発火
――女は弱い男を支配するよりも、強い男に支配されたがる――
国家社会主義ドイツ労働者党 指導者アドルフ・ヒトラー(1889 ~ 1945)
小鳥遊と唇を交わらせてから、春は以前よりも小鳥遊のことをその目に宿し、湧き上がる熱に絆されていた。
滴り零れる熱情は、次第に身体中の感覚を鈍らせ、ついには消失していき、”心の焔”のみを全身に広げていた。
授業に集中することができなくなり、脳内で繰り広げられるのは、焼き付けられた口付けの録画シーンのリピート再生ばかりであった。
橙色が世界の色を変えていたあの図書室の陳列された本棚の間で、互いの息遣いが耳に残るほどの距離、じっと石像のように固まったまま動けなくなっていた、あの時――。
ようやく状況を整理して処理を始めた春の脳は、有頂天となり、グツグツと煮込まれていった。顔をじっと見つめられているが、今の自分を見て欲しくないと一瞬脳裏を過った。
なぜなら、今の自分の顔はきっと、リンゴみたいに真っ赤になっていることだろう。
それで春は神経質にでもなってしまったかのように、何度も手櫛で肩まである長い黒髪を愛でながら、上目で小鳥遊の目に照準を合わせ、思っていることを伝えるために必死に声にした。
「先生、今日は、あのっそのっ、えーっと、い、一緒に帰ってもいいですか? いえ、あの、先生のお部屋に行ってもいいですか?」
「ごめんな立花、今日は他の先生たちと懇親会があるんだよ。ほんとにごめんね」
気落ちしてしまいかねない返答であったが、それはもはやどうでも良かった。小鳥遊は自分を好いている。その事実が先程証明された。それが嬉しくて溜まらない彼女は身を震えさせるほどの悦楽に浸かっていた。
「そうですか、うん、解りました。あの、じゃあ、せめて、明日もここで…キ、キスしてくれますか?」
その言葉を声に出し切った後、その言霊たちは春の胸痛いと叫びたいほど締め付けて、心臓の音を身体中で響かせた。
そのせいで、春の呼吸は荒く、息を詰まらせるほどの甘い苦痛を味併せた。
少しばかり、ほんの少しばかり、小鳥遊は春から視軸を右へ逸らして考え込んでいるように思えた。返事を待っている間に右足首を地面と遊ばせた。
それからようやく「今日は特別だっただけだよ。図書委員は僕が帰らせておいたんだ」と言ってから、
彼はまた少し右に瞳孔を向けてから春へと戻し「今日みたいに二人っきりになれる場所は、学校では難しいかな」と柔らかい微笑を洩らした。
「あの、じゃあ、あのっ」
春は二人きりになれない憤りと、小鳥遊と二人だけの時間はもう作られることはなく、このまま自分を通り過ぎてしまう一陣の風のように思ってしまった。
口籠る春をよそ目にして、彼はそっと彼女の額と髪の間に顎を置いて「何も心配ないよ、僕の手をしっかり握っていて、僕は君を見ている。君も僕を見ている。解るかい?」と、春にしか聞こえる内囁き声にして云った。
「あの、あっ、はっはい」
春は思った。今の身体の状態を何度か経験していることに。それは病で床に臥せった高熱を出した経験と身体が同じであると思ったのだった。
なぜなら、春はこのままの状態が続けば、まるで皮膚から氷のように自分が溶け始め、あとは蒸気となって跡形もなく消えてなくなりそうなくらいのことまで考えた。
それから小鳥遊はそっと春を両腕の中で抱きしめながら「今週の土日、立花は予定あるかい?」と聞いた。
春は彼のワイシャツにしがみ付いた両手で鷲掴みして「ないです! あったとしても先生のために空けます!」の大変素晴らしい返事をして見せた。
朧げで揺らめく斜陽で、より輝いて見える小鳥遊の端正な笑顔に殺されるかと感じた。
「あはは、立花は面白いなぁ。じゃあ、二人だけで会おうか?」
