幸せな時間
夕刻になり私は日の当たらない地下から這い出してきた。後は疲れた体を家に帰って休めるだけだ。私はいつものように駅に向かった。すると改札の前に彼がいた。彼も仕事帰りのようで少し疲れた顔をしていた。私は勇気を出して声をかけた。
私:関川さんでしたよね?
すると彼は私を見てうれしそうに笑顔を向けてきた。
彼:あっ。これは。新田さんでしたね。またすぐに会えるなんて何という偶然!
私:ええ、私もびっくりしました。
彼:ゆっくり話をしようという約束でしたね。お疲れでなかったらどうです? そこで一緒に食事でもどうですか?
私:はい。
私は彼の誘いににっこり笑ってうなずいた。
そこはごく普通の居酒屋だった。気楽にくつろぎながら、彼はまたいろんな話をしてくれた。私はそれを楽しそうに聞いていた。彼は小さな商社に勤めるサラリーマンだった。
私より2歳上、星座占いの相性も良かった。スポーツマンでしっかりした人だったけど、どこか抜けていた。そこに何か心惹かれるものがあった。そしてスーツは少しくたびれており、その上着の第2ボタンはやはり取れそうになって揺れていた。私は朝からそれが気になっていた。
私:ちょっと上着脱いで。
彼:えっ、どうして?
私:ボタンが気になっているの。
私は上着を受け取って携帯のソーイングセットでボタンをつけ直した。彼はじっとそれを見ていた。
彼:ありがとう。気にはなっていたんだけど。直してくれる人がいなくてね。
そこで私は思い切って聞いてみた。
私:彼女はいないの?
彼:いないよ。君は?
私:私もいないわ。
私は彼の返事にほっとしながら答えた。すると彼はにっこり笑いながら私に言った。
彼:それはよかった。じゃあ、付き合おうよ。君といると楽しいし。
あまりの軽いノリで、私もあまり考えずに笑顔で返した。
私:ええ、いいわ。
彼:じゃあ、さっそく明日デートしよう。ドライブはどう? 明日は土曜日だから休みだよね。
彼はすぐに誘って来た。私に休みはなかった。特にあと7日に迫っているのだから・・・。しかし彼の顔を見ているうちにどうでもよくなった。どうせこの街の終りまであと少しだ。せっかくできた彼とデートして何が悪いと。今じゃないとこんなデートはできないんだと。
私は仕事をさぼることにした。
街の終りまで6日となっていた土曜日、私は彼に連れられて郊外にドライブに出かけた。私はいつもの分厚い眼鏡をコンタクトに変えて、久しぶりにきれいな色の服を着た。彼はかっこいいスポーツカーに乗って駅まで迎えに来た。
彼:待った?
私:ううん。今来たとこ。
今日の彼は、昨日までのだらしのないスーツと違って流行のファッションを身にまとって颯爽としていた。
郊外の道を気持ちよく車が走った。その風を受けて私は有頂天になっていた。そしてさらに先へ先へと遠方にまで足を延ばして、海についた。
海は日の光を浴びてまぶしいばかりに輝いていた。どこまでも続く砂浜を2人で走り、波打ち際で水をふざけてかけあった。「純」「香」とお互い呼び合い、まるで前から恋人であったかのようだった。私は幸せな気分になり、この世界のことなどすっかり頭から消えていた。土曜日はホテルに泊まり、帰ってきたのは日曜日の夜だった。そうして1泊2日の夢のような時間が過ぎた。この街の終わりは5日を切っていた。