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歴代天皇即位の軌跡  作者: じゅう
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景行天皇と倭建命

 景行天皇と倭建命(やまとたけるのみこと)の伝承は古事記と日本書紀とで受けるイメージがかなり違う。古事記では、勇猛果敢だがちょっとサイコパス入った性格の王子の倭建命が父の大王から恐れられ、遠ざけるかのように次々と危険な任務につけられてついには死んでしまうという悲劇だ。日本書紀では、大王は倭建命の勇猛さを誇りに思っており、彼の死の報せを聞いた時には嘆き悲しんでいる。日本書紀は天皇を美化した内容だからという説もあるが、日本書紀は天皇のえげつない行為も結構記述しており納得できない。また、倭建命が父から嫌われていたのなら、彼の息子が天皇になれるとも思えない。

 なので今回書く内容は筆者の想像を多めに交え、両者を折衷するものとする。


 垂仁天皇はツヌガアラシトと接触したときに気になることを聞いた。彼が穴都(現在の山口県)に着いたときに伊都都比古(いつつひこ)なる者が接触してきて「私がこの国の王だ。この国に王は二人といない」と言ったというのだ。伊都都比古という名前からして伊都国の人間だと推測される。伊都国と言えば「魏志倭人伝」にも記述のある北九州地方の国だ。穴都にも勢力が伸びていたのだろう。崇神天皇の時代までに大和朝廷は広い範囲を支配下に置いたが筑紫(九州)には派兵していない。かつてご先祖様が住んでいた筑紫だが今や別の勢力である熊襲(くまそ)が王を名乗っている。垂仁天皇は筑紫の動静を探らせながらも、戦には消極的な態度だった。

 垂仁天皇の息子で太子の大足彦(おおたらしひこ)は、父王からその話を聞き、自分が将来大王の位についた暁には、熊襲を征伐しさらに大和朝廷の勢力を拡大しようと野心に燃えた。大足彦は幼少期に父から「何か欲しいものがあるか」と聞かれたとき「大王の位が欲しいです」と答え、感心した父から太子に指名されたというエピソードがある。子供の頃から豪快な人物だったようだ。その豪快さは成人してからも変わらず、多くの妃を迎え入れ総勢80人の子供をもうけたと伝えられている(「80」は日本では古くから数が多いことを表す数なので本当に80人いたとかそういうわけではない)。

 大足彦は大王の位を継ぐと、早速熊襲の情報を集め、準備を整え、親征(大王みずから軍の大将となる)を開始した。最初から長期出張になることを見越して播磨国から迎えた妃・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とまだ幼い双子の王子・大碓命(おおうすのみこと)小碓命(おうすのみこと)も連れてきている。自分が留守の間の大和国は同母兄の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)に任せた。普通の大王と王族との関係とは逆だ。それだけ意気込みの大きさが伺える。また、自分に万が一のことがあった場合に備え、美濃国から迎えた妃・八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)との間に生まれた王子・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は大和に残している。

 大王は穴都の対抗勢力を討ち破りながら進軍し、筑紫に進入。もうここにずっと住む勢いで宮を作って熊襲と一進一退の戦いを続けた。その間にも筑紫の国々の美人を見つけては妃にするという元気なところを見せている。

 だが熊襲はとにかく強くしぶとい。倒しても倒しても一時的に降参はしても心底服従するという気がない。戦いは長きに渡り、幼かった二人の王子も16歳(数え年)になった。豪快な大王は当然この二人も戦力として考えるようになる。大碓命は好色なところだけ父親に似ていてイマイチ頼りにならない。小碓命は父から熊襲建(くまそたける)を殺ってこいと無茶振りをされるが、彼は自分の若さを逆に利用し女装作戦で熊襲建たちの宴席にもぐりこみ暗殺に成功、大王は小碓命を目にかけるようになる。


 倭建命は生まれた時の名前を小碓命といい、またの名を倭男具那命(やまとおぐなのみこと)といった。そして熊襲建を討ち取ったとき、死ぬ間際の熊襲建から敬意を込めて倭建命の名を与えられたという。大和の大王家もそれなりの代を重ねてきたというのになぜ今更ヤマトオグナ(大和のお坊ちゃん、の意)などという名前だったのか。これは幼少期に大和から筑紫に移り住んだため、地元の人たちからそう呼ばれていたのではないだろうか。転校生が本名ではなく出身地名で呼ばれるようなものだ。そして熊襲建を殺したことで、もうオグナ(子供)じゃない、タケル(荒々しく強い者)だ!と名を与えられたのだろう。


 しばらく経って、大和の五十瓊敷入彦命から、東の国の蝦夷(えみし)の勢力が強くなってきたからヘルプ頼むと連絡が入った。大王は最初、大碓命に蝦夷征伐を命ずるが、彼は怯えてオロオロするばかり。大王は呆れながらチラッと倭建命を見やる。仕方なく倭建命は私が行きますと名乗り出る。ホントはあまり行きたくなかった。最初に熊襲建を殺した後にもいろいろ武勲を上げてきたが、それは住み慣れた土地で、尊敬する父が傍で見守っていたからこそ出来たことだ。それに、数年前に結婚もして子供(足仲彦(たらしなかつひこ))がいる。しかし父の期待に応えない訳にもいかず、倭建命は一人(もちろん、部下は連れていただろうが)、東征の準備のために大和へ戻った。

 五十瓊敷入彦命から蝦夷の情報をもらった後、戦勝祈願に伊勢神宮に寄ったところで斎宮をしている叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)につい「父上は俺に死ねとでもいうのか」と愚痴をこぼすが、倭姫命から励まされ、御守り代わりに、と神宮に祀られている天叢雲剣を渡されて、倭建命は東征に向かう。倭建命は奮闘した。奮闘したが……志半ば、冷たい雨に降られて引いた風邪を拗らせて亡くなってしまう。

 倭建命の死の報せを受けた五十瓊敷入彦命はそれを大王にも知らせる一方、東征計画の後を引き継ぎ目的を果たした。だが大王の元に届いた報せは倭建命の死だけではなく、五十瓊敷入彦が謀叛を企てているという密告もあった。実はこれ、臣下の中臣豊益の陰謀だった。彼は大碓命の乳母の夫で大碓命を我が子のように可愛がっており大王の位につけたいと思っていたため、ライバルとなる王族を蹴落とそうとしていたのだ。そうとは知らぬ大王は兄の討伐を命じ、五十瓊敷入彦命は非業の死を遂げる。


 五十瓊敷入彦命の悲劇については記紀に記されてはおらず、岐阜県の伊奈波神社の言い伝えである。古事記の倭建命の悲劇はこの伝承が混じっていたのかもしれない。


 大王は頼もしき息子の死を嘆き悲しんだがそこで意気消沈はしなかった。足仲彦に父親の死を告げると、父のように強くなれ、そしていつの日にか熊襲を倒せと諭した。大王は熊襲征伐に明け暮れた生涯だった。

 なお、大碓命は大王から見切りをつけられ美濃で妃たちとゆっくり過ごせと命じられた。その妃というのは元々大王の妃候補とされた美濃の美人姉妹だったのだが、彼女らを迎えに行った大碓命がついムラムラッときて手をつけてしまったという経緯がある。豊益の命懸けの裏切り行為は無駄だった。

挿絵(By みてみん)


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