織へと嫉妬の感情を向けていた二人の人間が、続けて事故に遭い大怪我を負った。

 これは、本当に偶然だと――『単純な話』だと、片付けて良いのだろうか。


 水に落とした一滴のインクが広がるように、唯宮の胸中を不快なざわめきが侵食してゆく。


「……わたしの気のせい、なのかもしれないけど……何だか、……跳ね返す力が、大きくなってきてる気がして……」


 言いながら、羽織の手鏡を支える手が、小刻みに震え始めた。


「これ以上、力が大きくなったら……跳ね返された人がどうなっちゃうのか、わたし……怖くて……! もしかすると、しっ……死んじゃったり……!」

「羽織、落ち着け。まだ起きてもいないことを考えるな」


 顔を蒼白にしてがたがたと全身を震わせる羽織に、想一がなだめるように言葉をかける。

 与えられた強大な力が耐えられない、とでも言うかのように、羽織は手にした手鏡をテーブルへと伏せ置いた。


「わたし、すごく怖くて……! わたしも誰かに譲ることを考えたけど、でもそんなことしたら、また誰かが誰かの嫉妬を跳ね返して、酷い目に遭ってしまう人たちが……! そう考えると、それも、怖くて……っ!」


 胸中で膨れ上がる恐怖と贖罪の想いに押し出されるように、羽織の瞳から、はらはらと大粒の涙がこぼれる。


 実際、羽織の認識が正しいものだとすれば、この手鏡は、所有者自身がその力を制御できるものではない。

 どれほど注意を払おうが、他人から向けられる感情をコントロールすることなど出来ない。いかほどの善人であっても、その身に受けるのは好意や敬意だけではなく、羨望や侮蔑、敵意や殺意さえ向けられることも少なからずあるだろう。


 ひとつ手段があるとすれば、一切の人間関係を断つことかもしれないが、それもまた困難を極めるはずだ。いくら文明が発達しようとも、人間は社会的動物である以上一定の関わりは避けられないだろうし、学生生活を終え、これから社会へ羽ばたこうとしている羽織ならば猶更だ。


 それに、『力が大きくなってきている』という羽織の言葉をまことだとすれば、『嫉妬の感情』を感知する力も同時に大きくなっている可能性すらある。

 通りすがりに羽織の容姿が目に入り、わずかでも『美人で羨ましい』などという思いが浮かんだだけで『対象者』となり、不幸が降りかかる事態さえ発生するかもしれない。


 かと言って、自身がそうされたように、素知らぬ顔で誰かに譲る――ということも出来ない。この手鏡に宿る力を知ってしまった以上、それは新たな加害者と被害者を生み出すことに他ならないからだ。


「……想くん……わたし、すごく怖くて……っ、いったいどうしたらいいの……? 何で、わたしがこんな目に……?」


 激情の波に呑まれ、涙の止まらない羽織を見かねたのか、想一は傍らに畳んで置いたコートのポケットからハンカチを取り出すと、無言で彼女の手元へと差し出した。


 はっ、と顔を上げ、涙に濡れた瞳を想一へと向ける羽織に、


「洗濯は私の担当です。大丈夫、洗ったばかりの清潔なものですよ」


 幾分ぬるくなったミルクティーをすすりながら、唯宮が太鼓判を押した。

 想一が、唯宮へと滑らせた視線に呆れを滲ませながら「余計なことは言わなくていい」と釘をさすと、羽織はその強張った表情を和らげた。


「……ありがとう、想くん。それに……ええと、」


 ちらり、と斜向はすむかいに座る小柄な少女へと目を向け、


唯宮ゆいみやです」

「唯宮さんも、ありがとう」


 想一から受け取ったハンカチで涙を押さえながら、羽織が柔らかく微笑む。

 涙を流したことで熱を帯びた身体をますためか、それとも話続けたことで喉が渇いていたのか、羽織は温かさの残るカフェオレではなく、来店と同時に提供されたグラスの水を半分ほど喉に流し込んだ。


 少しは落ち着いたのか、グラスを置くと同時に、羽織は小さく息をついた。


「……取り乱しちゃってゴメンね、もう、大丈夫」

「きついなら、無理に話さなくてもいいからな」


 想一の言葉に、羽織は首を振り、


「ううん、平気。でも……えっと、この想くんのハンカチ、少し借りててもいい……? なんだか、想くんから勇気をもらえる気がして、安心するの。ほら、汚しちゃったし、お洗濯して返すから」

「安物だし、別に返さなくていい」

「ダメだよそんなの。ちゃんと返すから、いいかな?」

「……構わないけど」

「……ありがとう。想くんは、いつもわたしに優しくしてくれるね」


 穏やかな口調でそう言って、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべる。

 ふと落ちた沈黙に、話の続きを促されたように感じたのか、ややあって羽織は再び言葉を紡ぎ始めた。


「……とにかくね。わたし、もしかしたらこの手鏡が元凶なのかもしれないって、そう考えたら、怖くてどうしようもなくなっちゃって……そんなときに、他の大学に通う知り合い――民俗学を専攻してる人なんだけれどね。その知り合いから、『そういうモノ』に詳しいっていう人を紹介してもらったの」


