紡 オープニングアクト
忘れてました。昨日の更新……。
私がまだ小学生にあがる前の頃のこと。
お父さんとお母さんに連れられて演劇の舞台を観に行ったことがある。
当時の私はまだそこで何が行われるのかもわからなくて、ただ大きく広い椅子のたくさん並んだホールに連れられて一番前の列に座らされて「いい子にしていないとだめだよ」とお父さんに言われるままに緊張でドキドキしながら目の前に垂らされた綺麗な刺繍の施された大きな幕を見ていた。
これから何が起こるのか。この幕の向こうには何があるのだろうか。
おめかしした普段は着ない余所行きの服の裾をぎゅっと握りしめていると、ブーッと大きなブザーが鳴って会場が真っ暗闇に包まれた。
突然訪れた闇に驚いて左右に座る両親を見るけど二人は舞台の方を向いて私の様子には気づかない。
心細くて泣きそうになっていると、舞台の幕が上がりまばゆいほどの光が幕の向こうから溢れ出した。それが私の憧れの始まりだった。
……もっとも、肝心の劇の内容などはもうすっかり忘れてしまっていて、舞台の上に広がる世界に夢中になっていたことしか覚えていない。
あの日見た舞台が何か有名な劇団の公演だったのか小さな劇団の小規模な公演だったのかもわからないし、あのホールがどこでどの程度の規模の会場なのかすらもまるでわからない。
もしかしたらあれは地元の学生演劇でほとんどが地域の住民や身内友人のみで占められていて私の親もその縁で見ていただけなのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよくて私はあの舞台がきっかけで心の中に輝けるステージへのひそかな憧れを抱いた。
そんな幼い日の憧れを抱いたまま、私はここまで来てしまった。
生来の気質か、臆病で踏み出すことを恐れ大きなことを成し遂げられない良く言えば堅実な私の歩みぶりは結局今の今まであの時憧れた”観客席の少女”のまま変わっていない。
特にこれということはないけど何か大きなことを成し遂げたり何かに夢中になったり凄いことをして、画面や舞台の向こう側で光を浴びるスーパースターになりたい。
触れるものを輝かせていく、そんな人になってみたいと思っていた。
だけど、あの後結局親に何かをやりたいと言えるわけでもなく舞台の上に立つためのはじめの一歩を踏み出すこともなく、いつか何かにつながるかもなんて思ってただ毎日をひたむきに懸命に、目の前にあるものを片付けるように生きてきた。
そんな人生を繰り返してきたものだから次第に周りからの評価は真面目な優等生に向けられるものになり始めたが、私に与えられる優等生とか真面目とかいう言葉はまるで際立つものやことさら突出した部分がない平凡さを証明されているように感じられてあまりうれしいものではなかった。
私は問題児だっていいから思わず目を引くような特別な存在になりたかったけど、そうなる勇気がないから大人しいだけの人物なんだ。
いわゆる優等生というものにありがちなことで、特に実際の能力とか学業成績にはかかわらず何となく責任感がありそうというだけの理由から学級委員会だとかクラス委員だとかいうような役職が、私が望まずともそのお鉢が自分に回ってくるのを嫌った人から回されることが多くなった。
何もしないよりはましかな……なんて思っていつも心の中に苦笑いを浮かべて引き受けてしまう。どこにでもよくある一般的な人物像を裏付ける展開は自分の破りたい殻を周囲の評価という外殻で一層分厚くするばかり。
高校二年生。
進路がどうこうとささやかれ始め否が応でも将来の方を向かされる時期だ。
このままではだめだと流石の私も息巻いて大胆に自分を変えよう!なんて思っているうちに今年もクラス委員になってしまった。
これはまずいと思った私は一世一代の行動を起こすことにした。
その日、私は人生で恐らく初めて友達に嘘をついた。
何も予定はないのに今日は予定があるからと嘘をつき何の用事もないけど放課後の学校に居残りをしてみた。
嘘をついたときの私は心臓が爆発するかと思うくらいにドキドキしていたけど、友達を見送って人目を避けるように人気のない廊下に逃げ出して歩いているとだんだんと冷静になってきて、何をしているんだろうと少し後悔が顔を覗かせた。こんなことしたって何もならないのに……。
ともあれ折角なけなしの勇気を振り絞って悪い子になってみたのだから、と人のまばらになった校舎をひとり行く当てもなく歩き回ってみるものの予定のない放課後の学校に一人でいることの退屈さを思い知らされた。
