〈二〉おそらく面倒な来訪者
「いやあ、赤かったですね。想像以上に赤かったです」
昼下がりの路地裏に、軽やかな靴音が響く。
「ネットやテレビで知ってはいましたが、やっぱり実際に見るのとは違いますね。ネットで見て体験した気になりがちなZ世代に伝えたいものです。ナマは違うぞ、と」
「生まれて一年も経ってない奴が世代を語るな」
普段の和洋折衷ワンピースの上にクリーム色のポンチョコートを羽織り、吐く息を白くしながら言う唯宮に、想一が呆れた口調で返す。正午を過ぎても一向に上がらない気温が堪えるのか、黒のステンカラーコートを着込んだ身をわずかに縮こませながら歩を進めている。
山に囲まれた盆地にあるこの街は、夏は近年特に危険なほど暑く、冬は身体の芯から冷えるように寒くなる。
十二月に入り、人間が勝手に作った暦というものは、律儀にも寒冷前線を連れてきたらしい。数日前まで日中は暖かさを感じるほどだった気温はガクンと急降下し、人々はクローゼットの奥に仕舞われていた分厚いコートやセーターを引っ張り出さなくてはならなかった。
「ったく。何でこんな寒い中、朝っぱらから出かけなきゃならないんだ。俺は紅葉なんてその辺に生えてるのを見るだけで十分だってのに」
「相変わらず風情がないですねぇ、想一さんは。もちろんご近所の神社やお寺で見るのも良いですが、やっぱり名所で鑑賞する紅葉は格別というものですよ」
想一がスニーカーを履いた足を引きずるように進めながら愚痴ると、編み上げブーツの踵をご機嫌に鳴らしながら唯宮が言う。
知った風な口を、とぼやきながら、想一は左手首にはめた古い腕時計に目をやった。十三時過ぎ。普段より二時間近く早く起床したためか、妙に一日が長く感じられる。
『紅葉が見たい』という、この街に住む人間にとっては決死の覚悟が必要な願望を唯宮が述べたのは、一昨日の夜のことだ。
世界的にも有名な観光地であるこの都市に、一年を通して最も観光客が多く押し寄せるのが、この紅葉シーズンだ。移り住んで十数年、この街の基準ではまだまだ新参者の想一ではあるが、その桁違いの混雑ぶりは嫌と言うほど実感している。
普段から駅前まで出るのも億劫な想一としては、当然好き好んで行きたい場所ではない。だが、人でごった返す観光地へ、まだ人間社会に慣れていない唯宮をひとりで行かせるわけにはいかないと判断したのだろう。
せめて人が少ない時間に、と、何カ月ぶりかになる早起きをして、有名な場所は避け、近場の名所に出掛け――それでも十分に人に揉まれた結果、午前中で一日分の気力を消耗した想一は、重い足取りでようやく自宅の近くまで戻って来たのだった。
そんな想一の心身の疲労を知ってか知らずか、 唯宮は山麓の寺院を赤く染めあげた紅葉を甚く気に入ったらしく、帰る道すがら、目を輝かせながらその素晴らしさを延々と説いている。
「急に寒くなったおかげか、色づきが良くて鮮やかでしたね。あんなに綺麗なものを見れるなら、寒いのも悪くないかもしれません」
「お前、妙なこと知ってるんだな」
想一が唯宮を目覚めさせたのは去年の暮れ。つまり、紅葉を見たのは今日が初めてだ。見た事も無かったはずの『紅葉が鮮やかに色づく仕組みの豆知識』を披露した唯宮は、えっへん、と言わんばかりに胸を張り、
「ネットで見ました! やっぱりネットは素晴らしいですね! 目覚めて一年弱の私が、無為に二十年生きてきた想一さんにこうして知識マウントを取れるのは、ネットで得た知識のおかげです!」
「十把一絡げに世代をディスった舌の根も乾かないうちに、デジタルネイティブの悪いところを煮詰めたような発言はやめろ」
「想一さんがネットに触れなさすぎるんですよ。今どきSNSやソーシャルゲームに全く手を付けてない若者なんてなかなか居ませんよ。私のような物の怪より絶滅危惧種だと思います」