 想一の顔色が、露骨なまでに嫌悪に染まる。唯宮も同様に、苦虫を嚙み潰したような表情で視線を逸らせた。


「それが、霧室きりむろ……さん、か」

「うん」


 想一がギリギリの社会性を維持し、何とか敬称を付けた人物の名前を、羽織はこくりと頷いて肯定した。


「わたしも、最初は半信半疑だったの。周囲の人たちが、わたしに向けた感情を跳ね返されて、不幸に見舞われていくだなんて」


 でもね、と、羽織はそこで俯きがちだった顔をゆるりと上向けた。梁のように組み合わされた木材とペンダントライトでしつらえられた天井を、半ば恍惚とした表情で見つめている。


「霧室さんを紹介してもらって、直接会ってぜんぶ話したの。手鏡を譲ってもらったこと、これまでに起きたこと、何もかも。そうしたらね、霧室さんが、私の推測は間違ってないって言ってくれて。その手鏡は、間違いなく。わたしに向けられた嫉妬の感情を跳ね返し、相手を不幸にする、奇妙な力を持った古物なんだって」


 上向いていた視線を戻すと、羽織は慈愛の色さえ浮かべた微笑みを想一へと向け、言った。



「霧室さん、言ってくれたの。『キミは何も悪くない。悪いのは――おかしな力を宿した古物なんだ』って」



 まるで世界中から、その正しさを肯定されたこの世の真実を語り聞かせるかのような声色に、唯宮は不機嫌さを隠そうともせず、うんざりとした表情で大きく溜息を吐いた。


 ――やっぱり、元凶はあの男――霧室じゃないか。と、心の中でひとちる。


 羽織は、『最初は半信半疑だった』と言っていた。当然だ。偶然身の回りで起きた不幸な出来事が、自分の持つ古物の力によるものだ、などと、二十歳も過ぎたいい大人が本気で信じるはずがない。

 しかし、理性と理屈がどんなに否定しても、感情が納得してくれない。そこに付け入ったのが、霧室だ。

 霧室は心の弱り切った羽織に対し、彼女の推測を肯定し、彼女の抱いていた恐怖と不安の正体を明かしてみせ、彼女の非を全面的に否定し、そして――


 憎むべき『元凶たる悪』の座に、『奇妙な力を持った古物』をえたのだ。


 そもそも、羽織が『手鏡の力の対象になった』と語った者の大半は、自らの行ないのしっぺ返しを食らっただけで、不幸に見舞われたとは言えない。

 二人が事故に遭ったと聞いた時はまさか、という思いがよぎったが、それも確率的に考えればあり得ないというほどではないだろう。


 霧室の言葉さえなければ、羽織も精神状態の改善とともに、やっぱりただの偶然だった、という当然の結論に行き着いたはずだ。


 しかし、精神は疲弊すると脆くなり、朽ちた建築のように基礎が剝き出しになる。外壁が崩れ、侵入者を拒むことが出来なくなったそこに、『救済の言葉』は密やかに忍び込む。その『救済』は、基礎たる心の奥深くに穿たれ、『心のもと』に変容する。今にも崩れ落ちそうな精神を支えてくれた、信じて讃えるべき心の支えとなってしまうのだ。


 霧室からの言葉は、日常的に自分にとって都合の良い『真実』で己の世界を構築している羽織にとって、願っても無い『真実たる救い』だったのだろう。


 まるで、ある種の洗脳だ。


 しかし、と、唯宮は思うところがあった。

 確かに、羽織は精神的に不安定だった時期に霧室から思想の種を植え付けられたのかもしれないが、彼女が今なお恋慕を寄せる想一の言葉ならば、あんな胡散臭い男の戯言など、吹き飛ばせるのではないかと。


 恋心と信仰と洗脳の区別がまったく付いていない、物の怪たる唯宮らしい発想ではあったが、想一からの言葉であれば、羽織がすんなりと聞き入れる可能性は無いとは言い切れないだろう。


「……想一さん、言ってやってくださいよ。あんな男の戯言なんか本気にするなって。奇妙な力を持った古物なんて、存在しないんだって」


 つん、と、隣に座る想一の腕を肘で突きながら小さく呟く唯宮に、しかし想一は答えない。


「……想一さん?」

「羽織、聞きたいんだが」


 訝し気な唯宮の呼びかけと、想一の強張った声色が重なった。

 不審に思った唯宮がちらりと想一の表情を窺うと、およそ過去の恋人に向けるものとは思えない、微かに怒気さえはらんだ冷えた眼差しで、正面に座る羽織を見据えていた。


「どうしたの、想くん。……なんだか、怖い顔だよ」

「霧室に俺のことを教えたのは、羽織なのか?」


 尋問のような硬質で威圧的な問いかけに、羽織は目を丸くし、「え?」と呆けた声を上げた。

 そしてすぐに、慌てて眼前でぶんぶんと両手を振ると、


「ううん、違うよ! 霧室さんのほうが、想くんを知ってたみたいなの! わたしの話を聞いて、元凶がこの古い手鏡だってことがわかってね」


 想一の機嫌を損ねたとでも思ったのか、羽織は必死な様子で弁明を続ける。


「そのときに、霧室さんが『こういった古物による超常現象に詳しい人を知ってる』って、想くんの名前を挙げたの。わたし、すっごくビックリしたんだよ。ご実家が古物店を営んでることは知ってたけど、まさか、って」


