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〈四〉はからず重なる再度の縁

 唯宮ゆいみやは、色恋というものにしたる関心も無ければ縁も無い。

 それは、彼女が現世に目覚めてまだ一年足らずという機会自体の少なさに起因きいんするものではなく、ものという存在が基本的にはつがいを必要とせず、雌雄生殖を行なわないという事実によるところが大きい。


 人間や多くの動物と違い、あやかしたぐいは自らの行動によって繁殖したり産まれたりするものではない。

 人間や動植物といった生きとし生けるもの、陽の光や夜の闇、風のそよぎや水の流れのような自然現象、世のことわり、はては神々といった森羅万象あらゆる存在。それらの行動や思考、願い、信仰、ゆらぎや嘆き、口伝の継承や時間の流れなど、様々な要因が幾重にも積み重なり『発生』するのが妖だ。一個の存在の誕生としては、他力本願な偶然とも言えるし、論理的必然ともいえる。


 もちろん、妖にも人間同様、多様性というものがある。特に唯宮のような人型ヒトガタの妖は同士でつがいになることも少なくないし、人間との異類婚姻譚いるいこんいんたんにしても、この国のみならず世界的に見ても枚挙にいとまがない。


 しかし、目覚めた時から他の妖と接触する機会も殆ど無く、群れではなく単独で行動する唯宮にとって『誰かと一緒に』という考えに至ることはなかったし、何より『自分の夢を叶える』ことが第一で、色恋などにうつつを抜かすほど暇ではないという感覚であったから、当然、人間同士の艶聞えんぶんなど欠片ほどの興味も無かった。


 とはいえ、最低限の知識すら無いわけではない。

 人間同士が恋仲になるということは、それがお互いどんな腹積はらづもりかはさておいて、ある程度の接触や交流を経て成り立つものであることくらいは、しもの唯宮でも知っている。

 中には『恋人』という存在を手に入れるために躍起になったり、膨大な時間や労力や金銭を費やしたりする者も居るというのだから、誰も彼もが簡単に得られるものではないのだろう、ということも。


 だからこそ、不可解で、謎で、疑問で、摩訶不思議で――頭が理解を拒んでいる。



「…………想一そういちさんに恋人が居たなんて……やっぱり何度考えてもあり得ない……!」

「朝から何度目だ、そのセリフは」



 紅葉狩りの際とは打って変わった重い足取りで、舗装されたアスファルトにブーツの底を擦りつけながら呟く唯宮に、想一が呆れたように言葉を返した。



    ◇



 概ねの平穏をたたえていたうつつを喰い被られるような禍いに見舞われたのは、昨日の昼下がりのことだ。

 来訪者――霧室きりむろによる、ほぼ脅迫と言って良いであろう『古物による超常現象の取材協力要請』に首を縦に振らざるを得なかった想一と唯宮の、昨夜の荒れっぷりは相当なものだった。


 唯宮は『今なら世界を滅亡させるほどの禍宿物カドモノが創れるはず』と、忌まわしい霧室の嘲笑を思い出しながら夜通し製作に没頭した。受けたストレスを創作の糧とするクリエイターらしい行動ではあったが、過剰な感情の波立ちは必ずしもクリエイティブに良い影響を与えるとは限らない。案の定、徹夜で創り上げた禍宿物カドモノも、残念ながら使用に耐えうるようなモノではなかった。


 想一はといえば、霧室が立ち去った直後はコーヒーを生豆から炒って淹れたりと、普段通りの『工程を積み上げる』行動で何とか落ち着こうとしていたが、さすがにそれでは収まりきらなかったらしい。

 どうやら食材が尽きるまで延々と料理を行なっていたようで、唯宮が朝、台所に降りてきた時には、冷蔵庫と冷凍庫の中に主菜副菜おつまみ問わず大量の作り置きがタッパーに詰められて整然と並べられていた。

 想一のこういった精神の落ち着かせ方が生産的なのか消費的なのかは判断の難しいところではあったが、今朝の朝食で出された、昨晩仕込んだらしい寒鰆かんざわらの西京焼きが絶品だったので、唯宮としては勿怪もっけの幸いと言えるだろう。


 ともあれ、完全とは言わずとも、各々(おのおの)発散を終え一夜経ったことで、ある程度は波立った精神が落ち着いた翌日の午後。

 観光客と市民がこれでもかと詰め込まれたバスの乗り心地に辟易としながら、想一と唯宮が訪れたのは、蒼月の所在地である『外』から見ると『内』に位置する一帯だった。


 この都市の中心よりやや東側を南北に流れる、一級河川の近く。学生の数が人口の一割に相当するという『学生の街』に相応しく、この近辺は大学のキャンパスが多い。そのため、街並みも想一たちが暮らす地域とは少し違った趣がある。カフェや古書店、リーズナブルな個人飲食店、学生向けのマンションなどが立ち並び、落ち着いた雰囲気の中にも若々しい活気が満ちていた。


