第38話 下手くそな喧嘩
ドア越しに明音の歌が聞こえてくる。いつかを思い出すような状況。まだそれほど時間は経っていないはずなのに日々をめまぐるしく過ごしてきたせいかずっと昔のように感じる。ひとりきりで停滞し続けていた頃が嘘のようで地球の自転が早くなったんじゃないかと思うほどだ。
明音の歌はあの時と同じように……いや、あの時よりもずっと良くなっている。誰かに助けを求めるように退屈の中で溺れる心の息継ぎのように歌に込めていた必死さが、今は豊かな毎日の彩りを感じさせるような幅のある伸びやかな旋律に変わっている。
それなのにドア越しに明音の歌を聴いている今の心境はとても晴れやかとは言えない。屋上に晴れ間が覗き、ドアにある窓から射す光に相反して色濃く落ちる足元の影は今の心によく似ていた。
明音の輝きが増すほど欠落ははっきりと輪郭を描き浮き彫りになる。
大きく息を吐いて湧き上がる無力感や不甲斐なさを奥歯を噛み締めて両手に込める力に変えた。
「だからここまで来たんだろ。」
そう自分に言い聞かせてドアに背を任せ、明音の歌に耳を澄ました。聞き惚れる間もなく歌は終わり自分の番が間近に迫る。ドアの向こうからは明音と物部の声が聞こえる。
「どうかな、私の歌。」
「……正直、これ程とは思わなかった。心が震えるとか心に届くとか、そういうの全部誇張だと思ってた。あくまで小説や漫画の表現でしかないと。誰が歌ったって上手いか下手か、それだけだと思ってた。」
「お、おおう……。そうでしょ、すごいんだよ……!ね?」
「うん、明音ちゃんは凄いよ。いつも明音ちゃんが聴いてるブッシュ・ド・ノエルと同じくらい」
思ったよりもずっとストレートに褒められて明音が困惑している。でも物部の言葉は誇張なんかじゃない。
空気が震えて音になるのだから、歌は心を震わせるものだ。心の中のインチキ物理学者がそんなめちゃくちゃな理論を唱えてしまうほど明音の歌は胸を打つ。
そして、それとは別に物部の言葉がどことなく歯切れが悪く含みを持っていたことに自分は気付いていた。そして、その含みが何なのかにも。
「と、とにかく私の伝えたいことは伝えたから私の番はこれでおしまい!呼んじゃうからね!!」
「わかってる。俺もそのつもりで来てるから。」
「来途くん……!」
物部は逃げずに向き合おうとしてくれている。無視することだってできなくはなかったはずだ。だから俺も正面から応えないと。
「夕輝ー!!あとは任せたよ!!」
明音の呼び掛けに応じてドアを開く。随分と傾いた陽射しの中に物部が立っていた。
ここからどうするかはもう決めている。ここまで来たら作戦なんてない。今度は、ちゃんとぶつかろう。
「物部、ありがとう。」
「別に……。自分の為だから。」
明音ちゃんと紡ちゃんに屋上から退出してもらって物部と正面から二人で向かい合う。
「先に伝えとく。」
二人が踊り場に戻りドアが閉まるのと同時に物部が口を開く。お互いしばらく沈黙が続くかもと思って先手を取って切り出そうと思っていたから少し虚を突かれた。
「うん。」
「俺は……手伝いたいと思ってる。一緒にその、計画ってやつをやらせてほしい。」
「……!!」
「俺だって自分を諦めたくない。まだできるんだって信じたい。」
何も言わずに物部の言葉に耳を傾ける。
「……でも、そこまで思って言葉に出せてもまだ抜け出せない自分がいる。まだ、こわいんだ。紡ちゃんに手を差し伸べられて手を引かれて、朝凪が背中に背中を押されて……あと一歩なんだ。」
物部は今、闇を抜けようとしている。夜に取り残されて一人座り込んでしまった暗闇から立ち上がってまた走り出そうとしている。
「だから俺にあと一歩踏み出させてみろ、暮橋夕輝……!」
一見高慢にも思えるその言葉は物部が自らを奮い立たせようとして出した精一杯の勇気だ。
「わかった。全力で喧嘩しよう、物部来途!!」
そうして、幼い子供同士が取っ組み合いをしながらする言い合いのような下手くそな喧嘩が始まった。
「あの歌はなんだ!朝凪の実力はあんなもんじゃない!それはお前が一番わかってるだろ!!朝凪を見出したのはお前なんだから!」
「ああ、わかってるさ!!でも俺にはあれが精一杯だ!!だからお前が詞を書け!お前ならできるはずだ!!」
責めているのか褒めているのか、嫉妬なのか認めているからなのか、それすらも分からない心と心を剥き出しにしてぶつけ合うノーガードのぶつかり合いを繰り返す。
「あの舞台は俺の力じゃない!もっとうまく伝わるようにやれていればお前の物語はあんなもんじゃないすごい力を持ってるんだ!!本当はお前の言葉だけであの舞台よりももっとみんなの心を震わせられる!!」
「俺だってそう思ってる!俺の物語は面白い!!だけど誰かに伝えるのが俺は下手なんだ!そう思うならお前や朝凪の力を貸せ!!」
はじめに物部が自分の意思を表明してくれたおかげで説得しようとすらしないで思ったことをそのままに口に出して本音でぶつかり合える。もう目的なんてないようものだけど分かり合う為には必要なことだった。
お互いに疲れきって口が回らなくなってきて息が切れる頃には太陽はもうほとんど沈んでいた。
「ハァ……ハァ……暮橋、最後にひとつ聞かせろ……。」
「はぁ……ああ、わかった……。なんだ……。」
息も絶え絶えの中最後の問答が始まった。
「これから先……走って、走ってその先に、もし何もなかったら、何も得られなかったらどうする。」
それはきっと来途が抱え続けた恐怖の核心なんだろうと思った。
この話、ずっと構想があったにも関わらず書いてみると全然うまく書けなくて悔しいです。うーん、いつか書き直すかな……。