 ゆるやかに語尾が小さくなってゆく羽織の釈明に、想一は口をつぐんだままだ。


「想くんの名前を聞いて、わたし嬉しくなっちゃって、高校の同級生ですって言ったの。そしたら、霧室さん、『知ってるよ、恋人同士だったんだよね』って……」


 ちっ、と想一の口からこぼれた舌打ちが、唯宮の耳に届いた。もちろん、羽織ではなく、霧室に対しての苛立ちからだろう。

 その憤りの音が届いたのか否か、羽織が怯えたように身体を萎縮させているのを見やり、想一はやや姿勢を正すと、彼女に向かって頭を下げてみせた。


「疑って悪かった。霧室あいつが、俺のことをやけに詳しく知ってたものだから」


 途端、唯宮が驚愕の表情を浮かべ、腰を浮かせてボックス席を囲う木材の仕切りから顔を出すと、大通りに面した窓へと目を走らせた。


 想一が、自分から非を認めて謝るなどあり得ない。これはきっと天変地異の前触れで、すぐにでも空が闇に染まり、雹が降り雷鳴が轟き竜巻が発生し、いつか見た映画のように突然氷河期が訪れるのだ。今すぐ図書館へ逃げ込み、書を燃やして暖をとらなければ――


「天変地異なんか起きないから座ってろ」


 失礼極まりない奇天烈な妄想を察したのか、想一が一瞥もくれないまま唯宮の右腕を引っ張って腰を下ろすよう促した。

 唯宮は渋々、といった様子で座り直しながら、


「さすがに雨くらいは降ると思いますよ。外に洗濯物干したままなんですから、非常識なことはやめてくださいよ」

「何で俺が謝ることが非常識になるんだよ」

「それは自分の胸の手を当てて考えてもらわないと」


 じろり、とわずらわしげな想一からの視線が唯宮に刺さったところで、羽織が「ええっと、」と、流れを引き戻すように声を上げた。


「想くんが謝ることなんて、何も無いよ。だって、見ず知らずのライターさんが、自分のこと知ってるなんて思わないよね。だから、わたしが想くんのことを話したのかもって考えるのは当然だよ」


 穏やかな口調でそう言うと、想一から嫌われたわけではないことに安堵したのか、肩の強張りをゆるやかに解いてゆく。


「わたし、想くんのことは何も話してないよ。たとえば、大葉おおばが大の苦手だってこととかもね」


 羽織がその艶やかな唇の端を小さく引き上げ、いたずらっぽい微笑みを浮かべて言う。想一は思いもよらない方向からの攻撃に、ぐ、と喉の奥を鳴らした。


「……別に、絶対に食べられないってわけじゃない。料理によっては気にならないことも多いし」

「今でも苦手なんだ?」

「……まあ、好き好んで食べようとは思わない」


 ばつが悪そうに視線を背けてぼそぼそと呟く想一に、羽織は楽しそうに肩を揺らせた。


「でも、そのことをまだ知らないときに、わたしが作った大葉入りの和風パスタ、残さず食べてくれたよね」

「……そんなこともあったかな」

「後から友達づてに苦手なんだって知って、わたしすごくビックリしちゃって。急いで謝ったら、美味しかったって言ってくれて……嬉しかったなぁ」

「……まあ、実際美味しかったんじゃないのか」

「……わたしね、実は高校時代って、あんまり良い思い出が無いんだけど……想くんとお付き合いしてた時期だけは、別」


 羽織は、テーブルの上に乗せていた想一の手をそっとてのひらで包み込むと、五年分の想いを伝えるように、潤んだ瞳で彼の姿を見つめた。


「想くんと一緒に過ごせた日々は、本当に大切な思い出なの。だから、こんな形ではあるけど、想くんと再会できたこと……わたし、本当に……嬉しいんだよ」


 さながら愛の告白のように、切なくも甘い声音が、二人の間に溶けていく。


 途端、ばん! と、甘ったるい空気を一刀両断するかのように、唯宮が向かい合う二人の間に置かれた呼び出しボタンを勢いよく叩いた。


「いちゃつくのは勝手ですが、お話が続く限り、その間私の注文も止まらないのでご了承願いしますよ」


 唯宮は冷ややかな眼差しで二人をめつけてそう告げると、颯爽と現れた笑顔の店員へと、プリンとモンブラン、そしてミルクティーのおかわりを注文する。


 さっさと話を進めなければその間延々と注文し続けるぞ、という、財布を大打撃を与えかねない脅迫だ。当然抗議の声を上げるかと思われた想一が、口をつぐんだまま視線を落としているのを見て、唯宮が、おや、と奇妙に感じるとほぼ同時に、羽織がはにかみながら声を上げた。