「やらなくても別に死にはしないだろうが」
「せめて、お店のアカウントくらいは作りましょうよ。このご時世、『ネットに情報が無いものは存在を認識されない』って言っても過言じゃあないんですよ」
「認識されなくて結構」
想一は、およそ商いを営む人間の台詞とは思えない言葉を吐くと、コートのポケットから鍵を取り出し、『ネットに情報が無く、存在を認識されていない』その店――古物店・蒼月の引き戸を引き開けた。
冷え冷えとした土間に足を踏み入れながら、鍵を握ったままの右手で、無造作に引き戸の横に掛けられた『準備中』の札を『商い中』にくるりと回転させる。
モノや情報や知識、誰かの常識や価値観や批評があふれかえり混沌を極める世界に、己の存在を主張し認識させるには、あまりに頼りない板の切れ端だった。
「――もう! この時代遅れの頑固者! このお店が繁盛しないと、私だって困るんですよ!?」
想一の後に続いて玄関をくぐりながら、寒さで赤くなった頬を膨らませて唯宮が言う。室内に入ったというのに、体感的には外と気温が変わらない。
唯宮が店舗の中ほどに置かれた古いストーブの前にしゃがみ込み、スイッチをひねって点火すると、ちょうど想一が奥の台所から水の入ったヤカンを持ってきて、ストーブの上に乗せた。
室内が暖まるまでもう少しかかるだろう。唯宮も想一もコートを羽織ったまま、ストーブの前に陣取ってしばし暖を取る。
「想一さんが厭世家気取って虚無主義に浸るのは勝手ですけど、私のような未来ある若者の夢を潰すのはよしてくださいよ」
「お前の夢って何だっけ」
「はい! 私が創った禍宿物で人間たちを惑わし、人の世に混乱と破滅を撒くことです!」
「根暗・中二病・悪趣味・外道の四冠王じゃねーか」
「なんてこと言うんですかっ!? こんなに可愛くて愛らしい少女の、ささやかでいじらしい夢を!」
「お前の夢がささやかでいじらしいなら、世界征服を企む悪の帝王のほうがよっぽど健気で純粋で応援したくなる目標だな」
「そんな低俗で下品な願望と一緒にしないでください!」
唯宮の反論に、違いがわからん、と言いながら、想一は脱いだコートを傍にあった丸椅子に投げ置くと、再び奥の台所へと姿を消す。
恐らくあの黒くて苦い飲料を淹れにいくのだろう、と、唯宮もコートのくるみボタンを外しながら思う。あんな苦いだけのものより美味しい飲料がこの世にはたくさんあるのに。たとえば、ミルクと蜂蜜がたっぷり入った紅茶とか。
唯宮はコートを肩から落とすと、やや高さのある上がり框に腰を掛けてブーツのレースを解いてゆく。自身のコートと、放りっぱなしの想一のものを手に店舗部分と隣接している居間に上がり、その両方をハンガーに吊るすと、長押へと掛けた。
「そういえば想一さん、最近、私が創った禍宿物、何か売れました? あの万年筆以外で」
スエード素材のサボサンダルに履き替え土間へと戻った唯宮が、あらためてストーブに手をかざしながら、店内に並べられた古めかしい品々をぐるりと見渡して訊ねる。
古今東西様々な――とまではいかないが、この国で『古いもの』と言われて思い浮かべる品々がある程度は揃っているだろう。
蒼月が扱っている商品のほとんどは先代、すなわち想一が祖父母から受け継いだ品だ。想一が店主となってから買い取ったり仕入れたものもあるが、それほど多くはない。
そして、唯宮が創り出した、『所有者に禍いをもたらす力を宿した品』――彼女の言うところの禍宿物が、いくつか。
「知らん。いちいち覚えてない。台帳に書いてるから勝手に確認しろ」
台所から返ってきた素っ気ない返答に、唯宮は大きく溜息をつく。
「曲がりなりにも人外が創った得体のしれないモノを売り物にしてるっていうのに、何でそう無頓着でいられるんですかねぇ……」
