第2話「プチざまぁ」
翌日、僕は退院し、いつぶりかに家に帰った。小さな部屋が二つだけのあるアパートに、所狭しと住んでいる。
「ただいま」
「おかえり、わたる」
ばあちゃんはいつものようにそれだけ言った。その口調から事件のことには触れずに、僕のことをそっとしてくれているのだと、すぐに伝わった。
久しぶりに喉を通るばあちゃんの味噌汁は、格段に味が濃く感じて細胞から元気が湧いた。
その時、ぎゅっと胸が締め付けられる形で、一抹の不安が頭をよぎった。
「そういえば、入院費は? ばあちゃんが出したの?」
なけなしの年金だけでは足りないはずだ。
「そう強張らなくても大丈夫さ。へそくりで賄えたからさ」
「へそくりなんかあったのかよ」
「貯めるたびに忘れていたから必要以上にあったさ」
「それはそれで心配だけど……」
まぁ、生活に支障がなくて一安心した。
シャワーを浴びるために風呂場に入ると、すぐに違和感に気づいた。シャンプーが三つも並べられてある。それも見たことのない種類だ。赤透明でなんだか高そうだ。ただ、ばあちゃんが買った以上高いということはないので、パッケージだけ見栄っ張りな商品なんだろうな。まさか買いだめできるほど、へそくりを溜め込んでいたとは。
その日は、シャンプーの影響で頭皮から甘美な女の子を彷彿とさせる香りが、放たれ続けた。そわそわとさせられながらも心地よく眠むれた。
いつの間にかに移り変わった季節を感じながら、僕は登校を再開した。日を開けてしまったことも、剛田がいることも、学校に行くことが憂鬱になる理由はいくらでも浮かんだ。
家から出発しようとカバンを握ったが、ふわっとカバンが浮いて倒れそうになる。カバンのなか、なにも入っていないじゃないか。なぜかしまわれていた筆記用具などを急いで詰め込んで、遅刻しまいと駆け出した。
なんとか間に合ったバス内で、僕がぼんやりと霜のかかった窓の向こうを眺めていると、隣に誰かが座った気がした。席はいくらでも空いているのになぜわざわざ僕の隣に座るのだ、と思って隣を向くと、そこには病室にいた謎の女子高生が座っていた。
「やっと、復学ですね」
この前の謎の少女はニコニコと楽しそうに笑った。僕が学校に行くといいことでもあるのか、それともニコニコするのが彼女の人生にとって当たり前なのか。どっちにしろ僕とは似つかわない、陽気な人だ。
「うん」
とりあえず、無視するのも微妙なので返事はする。
「緊張しますか?」
「別にしないよ」
「よかったら、私がクラスまで見送りますよ」
「一人で大丈夫」
そっけなく対応したからか、やや重めの沈黙が流れた。このままだと気まずいので僕もいくつか質問を返した。
「君は僕と同じ三年生? じゃないか…… 敬語だし……」
「わたる先輩の後輩です。二年生です」
僕が質問したからか、跳ねるような声と笑顔で彼女はそう言った。会話が好きなのかもしれない。
「もしかして私の名前も忘れてしまいましたか?」
彼女のひそまる眉を見て、僕は傷つけまいと必死に彼女の名前を思い出そうとした。赤の他人とはいえ人を傷つけることは好きではない。
「あず?」
「やった! 覚えててくれたんだ」
ほっとした様子であずは僕の腕に手を置いた。
ただ、本当のことを言うと覚えていなかった。僕が彼女の名前を言えたのは、病室で一度彼女の母が彼女を「あず」と呼んでいたことを聞き逃さなかったからにすぎない。だから苗字まではわからない。
バスを降りるとき、代金を払うためリュックから財布を取り出した。すると、財布の中身に驚き、僕は「うわぁ」と変な声を出してしまって悪目立する。なんでも僕の財布のなかに一万円札が入っていたのだ。それも三枚も。
そんなことより一旦バス代を払わなくては…… 後ろが詰まっている。僕は早急にお金を払い、バスを降りてから、考え直す。
僕がこんな大金を財布に入れることはないし、そもそもそんなにお金を持ってない。まさか僕が拾ったり盗んだりしたのか? 一瞬自分に疑いの目を向けた。しかし我に帰ると、そんなはずはないと確信できる。僕はどんな状況でも人の物を盗むような人間ではないと自負しているし、これはなにかの、たとえばばあちゃんの臍くりとかであろう。理由は明確にできないが自分の良心を信じることはできる。
学校の校門を潜ることはためらいたかったが、進むほか選択肢はない。あずもクラスまで見送りたいと僕と横に並んで歩いた。
「どうですか? なにか思い出せそうですか?」
「わからない。まだなにも気にかからない」
「まだ初日ですから、しょうがないですね」
廊下を歩く頃にはかなり周りの視線を感じた。隣にあずが歩いているからだろうか。教室に入る瞬間は息がつまる。チラチラと目線を向けられたが、何食わぬ顔で席に着いた。
廊下の方を見ると、窓の向こうからあずがこちらに手を振っていた。僕から手をふり返すのもの気恥ずかしいので、大した素振りはしない。
あずが去ってからしばらく、ぼーっとしていたとき異変に気づいた。僕の机にはゴミが置かれておらず汚れ一つなかった。なんでだ?