どうしたものかと悩んでから、とりあえず今日の課題をやってしまおうと教室に戻って誰もいない静かな教室であっさりと課題を終わらせる。
外を見ると帰るにはまだ早く日もようやく傾きかけたかというところ。
もう少しだけ学校の様子を見て回ることにした。
万年帰宅部の私はふとグランドから響く威勢のいい声に興味を惹かれて勝手に部活動見学を始める。
体育館にグラウンド、部室棟や科目の教室……。
放課後にそれぞれの汗を流し時を過ごしクラスの垣根を超えて何かに打ち込む生徒の姿を遠巻きに見つめていると何に打ち込むこともなくただ目の前の道を歩くだけの自分の姿が浮き彫りになって、夢もなく信念もなく夢中になれるものもない自分とそうではない人との彼我の差を意識させられ落ち込むばかり。
意気消沈して、とぼとぼと荷物の置いてある教室へ向かった。
沈む心で廊下を歩いていると、窓から射し込む光の帯が顔を刺した。
眩しさに目を細め腕で顔に影を作ったところでひとつの名案が浮かんだ。
時刻は間もなく夕暮れ時。
この学校は珍しいことに屋上が解放されている。一部の期間を除いてあまり人気のスポットではないが、やたらと広く大きいこの学校の最も高い場所に位置する屋上からはこの街を一望できる。
夕陽に染まる街を高い場所から見下ろしてみたい。
そんな思い付きに胸を弾ませて屋上へ続く階段を跳ねるように駆け上がり始める。
この日、私は珍しいことに私のやりたいと思ったことに素直になって足を動かした。いつも私を閉じ込めていた優等生の枷から解放されたからか、窓から射し込んだ夕陽がそうさせたのか、とにかく私は自分の意思で心のままに踏み出した。
軽やかな足が無駄に長い階段に打ちのめされて鉛のように重くなり頭の片隅に後悔はチラつき始めたところでようやく階段を登りきる。
今にももつれそうな足と荒い息を整えるために階段脇で座り込む。
疲労がいくらかマシになって呼吸も落ち着き頭まで十分酸素が回り始めると微かに聞こえる音に気が付いた。
夕闇の静かな校舎に響く音、恐る恐る耳を傾けるとそれは歌のように聞こえる。
音を頼りにゆっくりと音源に近付いていくと、屋上前の踊り場に辿り着く。ここまで近づくと多少くぐもってはいるが屋上から音漏れしている歌がはっきりと聴こえる。
私の心から恐怖心はすっかりと消え失せて、扉越しの聴こえる歌に耳をそばだて聴き惚れていた。
幼いあの日のような感覚。輝きに満ちた舞台の最前列に私はいる。
知らない歌に正体不明の声の主。なにもわからないけれど聴覚になじむ音が、歌詞が、歌声が……感じるすべてが心を捉えて離さなかった。
それから私は時折屋上前の踊り場まで足を運び歌を盗み聞くようになった。
この扉を開けば新しい何かがあるのかもしれないけれど、私には一歩踏み出して舞台の最前列から舞台に上がるだけの勇気は持ち合わせなかった。歌がやむとバレないように足早にそそくさと逃げ帰る。
曲は何度も聞くうちに覚えた。調べてみると屋上の歌姫さんが歌っている曲はすべて同じガールズバンドの曲で、メジャーデビューしていないバンドだった。
だから知らなかったのかな、と思ったけど実は自分たちの少し上の世代の学生の間ではものすごく有名なバンドだったらしくて大ブームを巻き起こしメジャーデビューの噂も幾度となくされていたけどリーダーの方針でデビューは果たされることなく人気の絶頂で解散をしてしまったらしい。
レーベルなどから出される正式な音源はなくいくつか転がっているライブを撮影したような動画しか残っていない。
名前も顔も知らない、歌声だけしか知らない彼女のことを夢想する。
もしも彼女の歌声を多くの人に届けられたら……。
彼女のことを何も知らない私でも一度聞いただけで彼女の歌を好きになった。曲自体が優れているのもあるけど、それはやっぱり彼女の歌声の持つ力だと思う。
この歌がもっともっと遠いところまでどこかの誰かの心に届けば素敵なのに……。
屋上で歌う彼女の観客が今はこっそり聴いている自分と彼女を見守る春の空しかいないことがもったいない。
彼女がどんなつもりで屋上で一人歌っているのかも知らないのにそんなことを考える。考えたところで私には彼女の前に出る勇気すらないのに。
そんなことを考えながら私は今日も屋上へと足を運ぶ。
今日が私にとっての物語の幕開けだとも今がこれから始まる物語のオープニングアクトだとも知らずに。
私の平凡でない日々はもうすぐそこまで迫り、古ぼけた屋上の扉が緞帳のようにゆっくりと開かれるのを今か今かと待ち侘びていた。