「文句があるならいつでもウチに置くのをやめてもらってかまわないが」
「いえいえっ! すっごくありがたくて感謝してますよ! 想一さんのその無頓着で無関心で自分以外がどうなろうと知ったこっちゃないっていう性悪精神に!」
「上の句と下の句が噛み合ってねえんだよ」
うんざりした口調でそう言いながら台所から戻って来た想一の手には、ふたつのマグカップ。ひとつはブラックコーヒー、もうひとつは柔らかな象牙色の液体で満たされていた。
「あ。ありがとうございます」
当たり前のように無言で渡されたマグカップを両手で包むと、冷えていた指先にじんわりと温かさが伝わってゆく。
湯気立つ香りで、蜂蜜入りのミルクティーだとわかる。
唯宮はストーブの前に立ったまま、マグカップに淹れられた紅茶をひとくちすすると、ほっと息をついた。
つい数十秒前に性悪だと烙印を押したばかりの人物から施された気遣いに、罪悪感を持つことを唯宮はもうずいぶん前にやめてしまった。
正確には、この桜路想一という人間はこういう性分なのだ、と割り切ったのだ。
一年前、あの寒々しい蔵の中で出逢ったときから、想一は唯宮に対して、憎悪と、いたわりと、敵意と、慈悲と、無関心と、執着と――あらゆる相反した感情を意図的に麻痺させながら接している。
それがどんな理由に因るものなのか、唯宮は知らない。訊いたところで想一が素直に答えるとは思えないし、何より、人間ではない唯宮に理解出来るとは思えなかった。
「先月だと、万年筆を除くと二点売れてるな」
コーヒーの入ったマグカップを片手に奥のソファへ腰かけた想一が、タブレットを指先で操作しながら言う。
手の中の温かく穏やかな色に意識を溶かしていた唯宮は、店主のその言葉に、ハッと色めき立ち、
「ホントですかっ!? どれですか!? 私のイチオシは硯で――」
「ガラス製の水差しと、裁ち鋏」
「…………なあんだ……」
あからさまに落胆し、がっくりと肩を落とす。
「売ってやったってのにその態度は何だ。場所代や委託料すら取らずに置いてやってるんだぞ。何なら来月から委託料を――」
「いえいえいえっ! 滅相もないっ! タダでこんな名店の一画を使わせていただけるなんて身に余る光栄ですっ!」
じろりと刺すような半眼を向けられ、慌てて首を左右に振る。
実際、ハンドメイド作家が作品を販売するための数十センチ四方のレンタルボックスでも、月々数千円の場所代や販売手数料を取られるのだ。たとえ客足の少ない店であっても、無料で『作品』を委託販売してもらえるのは破格の待遇だと言えるだろう。
その上、売り上げは何も差し引かずにそのまま唯宮へ渡されるのだから、彼女にはメリットしかない。逆に、何のメリットも無いはずの想一が、なぜ得体のしれない物品を自身の店に置いてくれるのかは不明だが、唯宮としては、何があってもこの好待遇を手放すわけにはいかなかった。
「売れたのはもちろんありがたいことなんですが……その二点は、私のオリジナルじゃないんですよねぇ」
肩を落として嘆く唯宮に、想一は訝し気に眉をひそめ、
「オリジナルじゃない?」
「はい。水差しも裁ち鋏も、私がイチから――何もないところから具現化したモノではなくて、元々あった物品に私が妖力を籠め、『禍いをもたらす力』を与えたモノなんです」
「有り物に悪趣味な力を付与したってわけか」
「悪趣味ではありませんが、そういうことです。アーティストでいうとオリジナル曲ではなくカバー曲、みたいなもんです」
なるほど、と首肯する。
つまり、唯宮が創る禍宿物には、ふたつの種類がある。
ひとつは、ごく普通の品物に力を与えたもの。
そしてもうひとつは、妖力によって無から有を生み出し、物質として具現化させた、純度百パーセントの一品。
今回売れた二点は前者にあたり、先日のインクが漏れて使い物にならなかった万年筆が、後者にあたるのだろう。
