街が生まれた日
暗闇は、思っていたよりも広かった。
旧門の奥は地下へと続いており、階段は途中で崩れ、道というより“落ちた跡”に近い。
壁一面には、削られた名前の欠片が埋め込まれていた。
光るもの。
濁ったもの。
すでに音を失ったもの。
「……ここは」
「街の下」
名無しは淡々と答えた。
「正確には、街が生まれた場所」
イオは足を止めた。
胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「この街は最初から名前を食べてたわけじゃない」
「じゃあ、どうして……」
「足りなくなったの」
名無しは壁に埋まった文字片に指を触れた。
「昔、この街には“名前を増やす魔法”があった」
「増やす?」
「人が生きるほど、名前が育つ魔法」
名は呼ばれるたびに深くなり、意味を増し、次の世代へ渡されていく。
それが、この街の誇りだった。
「でも、ある日気づいた」
「何に?」
「名前は無限じゃないってことに」
名無しの声が、わずかに低くなる。
「街は大きくなりすぎた。
人は増えた。
呼ぶ声は増えた。
――名前が、追いつかなくなった」
その結果、生まれたのが“名削り”だった。
最初は一文字。
次は音。
最後は意味。
「奪えば、分け合えると思った」
「……でも」
「うん。名前は分けた瞬間に、腐る」
名無しは笑った。
「だから街は、食べるしかなくなった」
最奥に、広間があった。
そこには巨大な秤が置かれている。
入口の秤とは比べ物にならないほど古く、重い。
皿の上には、街の名前が載っていた。
「これが……」
「この街そのもの」
イオの名前が、胸の奥で震えた。
呼応するように、秤が軋む。
「君の名前が減らない理由、分かる?」
「……分からない」
「君の名前は、この街の外で生まれたから」
名無しは静かに言った。
「街のルールに、縛られてない」
「だから狙われる?」
「違う」
彼女はイオを見つめた。
「街を壊せるから」
沈黙が落ちる。
「私はね」
名無しは続けた。
「この街で最初に“名前を失った人間”」
イオは息を呑んだ。
「奪われたんじゃない。
捧げたの」
「誰に?」
「街に」
名前を差し出し、街を生かした存在。
だから、名無しは食べられない。
値段がつかない。
「でも、もう限界」
「だから俺を……」
「うん」
名無しは、初めてはっきりと笑った。
「君の名前で、この街を終わらせたい」
その瞬間、秤が大きく揺れた。
外から、無数の声が重なる。
――イオ
――イオ
――イオ
街が、彼の名前を覚えた。
「選んで」
名無しは言う。
「名前を渡して、街の一部になるか」
「それとも――」
「名前を守って、全部壊すか」
イオは、自分の名前を初めて“重い”と感じた。
そして、答えはもう決まっていた。