 そんな中、瀟洒しょうしゃ煉瓦れんが建築が大通りに沿うように並ぶ、ひときわ目を引く一画がある。

 想一たちの目的地――すなわち、『古物による超常現象』に巻き込まれたという当事者である、羽織はおり佳澄かすみが通う志堂館しどうかん大学だ。



『――――まずは、当事者である羽織さんに会って、直接ハナシを聞いてもらえるかな。僕が説明するより、そっちの方が正確だし分かりやすいだろうから』



 とは、昨日去り際に放った霧室の弁だ。

 もちろん、他人を介するよりそちらの方が確かな話が聞けるだろうし、特に霧室のような、詭弁きべんろうしたり煙に巻くような物言いが常である人間のフィルターを通すのは、想一としても避けたいところだろう。

 しかし、結局のところ『知りたきゃ自分で聞いてこい』という、説明責任放棄と同時に自己責任を負わせるという、非常に腹立たしいやり口であることは事実だ。

 その上、その『当事者』が高校時代に深い付き合いのあった人物だと言うのだから、自然、想一の足取りも重くなる。


 一方で、その隣を小さな歩幅で進む一匹の物の怪も、また違う理由で足運びが緩慢になっているようだった。


「……恋人……? あろうことか想一さんに……? やっぱり何かの間違いなのでは……!? 宇宙の因果律が崩壊しようとも、そんなことが実際に起こりうるハズが……!」

「随分と壮大な妄想をしているところ悪いが、そろそろ待ち合わせ場所に着くからその減らず口はいい加減閉じておけよ」

「想一さんっ! 一体どういうことなのか説明してもらいますよっ!」

「お前に説明することなんか何も無い」


 隣で揺れる黒いコートの裾をぎゅむ、と掴みながら唯宮が訴えるも、想一は歯牙にもかけない様子で左手首に巻いた腕時計に目をやった。十三時四十五分。


 羽織に話を聞くという手筈は、霧室が整えておいたという。

 やけに手際の良いその段取りは、おそらく想一から協力要請の承諾を得る前――つまり、昨日蒼月に訪れる前に既に済ませていたのだろう。想一が要請を断れるはずがないと、霧室は決め込んでいたのだ。そしてそれは、あっさりと現実になった。この事実もまた、腹立たしい。


 霧室に指示された羽織との待ち合わせは、十四時に大学の通用門前、とのことだった。バスが少し早めに着いたこともあり、まだ十分以上余裕がある。急ぐ必要は無いが、かと言って唯宮の戯言に付き合っている暇は無い、といったところだろう。


「大体、何でお前まで付いてくるんだ。話を聞くのは俺一人で良い、古物の件は後で説明してやるから家で待ってろって言ってんのに聞きやしない」

「何を言ってるんですか想一さんっ! 蒼月の副店主として、そして何より古物のエキスパートとして私が同行しないでどうするんですか!?」

「誰かどこの副店主で何のエキスパートだって?」

「それに、想一さんの過去の恋人という人類最大の謎を解明するため、我々調査隊はアマゾンの奥地へ向かわなくてはならないですし……!」

「勝手に行ってそのまま帰って来るな」


 探検隊の決死の覚悟を一刀両断する想一に、しかし唯宮はやはり納得がいかないのか、尚もおかしい、あり得ない、などと呟いている。

 『過去に恋人が居た』と聞かされれば、どんな人物であったのか、どんな馴れ初めだったのか、どうして別れたのか、といったあたりが主だった質問になるだろうに、唯宮は『その存在自体を否定する』――という、図らずも超常現象と同じ扱いをしてくるのだから、彼女にとってはまさに『現実的には考えられないモノ』なのだろう。


 大学の敷地はもう目の前で、すれ違う人間の中にも志堂館の学生らしき者が増えてきている。さすがにそろそろ、この厄介な物の怪の戯言を封じておかなくてはならないと思ったらしい想一が、大きく溜息を吐いた。


「おい、いい加減切り替えろ。そもそも、何がそんなに引っかかるんだ。二十数年も生きてりゃそういうこともあるだろ」

「あーーッ!! 想一さんが今! 全国の恋人居ない歴イコール年齢の人間を傷つけて敵に回しましたッ! 非道! 性悪! 漁色家ぎょしょくか!」

「うるさいわめくな。そんな意味で言ったんじゃねえよ。珍しくないって言っただけだ」

「でも……想一さんに限ってそんな……」

「お前は俺を何だと思ってるんだ」

「だって、想一さんって性欲が無いじゃないですか」


 人外ジンガイとは言え、ともすれば未成年にも見える愛らしい姿かたちをした少女から飛び出した、あまりにも明け透けで直接的な発言に、さすがの想一もぴたりと歩みを止めた。