「お前がつくったモノが売れたって結果は変わらないだろ。何が不満なんだ」
想一がコーヒーを口に含みながら、励ますわけでも同情するわけでもなく、淡々と事実を述べる。しかし唯宮は呆れたようにゆるゆると首を振った。
「想一さんはクリエイターの心理というものを理解してませんねぇ。創作を己の生きる道だと志した者なら、有り物にちょっとアレンジを加えただけのものではなくて、ゼロから創り出したオリジナルが評価されたほうが、嬉しいに決まってるじゃありませんか」
「他人の褌で相撲取って自分の実力だ才能だって勘違いしてる奴らがゴロゴロ居るってのに、そいつは殊勝なことで」
「多方面に飛び火しそうな危うい発言はやめてください! クリエイターってのは繊細なんですよ!?」
「大体、お前はモノをつくりたいわけじゃないだろ。世の中に禍いをまき散らすっていう悪趣味極まりない成果がお前の目的であって、モノをつくるのはその為の手段に過ぎないんじゃないのか」
目的の為の手段を選り好みしている場合か、と、まるで叱咤激励にも聞こえる想一の言葉に、唯宮は両手で包んだマグカップの中の温かな象牙色へと、その揺れる瞳を映し込む。
「それが……有り物に妖力を籠めただけのモノは、純正の禍宿物とは比べ物にならないほど『禍いをもたらす力』が弱くなってしまうんです。強大な妖力を持つ大妖怪ならまだしも、私のように繊細でかよわい物の怪の妖力では、現実的な物質に力を付与させることが難しくて……」
「繊細でかよわいってのは同意しかねるが、まあ理屈は分かる。実際、どのくらい弱くなるんだよ」
唯宮は、ええと、と梁で支えられた大和天井を見上げ、
「たとえば所有者の家に、神棚や仏壇や、それらに準ずる宗教的祭壇とか聖典があったりすると、籠めた妖力はカケラも残さず消え去ってしまいます」
「一人暮らしなら無い家も多いんじゃないか」
「お神札とか破魔矢とか、あとは数珠やお守りなんかがあっても、こちらが負けてしまいますね」
「……まあ、持ってない奴もいるんじゃないか」
「それに、推しのブロマイドやアクリルスタンド、フィギュアやうちわやぬいぐるみがあってもダメで……」
「…………何でそんな俗の極みみたいなもんにまで負けるんだよ」
「何を言うんですか想一さんっ!」
現代を象徴するあらゆる欲の集合体に白旗をあげる怪異の不甲斐なさに、さすがに一言もの申したくなる。
しかし唯宮は、身をもって味わった恐怖体験を語るかように声を震わせながら、
「あれはもはや現代における新しい信仰の形ですよ! 昔は人間の代わりになる人形や、信仰の媒介となる偶像画をひとつ用意するのにも多大な労力を費やしたというのに、それらが今や手を変え品を変えポコポコと量産される始末……! 挙句に推しの祭壇まで作られちゃ、私のような弱小の物の怪にはたまったものじゃありませんっ!」
「いつも世も、信じるチカラってのは強いってことか」
「すべての人間が、想一さんみたいに猜疑心の塊で自分以外の誰も信用しない性質だったら良かったんですけどね……」
取り繕うように継いだ「あ、決して貶しているわけではありませんよ。褒めてもないですけど」という唯宮の言葉を聞き流し、想一は空になったマグカップを手に、ソファから立ち上がった。
「話を総合すると、お前がつくる禍宿物とやらは、有り物を借りた品だと力が弱すぎて使い物にならないってことか」
「うぐっ……! ……そ、そうですね……」
唯宮はマグカップをぎゅっと握りしめながら、悔しそうに頷く。
神棚や仏壇はまだしも、お守りを含め、あらゆる意味での『信仰対象』を所有していない人間を探すのは、現代において至難の業だろう。
極端なミニマリストなら可能性が無くもないだろうが、そういった性質の人間が、わざわざ古物店に並べられた品物を購入するとは思えない。