「ゴメンね。つい嬉しくて、ちょっと脱線しちゃった。でも、私が知ってることや、体験したことは、もうほとんど話したかな……」


 羽織は立てた細い人差し指を頬に当てながら、思案するように言う。

 すると想一が、すっかり冷めてしまったコーヒーの残りを一息に飲み干すと、ややあらたまった様子で羽織へと視線を向けた。


「羽織。大体の事情は分かった。俺からいくつか質問したいことがあるんだが、構わないか? もちろん、答えたくないなら答えなくていい」


 想一が仕切り直すようにそう言うと、羽織は柔らかく微笑んで頷いた。


「想くんに答えたくないことなんて、何も無いよ」


 どうやら、つい先ほどまで恐怖と罪の意識で波立っていた彼女の感情の水面は、今や甘いシロップのようなとろりとした凪を見せているようだった。

 唯宮が胸やけを感じ、甘いものではなくしょっぱいものを注文すべきだったか、と思考が逸れ始めたところで、想一が「じゃあ、まず」と切り出した。


「手鏡の力の対象になってしまったのは、今話してもらった人たちで全部か?」

「うん。少なくとも、わたしが把握しているのはこれだけ。もしかすると、わたしが知らないだけで、もっと居るのかもしれないけど……」

「対象者たちと羽織は、どれくらいの関係性だったんだ? 最初は友人だって言ってたよな」

「うん。ゼミの友人と、バイトの先輩と……すごく親しいってわけじゃないけど、みんな、顔見知りではあったよ」

「羽織が話しかければ、会話する程度には?」

「うんうん、そうだね」

「手鏡の力によって対象者に『不幸』が降りかかるようになって以降、周囲の人たちから責められたり、避けられたりしたことはあるか?」

「それは……無いかな。わたし自身、この手鏡のことは誰にも話してなかったし。嫉妬を跳ね返された人たちも、わたしに対するそういう感情を周囲に愚痴ったりとか、表立って公言しているわけではなかったみたいだから……」

「……変な目で見られたりすることも無く、誰一人、羽織に対する態度を変える人は居なかったんだな?」

「うん。想くん……心配してくれてるの? 大丈夫だよ。ありがとう」


 甘やかな視線を送る羽織に、想一はしばし瞑目し、


「羽織、ちょっと()()を良く見せてくれないか」


 静かに右手を差し出しながら、羽織の右傍みぎかたわら――畳んだ風呂敷の上に伏せ置かれている手鏡に目を向けた。


 びく、と怯えたように肩を震わせたのは羽織だ。途端に不安そうに眉を下げ、


「……想くん、これ、危ないものなんだよ」

「わかってる」

「…………でも、想くんにまで、もし何かあったら……」

「俺は大丈夫だ」


 想一の確信めいたその言葉を、嫉妬の感情を向けないことへの自信と捉えたのか、羽織はゆっくりと、まるで世界的芸術品を扱うかのような慎重な手つきで、風呂敷と共に手鏡を持ち上げた。


 二人の間に置かれたマグカップやグラスの上を通り、手鏡が想一へと手渡される。


 手鏡を受け取った想一は、伏せた鏡面を包むように当てられた風呂敷を取り払った。持ち手部分に手を触れた瞬間、わずかに眉を顰めるが、そのまま何の躊躇いも無く――くるり、と手首をひねって鏡面をあらわにした。


「――――想くん!!」


 途端、羽織は悲鳴にも似た声を上げる。

 さすがに声が高かったのか、周囲の席の客から訝し気な視線が投げつけられ、羽織は慌てて手で口をふさぐと、その身を縮こませた。


 想一はといえば、羽織の様子や周囲の反応など気にも留めず、平然と鏡面に自身の姿を映し込んでいる。縁の装飾や持ち手などをひと通り眺めると、


「お前も見ておくか」


 と、事も無げに隣の唯宮へと手鏡を手渡した。

 その粗雑ともいえる扱いに、羽織は強い批難を宿した眼差しで想一と唯宮を交互に見やり、声をひそめながらも抗議の声を上げる。


「想くん、唯宮さんっ、ダメだよ、危ないから早く返して……!」


 狼狽える羽織を無視し、唯宮は想一から手渡された手鏡をじっくりと観察する。


 にぶい光を放つ銀色は、ところどころメッキが剥げ落ちて、酸化による変色を起こしていた。製造年代は分からない。随分古いようにも見えるし、比較的新しいものをエイジング加工しているようにも見える。

 鏡面はつややかに磨かれており、他の古びた部分と比べるとやけに綺麗で、それが少しアンバランスに感じられた。映り込んでいるのは見慣れた唯宮自身の愛らしい姿かたちであり、背後に霊が映り込んだり、鏡の中から髪の長い女が這い出てくる様子も無い。


 唯宮には、やはり、特に何の変哲もない手鏡のように思えた。

 宿っているとされる『力』らしきものも感じ取れない。唯宮自身、己以外のあやかしの力をどれほど感じ取れるのか、さほど自信は無いとはいえ、直接触れてさえ何も感じないということは無いだろう。