「それはっ……その……二人で出かけるってことですよね?」
「そうだね、厭かい?」
春の返事は解り切っている。それを小鳥遊は理解しているのに、悪戯っぽい彼のしたり顔を好きだと心の底から思った。
「いえ、滅相もない! 嫌なわけないです! むしろ好きです!」
「ふふ、そうなの? じゃあ、ちょっと遠出になるけど、二人で出かけよう」
「はい、あの二人で出かけるって、つまり私たち、恋人同士ってことですね」
「立花はどう思うの?」
何度その困った猫のようなウルウルとした瞳で聞いてくるのか。もう訳が解らなくなってくる。それでも、答えは決まっている。そう信じるべき答えがある。
「私たちは恋人同士……だと思います」
はっきりと、春はそう答えた。
「うん、うん、立花がそうなら、そうじゃないかな? じゃあねぇ――」
春の下唇に小鳥遊は人差し指をそっと置いて「二人で何処かに出かけることを何て言うのかな?」そう歯を全て見せつける笑った顔を見て、春は彼の人差し指を右手の指を総動員して握った。
「あのっつまり、そのっデ、デートですか?」
「立花さんがそう思うなら、そうじゃないかな?」
「はぁ、先生」
口から洩れてくるのは吐息ばかりだった。それはきっと夕暮れの景色に相まって、おそらく淡い紅の色をしているに違いないと思った。
「じゃあ、まずは連絡先、教えておくね」
「はい」
小鳥遊がスマホを振り、追加された連絡先にすぐにスタンプを送った。初めて送るのだから何か気の利いたスタンプや言葉でも良かったかもしれない。
だが、気が動転していたこの時の春には、後悔先に立たずの言葉が重くのしかかるしかなかったのだった。
初めての恋人への初めてメッセージが「猫」が笑っているスタンプなんて、どう考えても余裕がなさ過ぎだと思うのだった。
「今週末、土曜日で良いかな?」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、それで」
そう口にした小鳥遊は、春から離れ図書室の出口へ足を向けようとしていた。
「先生」
春は咄嗟に伝えなくてはならないことの為、彼を呼び止めた。
「何だい立花さん?」
閉じ込めておきたくなる破顔の彼に向かい、春は深く呼吸を吸ってから唇の上下を引き離した。
「春って」
「ん?」
「春って名前で呼んでください」
その言葉の後に、膝が体を温めるように震え始めた。もうこれ以上、温める必要などないのに。
「解った。じゃあ、二人だけの時だけ、名前で呼ぶよ、春」
「はい!」
それから春の元へ歩み寄ってまた、すっと触れただけのキスをしてくれた。春は上機嫌になり、後ろで両手を結んで、控えめな高さでスキップをして図書室を後にした。
廊下を連なる腰高窓から見える外の世界では、すでに斜陽が町の建物たちに埋もれかかり、群青が空を染め始めたばかりだった。
校庭を照らすための水銀灯は、ゆっくりと光を灯し、色の濃い真っ黒の影が運動部の人達から離れようとせず、纏わりついていた。
この後、本当に何事もなかったかのように一日一日が過ぎていった。学校では今までと何も変化のない当たり障りのない教師と生徒だったが、
それは放課後から繰り広げられるスマホの中の言葉の上だけは違った。好きな歌のサビから取られた愛の言葉、その誘惑に素直に応じる屈服した言葉たち。
返事を待つ時間が一分、いや、毎秒、春の恋慕は砂時計の砂山が溢れてきてしまうほど大きくなっていた。
そして、土曜日の為の身支度を入念に下準備した。外見の服だけでなく、お気に入りの下着まで、何もかもを奪い去って見て欲しいと希った。
そうやって彼女の中で物思いに耽る度、
高熱の感覚が襲い、
身体中が”発火”してしまうのだった。