「で、イチから生み出す純正品だと、件の万年筆みたいに、そもそも使用に足りうる物質をつくることが出来ない」
「うぐぐっ……!」
図星をさされにさされ、声にならない声を上げる。
人間の信仰対象や聖なる物が周囲にあるだけで、塵のごとく吹き飛んでしまうような妖力しか籠められない唯宮だ。そんな唯宮が生み出したモノは、現実の物理法則に則り、物質としてのカタチを維持するだけでもやっとなのだろう。
現に、先ほど『イチオシ』とのたまっていた硯も、黒くて凹みある重い何か、としか言い表せないようなシロモノだった。
有り物を借りた禍宿物では力が及ばず。
純正の禍宿物では使用することが出来ない。
つまり――
「――つまり、お前の禍宿物とやらで世の中に禍いをまき散らすって夢は、未来永劫叶わないってことだな」
「うぐぐぐっ!!」
きっぱりと言い切られ、しかし言い返せない。
想一から突き付けられた結論は、唯宮自身がこの一年で身をもって知った現実だ。
唯宮がもつ妖力は、彼女の『夢』を叶えるにはあまりにも脆弱だった。
それとも、人間がつくりあげている現実というものが、並外れて強靭で堅牢なのだろうか。
どんなに力を籠めようが、努力を重ねようが、唯宮のつくりだすものは、この世界に波風ひとつ立てられない。
人の世に破滅を撒くどころか、わずかに干渉する力さえ持ち得ていなかったのだ。
少なくとも、今、この瞬間は。
「お前も叶わない夢には早いとこ見切りをつけろよ。今からでも座敷童子に転職してくれたら、俺もそれなりの礼節をもって接してやらんことも無いが」
想一は言いながら、蒸気を噴き出しているヤカンの乗ったストーブのスイッチをひねり、ややその熱量を弱めると、唯宮から空になったマグカップを引き取って台所へと歩いてゆく。
「無茶言わないでください! そんなの、想一さんに世界中から敬愛されるような慈悲深い人徳者になれって言ってるようなもんですよ!」
「ああ、そりゃ無理な話だな」
「自覚があるならもう少し――」
がらり、と。
唐突に、何の前触れもなく、外と内を隔てる千本格子戸が引き開けられる。
一見しただけでは、普通の住居にしか見えない厄介な店だ。人づてに古物店だと聞いた者にしろ、通りがかりに偶然商い中の札を見つけた者にしろ、およそ営業中の店だとは思えないその外観に、殆どの人間がおっかなびっくり、そろそろと引き戸を開けるのが常となっている。
中には律儀に戸をノックしたり、やってますか、と訊ねながら戸に手をかける者も多い。
そんな店構えの引き戸を、何の躊躇いも戸惑いも無く引き開ける者といえば、一度この店を訪れたことのある客か、回覧板でも持ってきた隣人か、それとも――
ここがどういった店なのか、知っている者か。
「どうも、こんにちは。いやあ、外は冷えるねぇ」
昼下がりの来訪者は、どうやら後者のようだった。
普通の客ならば、まず目を奪われるはずの所狭しと並べられた古物には一切目もくれず、ふたつのマグカップを持った想一と、ストーブの前に陣取ったままの唯宮へと交互に視線をやりながら、ゆるやかに笑みを浮かべている。
後ろ手に引き戸を閉めるその来訪者は、三十代後半に見える中肉中背の男性だった。ノーネクタイのスーツの上に、暗灰色のチェスターコートを羽織っている。
落ちかけたパーマのような、緩く癖のある髪。垂れ下がった目と眉は、へらりと緊張感なく浮かべた微笑みによって、一層柔らかく枝垂れていた。
際立って整っているというわけではないが、十年前は『愛嬌ある気のいい兄ちゃん』で、三十年も経てば『人の良い好々爺』になるのだろうと容易に想像が出来るような、人好きのする顔立ちだ。
「……いらっしゃい」
想一は素っ気なくそう言うと、手にしたマグカップを片付けるために台所へ続くガラス戸へと手をかけた。
