初めて知るその感情は
身体の奥がぎゅっとする。
それが何か分からないまま、目の前で起こることをただ茫然と見ていた。
緑豊かな山奥の、田畑の広がる小さな村。そのさらに奥の家に住む少女たちが、近所に住む老夫婦の畑仕事を手伝っていた。
「雪ちゃん、いつもありがとうねぇ、楓ちゃんにお千ちゃんも」
「いいえ、これくらいお安い御用です」
笑って答える楓に同意するように首を縦に振る雪と千。
「まだ七つなのに、ようやりよるわ。わしらの子なんぞ、そんくらいの頃はまだおっかぁ、おっとぉって」
「ちょっとあんた」
そう言って、隣りに居たお爺さんをお婆さんが叩いた。結構な音がしたので見ると、いてぇといいながらお爺さんが頭を押さえている。その横では強く叩きすぎたかとお婆さんが慌てていて、なんだかんだ仲のいい姿に、少女たちは笑って、また畑仕事を続けた。
収穫を終えた野菜をいくらか分けてもらって持って帰る三人を見送り、家に向かう。
「もう三年になるのかねぇ」
「そんなにか。まだあんころはちっちゃかったが、よう大きなったもんだ」
三年ほど前に、ひょっこり現れたその一家は、近所付き合いも上手く、すぐにその村に馴染んだ。
いつの間にか近所の年寄り衆と仲良くなり、手伝いを買って出る母親と、さらにその手伝いだか邪魔だかをする幼い娘たち。長男はしょっちゅう狩りだの釣りだのに出かけ、父親はそんな様子を見守りつつ、一人黙々と薪を割っている。
物静かで働き者の父と、明るい母、元気な子どもたちと言った中のいい家族。
それが、この六人の‘’外から見た姿‘’というものだ。
雪菜は死んだ。母、星菜と共に。
そういうことになった。三年前のあの日。
舞い散る赤に、何もできなかった。声すら出すことができず、ただ、母の腕の中で震えていることしかできなかった。
「大丈夫。大丈夫よ」
そう言って、抱きしめる母の手がだんだん冷たくなっていく。
「だい、じょうぶ。だい、じょ……ぶ」
だんだん掠れていく声。
「……」
遂には何も聞こえず、胸の鼓動すら止まっていた。
雪菜がまだ無事なのは、母のおかげ。雪菜を庇って斬られた瞬間、
「この子に手を出せば、お前たちは狐の祟りにあうぞ」
それを聞いた暗殺者たちは、雪菜を殺すことを躊躇していた。
「こちらは金をもらっている。狐の祟りだか何だか知らんが、たかがガキ一人だ」
しびれを切らした一人が星菜ごと雪菜を貫く。
刃は雪菜の腹を貫通し、そして、封印を解いた。
駆け付けた者たちは、部屋中に充満するむせるような血の匂いと一面の血の海に言葉をなくした。
次いで見たのは、部屋の中央。そこだけ切り取られたかのように元のまま、血など一切ついていない。
そこには、息絶えた星菜と、気を失っている雪菜を抱いた九尾が佇んでいた。
「雪、大丈夫?」
家に向かう道すがら、ぼんやりしていたせいか楓が心配して声をかけてきた。
「最近、耕してばっかりだからね、マメできちゃった」
そう言いながら笑って手のひらを見せてくる雪乃に、そっちじゃないんだけどと、少し顔を顰める。
「楓と千も、でしょう?」
そう言って、年に反して大人びて笑う雪に涙がこみ上げてくる。
「私もボロボロだ」
「わたしも」
楓と千も自分の手のひらを眺めた。
「あと、少しね」
それは、もうすぐ耕すのが終わるということなのか、この生活が終わるということなのか。
「そうだね」
どちらでも構わないと思う。こうして笑っていられるのなら。
はじめに感じたのは怒りだった。
身体の奥から溢れてくる何かが怒りの感情と結びつき、暴れる。全てを開放してしまえと身体が叫んでいる。
ずっと昔に誰かが言っていた。
『正しく使え』と。
『でなければ守るべきものを傷付ける』と。
(これ以上なにをまもるの? みんな死んじゃったのに)
雪菜を庇った母も、乳母も、部屋の近くにいた護衛も女官も皆死んだ。
「じゃあ、いいよね。つかっても」
気が付けば全てが終わっていた。
「満足したか」