「高校生の頃って言ったら十五、六歳でしょう? そんな年齢で恋人だの付き合うだの、単に性行為への欲求や生殖本能を愛だの恋だのって言い訳したり勘違いしてるだけじゃないですか。だから、そういった類の欲求が無い想一さんに恋人なんておかしいなって」


 唯宮は首を傾げて歩きながら、妙に言い得ているような、はたまた盛大にこじらせているような言葉をつらつらと並べ――ふと、隣に張本人が居ないことに気づいたのだろう。数歩先で、ポンチョコートの裾を翻しながらくるりと振り返り、「どうしました?」と問いかけてくる。

 そのまったく邪気の無い言葉に頭痛すら感じながら、想一は固まってしまった足を再度踏み出した。


「……お前な、公衆の面前で何をぬかしてんだ」

「何がですか?」

「他人の偏見に口出しして不毛な議論をするつもりは無いが、人間の矜持きょうじのために反論しておくと、お前の言うような奴ばかりじゃない」

「大きく間違ってはいないと思うんですけどねぇ」

「……そもそも、何がどうなって俺がどうこうって発想になったんだ」

「え? 違うんですか?」


 声を潜めて戒める想一に、唯宮はきょとんとした表情を浮かべ、


「だって、こんなに可愛くて愛らしい子と一年も同棲してるのに、一向に手を出して来ないっていうのは不能に違いないって。ネットの掲示板で質問したらそう教えてもらいまし――ぎゃわッ!?」


 さすがに看過出来なかったらしい想一のてのひらが、自信たっぷりに言葉を続ける唯宮の顔面を掴んだ。


「何度も言うがネットで見た知識を鵜呑みにするな。そんなくだらないことに使うならタブレット使用禁止にするぞ。あと、人間の心身に関する不全を軽々しく口にするな。心無い言葉に傷つく人間だって居る」

「今この瞬間心無い人間の手で傷つけ痛めつけられている物の怪のことは無視ですかっ!?」

「傷つきも痛みもしない奴が言うな」

「それでも気分の良いものじゃないですからぁっ!」


 自分の言動を棚上げし、被害者然と歩道の真ん中で騒ぐ唯宮に、想一は溜息をつきながら指先にこめていた力を緩めた。


 唯宮は、あやかしの中でもやや特異な存在のようで、物理的にどれほど害をなされようとも傷つくことが無く、痛みすら感じないという。冷たく硬い床の上で長時間座ろうが、眉間のツボを強く押されようが、白昼堂々顔面を鷲掴みにされようが平然としているのはそのためだ。


 幽霊のように実態が無いというわけではなく、少女の姿かたちをしたそれは確かに現実的な質量を持っているが、唯宮いわく、『現実(この世界)へ干渉するのに適した形をとっているだけ』だという。

 唯宮はその自身の奇妙な生態を水にたとえ、『寒い場所だと水が氷になるようなもので、その環境に適した形へと変容するだけ。物理的な危害が効かないのは、氷を切り刻んでも粉々に砕いても、水そのものが傷つくわけではないことと一緒』と想一に説明した。たとえ水が『消えた』ように見えたとしても、一時的に姿を変えただけで、存在が失われることはない、と。


 それを聞かされた想一はと言えば、いにしえのパソコンソフトのアシスタントキャラクターへの問いかけのごとく、『お前を消す方法は無いのか』と訊ねたが、唯宮は憮然とした様子で『想一さんなら本気でやりかねないので、教えません』と要求を退けた。


 とはいえ、市井しせいの人間たちには、寒さに頬を赤く染めながら白い息すら吐いているこの少女が、『現実的には考えられないモノ』だとは気づきようがない。

 つまり客観的に見ると、少女へとアイアンクローをお見舞いしている成人男性という然るべき機関に通報されかねない光景だったわけで、説教の効果も期待出来ないとなると、これ以上強いたところで、結局想一だけが泥をかぶる羽目になるだろう。


 案の定、色んな意味で効果は無かったらしい。解放された唯宮は、自身の頬やこめかみの辺りをむにむにとほぐしながら、


「か弱い乙女に鉄の爪を仕掛けるほどの抗議ということは……想一さんってちゃんと性欲あったんですかぁ。これは意外ですね」


 などと平然と口にし、じろじろと物珍しそうに想一を眺めている。

 丁度よく徒歩十分程度のところに河川が流れていることを思い出し、この厄介な物の怪を棄てて来るか、という不穏な考えが想一の脳裏をよぎるが、さすがに心が痛んで撤回する。もちろん、不法投棄によって環境を破壊することへの良心の呵責だ。