 しかし、やはり、最初にこの手鏡を見た時と同じく、どこか違和感を拭えない。


 想一が、様子を窺うようにこちらをじっと見据えていたことに気づき、唯宮は視線を合わせると、小さく首を振って手鏡を想一へと返した。


「羽織、そういえば」


 無造作に持ち手を掴み、想一がふと声を上げた。

 胸の前で指を絡めた両手をぎゅっと握りしめながら、落ち着きなく二人の動向を見ていた羽織が、びくりと肩を震わせる。


「な、なに?」

「チェーンはどうした?」

「え?」


 あ、と。

 唯宮は、ようやくその違和感の正体に思い当たった。


「チェーンだよ。俺は霧室から、手鏡の外見的特徴を聞いてる。あいつは『持ち手部分にストラップのようなチェーンが付いてた』って言ってたんだ」


 確かに、霧室は間違いなく言っていた。

 銀色の手鏡であること。蛇の装飾があしらわれていること。そして、持ち手部分にチェーンが付いていることを。


 羽織の手鏡には、それが無い。

 唯宮の『何かが足りない』という違和感は、霧室から聞かされていたパーツが欠如していたことに因るものだったのだ。


 想一の指摘に、羽織はぽかんと口を開け、数度その大きな瞳を瞬かせたが、ややあって「ああ、」と、手を打った。


「あのチェーンね、うん、覚えてる。そういえば、付いてたね。持ち手の端のほうに」

「どうして、今は付いてないんだ?」

「取れちゃったの。何だか、もともと脆かったみたいでね。チェーンが切れたわけじゃなくて、持ち手との接合部分もろとも、ボロッて感じで」

「その、外れたチェーンはどうした? 今も持ってるのか?」


 淡々とした口調で想一が問いかけると、羽織は薄れてしまった記憶を手繰り寄せるように、天井へと視線を這わせた。


「ええっと、どうしたっけ……結構メッキが剥がれて変色してたし、今にも切れちゃいそうだったんだよね……だから、捨てちゃったかも」

「もう手元には無いのか」

「うん……」

「チェーンが手鏡から外れたのはいつだったか覚えてるか?」

「え? えぇと……霧室さんに会ってすぐ後、くらいだったかな……」

「ということは、つい最近なんだな」

「うん……ゴメンね、もしかしたら、この手鏡に宿った力に関する重要なパーツだったのかもしれないのに、わたしったら捨てちゃうなんて……」

「いや、俺に謝らなくていい」


 羽織の謝罪を受け流すと、想一は小さく息を吐いた。


「これ、返すよ。ありがとう。無理言って悪かったな」

「う……うん」


 藤紫色の風呂敷とともに、銀色の手鏡が再度、マグカップとグラスの上空を渡る。

 受け取った羽織は心底ほっとした様子で、手鏡を風呂敷へと丁寧に包み直すと、「もう仕舞っちゃうね」と言いながら、そそくさとバッグの中へと仕舞い込んだ。


 想一は、鏡にはすっかり興味を失ったかのように、羽織の挙動も意に介さない様子で視線を落として黙っている。

 唯宮が、ちらりと横目でその顔を窺がうと、その表情にやや陰りが差しているように見えた。


 俯いたまま黙り込むのは、想一が考えごとをするときの癖だ。特に、深く思考を巡らせているとき顕著に現れる。

 唯宮が彼のこの癖に気づいたのは、想一と暮らすようになって早々の頃だったが、それほど頻繁に見せるものではなかった。だが昨日、霧室と接触して以降、想一のこの癖を繰り返し見ている気がする。

 つまり、それほど想一に何か考えることが――いや、考えなくてはならない瞬間が多数発生しているのだろう。きっと、何らかの理由で。


 相談してくれたら話くらい聞くのに、と、唯宮は思う。

 話してくれれば何かのきっかけくらい得るかもしれないし、話すだけでも思考が整理され自己解決につながることも多いはずだ。

 もちろん、想一のような極端に自己開示を行なわない人間が、たった一年一緒に住んでいるだけの、しかも別種族に相談などするはずがないということは重々理解している。そもそも唯宮自身、相談されたところで解決できる気などこれっぽっちもない。


 ただ、いつも冷静で泰然とし、唯宮じぶんのやること成すことに対して、蔑みや呆れを含んで向けられるはずの視線が、こちらを見ることも無く地に落ちて沈んでいるというのは、どうにも落ち着かなかった。


「お待たせしました」


 と、店員の明るく快活な声とともに、テーブル上へと唯宮が注文したメニューが並べられた。プリンにモンブラン、ホットミルクティーのおかわり。きらきらと輝いてさえ見える品々に、唯宮は途端に破顔し、


「見てください想一さんっ! これはまた美味しそうです! 私、モンブランを考えた人って天才だと思うんですよ! 栗って単体でも十分戦えるポテンシャルがあるのに、それをケーキにしちゃおうって発想が素晴らしいと思いませんか!?」