後方から椅子を引く音が聞こえた。問題児の剛田が席に着いたのだろう。僕はイスを一歩前へと動かす。剛田の足がなるべく当たらないようにだ。
授業をしていく中でも他の変化に気づいた。普段、剛田は何かにつけて僕の椅子に足を乗せてくるのだが、今日は一度もない。今までにこんな日はなかった。ただ教室に居るということがこんなにも気軽なのは久しぶりだ。いつもは授業中であれ、気が張ってお腹を下すこともよくあった。
後ろをチラリと振り向くと、剛田は牙の折れたイノシシのような意気地のない表情をしていた。一体全体なにがあったというのだ。
それに誰一人として僕の席にゴミを置こうとする人もいない。入院した上に、記憶喪失である僕のことを同情しているのか? いじめがなくなったとしたらどれほど救われるか。
それと授業中に気づいた変化がもう一つあった。筆箱の中の消しゴムが新しくなっていることだ。僕は消しゴムを五ミリ以下になるまで、使う習慣があり、一年は使う。このタイミングで新しいものに変えるのは時期尚早じゃなかったのかと過去の自分を疑った。
清掃時間になってひとつ思い出した。これもまた嫌な記憶だった。僕の掃除担当は校舎裏のトイレだった。校舎裏ということもあり、使われ方が雑なうえ、タバコの吸殻などもよく落ちている。非喫煙者にとってタバコの匂いは、このうえなく苦痛だ。
残念ながら校舎裏のトイレは特別変化なく、鼻をつまみたくなる匂いを放っていた。汚い汚い。
僕が掃除用具を取り出すと、ここでは見かけない男が小走りしてきた。
「掃除当番変わったよ。佐藤くんは教室だよ」
「え? じゃあここは?」
「ここはボクがするから」
またこれも不可解だと思う。なぜならこの男が僕に校舎裏のトイレ掃除を押し付けた張本人だからだ。クラスで掃除担当を決めたとき、誰もやりたがらなかった当番を無口な僕に、生徒会長の橋本が押し付けたのだ。そのしたり顔が今でも鮮明に思い浮かぶ。橋本は剛田と違って間接的に僕を追い詰めるタイプであった。彼の無神経な疎外のせいで僕は孤立したと言ってもいい。
そんな奴がいまごろなぜ自らトイレ掃除を引き受けるのか、納得いかない。
「ボクが言うのもおこがましいけど、君には頭が上がらないよ」
「は、どういうこと?」
「みんな君には一目を置いてるんだよ。まあ今すぐに事件のことを言わない方がいいのかもしれないけど」
「それが関係しているのかわからないけど、どうして掃除当番変わったの?」
彼は唾を飲んで語り始めた。
「ボクもあずくんのことが好きだったんだ」
「は?」
「正直、ボクはまったく相手にされなかったけど。そんななか彼女が選んだ男が君だったんだ。それでボクは心をあらため、君を見習うことにしたんだ。身勝手だけど。ボクは君のことを情けない男だと思っていたが、本当に情けないのはボクだと知った。だからこうして君に押し付けた役を、自分を慰めるようにまっとうしているんだ」
たしかに橋本は頭がよく、背も高いのでモテていたが、見る人が見ると彼の薄っぺらさに気づくのだろう。彼の自惚れはすっかりと折れているようだった。
まあ正直、僕の学校生活が平和になれば彼のことはどうでもいいと思う。
帰り際、彼を一瞥した。嫌われ者が担当するトイレ掃除を孤独に行う橋本の背中は滑稽な男に見えた。
それより、あずが僕を選んだというのは何の話なんだ……
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