「まあ、それなら想一さんに恋人が居たという事実もギリギリ理解できますね。内面は決して褒められたものじゃないですけど、見てくれはまあ悪くないですし。十年そこそこしか生きてない人間なら、中身がどうこうより外見を重視するのも不思議じゃありません」

「一年そこそこしか生きてない奴が何言ってんだ」

「でもそうなると、健康な成人男性である想一さんが、なぜこんなに可愛い私を手籠めにしないのかという謎が残りますが……」

「そんなもん自明の理だろうが」

「やっぱり凹凸おうとつが著しい女性が好みだと? たしかに胸やら尻やらの脂肪は少なめですが、私だって十分欲情をそそる姿かたちを成していると思うんですけど。あ、想一さんが実は男色という可能性を忘れてましたね」

「…………頼むからもう黙れ」


 頭痛が確かなものになりつつあることを感じながら、想一は額を押さえて息を吐いた。


 角を曲がり、大通り沿いに出る。中心街や観光地近辺に比べれば微々たるものだが、先ほどまで歩いていた路地よりは人通りが多い。学生らしき姿も多数見られ、想一は口が減らない物の怪へと最後通牒さいごつうちょうを突き付けることにしたらしい。

 先程より幾分軽い足取りで歩を進める唯宮の腕を引っ張り、歩道の隅に追い詰めると、頭ひとつ分は低い体躯の少女を見下ろした。


「――いいか。お前、これから会う相手の前で今みたいなことを絶対に口にするなよ。余計な口出ししたら一ヵ月間メシ抜きネット断ちだからな」

「一ヵ月!? そんな長期間の断食とデジタルデトックスを食べ盛りの現代っ子に強要するんですか!? 想一さんには血も涙もないんですかっ!」

「文字通り血も涙もない奴に言われたくねえよ。そもそも、お前は食わずとも死にはしないんだろ」

「それはほら、想一さんの好きなコーヒーのような嗜好品と一緒ですよ。摂取しなくとも命には関わらないけど、美味しいものは幸せと心の栄養になります」

「何で俺が、物の怪の幸せやら心の栄養とやらのための負担を課されなきゃならないんだ」

「それは、そんなものを求めるような物の怪を目覚めさせて受け入れた、想一さん自身のジコセキニンってやつだと思いますよ」


 にっこりと屈託のない笑顔で言われ、想一は思わず閉口する。


 あらがう手段を持ちえなかったり、限られた選択肢の中で必死に選び取った結果に対し、手段も選択肢も豊富に所持ながらもその幸運に気づきもしない者たちから、自己責任という暴論で殴りつけられることも多い昨今だ。想一も、正論の仮面をつけて乱用されるその言葉にはやや辟易とした思いを抱えているが、この件に限っては唯宮の言うことに反論は出来なかった。

 過程がどうであれ、きっとこの現実は、己が選んだ先にあった未来なのだろう。


 そんな胸中を知ってか知らずか、唯宮は想一の身体がつくる影からするりと抜け出すと、大学の通用門へと続く横断歩道に足をかけた。


「想一さんこそ、元恋人の前でいたいけな少女に狼藉を働くのはしたほうがいいですよ。良識を疑われちゃいますからね」

「お前にだけは良識を説かれたくねえよ」


 世に禍いを招く古物を創ることを悲願とする物の怪が何を言う、と心の中で独り言ちながら、想一は唯宮に続き、青色の灯る信号機に従った。



    ◇



「あ。あれがそうじゃないですか?」


 煉瓦造りの校舎を左手側に眺めながら、北から一直線に伸びる道を南へと下っていた唯宮は、待ち合わせの対象らしき人物を見止めて声を上げた。


 しかし、物の怪である唯宮には確かに見えるそれも、人間たる想一には視認出来ない距離らしい。待ち合わせ場所である通用門のかたわらには、この道路の真下を通る地下鉄の駅出入り口と横断歩道が重なるように設置されているため、人の往来の多さも視界を妨げているのだろう。想一は眉間を寄せ、目を凝らしているが、唯宮の指し示す人物を確認出来ずにいるようだった。


「……どこだよ」

「目が悪いんですねぇ、想一さん。眼鏡つくったらどうですか? ほら、あそこですよ。門の前」

「視力は悪くない。お前の目が人間離れしてるだけだ」

「そりゃあまあ、人間ではないので」


 当たり前だと小さく肩をすくめ、淡々と歩みを続ける。まるで鍋が吹きこぼれるように駅の出入り口からあふれ出た人々を避けながら、ようやく人間の視力でもくだんの人物の容姿がはっきりと見て取れる距離にまで辿り着いた。