 興奮気味に隣から腕をぺしぺしと叩かれ、想一は落としていた視線をようやく上げ、テーブルに並べられた品々と満面の笑みを浮かべる唯宮を交互に見やった。


「何ですか? もう今さら返品なんてできませんからね。それに、私はちゃんと言いましたよ。お話が終わるまで注文し続けるって」


 想一から半眼のまま送られる眼差しを抗議と捉えたのか、唯宮が正義は我にあり、とでも言わんばかりに胸を張った。

 すぐに返す刀で暴言が吐かれるかと思いきや、想一は一瞬逡巡したような沈黙のあと、小さく首を振った。


「別に注文するなとは言ってないだろ。好きに食えよ」

「え!?」


 返って来たのは思ってもみなかった言葉で、唯宮は大仰に身をのけ反らせた。羽織への謝罪といい、想一は天変地異を引き起こしてこの世界を滅ぼすことに決めたのかもしれない。


「い……いいんですかっ!? 想一さんって実は本当に優しい……!?」

「その代わり、一品追加するごとに一週間風呂掃除当番を負うこと」

「――なワケなかった! 数百円のデザートと一週間のお風呂掃除当番って釣り合ってなくないですか!? 想一さんは等価交換ってコトバ知らないんですかっ?」

「お前がその言葉を軽々しく使うな」


 溜息交じりにそう言うと、想一はコートの上に置いていたスマホを手に取った。


「ご両親に恩があるとはいえ、一緒に暮らしはじめてから俺がお前のために行なった様々な事柄を金額に換算……つまり、等価交換すると、だ」


 電卓機能で計算をしているのか、何やらスマホを操作し――


「――これくらいの金額になるな」


 すっ、と。想一が唯宮の眼前へとスマホの画面を掲げてみせた。


 液晶画面を目の前に突き付けられた唯宮は、一瞬大きく目を見開き――そしてすぐに、ぎゅっと眉を吊り上げて想一へと向き直った。ミルクティーで満たされたカップの取っ手に指を掛けながら、


「そんなとんでもない金額になるわけないじゃないですかっ! せいぜいこのミルクティー一杯分くらいですっ!」

「というわけで、追加で三品頼んだから三週間風呂掃除だな。いや、キリ良く一ヵ月にしておくか」

「勝手に決めて勝手にキリ良くしないでくださいっ! そもそも、私みたいな可愛い女の子と同居出来てるだけで等価交換してもお釣りが来ますよ!」


 よほど風呂掃除が嫌なのか、素知らぬ顔でスマホを仕舞う想一へと唯宮が食って掛かり、決して広いとは言えないボックス席の中でじたばたと暴れ出す。

 二人のやり取りに少し気圧けおされていた羽織が、困ったような笑顔を浮かべながら、テーブルへと寄りかかるようにやや身を乗り出した。


「ま……まあまあ。想くん、そんなにいじめちゃ可哀想だよ。何ならここのお代、わたしが――」


 ――――がちゃんっ、と。


 穏やかな仲裁の言葉が終わらないうちに、食器同士がぶつかる音がして、テーブルの上に象牙色の液体が、ぱっと広がった。


 暴れる唯宮の手がカップに触れた衝撃で、たっぷりと満たされていたミルクティーが勢い良くあふれてしまったのだ。


「――あっ」

「馬鹿!!」


 唯宮の声と、想一の叱責が重なった。

 唯宮の手がカップに触れた瞬間、想一が倒れそうになるそれをかなりの瞬発力でたいらに戻したおかげで、完全にひっくり返っての大惨事になることは防げたが、それでもミルクティーの飛散はテーブルの一部を汚している。


 そして、その被害を受けたのはテーブルだけでなく――タイミング悪く、身を乗り出していた羽織にも及んでいた。


 羽織の白いセーターに、ミルクティーが飛び散ったであろう薄茶色の汚れが点々と付着していたのだ。


「ごっ――ごめんなさい羽織さん! だっ、大丈夫ですか!?」


 さすがに顔を青くし慌てふためく唯宮に、羽織はにこやかに微笑みながら手をぱたぱたと振り、


「うん、大丈夫。ぜんぜん平気だよ。それより、想くんと唯宮さんこそ大丈夫?」

「俺たちは問題ない。羽織、すまない。熱くなかったか? 火傷とかしてないか?」

「大丈夫だよ、想くん。飛び散ったのがちょっと服についちゃっただけだから。心配してくれてありがとう」


 羽織の言葉に、想一は安堵したように大きく息を吐いた。

 唯宮が身を小さくし、「ごめんなさい……」と連呼しているうちに、食器の衝突音を聞きつけて颯爽とやってきた店員が、笑顔で厚情の言葉を伝えながら、てきぱきとテーブルに飛んだ液体を拭き取って去って行った。


