第一章:午後の待合室
その日、夏純は研究棟の中庭に隣接する医学部附属の診療所を訪れていた。
キャンパス内にあるその場所は、受診者の数が少ない時間帯にはほとんど無人で、ガラスの反射で向こう側の木立がにじんで見えるような、静けさを湛えていた。
夏純は白い革張りのソファの端に腰かけ、膝の上に置いたバッグのファスナーを、何度も開けたり閉めたりしていた。診察の順番を待っているわけではなかった。
携帯電話を取り出し、数秒迷ってから「佐伯」の名前をタップする。
『はい。どうした、夏純?』
「ねえ、頼みがあるの。先生に……水沢先生に、伝えてほしいことがあるの」
『また、実験でミスしたのか?』
「違うの。……あのね、私、今日、病院に行ってきたって、言ってくれない?」
『え?』
「CTとMRIを撮ったって。で、脳に腫瘍が見つかったって……良性かどうかはわからないって、そう言って」
沈黙が受話器の向こうに広がった。
『……嘘なんだな?』
「うん。軽い貧血出入院はしているけど。でも、本当のことが知りたいの」
『彼の、反応を?』
「うん」
『夏純、それは……危うい賭けだ。彼は、繊細な人間だぞ』
「それでも、知りたいの。言葉じゃ、もう分からないから」
佐伯はしばらく無言だった。電話の向こうで、紙か何かをいじる音が聞こえた。
『わかった。伝える。ただし、僕からの忠告は無視したって、覚えておいてくれ』
「ありがとう、佐伯先生」
電話を切った夏純は、長く息を吐いた。
白いソファの背にもたれかかり、天井の照明の円形をじっと見上げる。自分の嘘が、ほんの少しでも本当であったら、どれほど簡単だっただろうと、ふと思う。
だが、現実は清潔すぎて、嘘だけが体温を持っていた。