ゆうきの歌─前編─
顔を赤くして困惑したまま開いたドアを閉めようとする明野さんを他所に明音は自分の下から這い出て何事もなかったかのように声を張り上げる。
「2人とも、揃ったね!」
しかし、明音が実際には動揺しているのは明らかだった。声は無駄に大きいし上擦っているし、顔を隠すように背を向けてしまったが耳が赤くなっている。
明音が屋上の端まで走り始めて、太陽にぐっと近くなる。太陽を背にした明音は出会ったあの時のように長い髪を夕陽色に染め上げて全身を輝かせている。夕陽に溶け込む輪郭よりも煌めいて見える瞳が印象的で、照れによるものなのか紅潮した顔までもが今は明音を彩る色彩になっている。
「ごめんね、夕輝。夕輝が私に言いたいことがあるのはわかってたんだ。だけどこれまでずっと俯いてたから、私にとって夕輝の見る世界は彩に溢れていて眩しくて……。少しだけ手を伸ばすための勇気と時間が必要だったの。」
茜色の空気を大きく吸い込んで秘めていたその胸の内を吐き出す明音。
「夕輝の見ている世界が気になったから夕輝に近づこうと思ったのに、いざ足を踏み出したら少しこわくてためらった。それでも夕輝の見ている世界を知れば知るほど目を逸らすことはできなくなっていった。」
それじゃあ……と続く言葉を投げかけたくなるのを飲み込んで明音の紡ぐ音節を待つ。
「それと同時に、夕輝と話して少しだけ夕輝の焦る気持ちも憧れる気持ちもこれまで繰り返した挫折の苦しさも伝わってきた。だから今日、屋上にやってきた覚悟を決めた夕輝の顔を見た時に私も心を決めないとって思った。」
火照るように熱を帯びた顔、燃える宝石みたいな瞳……夕陽に煽られて汗ばんでいるのか高揚した体温が上気させているのか、小さく震える吐息と体は飛び出すことを恐れているのか期待を抑え込む武者震いなのか。
見ているだけでは明音のうちに秘められたものはわからないけど凄まじいほどの感情が彼女の中に渦巻いているのが確かだった。山が震えているみたいな凄みを感じる。
そんな爆発しそうな力の滾りが静かに閉じられる瞼とともに消え失せるようにピタリ……と鎮まる。
「私はね、これまでずっと何も自分に響かないように誰のことも震わせないように全部感情は自分の中に押し込んで抑え込んできたんだ。それが一番、楽だから……。惑わなくていいし惑わせなくていい。悲しまないし悲しませない。憎まないし憎まれない。みんな、私に興味を持たないでいてくれる……。」
目を閉じたままの言葉は落ち着いているのに秋の風みたいに寂しく乾いていた。
「それでも心の中に溜まり続ける感情は全部歌にのせて吐きだしてきた。私の憧れのバンドが教えてくれたんだ。歌うことは私にとっては、自分の中の自分と向き合うこと、本当の私を知ろうとすること。だから、夕輝と会うようになってからは歌わなかった。だって、歌ったらきっと……もう止まれないから。」
ふぅーっと明音から吐き出された春一番。そして、微かに残る冬の空気をすっと短くすべて吸い込んだ。屋上の空気が変わった。言葉を失うほどの緊張感、息も忘れる。だけど最初にあった時の威圧的で冷たい圧力じゃない。むしろ、目を合わせずにはいられない。私を見ろと存在を主張する。圧倒的な輝き、オーラ、カリスマ……。間違いなくこの瞬間、世界の中心は明音だった。
「歌うよ、聞いて。」
短く告げると、覚悟する間もなく紡がれた音と濃縮された爆発的な感情が押し寄せてくる。
深く落とされた心を包む夜の闇の中、やがて来る朝を予感させる。この歌声は世界を変えてしまえる。きっとこの歌なら届く。誰にでもどこにでも響き渡って……。
そしたら、きっと戻ってきてくれる。
明音の歌に震える心の端に、いつまでも落ちないままの染みがじわりと小さくまだ消えずにいた。
それを自覚しながらも握りつぶすように握りしめた拳が共に歩む未来を確信して小刻みに震えていた。ほんのわずかに曇った顔は気づけば不敵に笑みを浮かべている。
もしも世界を変える音があるなら、きっとこの歌声がそうに違いない。
*****
委員会とかいろいろな用事が押して明音ちゃんが屋上に来てほしいと誘ってくれたのにすっかり遅くなっちゃった。
それにしても何の用事だろう?ここ最近は明音ちゃんと一方的にではなくお話ができるようになって自分の中では友達になれたかな、とちょっとドキドキしていたのだけど……もしかして明音ちゃんもそう思ってくれているのかな。
そんなことを考えると嬉しいような信じられないような気持ちになって、ドクドクと脈が速くなる。つられるように屋上へ向かう足もそそくさと速くなる。走り出しそうになるのを抑えながら、ぎりぎり早歩きくらいのスピードで……。廊下は走ると危ないから。
あまり運動は得意じゃないから胸が苦しくて息が上がってしまうけど、屋上まであと少しだと最後の階段を見上げて立ち止まり深呼吸をする。
(廊下じゃないし、いいかな……?)
もちろん良いわけはないんだけれど、うちに秘めた好奇心旺盛な冒険心は聞く耳を持たずに階段を駆け上がる。
階段を登りきったところで、あとは角を曲がって踊り場から出るだけだし息を整えながら歩いて行こう。と違和感に気づく。
屋上はすぐそばなのに、とても静かだ。明音ちゃんは夕輝くんも呼んだと言っていたから二人がいるはずなのに少しの会話も漏れ聞こえない。もしかして、二人とも帰っちゃった……!?
息が苦しいのも忘れて倒れこむように屋上の重たいドアを開く。
目の前に広がるのは誰もいない屋上……の代わりに、なんだかいけない体勢の二人。これは……えっと、
私は思わず声とも叫びともつかない不思議な鳴き声のようなものを発していた。
お邪魔しちゃいけない、とドアを閉めようとすると夕輝くんの下からするりと抜け出した明音ちゃんがこちらを見て話を始める。
まだ状況は飲み込めないけど、それが明音ちゃんにとって大事な話だということはすぐにわかった。
明音ちゃんの話は、たぶん私が夕輝くんと明音ちゃんと初めて会った時の続き。夕輝くんが世界を変えたいといったあの日の話。
私はなんだか歴史的な瞬間に立ち会っているような気がして痛いくらいに胸が高鳴った。
この二人はきっとこれからどこまでも飛んで行って本当に世界を変えてしまうんじゃないかな、と思ってライブ会場の最前列で舞台を見ている観客のような気持ちになった。
これから私の知ることのできないような遠い世界の出来事が始まるんだ。
そう思うと嬉しいのかな、興奮しちゃったのかな。なぜかわからない涙が小さく頬を流れていた。
憧れちゃうな。
「……いいなぁ。」
小さく、無意識にそんな言葉が口から溢れ出した。
どうしてそんな言葉が自分から出たのか、それもわからないままに空気が肺を満たすように明音ちゃんの歌を全身に浴びる。
明音ちゃんの想いが話すより鮮明に伝わってくる。これまでの苦悩も今感じている喜びも、私にはきっと見ることのできない明音ちゃんの描く素敵な未来も。
パタパタとまばらに零れる涙が地面を濡らした。きっと、こういう人が触れるものを輝かせてゆく……そんな人なんだろうね。
私も、なって見たかったな。そんな人に。
*****
前後編って同日投稿の方がいいんですかね?