 洗練されたデザインながらも堅牢さがうかがえる門扉の前に立っていたのは、唯宮の目から見ても『こういう女性を嫌う男性は居ないだろうな』と素直に思えるほど、楚々(そそ)とした佇まいの女性だった。

 淡いライトグレーのコートに白いセーター、モノトーンチェックのスカート。肩の下あたりまで伸びた艶やかな黒髪は緩く巻かれており、細い首には小さな月のチャームが揺れる精緻なネックレスを巻いている。透明感がありつつも血色の良い肌と、くっきりと整った目鼻立ちは、決して派手ではないが上品な華やかさを感じさせた。


 女性はそわそわと周囲を見渡したかと思えば、手にしたスマホを覗き込んでいる。おそらくミラーアプリを起動しているのだろう。前髪を指先で梳いたり、コートの襟の形を整えたりと落ち着かない様子だ。


「……あ」


 ふと、スマホから離した視線が、想一と唯宮をとらえた。

 正確には想一を、だろうが、ともかく驚きに満ちたその表情が、花が咲きこぼれるような笑顔へと切り替わるのにわずかな時間も要さなかった。


そうくん……!」


 ――想くん、と来たか。

 大量の砂糖を口の中に無理やり流し込まれたような、胸やけに似た感覚を覚えた唯宮が眉を顰める。

 完全なる背景の一部であろう唯宮の表情などもちろん気にも留めず、女性はうっすらと瞳さえ潤ませて想一へと駆け寄った。


「――想くん、想くんだよね? ほんとに、想くんだったんだ……!」


 きゅっ、と想一のコートの袖口をつかみながら、感極まったように俯いて声を震わせる。


霧室きりむろさんに想くんの名前を聞いた時は、信じられなかった……まさか、こんな形で、また想くんに会えるなんて……」


 ふっと顔を上げ、涙で濡れた瞳で想一を見上げる。泣き笑いのような表情を浮かべると、女性はたっぷりと間を置いて、艶めいた桜色の唇をゆっくりと動かした。


「会いたかった、想くん」


 ぞわわっ、と背筋を駆け抜けるむず痒さを伴った寒気に、唯宮は両肩を跳ね上げた。自分は今、一体何を見せられているのか。

 当人にとっては愛と感動の再会なのかもしれないが、まったく感情移入せず客観的に見る女性の一連の言動には、べたつくような自己陶酔さえ感じ取ってしまう。ここが人の行きかう往来でなければ、彼女は確実に想一へと抱き着いていただろう。


 愛だの恋だのを理解できない物の怪である自分の感覚を再確認すると、唯宮は湿度の高い感情を向けられている張本人の顔をちらりと窺がった。


「……想一さん?」


 その表情を見止めた唯宮が、怪訝そうに声を上げる。


 さぞ感傷に浸っているのだろうと思われた想一は、元恋人との感動の再会には到底相応しくない当惑した面持ちで、奇妙なものでも見るかのような視線を女性へと向けていた。


「…………羽織はおり、なのか?」


 訝しささえ滲ませた声色で問いかける想一に、女性――羽織はおり佳澄かすみは嬉しそうに「うん」と頷いてみせた。


「本当に久しぶりだね、想くん。こうやってちゃんとお話するのは……五年ぶりくらいかな?」

「あ……ああ」


 細い指先でそっと目尻を押さえながら羽織が言葉を続けるが、想一はまだ戸惑いを拭いきれていないらしく、曖昧な返答だ。

 それを不思議に思ったのか、羽織は小さく首を傾げ、


「どうしたの、想くん。具合でも悪い?」

「……いや。そういうわけじゃない」


 想一は問いかけにかぶりを振ると、羽織に掴まれていたままの袖口をゆっくりと彼女から引き解いた。


「ただ、随分雰囲気が変わったなと思って」


 視線を背けながらの呟くような想一の言葉に、羽織は一瞬きょとん、と目を丸くしてみせるが、すぐに破顔すると柔らかな笑い声を上げた。


「やだ、想くんってば。あれから五年も経ってるんだよ。それに、わたしだって大学生なんだからお化粧くらいしてるもの。想くんは、らしくないって笑うかもしれないけど、これでもおしゃれとか頑張ってるんだよ」

「ああ……それはそうか」


 羽織の言葉は、長年の恋人にじゃれつくような、微笑ましい揶揄を滲ませていた。一方、想一はといえば言葉とは裏腹の、腑に落ちていない様子で眼前の元恋人と目を合わせようとしない。