 目の前の惨状が片付けられたことで落ち着いたのか、想一があらまった様子で、正面の羽織へと頭を下げた。


「羽織、本当に悪かった。クリーニング代は出させてくれ。もし後日にでも火傷になっていたりしたら、治療費も請求してくれていい」

「大丈夫だよ。想くんてば、大袈裟なんだから。セーターも安物だし、本当に気にしないで」


 羽織は本当に気にしていないらしく、想一からの謝罪に、居心地の悪そうな苦笑を浮かべながら何度も手を振っている。


「でも、ちょっと水で軽く落としてくるね。意外と、こういう応急処置で何とかなったりするから」


 洗面所で、水でのシミ落としを行なうつもりなのだろう。羽織は笑顔のままそう言ってバッグを手に持つと、通りすがった店員へと化粧室の場所を聞き、廊下の奥へと消えていった。


 席を仕切る木材の衝立から顔を覗かせてその後ろ姿を見送った唯宮は、緊張の糸が切れたかのように盛大に息を吐くと、ソファの背もたれに大きく寄りかかった。


「もう少し他のやりかたは無かったのかよ。ただのお前の失態やらかしかと思って一瞬肝が冷えたぞ」


 呆れの色さえ浮かべた表情の想一に、さすがに納得がいかない、とばかりに唯宮が勢い良く背もたれから跳ね起きた。


「何を偉そうにっ! それが、()()()()()()()()()()()を無事成功させた功労者にかける言葉ですかっ!?」


 肩をいからせながら、唯宮がその細い指で空気を切り裂くように指したのは――想一のコートの上に置かれた、スマホだった。


 先ほど、唯宮が追加注文と風呂掃除当番のつり合いが取れないと喚いた時。

 想一はこれまでの暮らしで掛かった金額を計算するかのようにスマホを操作し、その画面を唯宮へと提示した。


 しかし、その液晶に表示されていたのは、電卓機能の画面でも、金額を示す数字でもなかったのだ。



『お前の力で 少しの時間でも 羽織を席から離れさせることは出来ないか』



 メモ機能の画面に、そう記された一文。


 偽装まで行なった突然の要求に当然唯宮は驚いたが、すぐさま意図を理解し、表面上はとんでもない金額を見たように振る舞いながら――『工作』を行なった。


「大体、想一さんがあんなに慌てなくても平気だったんですよ。もともと、羽織さんの服を汚す程度の液体飛散が発生するだけだったんです」


 言いながら、唯宮は象牙色の液体が揺れる手元のカップを撫でてみせた。


「――あのとき、このカップは、私が『そういった作用の禍い』をめた禍宿物カドモノになっていたんですから」


 想一からの要求に、人間を自然と席から離れさせるには、と考えた唯宮がまず思いついたのが、化粧室の利用だ。

 羽織のカップやグラスに触れられれば、中の液体に弱毒性を持たせることも可能だったかもしれないが、唯宮から斜向はすむかいに置いてある他人のカップに手を伸ばすのはさすがに不自然であるし、羽織自身に危害を加えることも避けたかった。もちろん、良心の呵責からではなく、後に想一から折檻を受けることへの恐れからだ。


 そこで服を汚すことに決めた唯宮は、想一への抗議を演じながらミルクティーのカップの取っ手に指を掛けると、一時的に『有り物(カップ)に妖力を籠めた禍宿物カドモノ』を創り出し――その効力によって、任意の液体飛散を実行してみせた。


 唯宮の作戦内容を知らない想一が本気で慌てるというハプニングはあったものの、無事に思惑通り、羽織は服の汚れを洗い落とすべく、席を立った。


「お前、そのカップ元に戻しとけよ」


 はた迷惑な妖力が籠められてしまった全国的なカフェチェーンの白いマグカップを、嘆かわしそうに見つめながら言う想一に、唯宮は肩をすくめながら、


「もう戻ってますよ。ほんの少しの力しか籠めてませんでしたから。多分、先ほどテーブルを拭きに来てくれた店員さんの『奉仕の精神』に触れて浄化されちゃったみたいです」

「ホスピタリティに負ける禍いってクレーマーより弱いじゃねえか」

「だからっ! もともと弱い力だったんですってばっ!」


 唯宮からぺしぺしと腕を叩かれるのを無視し、想一は化粧室のある方角に視線を走らせた。今のところ、羽織が戻ってくる様子は無い。


「話せる時間はあまり無い。要点だけを話すぞ。羽織が語った、手鏡の力による一連の出来事についてだ」


 想一は正面へと視線を戻して腕を組むと、まるで独り言のようにごく小さく、呟くように話し始める。

 唯宮は想一の不可解な言動に眉を顰めつつも、隣に座わる彼へと身を近づけると、同じように声をひそめながら囁いた。


「まさか想一さんまで、ホントにあの手鏡には奇妙な力が宿っているんだ、とか言わないでくださいよ。羽織さんはあの霧室って男の言葉に惑わされて、思い込まされてるだけです。全部ただの偶然で――」

「偶然じゃない」


 唯宮の言葉を切り捨てるように、想一が断言した。



「一連の事象は全て――――()()()()が意図的に引き起こしたことだ」



「は――――……え?」


 唯宮の口から、言葉にならない声が漏れた。


 当然のごとく、想一はぽかんと口を開けたままの唯宮の様子など気にも留めず、正面を向いたまま、先ほどまで其処そこに座していた人間が犯した罪を紐解いてゆく。


「証言の裏を取る時間はなさそうだが、羽織が語った『不幸』は虚言じゃなく、実際に見舞われた人たちが居るはずだ。あの霧室が、裏も取らずに一介の大学生の言うことを鵜呑みにするとは思えないからな」

「…………羽織さん自身が……って……じゃあ、まさか」


 わずかに身を震わせ、唯宮が驚きによって高くなりそうな声を必死に押さえながら問いかける。


「羽織さんの自作自演、ってことですか? 自分に嫉妬の感情を向けてくる人たちを、自らの手で……!?」


 ――そしてそれを、手鏡の力にるものだと嘘を吐いた?


