扉の中
――愛は「自由の子」なのであり、
決して「支配の子」ではない――
社会心理学者エーリッヒ・フロム(1900~1980)
雨粒が降りてこようと準備をしている空だったが、それでもきっと神様が初めてのデートを祝福してくれているから降ってこないのだろう。
住み慣れた町から電車で一時間以上もする田舎の地方で都会に似せた都市で、春は小鳥遊と二人でデートを楽しんでいた。
待ち合わせの場所もこの都市の駅で、小鳥遊は車でやって来た。車で来るのなら「先生の車でここまで来れば良かったのに」と文句を口にしたら「はは、驚かせようと思ってね」と返された。
車から降りたら小鳥遊はいつでも人の目を気にしていた。きっと私服姿の春を他の人に見られるのを嫉妬しているからだろう。
いつもは束ねることがない方まで伸びた黒髪を、後ろで結んでポニーにした。スカートは制服で見慣れているだろうと思い、脚の曲線を綺麗に見て欲しかったから、細身のジーンズでヒールの高い靴で背伸びをした。
二人でまず映画を見た。映画を全く見ない方の春だったが、この映画は見たいと思っていた。傲慢な獣の姿をした魔女が人間の男の子に恋をしてしまうお話だ。
その後、小鳥遊に連れられ生パスタが美味しいお店で舌なめずりをしていた。クリームパスタを頼んだ春は、少し高めのレストランで食べる生パスタの味に驚いて「美味しい」と何度も口にしていた。
なぜなら、弾力のあるパスタに絡まった濃厚なクリームスープが舌の上で香ばしく深い味わいを伝えていた。
その時分から、いよいよ雲に溜まってしまった雨が限界に達して地上に落ちてきた。
「雨降ってきちゃいましたね」
「そうだね」
「この後、どうしますか?」
ストローで飲み物を喉に通しながら、春は上目で小鳥遊を見つめていた。それを大人の余裕なのだろうか、喜色を浮かべて返されたので恥ずかしくなった。
「じゃあ、車でドライブでも行くかい?」
「良いんですか!? 嬉しいです!」
食事を終えて二人は当てもないドライブに繰り出した。車の中で、常に話題を提供するのは春で、それに対して当たり障りのない返事をしながら微笑している小鳥遊の姿があった。
最初は学校の話だったが、やがて家族の話になったりしたものの、話しているのは春ばかりで、それに小鳥遊が相槌を打ってくれている感じが続いた。フロントガラスに打ち付ける雨は、視界を覆い尽くそうとしても、ワイパーが規則的にそれを退かしていた。
脇に追いやられた雨たちはフロントガラスの隅っこで小さな川になって流れた。その一連の光景を話しながら見つめていることも、春は楽しかった。
次第に車は少し見慣れた雨の日の景色へと変わってきた。地元に近いところまでやってきたのだ。すぐに解った。そして、それが寂しさを一気に込み上げさせた。
「先生、もう帰りますか?」
春は内心で、もう小鳥遊から離れてしまう恐ろしさを感じ取られないよう気丈に声にしたつもりだった。
すでに自分を纏っている弱さを見破られたのかもしれない。彼は横目で春を見ながら綻びた。
「じゃあ、僕の家に来るかい?」
その言葉で、春は今まで抑えていたはずの“発火“が、爪先からゆっくりと上ってくるのを感じた。
オートロックの三階建てアパートの駐車場に車が止まった。アパートの周囲には田んぼが多く、住宅街から少し離れていて、一言で言えばのどかな場所だった。
雨はまだ止むことなく降っていた。小鳥遊は後部座席から傘を取って「じゃあ、ちょっと走っていこう」と云って運転席のドアを開けて、助手席側のドアまで迎えに来てくれた。
春は一度深呼吸してから勢い良くドアを開けて、雨の世界に飛び出した。心臓の高鳴りは雨音にかき消されて聞こえていないと安心していた。
でも、これから何が起こるのかを想えば雨音が反響して大きく聞こえた。いや、これから何か起きて欲しいと考えれば考えるほど”発火”は全身を燃やしている。
次第に”発火”は脳まで到達して、思考する能力を低下させた。小鳥遊の部屋の玄関まで来たのに、その道のりを覚えてすらいないのだから。
「ようこそ、いらっしゃい」
小鳥遊が先に部屋の中へ入って行った。その後に続けて春も中へと足を踏み入れた――。
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