岩戸
とてもこの場をやり過ごすための演技には見えない明野さんの様子に朝凪さんの表情にも困惑が見られる。
「もしかして、いつも屋上で歌ってたのは明音ちゃんだったの……?」
明野さんは本気で言っているのだろうか。
扉の向こうで歌っているのが誰かわからないままあのご機嫌な様子で立派に観客をしていたということ……?
何となくそんな様子だとは思っていたけど、いつもということは明野さんは頻繁にこうして扉の前で知らない誰かの歌を聞いていたということだろう。思っていたより変わった人なのかな……。朝凪さんもそれを聞いて一段と困った顔をしている。しかしそんなことは気にも留めず明野さんは顔を明るくする。
「凄いんだね、明音ちゃんって……。私、やっぱり明音ちゃんとお友達になりたいな。もっと明音ちゃんの歌を聴かせてほしい。」
曇りのない真剣な眼差しが屋上から射す夕陽を受けてきらきらと輝いている。この瞳の輝きが人を惹きつけるのだろうか。
朝凪さんも明野さんを真っ直ぐに見つめている。見定めるような目でもあり、その一方で後ろめたさを隠すように時折目を逸らそうと視線が泳いでいる。
「別に、凄くなんてないよ。」
伏し目がちに朝凪さんは応えた。いつも通り、その後に続く言葉はない。この話はここで終わりだと、そう言っている。
朝凪さんが背を向けて屋上へ戻ろうとする。
「歌は、好きにしたらいいと思うよ。もうしばらくはやめるつもりはないから……。私にそれを止める権利はないよ。」
押さえていた屋上の扉から朝凪さんが手を離す。明野さんが悲しそうな顔で立ち竦んでいる。少し、明野さんの言葉や眼差しが届きかけたのに、世界はそうは簡単に変わらない。
古い扉は引き攣るような音を立ててゆっくりと屋上の景色をしぼっていく。隙間から漏れる夕陽の向こうに朝凪さんが呑み込まれる。
いいのかな、それで?
閉じていく重い扉に、太陽の光、その奥へ隠れるみたいに遠ざかる朝凪さん。ああ、アレみたいだな。と思ってほぼ反射的に閉ざされようとしている扉を押し上げた。
その時思い浮かべていたのは、しばらく前に物語を書いていた時に調べて読んだ昔話。
ある時、太陽が岩窟に籠り世界が闇に閉ざされた。結局、太陽を外に出すために取った手段が気を引いて岩戸から覗いた隙に引っ張り出して岩戸は投げ捨ててしまう、というお話。
読んだ時は結局原因は解決してないんじゃないか、とか物凄い力技だなと思いもしたけどたしかに今閉ざされようとする扉を前にすると、たしかにここで今再び閉ざさせてしまえば次はもうないかもと思った。それでいいわけない。
太陽を諦められる者なんて、人でも神でも……そんなのいるわけない。
朝凪さんも明野さんも、蚊帳の外だった自分が飛び出してくるとは思わなかったようで驚きを露わにしてこちらを見ている。
困ったな、何も考えてない。咄嗟だから次の行動なんて決めてるわけがない。今まではずっと机上の空論を積み重ねて計画に沿って動いてたけど人を相手にするって思い通りにいかないもんだなぁとか現実逃避気味に考えてしまう。
扉を押し上げたままどうしようかと考えていると朝凪さんが不機嫌そうに問い掛けてくる。
「まだ何かあるの?」
朝凪さんが自分から相手の返答を促すのはかなり珍しいことだった。朝凪さんとの会話がうまく続かない理由は朝凪さんが相手に問い掛けないからだ。だから何か質問しても朝凪さんが答えたところで話の勢いが死んで終わる。
そして、それ以上に珍しいのは朝凪さんの表情。どんなときでも同じ笑顔を浮かべている朝凪さんが今は随分と不機嫌そうな顔をして不快感を剥き出しにしている。
そういえば屋上では前見た時も朝凪さんは初め、背を向けていた。教室の様子や普段の態度からは掛け離れた感情が迸るような歌声も今の顔を見ればなんとなく腑に落ちる。
屋上にいる時だけは朝凪さんは本来の朝凪さんでいられるのかもしれない。唯一素でいられる場所と時間の邪魔をしたとしたら、それは竜の逆鱗に触れたも同然かと背筋が冷えた。
だけど、同時にチャンスでもあるかもしれない。普段なら打っても響かない朝凪さんが感情を滲ませている。今なら朝凪さんを覆う薄氷を割って朝凪さんの心に触れられる。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。朝凪さんの揺れる綺麗な瞳を見詰める。頭は冷静に分析をしているつもりでも行動が伴うとは限らない。そもそも冷静かも分からない。
「世界を変えたいんだ。その為には朝凪さんの力が必要だから、力を貸してほしい。」
バカ正直な言葉が飛び出した。何言ってるんだろう本当に。そのまま過ぎて逆に自分が何を言っているのか分からなくなってしまった。世界を変えるっておとぎ話やフィクションでしか聞いたことない。
ほら、朝凪さんも固まってる。何を言っているんだろうって顔をしている。嘘偽りはないけどもっと違う言い方ができただろ、とか反省が止まらない。
「それって、どういうこと……?世界を変えるって、何をするの?」
反応は思わぬところから返ってきた。
声の方を振り向くと明野さんが目を輝かせながら少し興奮気味にしている。何がどうしてそうなったのか、明野さんの琴線に触れたらしい。
……こうなったらいけるとこまでいくしかない。
風が吹いたら、乗るしかない。