第4章:風はいつも通り過ぎる
翌日、二人は外出許可をとった。車は海に近い県道を北へ向かっていた。曇り空が、水平線の境界をぼかしている。夏純は助手席でシートベルトを軽く握り、目を伏せたまま、ほとんど動かずにいた。
「ねえ、水沢先生」
穏やかに切り出されたその声に、水沢はハンドルを少し右に戻しながら視線だけを寄越した。彼女の声は、いつもより半音ほど低く、言葉を選んでいることがわかる。彼は答えず、わずかにうなずいた。
「先生って、煙草、吸うんでしたよね」
「なるべく吸わないようにしてる」
「でも、吸いたい時ってあるんじゃないですか?」
問いかけに、返事はなかった。「少しだけ、止まりましょうか」
水沢はウィンカーを点けて車をゆっくりと路肩に寄せた。ブレーキが音を立てずに止まった。エンジンの振動と、遠く波の音だけが耳に残った。
夏純はようやく顔を上げた。
水沢はシートベルトを外し、ゆっくりとポケットから煙草の箱を取り出す。その仕草を見ながら、
夏純は自分の膝に置かれた手を握りしめた。
夏純は目を閉じた。そして、呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開いた。
「……ごめんなさい。うそ。全部、うそなの」
その言葉が放たれた直後、車内の時間は静止した。
風が、ドアのシールの隙間を擦る音さえ、一瞬、消えていた。
「うそ、って?」
口調は変わらなかった。意味だけが確かに存在していた。
「腫瘍も、検査も、全部……本当じゃないの」
水沢は、左手の指をわずかに動かした。
それは、ギアをシフトするための仕草にも似ていたが、実際には意味のない動作だった。
「本当に……ないんだね?」
「ない。診断書もない」
沈黙が戻った。 待ち、硬く、落ち着きのない空白だった。
エンジンのアイドリング音だけが、時間を保っていた。
「……CT、MRI……それも全部?」
「うん、全部」
「佐伯は……知ってた?」
「うん。あの人には私がお願いしたの。あの人は止めたんだけど。だから悪くない」
「他人まで巻き込んで嘘をついたの」
それは、反射ではなく、選んだ言葉だった。
「君の嘘で……私は、学会を断って、家まで飛んで帰ってきた」
「……うん」
「何度も心臓が変な鼓動を打った。理由を頭が追いつかなくて、でも、前に考えて体が動いた」
「……ごめん」
水沢は額に手をやり、落ち着いて静かに呼吸を整えた。
冷静に見えるが、彼の内部は、今熱が上がったエンジンのように繊細に揺れていた。
「なんで、腫瘍だったんだ」
「一番……先生が無視できないって思ったから」
「脳だたのも、」
「……ごめんなさい」
もう一度、静かに沈黙が戻る。
水沢の脳内では、過去数日の記憶が巻き戻しのように再生されていた。夏純が見せた、あの微笑、少し痩せたと感じた横顔、コーヒーを飲み干す動作の遅さ――それらすべてが、“そう見ようとした”自分の解釈でしかなかったことに気づく。
「……どうして?」「何のために?」
「 先生が
……私のこと 、どう思ってるのか、知りたかった」
「試したかった。たぶん」
「じゃないと……私は、何も確かめられないと思って」
水沢はうなずかなかった。ただ、右手をゆっくりとシートの上に置き、親指と中指で何かを掴むような仕草をしていた。
「人の感情を、確かめるために、うそをついた?」
「うん」
その肯定は、静かだった。淡々としすぎていて、逆にこちらの感情の置き場を奪う。
水沢は深く、長い息を吐いた。そして言った。
「それが君の自由なら、俺が傷つく自由もあるよね」
夏純は答えなかった。
後部座席の影が、わずかに揺れた。どちらのせいかは分からない。
「君のやったことは、たしかに……論理的には理解できる。動機も、構造も、全部説明できる」