「えぇっと、キミが店主さん?」
「違います」
髪を梳くような仕草で頭に手をやりながら、笑顔のまま問いかける男性に、想一はあっさりと嘘を吐く。
ストーブから離れ、無言のまま上がり框に腰を掛けた唯宮も、その嘘を咎めるような無粋な真似はしなかった。
想一がこういった嘘を吐くのは、特段珍しいことではない。
たとえば何かを売りつけるセールスや、寂れた店を狙うコンサル業者、資産運用を謳う不動産屋など、とかくこの世は『あなたにだけ教える特別なおトク情報』を運んでくる有難い輩には枚挙にいとまがない。
そういった面倒な連中が店の敷居をまたぎ、『責任者様はいらっしゃいますか』と問いかけるたびに、想一は決まって『不在です』と嘘を吐く。
もちろん、全ての訪問者がその嘘を信じたわけではないだろうが、それでも一定の効果はあるのだろう。少なくとも、唯宮が知り得ている範囲では、想一の嘘に探りを入れたり反論する者は居なかった。
今回も、開口一番店主の在否を問うた来訪者に、想一は経験則から『面倒な連中』と同類だと判断したのだろう。
「自分はバイトです。店主は今不在で、いつ戻ってくるかは分かりません」
接客をする気などさらさら無いらしい。台所からマグカップを洗うための水音を当然のように垂れ流しながら、想一は淡々と嘘を重ねる。
そんな店主の言動を心の中で呆れながらも、唯宮は商品である絵本を手繰り寄せ、素知らぬ風を装ってページを繰りながら男性を観察する。
見たところ、想一がいつもの嘘を吐く相手――煩わしいセールスや、胡散臭い業者ではないように思える。
頼りなさげにも見える温和な笑みと、緊張感がまるで無く隙だらけの佇まいには、噓を必要とする連中に共通する、ざらりとした不快感は感じられない。
「あちゃあ、そうなんだ? 参ったなぁ」
想一の嘘に、男性は節くれ立った手を額に当て、心底残念そうに嘆いた。台所からは返事もなく、ただ水音が響いている。
「――でも、キミ、桜路想一くんだよね? ほら、洛条高校でバスケ部のエースだった、桜路選手」
ぴたり、と。流れる水の音が静止する。
それに呼応するかのように、ページを無造作に繰っていた唯宮の指も、また動きを止めた。
「僕、スポーツ観戦が趣味でさあ。特にバスケットボールには目が無くてね。インターハイやウィンターカップも見に行ったりしてるんだよ。その中でも、強く印象に残ってるんだよねぇ」
男性の朗らかな口調の中に、得体の知れない不気味な威圧感が混ざり始める。
「――洛条高校のエース、桜路選手の活躍がさ」
「…………」
無言のまま見世の土間へと戻ってきた想一が、ようやく真正面からその視線を合わせると、男性は嬉しそうに手をぽんと叩き、
「やっぱりそうだ、間違いない。桜路想一くんだよねぇ? 初めまして! いやあ、会えて光栄だよ」
「……五年も前のことだってのに、良く覚えてますね」
「おじさんくらいの歳になると、五年前なんてつい昨日みたいなもんだよ」
想一が吐き捨てるようにそう言うと、男性はその笑みをさらに深くした。
胃の裏側を逆撫でされるような不快感と違和感に、唯宮は、カモフラージュのためのページをめくる動作すら忘れ、二人のやり取りを注視する。
想一は、話をするのが好きな唯宮と違い、普段から口数はそれほど多くない。
それでも、唯宮が投げた質問には大抵は答えてくれるし、馬鹿にされたり呆れられたりすることもあるが、他愛のない雑談にもある程度は応じてくれる。
だが、こと蒼月の店主になる前――特に、高校生の頃に話題が及ぶと、想一はその口をまるで貝のようにつぐみ、一切何も語ろうとはしなかった。
バスケットボール、というスポーツを高校生の頃に行なっていたことは、唯宮も朧気には知っている。近所に住む老夫婦に『高校の時にがんばってたバスケットは、もうやらないのか』と邪気無く問いかけられ、想一が短く『ええ』と返していたのを聞いたことがあった。
