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名前の値段

イオは、自分の名前がいくらで売れるのかを考えたことがなかった。

考える必要がなかった、と言ったほうが正しい。

この街に来るまでは。


朝の市場は騒がしかった。

野菜の値段を叫ぶ声、名前を削る刃の音、そして――泣き声。


「三音節でこの程度か。安いな」

「待ってください、それは父の名前なんです!」


名を削る職人の前で、若い男が縋りついていた。

台の上には、薄く光る文字片が並んでいる。

削られた名前の残骸だ。


イオは目を逸らした。


見慣れているはずなのに、どうしても慣れない。

名前が削られるたび、人が少しだけ空っぽになるのが分かるからだ。


「君」


背後から声をかけられ、イオは肩を強張らせた。


振り返ると、黒い帳簿を抱えた男が立っていた。

名貸し屋だ。

名前を担保に金を貸す、街でもっとも胡散臭く、もっとも繁盛している商売。


「君の名前、見せてもらっても?」


逃げる理由はない。

イオは静かに、自分の名を口にした。


その瞬間、男の目が見開かれた。


「……減りがない。艶もある。音が若い」

「売りません」

「そう言うと思った」


男は笑ったが、その笑みは欲に濡れていた。


「だが覚えておくといい。この街じゃ、“持っているだけ”でも罪になる」


その夜、イオは安宿に戻らなかった。


昼間の視線が、あまりにも多すぎた。

彼の名前は、もう市場に匂いとして広がっている。


路地裏に入ったとき、気配がした。


「追われてるでしょ」


あの少女だった。


昼に見たときと同じ、名前を持たない目。

空っぽなのに、底が見えない。


「君……」

「私は“名無し”でいいよ」


少女は壁にもたれ、夜空を見上げた。


「この街ね、嘘つきなんだ」

「嘘?」

「名前を奪うと、人は空になるって言うでしょ。でも本当は逆」


少女はイオを見た。


「名前が残ってる人間から、先に壊れる」


遠くで、名削りの音が鳴った。

ギィ、と嫌な金属音。


「逃げなよ」

「君は?」

「私は、食べられないから」


名無しは笑った。


その瞬間、イオは理解した。

この少女は被害者じゃない。

この街の“異物”だ。


そして自分もまた――

同じ側に立ち始めているのだと。

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