水沢の声は、やはり変わらない。けれど、音のないところで何かが深く割れていくような、そんな感触があった。
「でも、理解できることと、受け入れられることは違う。そうだろう?」
夏純の目が、ようやく彼を正面から見た。だが彼はもう視線をそらしていた。車外の暗がりの一点を見つめ、まるでそこに何かしらの解答が貼り付けてあるかのように。
「私がどういう気持ちで、あの夜、君の話を聞いたか……。いや、今さら言わない」
それは怒りの宣言ではなく、ある種の“記録”のようだった。
冷たく保存された記憶の中に、それが“刻印”されたことを伝えるためだけの言葉。
「私の中に、ひとつ、記念碑を立てておくよ。この日のことは絶対に忘れないってね」
「忘れないために?」
夏純が尋ねた。
「忘れてしまったら、また同じように信じるかもしれないだろ」
「何か……反応を見たかった。何も言わないから、いつも、ほんとのところが分からない」
「それで、死ぬかもしれないって、言った?」
「うん」
その一言は、嘘とは思えないほど、正直だった。
水沢は眉を動かさず、ただ深く息を吸い、吐いた。
「……目的は、確認だったのか?」
「うん、でも……それだけじゃない。たぶん、ほんとは私、あなたに感情を揺らしてほしかった。怒るとか、驚くとか、心配するとか、そういう……普通の人みたいな反応を」
「また、君、私のことを“あなた”って呼ぶんだ。本当に反省してるのかね」
その声には、いつものように静かな調子が戻っていたが、音声「揺れ」が含まれていた。
夏純は、すっと顔を上げて、覚悟した。
「うん、ごめん、“先生”」
「それで、僕がどうしたら正解だったんだ」
「私のために、何か……止まってくれれば、それで」
そして、ほんの少しだけ頬を緩めました。
水沢はポケットから煙草とライターを取り出し、無意識のように指先で火をつけようとした。
だが――カチ、カチ、カチ……カチ
。
「……」
夏純はその様子を見て、ポケットから自分の
ライターを出した。
「火、つける?」
水沢は、ほんの一瞬 何かを言おうとしたが、
夏純は、慣れた手つきで、シュッとライターを擦った。
火が灯る。その青みがかった炎を、煙草の先に立つ。
一拍、二拍。
そして、水沢は目を閉じ、ゆっくりと煙を吐き出す。
「……ありがとう」
それは誰かに聞かせるのではなく、ただ自分の内部で響かせるためのものだった。
「自分の行動の目的が論理的に説明できないのは、人間としては健全だ」
水沢の口調には、少しだけ落ち着きがもどっていた。
それは彼なりの「許し」の表現でもあった。
夏純はふっと笑った。
「先生、それ……慰めてるの?」
「定義による。君がそう捉えれば、そうかもしれない」
水沢は、運転席から身を乗り出し、グローブボックスに手を伸ばした。そして、車のキーを取り出して、夏純の膝の上に投げた。
「運転してくれ」
「……え?」
「僕は、君がどこへ向かうかを、見届けてみたくなった」
「……やっぱり、怒ってる?」
「君は、私が怒るという現象を観察しているように見える」
「違うよ。観察じゃなくて……検証」
夏純は、そう言ってハンドルに手をかけた。 彼女の声には自信が戻っていた。
車はゆっくりと動き出す。
「先生、助手席って……ちょっと無力じゃないですか?」
「制御を手放すと言っているのは、基本的には不安定な状態だからね」
「でも、不安定って……ちょっとだけじゃないと思う」
「根拠は?」
夏純は、ちらりと水沢の方を見て、また前を向いていた。
「根拠はないよ。感覚。でも、それって……たまには信じてもいいかも?」
夏純は、ハンドルを握ったまま、微かに笑っていた。
「じゃ、目的地、どこにする?」
「任せる。君が望むなら、」
「ふふ……それ、ちょっとカッコいい」
アクセルを踏み込んだ彼女の目には、確かな光があった。 そして
、水沢は、それを見て静かに微笑した。