目の前に、白銀の狐がいた。
「星菜の力が移ったか。敵の刃を逆に操るとはな。
にしても、また、間に合わないかと思った。いや、星菜がこうなったのだから、間に合ってはいないか」
そう言って泣きそうな顔で苦笑する狐を見る。
「きつねって喋れるの?」
ほかにもっと言いたいこと聞きたいことがあるはずなのに、ふと口をついて出たのはこんなとりとめのない言葉。
「我はすごい狐だからな」
「あなたが私に憑いていた、いいきつね?」
雪菜は狐憑きだと周りの者が囁き合っていた。
星菜に聞くと、悪い狐じゃないのよと。
「ああ。ここ暫く昔の知り合いのところに出かけていてな。遅くなってすまなかった」
周囲を見回しながら告げる。
そこでやっと雪菜は何があったのか思い出した。
「あ、母様」
倒れ伏す母に近づく。
どうすればいいか分からず、狐の方を見た。
「人間は死んだら葬式と言うものをするらしいぞ」
「そうしき」
こんな状況でまだ葬式どころではないなどと突っ込める生者はいない。辺り一面血の海で、すでに殺されていた星菜や乳母たちはもちろん、暗殺者たちなど、その身をバラバラに切り裂かれていた。
「まあ所詮は気持ちの問題だ」
「きもち?」
狐が人の姿に化ける。その様子をぼんやりと見つめながら首を傾げた。
「今、どんな気持ちだ」
そう言って雪菜の心臓のあたりを指さす。
「わかんない。けど、さっきまでとってもあつくて、ぎゅうってなってて、でも今は、いたくてぎゅってしてる」
「それが哀しいだ」
「かなしい」
「ああ。大事なものを失った哀しみだ。忘れるなよ」
気が付くと涙が溢れていた。
冷たくなった母に縋り付いて、泣いて泣いて、泣き続けて、いつの間にか気を失っていた。
はじめて本気の怒りと哀しみと言う感情を知った日は、たくさんの愛情を注ぎ、生きる喜びとこの世の楽しさを教えてくれた母を失った日だった。
「すまんな、雪菜」
どこか痛みをこらえるような顔で、辛そうに、悔しそうに謝る兄に、黙って首を振る。
「お前を守るためや、堪忍してや」
まだ四つの雪菜は、あの日から、一度も泣くことはなかった。
「平気。皆いてるし」
隣で雪菜の手を繋いでいるのは、乳兄弟の楓子と十歳くらいの子どもに化けた狐。
その後ろには、あの日たまたま難を逃れていた奉公人のお鈴と妹の千代、護衛の正吾がいる。
強張った表情筋を駆使してなんとか笑顔を作る雪菜を抱きしめると、暁の闇の中、そっと送り出した。
「おかえりなさい。ご飯、できてますよ」
戸を開けて、中に入ると、お鈴に声をかけられる。
「お爺さんとお婆さんからお野菜もらったよ」
そう言いながら、家に入ると、膳の前には正吾と九尾の姿がある。
野菜を置くと、三人がそれぞれ膳の前に座る。お鈴が茶碗にごはんを盛り、それが全員に行き届いた。
「いただきます」
正吾が食べ始めると、他の者も食べ始める。
「3年経ってもやはり慣れませんね」
苦笑しながら食事を口に運ぶ正吾。その目は、先程までの一家の長の顔と違い、眉を下げて困ったような顔をしている。
「正吾さん」
そう言って窘めるお鈴。
「誰が聞いてるかわからんのやし、てゆうか、いい加減慣れんと」
「こんな山奥で聞かれて困る相手もいないだろ」
九尾の言にまあそうなんだがと苦笑をこぼす。
「でも最初にこうするって決めたんだから。正吾がととさまでお鈴がかかさま。九尾があにさま。千があねさま。楓と私が似てない双子」
「やっぱり、全員家族設定は似てなさ過ぎて無理があると思うけど」
千が困ったように突っ込む。
「みんな成長してるからな」
九尾があっけらかんと答えた。
「あにさまが一番似てないよ」
「耳と尻尾は隠してるぞ」
「当たり前だよね」
「その白銀の髪かな」
「人間離れした見た目も」
雪の言葉に反論した九尾だが、すかさず突っ込まれて撃沈している。
ふざけつつも楽しそうに食事をする子どもたちを見守るように食事するお鈴と正吾。
傍から見ると歪ながらもありふれた家族のような光景だった。