 羽織の言っていることは決して的外れではない、と唯宮は思う。

 成人後ならともかく、十代から二十代への数年間というものは人間に大きな変化をもたらす時期であることを、唯宮も知っている。内面も外見も、さなぎが蝶になるように、まるで異なった存在へと変質することも少なくない。

 それに、化粧をはじめとして、己の姿かたちを理想へと変える手段など今の世の中数えればきりがない。高校時代の羽織と今現在の彼女が、どれほどかけ離れているのかは唯宮には想像もつかないが、まるきり別人のように変わっていたとしても不思議ではないだろう。


「そういう想くんだって、高校の時とは雰囲気違うよ。なんだか、ちょっぴり悪い顔になったかも」

「…………」

「ゴメン、傷つけちゃった?」

「いや、そういうわけじゃ」

「でも、想くんらしさはちゃんと残ってるよ。たとえば、その優しくてあったかい瞳とか。わたし、想くんの、やっぱり好きだなぁ」


 言って、ふわりと可憐に微笑む羽織に、想一は対応に窮したように俯く。隣で成り行きを見ている唯宮はといえば、吐き気さえ催す甘ったるさに総毛立っていた。


 唯宮は、想一の瞳を見てヤサシクテアッタカイ、などと感じたことは一度だって無い。彼の善良な部分を全否定するわけではないが、少なくとも唯宮が知っている想一は、相貌や目つきにポジティブな感情を一切乗せず、浮かべるのは蔑みや呆ればかりで、好ましい印象を受けた覚えはまったく無かった。


 もしかしたら、人間と自分では違うものが見えているのかもしれない――などと、馬鹿げた考えさえ思い浮かぶ。想一が人間と物の怪で大きく態度を変える性質なのかもしれない、とも。

 そうでなければ、この羽織という女性がよっぽど恋に盲目で、惚れ込んだ想一を相当美化しているのか。それとも――



 ――想一自身が、高校時代とはまるで異なった存在へと変質してしまったのか。



「……ねえ、想くん。()()()()どうしてたの? わたしもバスケ部のみんなも心配してたんだよ。ご実家に行っても、いつも留守で。いっとき、入院してたって噂も聞いたけど……本当なの?」


 やや声量を落とした気遣わしげな羽織のその言葉に、想一の身体が一瞬、硬直したかのように動きを止めた。


 あれから。入院。と、唯宮は小さく眉根を寄せる。


 高校時代、想一に『何か』があったことは、先日の霧室との会話でさすがに察している。そしてそれが、現在の彼の、人や世をいとい拒絶するような姿勢や思考に影響していることも。


 当時行なっていた部活動に何らかの関係があろうことは想定内であったが、入院、という不穏な単語は初耳だった。しかし、少なくとも唯宮は、想一が健康上の不具合を抱えているような素振りを見た事が無い。ここ一年、季節の変わり目も猛暑が続く日も寒さが堪える時節も、体調すら崩していないはずだ。


 自ら想一の傷に触れたというのに、羽織はその華奢な手のひらを、そっと労わるように想一の左手へと重ねた。


「わたしね、進学先を志堂館ここに決めたの、もしかしたら想くんが居るかもって思ったからなんだよ。想くんの学力なら問題ないだろうし、何より、想くんがバスケを続けたいって思ってくれてるなら――」


「――――羽織。悪いんだが」


 縋るように声を震わせる羽織の白い手を、想一は静かに解いた。


「今日は、俺の話をしに来たんじゃない。羽織の話を聞きに来たんだ」

「あ……」


 ようやく真正面から絡み合った視線を喜ぶいとまも無く、想一から説き伏せるように告げられ、羽織はその潤んだ瞳を揺らめかせた。


「……そ、そうだよね。ゴメン。なんだか、わたし一人で舞い上がっちゃって恥ずかしいな。わたしの話を聞いてくれるために、わざわざ時間を割いてくれたんだもんね」


 やっぱり想くんは優しいね、と継ぐ言葉と共に向けられた、思慕を隠そうともしない眼差しを、想一は瞳に峻拒しゅんきょの色さえ滲ませて受け流している。


 どうやら、二人の一連のやりとりを見るに、想一は羽織に対する心情こそ読み取れないものの、少なくとも進んで縁を再度結ぼうとはしていない。一方、羽織は想一に対して未練たっぷりどころか、この五年間ずっと想い続けていたような素振りだ。この再会を機に、ヨリを戻そうと考えていたとしても不思議ではないだろう。


 想いを引きずったままの元恋人が聞き取り対象とは、まったくもって厄介な仕事を持ってきてくれたものだ、と、唯宮は改めて霧室への憎悪を強めた。

 第一、霧室が何故想一に協力を要請したのかもはっきりしていない。少なくとも、『古物による超常現象』に巻き込まれた人物が想一の同級生だったから、などという単純な理由ではないことは明白だ。