 実際、『対象者』に降りかかった不幸は、人智を超えた力でもたらされた奇怪な現象ではなく、人間の手でも実行可能な禍いではあった。

 卒論の剽窃は、盗まれた羽織自身が証言すれば当然明るみになる。バイト先の先輩が解雇されたのも、勤務態度や能力の不出来さを責任者へ進言し、誘発することも可能だ。内定を取り消された原因となった、匿名での素行不良のリークなどは言うまでもない。

 二件に事故については詳細は不明だが――自ら手を下し、事故に見せかけることも出来たかもしれない。


 禍いは、『奇妙な力を持った古物』などより、人間のほうがいとも簡単に引き起こせるのだから。


 しかし想一は、的を射ているかに思えた唯宮の推測に、小さく首を振った。


「いや、そういうわけじゃない。そもそも、()()()()は最初から存在していない」

「……え?」


 要領を得ない言葉に、唯宮が訝し気に眉根を寄せた。

 羽織が語った『不幸』は虚言ではなく、実際に見舞われた人たちが居る。ついさっきそう断言したのは想一自身だ。なのに、その舌の根も乾かぬうちに、『存在していない』とは――


「想一さん、それってどういう、」

「細かく説明している暇は無い。終わった後に全部話してやるから、今は黙って俺の言うことを聞け」


 有無を言わさない強い語調でそう言われ、唯宮は思わず口をつぐんだ。


「いいか。この後、俺は何かしら理由をつけて羽織を家に招く。服を汚したお詫びに夕食を振る舞うとでも言う。その場にお前も一緒に居ろ。そしてここが肝心だが、俺の言動が普段と違っているように感じても、そのことに触れたり言及したりするな。それが当たり前のように振る舞え」


 まるで人工知能のように平板な口調で、つらつらと奇妙な命令を投げつけてくる。唯宮はその口上(こうじょう)を停止するためのスイッチを作動させるかのように、想一の袖を引っ張った。


「ちょ、ちょっと待ってください! 突然何の話ですか? 理由を教えてもらわないと意味が――」

「今ここで理由を説明すると、お前の言動が不自然になる可能性がある。要するに、この一件を解決するために、お前には全面的に協力してもらう――もとい、徹底的に利用させてもらう」

「そこは利用するって本音を撤回して建前である協力を申し出るところでは!? 何で言い直してまで嘘偽りない真実の性悪さを露呈させちゃうんですかっ!」

「俺は嘘を吐けないんだよ」

「この大嘘つき!」


 唯宮が至極まっとうな批難の声を上げるが、想一は、伝えるべきことは全て伝えたのか、再び思案するかのように視線を落として黙り込んでしまった。

 まさに丁度そのとき、唯宮の人間離れした聴力が、廊下の奥に設えられた化粧室の扉が開く音を捉えた。羽織が戻ってくるのだろう。どうやら時間切れのようだ。


 唯宮は、大きく溜息をついた。

 せめてもの抗議の主張と嫌がらせになれば、と、その小柄な体躯で隣に座る想一へと思い切り寄りかかると、頭をその肩に乗せてやった。そのままぐりぐりと頭をねじ込むように動かして、想一の肩へと地味な痛みを与えてやる。


「想一さんみたいな極悪人に利用されるなんて、一体どんな目に合わされるのか……もしかして、ついに私は想一さんに手籠てごめにされちゃうんでしょうか。とうとうこの日が来てしまいましたか……」


 突然の無理難題の要求に飽き足らず、不可解かつ意図すら分からない作戦に利用されようとしているのだ。これくらいの揶揄からかいで憂さ晴らししたところで、バチは当たらないだろう。


「私、初めてなので。やさしくしてくださいね?」


 唯宮が、さも恥ずかしそうに口元を手で押さえながら、上目遣いで囁くように言う。芝居がかったその仕草を、想一は半眼でちらりと見やった。


 いつも通り、侮蔑や呆れを滲ませた冷ややかな声色で、一刀両断に拒絶する言葉が飛んでくる――かと思いきや。


 想一は視線を正面へと戻しながら、冷静な口調はそのままに、



「ああ。そのときは努力してやるよ」



 ――と、事も無げに言い放った。



「………………はあ??」



 数秒遅れ、まるで『現実的には考えられないモノ』を見たかのような表情で唯宮が上げた声と、席へと戻って来た羽織の「お待たせ」という声が、見事に重なった。




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