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逃げる名前

イオは走っていた。

夜の街は昼よりも静かで、その分、音がよく響く。

足音。

荒い息。

そして――自分の名前が、背後から呼ばれる気配。


「イオ」


誰も声を発していないのに、確かに聞こえた。

この街では、名前は声を持つ。

狙われた名前は、持ち主を裏切る。


「来てるよ」


隣を走る名無しが、淡々と言った。


「三人。名貸し屋と、その下の犬が二匹」

「どうして分かる?」

「名前の音が汚いから」


彼女は一度も振り返らない。

まるで、追われることに慣れているかのようだった。


路地を曲がる。

橋を渡る。

橋の下では、名前を失った人間たちが、声もなく座り込んでいる。


「止まらないで」


名無しの声が、少しだけ低くなる。


「ここで立ち止まると、名前を置いていくことになる」


イオは歯を食いしばった。

胸の奥が、ひどく熱い。

呼ばれすぎた名前が、悲鳴を上げている。


「どうして君は追われない?」

「私は“値段がつかない”から」


名無しは短く答えた。


「売れない名前は、食べても意味がない」

「……それって」

「そう。私はこの街にとって、ゴミ」


だが、その声には自嘲も悲観もなかった。

事実を述べているだけだ。


突然、前方に灯りが見えた。

門だ。

街の外れにある、封鎖された旧門。


「出られるのか?」

「出られない。でも――隠れられる」


名無しは門の脇に手を突き、古い石壁を押した。

ぎい、と鈍い音がして、隙間が開く。


その瞬間、背後から怒声が飛んだ。


「止まれ!その名前を渡せ!」


名貸し屋だった。

帳簿を掲げ、文字が鎖のように宙を走る。


イオの足が、止まりかける。


――名前を呼ばれる。

――奪われる。


そのとき、名無しがイオの手を掴んだ。


「聞かないで」

「え?」

「今から何を言われても、自分の名前を考えないで」


二人は隙間に滑り込む。

次の瞬間、文字の鎖が石壁に叩きつけられ、砕け散った。


暗闇。


息だけが、やけに大きく聞こえる。


「……助かったのか」

「一時的にね」


名無しは手を離した。


「でも、もう戻れない」

「最初から、戻る場所なんてない」


イオはそう言ってから、自分で驚いた。

言葉が、自然に出たのだ。


名無しは少しだけ目を細めた。


「いい音になってきたね」

「何が?」

「君の名前」


暗闇の奥で、何かが微かに光った。

削られた名前が集まる場所。

捨てられた“音”の墓場。


「ここからが本当の逃亡だよ、イオ」

「どこへ?」

「この街が、嘘をつき始めた場所へ」


外では、まだ誰かが彼の名前を呼んでいる。


だが、イオはもう振り返らなかった。


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