 そもそも、『古物による超常現象』とは一体どんなものだったのか。


 そして、それに巻き込まれた当事者であるという彼女――羽織佳澄の身に、何が起こったのか。


「――ようやく本題に入れそうですか」


 とんとん、と、唯宮はブーツのつま先で想一のジーンズ越しのふくらはぎを突いてみせた。振り向いた想一は普段通りの不機嫌な顔で、唯宮の無作法を窘めるように脚を引いた。


「おい蹴るな。汚れるだろ」

「洗濯は私の担当なんだから別に構わないでしょう」

「何だその屁理屈は。なら掃除は俺の担当だから、厨子つし二階にかいのお前の部屋を毎日荒らして良いってことになるが」

「どうしてそうなるんですかっ! 大体、あんな元々物置だった屋根裏部屋にひとりきりで押し込められていること自体に不満があります! 私だって一階の広い部屋で寝たいですよ! こんな可憐な女の子との同衾どうきんのチャンスを逃し続けるなんてやっぱり想一さんって――」


 ガッ、という衝撃とともに、唯宮の口が想一の手で塞がれる。冷ややかに見下ろす摂氏零度のその眼差しは、確実に『一ヵ月食事抜きネット断ち』の執行を物語っていて、唯宮は思わず塞がれた口の中でうぎゅ、と声にならない声を上げた。

 このを見ても、羽織は優しいだのあたたかいだのと戯言を言うのだろうか、と唯宮は思う。どうやら眼鏡をつくってもらうべきなのは想一ではなく彼女のほうのようだ、とも。しかし残念なことに、妄信と思い込みを矯正する道具を、人間はまだつくり出せていない。


「…………ねえ。想くんって」


 ふと、二人のやりとりを呆けたように眺めていた羽織が、おずおずと声を上げた。

 想一の影に隠れてしまうほど小さな体躯のその少女を見やり、


「妹さん、居たんだっけ?」

「妹じゃない」です」


 図らずも、想一と唯宮の言葉がぴったり重なって羽織の問いかけを否定した。


 想一は――おそらく羽織に悟られないようにだろう、ごく小さく溜息をつくと、胸に手を当てて佇む羽織へと振り返り、「遠い親戚だ」と、先日霧室に語って聞かせたものとほぼ同じ『呪文』を述べてみせた。

 自然ではありえない髪と瞳の色、そして奇抜な服装への弁明に、外国暮らしと長い入院生活を理由とした、世間ズレした言動への先手の牽制。


 しかし、羽織の唯宮に対する懸念と疑問は、そういった上辺のものでは無かったらしい。呪文を聞き終えた羽織は、不安そうな、それでいて今にも泣きだしそうな表情で想一と唯宮を交互に見やり、


「……想くん……その子と、一緒に住んでるの?」

「…………少しワケがあって、預かってるんだ」

「ワケ? ワケって? こんな年端もいかない女の子を、想くんが預かるなんておかしいよ。この子の為にも良くないと思う。それに、どうして連れてきたの? わたし、想くんとふたりで会えるって思ってたのに」


 詰問めいた声色で詰め寄られ、想一は少し驚いたように身を退きながら、「いや」と眼前で手を振った。


「俺が色々大変だった時に、彼女のご両親にかなり世話になって、大きな恩があるんだ。その恩人からのたっての願いで、どうしても」

「…………」


 『色々大変だった時』という一言が、彼女を制したのだろう。羽織は勢いづきかけていた追及の矛先を収めたようだ。


 嘘八百にさらに嘘を重ね、九百ほどにはなっただろうか。よくもまあこうポンポンと思い浮かぶものだ、と唯宮は内心感心するが、もしかするとこういう場面すら想定して、あらかじめ様々な嘘を考えていたのかもしれない。

 基本的に面倒臭がりで、自分の利にならないようなことは一切行わない想一としては、随分と手間と労力をかけているように思える。であれば一層、その無駄な手間がかかる唯宮を、自身の傍に置いている理由が不可解なものになる。


 張本人である唯宮でさえ不思議だと思っている想一との同居の事実を、羽織は何とか吞み込んだらしい。正確には、およそ釈然としない様子であるが、無理やり自分を納得させようとしているようだった。