唯宮が知っている桜路想一という人間は、およそチームスポーツに向いている人間ではない。大方、チームに馴染めなくて辞めたのだろう。もしくは、一向に上手くなれないまま飽きたのか。
部活動というものは、学生生活の思い出に強く紐づくものらしい。想一はその苦い記憶を思い出したくないのだろう。だから、高校生の頃の話題を極端に避けている。
唯宮は、実に勝手ではあるがそう結論付けて納得していたのだ。
それが、まさか観客の目にも活躍が焼き付くほどの――エースだった、とは。
「……誰かと間違えてませんか、お客さん」
思わず零れ落ちた疑念の言葉に、想一と男性が同時に唯宮を振り返った。
唯宮は手にしていた絵本を居間の畳へと投げ捨て、耐えかねたように立ち上がると、対峙する二人の元へとずかずかと歩み寄った。
「だってありえませんよ! 想一さんがバスケ部のエースだったなんて! バスケってあれでしょう、スクールカーストの上位がこぞってやる、学生部活動の中でも花形のスポーツでしょう!?」
「何だそのステレオタイプな偏見は」
「そんなスポーツでエースを張れるような人はもっとこう、明るくて人気者で、克己心が強くて協調性があって人望が厚くて爽やかで嫌味を言わなくて可愛い同居人を罵ることなんてしなくて!」
「誰が可愛い同居人だ厄介な居候」
「そもそも想一さんにチームスポーツなんか出来るわけないじゃあないですか! この天上天下唯我独尊の権化みたいな人がっ!」
差し込まれる想一の反論を無視してまくしたてる唯宮に、しかし男性は朗らかに笑ってみせた。
「いやいや、間違いなんかじゃないんだよ。本当に優秀な選手でね。たしかポジションは――そうそう、スモールフォワード。特に外角からのシュートが見事でさ。いやあ、ウィンターカップ準決勝での三連続スリーポイントシュートには、本当にシビレたよねぇ」
バスケットボールの試合を見た事も無ければ、知識も皆無の唯宮から困惑の表情を向けられていることも、想一から刺すような視線を投げられていることも、一切意に介さず、男性は饒舌に賛辞を続け、
「想一くんは、プロも注目する選手だったんだよ。実際、卒業後のプロリーグ入りを有力視されていてさぁ」
良い思い出を懐かしむような口調のまま、その視線だけを想一へと戻すと、口端を歪めて言葉を継ぐ。
「――それが、こんな路地裏の片隅で、ご祖父母から継いだ古物店を営むことになるなんて。人生、何があるか分からないもんだねぇ」
「……客じゃないなら出てってもらえますか。一応、営業中の店内なんで」
憎悪さえ感じさせる、地を這うような低く冷えた声色に、その言葉を向けられたわけでもないはずの唯宮が、ぞくりと背筋を凍らせた。
こんな想一の声を、唯宮はついぞ聞いたことが無い。
掃除の際に高価な壺を割った時だって、ポケットティッシュと一緒に想一の服を洗ってくずまみれにした時だって、眠っていた想一を起こそうとしたらうっかり目覚まし時計を顔の上に落下させた時だって、烏龍茶と間違えてめんつゆをコップに注いで飲ませた時だって――
ともかく、唯宮がどれほどの粗相をした時であっても、聞いたことが無いほどの、冷酷な声。
つまり、この不遜な男性が軽々しく口にした言葉の群れは、想一にとって触れられたくない――絶対的な忌諱だったのだろう。
「ああ、これは失敬。確かに商品も買わず、無作法だったかな」
男性は、言葉だけは取り繕うようにそう言いながら、この期に及んでようやく店内の商品へと視線を滑らせる。
唯宮は、そのわざとらしい眼球の動きに、胃が冷えるような不快感を覚えた。
普段ならば、どんな客であれ自分の禍宿物を手にしてほしい、と愛想良く接客を試みるのだが、この男性客には、なぜかその気が起きない。むしろ、手に取らないでほしい、とさえ思う。
