名前を燃やす
秤が、悲鳴のような音を立てて揺れていた。
街の名前。
人々が削り、売り、奪い合ってきた“総量”。
それが今、イオの名前に引き寄せられている。
――イオ
――イオ
――イオ
呼ぶ声は祈りであり、呪いだった。
「考えなくていい」
名無しが言う。
「正しい選択なんて、この街にはない」
「……それでも」
「決めるのは君」
イオは、自分の胸に手を当てた。
名前はそこにあった。
削られていない。
減っていない。
けれど今、確かに“使われている”。
街が、生き延びるために。
「……俺は」
声を出した瞬間、秤の針が大きく振れた。
地下全体が震え、壁に埋まった文字片が一斉に光を放つ。
「やめろ!」
上から怒声が落ちてきた。
名貸し屋たちだ。
帳簿を掲げ、文字の鎖を引きずりながら、地下へなだれ込んでくる。
「その名前は街のものだ!」
「秤に載せろ!そうすれば、まだ皆が助かる!」
名無しが一歩前に出た。
「嘘つき」
「何だと!」
「助かるのは、“街”だけ」
彼女は振り返らずに言う。
「人は、もう助からない」
イオは理解した。
この街は、誰かの名前を食べ続けないと存在できない。
救いとは、延命だ。
「俺の名前は――」
言葉にした瞬間、胸が焼けるように痛んだ。
名前が、街と繋がろうとする。
「俺の名前は、街のためじゃない」
イオは秤に手を伸ばした。
「俺の名前は――俺が生きるためのものだ!」
掴んだ瞬間、光が爆ぜた。
秤が、ひび割れる。
街の名前が、音を立てて崩れ落ちた。
「やめろおおお!」
名貸し屋の文字の鎖が飛ぶ。
だが、触れた瞬間に燃え、意味を失って消えた。
地下が崩れ始める。
壁から名前が剥がれ落ち、人の形を失った影が、静かに倒れていく。
「イオ!」
名無しが叫んだ。
「名前を放して!このままじゃ――」
「いい」
イオは、笑った。
「初めてだ。
自分の名前を、こんなに使ったの」
名前が燃える。
削れるのではなく、燃え尽きていく。
だが、不思議と怖くなかった。
秤が完全に砕け、街の名前が音もなく消滅する。
その瞬間、呼ぶ声が止んだ。
静寂。
そして――
地上から、朝の光が差し込んだ。
「……終わった?」
名無しが呟く。
地下は崩壊し、秤は瓦礫になっている。
だが、イオは立っていた。
「名前……」
名無しが恐る恐る見る。
イオは胸に手を当てる。
「減ってる」
「……」
「でも、まだある」
名無しは目を見開いた。
「街に全部は渡さなかった」
イオは言った。
「燃やしたのは、“縛られてた部分”だけだ」
名無しは、しばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「ずるいなあ」
「そうかもな」
地上へ続く道を、二人は歩き出す。
背後で、街が崩れる音がした。
名前を食べる街は、もう存在しない。
「ねえ、イオ」
「ん?」
「外に出たら、私に名前をくれる?」
イオは少し考えてから、答えた。
「一緒に探そう」
「……うん」
朝の光の中で、名無しは初めて、影を持った。




