光仁天皇
称徳天皇が亡くなると、その日のうちに群臣が集まり次の天皇を誰にするか協議した。数人の候補がいたが、天智天皇の孫の白壁王が、称徳天皇の異母姉である井上内親王を妃としていたこともあって彼に決まった。白壁王は吞兵衛で突然フラッと徘徊するような人物だったが、実は権力争いに巻き込まれて命がおびやかされないように愚か者を演じていたのだ。
そして左大臣の藤原永手(房前の子。藤原北家)は、称徳天皇の遺言だということにして白壁王を立太子した。
皇太子は称徳天皇の喪が明けるまで即位はしなかったが、その2ヶ月間ただ待っていただけではなく、ただちに行動を開始した。まずは道鏡と弓削氏の役人の左遷。そして和気清麻呂と姉を京に呼び戻し名前も元に戻した。
白壁王が即位した(光仁天皇)とき年齢は62歳で、歴代の天皇の中では最も高い(注・古代の天皇は除く)。余談ながら歴代で2番目に高い年齢で即位したのは今上陛下である。
即位に伴い、天皇の父である志貴皇子には春日宮御宇天皇の号が贈られた。
天皇は橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱で処分を受けた人々を全て許した。流罪を受けた人々を召還し、姓や階級を落とされていた人は元に戻し、変な名前に改名させられた人は元の名に戻した。淳仁天皇の墓は改葬した。
井上内親王は天皇の即位と共に皇后となり、その子である他戸親王が皇太子となった。これで朝廷も落ち着くかと思いきや……そうはならなかった。立太子の翌年、皇后が天皇を呪詛したという容疑が掛かり皇后の位を廃され、連動して他戸親王も皇太子を廃された。さらにその翌年、天皇の同母姉の難波内親王が亡くなるのだが、これが井上内親王が呪詛したせいだとされて他戸親王と共に皇族から外されて幽閉されそのまま二人とも亡くなってしまったのだ。井上内親王には天皇や天皇の姉を呪詛する理由が見当たらない。我が子は皇太子となり静かに待っていれば天皇になったはずなのに事を荒立てるはずがない。天武天皇の血統を絶とうとする「何者か」の意志が働いたのかもしれない。数年後、天皇を擁立した藤原百川(宇合の子。藤原式家)とその兄弟たちが次々に病死し、井上内親王の祟りだと恐れられた。そして光仁天皇や、新たに皇太子となった山部親王までも病に倒れ、天皇は井上内親王の霊を慰めるため改葬を行った。その後天皇と皇太子は回復したが、皇太子はこれ以降も祟りにおびえるようになる。
天皇はその後もしばらく政務をとったが、重病に罹って先が長くないと悟ると皇太子に譲位した。
続日本紀の分はここまでです。
少し間を開けて、日本後紀をベースにこの続きを書いていきます。