その感情が、この男性から滲み出る、腹の底が知れない不気味さに因るものなのか。
それとも、想一の忌諱を踏みにじり、傷つけたことが許せなかったのか。
唯宮には、わからなかった。
「まあ、後で必ず何か買わせてもらうよ。だから、少しだけハナシを訊かせてくれないかな?」
一人の人間と一匹の物の怪から突き付けられている抜き身の敵意を歯牙にもかけず、男性は呑気な口調でそう言いながら、慣れた仕草でコートの内側へと手を差し込んだ。
おそらく、自身に向けられた厭悪に気づいていないわけでも、意図的に無視しているわけでもない。男性にとって、それを向けられるのが至極当たり前で、自然なことなのだろう。
想一の眼前に差し出されたのは、一枚の名刺だった。
無加工の白い上質紙に、黒い文字で肩書と氏名、フリーメールアドレス、電話番号が記載されているだけの簡素なものだ。手間を省いたのか金を掛けたくないのか、やや印刷の粗が目立つのは、おそらくオンデマンド印刷だからだろう。
「……フリーライター、霧室蓮司……」
想一が受け取ろうともしない為、隣から唯宮が、男性――霧室の指に挟まれたその紙を覗き込み、記されている文字列を読み上げた。
「……学生スポーツ記事の取材か何かですか」
黒で刷られた肩書を一瞥し、想一は若干呆れたように息を吐いた。
その声色が先ほどより緩んでいるのは、得体の知れない男性の素性が明らかになったからだろう。
もちろん、公的な身分証明書を見せられたわけではなく、数千円も払えば誰でも手に入れられる名刺に書かれた肩書が真実だとは限らないが、一介の個人店主にわざわざ身分を偽証する理由も考えられない。
「プロになったわけでも強豪大学に入ったわけでもない、五年も前に辞めた過去の選手なんか取材したって、需要ないと思いますよ」
想一は、侮蔑と自虐の入り混じったような語調でそう言いながら、右手で霧室の手から名刺をひったくるように受け取る。
すると霧室は、垂れた眉尻をさらに下げつつ、困ったように頭に手を当て、
「いやいや、そういう記事の取材も心惹かれるけど、今回はそっちじゃないんだよ」
そっちじゃない、とは。
想一と唯宮がほぼ同時にそう思い、促すように霧室の顔を見やる。
その温和な笑みを崩さないまま、霧室は軽く会釈をしてみせた。
「僕は、ライターとは名ばかりの何でも文章屋をやってるんだけどさ。今は、もっぱら――オカルトや怪異、超常現象なんかをメインに取り扱ってるんだよ」
「え」
唯宮が、思わず声を漏らす。
「少しは界隈に名が知れたのか、ありがたいことに僕の元にはそういった情報がたくさん舞い込むようになってねぇ。まあ、その分ガセネタも多いんだけど……そんな玉石混交の中にも、有力な情報ってのが紛れ込んでるもんでさ」
飄々とした声色を崩さない霧室に、想一の目元に鋭さが戻る。
霧室はその視線をまるで興がるように、やや皺の寄った口端を歪め、
「で、その有力情報によると――どうも最近、この近辺で、奇妙な力を持った古物による不可思議な現象が発生した、ってことらしいんだけど」
射貫くような鋭利な光をその瞳に宿らせると――その節くれ立ったひとさし指で、自身が立っている土間を指してみせた。
「どうやら、その怪しげな品の出処が――――このお店、らしいんだよ」
ああ、と、唯宮は萎えそうになる脚をかろうじて踏ん張りながら、想一の彗眼に内心で感服する。
この男を、『いつもの嘘』によって水際で退けようとした想一の言動は、何も間違ってはいなかった。
明確な理由や根拠は無くとも、おそらく想一は見抜いていたのだ。
この来訪者が、セールスや業者など比べものにならないほど厄介で、面倒で――
「ハナシ、訊かせてくれるよねぇ?」
――禍いをもたらすものなのだと。