「勝手に連れてきたのは悪かった。諸事情で一人にしておくわけにいかないんだ。それに、こう見えて色々と博識だから、羽織の相談の役に立つかと思って」

「……わたしのため?」


 羽織は途端、はっ、と目を瞬かせ、その目尻を柔らかに下げた。


「そう……なんだ。そういう事情なら仕方ないよね。想くんが望んだわけじゃないんだもんね、ゴメンね、責めるみたいな言い方しちゃって」

「いや、気にしてない」

「それに、わたしのためにわざわざ連れてきてくれたんだものね。嬉しい……ありがとう、想くん」

「……そんな大したことじゃない」

「相変わらず、想くんは優しいね。本当に、優しすぎるんだよ……」


 言って、とろりと甘やかで切なげな視線を想一へと送る。


 どうやら、羽織の中では『想一は受けた恩を返すために、仕方なく少女との同居を我慢しており、連れてきたのは自分のため。それもこれも、すべては想一という人間が優しすぎるから』という結論――いや、妄想で自己完結したらしい。


 もしここで、唯宮じぶんを目覚めさせたのも受け入れたのも想一本人の意志だし、唯宮じぶんが勝手についてきたのだ、と事実を告げたらどうなるのだろうという意地悪な考えが唯宮の脳裏をよぎったが、実行するのはやめておいた。


 意地悪をするのが忍びないとか、からかったら可哀想とか、そういった配慮や自戒からではない。

 この手の思考展開をする人間は、どれほどの証拠を並べて事実を突きつけたところで、自分にとって都合の良い『真実』以外を受け入れようとしないということを、唯宮はよく知っているからだ。


「――それで、羽織。早速なんだが話を聞かせてくれるか。羽織が……その、おかしなことに巻き込まれたっていう件について」


 羽織と向き直った想一が、やや言葉を濁しながら問いかける。


 実際、羽織が『巻き込まれた当事者』であるとは霧室から聞いてはいるが、彼女自身がどこまで状況を正確に理解しているのか分からない。

 想一は、下手に古物の存在や超常現象という事象に触れるべきではないと考えたのだろう。そしてそれは、唯宮も同じ考えだった。

 そもそも、そんな現象が実際に発生したはずは無いのだから、オカルトを肯定するような発言はせず、心理的・科学的に説明をつけるべきだろう。


 しかし、どうやらそれは叶わないようだった。



「――わたしが持っている、不思議な力が宿った古い鏡のことだよね」



 羽織は、それを信じて疑わない――というより、『当たり前に存在しているもの』として受け止めているような口調で、すんなりとそう言い切った。


 思わず言葉を失う想一に、羽織は表情を曇らせると、悲痛の色さえ滲ませた顔を俯かせた。


「…………実はね、想くん。わたしが巻き込まれたっていう、それ。半分は本当だけど、半分は嘘なんだよね」

「嘘?」

「わたしは、被害者ではあるけど……加害者でもあるのかもしれないの」

「……どういう意味だ?」


 想一の問いには答えずに、羽織は手に持っていたバッグの留め具を外すと、中から藤紫色の風呂敷に包まれた何かを取り出した。

 直径は二十センチほど、厚みは薄く、包む物体に沿って形を変えるその布は、歪な逆三角形を象っている。


 もちろん、中身は手鏡だろう。


「想くん。……鏡って、どんなものだと思う?」

「どんなって、そりゃ、」

「反射するでしょう。鏡って」


 どことなく無機質な声色でそう言うと、羽織は手にした風呂敷の包みをゆっくりと、丁寧に解いてゆく。


「わたしってね。どうしてかな、他の人から、ちょっと重い感情を向けられることが多くて」


 長い睫毛に縁どられた瞳が揺れる。


「嫉妬、とか、羨みとか。そういうの」


 はらり、と柔らかに藤紫色の覆いが取り払われ、内に潜んでいたものが姿を現した。


 それは、およそ霧室が語って聞かせた姿かたちと相違なかった。

 鏡面は伏せられており、銀色の鏡背きょうはいが鈍い光を放っていた。持ち手部分に絡みつく一匹の蛇を象った装飾が鏡背まで伸びており、古びた質感も相まって神秘的とさえ言える重厚な存在感を醸している。


「……これが」


 硬い口調で、想一がごく小さく呟く。


 唯宮が、想一の隣から羽織の手元を覗き込んだ。

 独特な雰囲気を持ってはいるが、一見何の変哲もない手鏡であるそれを見つめ――ふと、違和感を持った。



 何かが、足りない気がする。



 羽織はその白く華奢な指先で、そっと銀色の縁を撫でながら、


「……この鏡はね、『そういったもの』を反射する不思議な力を持っているの」


 波立つ感情を必死に抑えているような、震える声で、その古物が引き起こすという人智ならざる現象を語る。



「わたしに向けられた、妬みとか羨望とかやっかみとか――そういう敵意の感情を、相手に反射する。そして――」



 鏡背の銀色が、ぬらりと不気味に光を反照はんしょうした。



「相手は、『跳ね返された己の感情』という凶器によって――――大きな不幸に見舞われてしまうの」



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