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明正天皇
興子内親王は父の意向を受けて、6歳の時に譲位された(明正天皇)。摂政には後水尾上皇の同母弟である一条昭良(一条家の養子になった)が就く。この譲位は徳川に対する当てつけのようなもので後水尾天皇も近臣以外には告げず突然行われた。ただし、女性の即位は原則から外れるものではあるので、今後男子が誕生したときには譲位するという取り決めをした。
徳川秀忠が亡くなると、将軍の家光(秀忠の子)は態度を軟化させ、上皇に公家の人事に関する権利を返した。こうして後水尾上皇の院政が敷かれることとなる。天皇は在位中、自らが政務を執ることはなかった。
後水尾上皇は譲位後も女性関係が派手だった。そして在位中と違って徳川の妨害はなく、中宮や多くの女官との間に30人以上の子供を儲けた。
上皇が譲位した翌年に、女官の園光子が男子の素鵞宮を産んだので、彼が将来的に皇位を継ぐものとして育てられた。徳川和子は、そのあかつきには宮を養子とすることで、形式上でも徳川家が皇室の外戚であるように計らった。
素鵞宮は10歳になると紹仁と改名し親王宣下を受ける。そして翌年には天皇は紹仁親王に譲位した。その後明正上皇は出家した。




