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春の恋(初版)  作者: 赤良狐 詠
過去A(恋)
10/14

美幸(-5)

――真実を語ろう。その結果、どんな結末を迎えようとも――

アメリカの小説家 エレン・グラスゴー(1873~1945)


 教室の窓際の隅にいる人間が主人公とは良く言ったものだ。そう思える。何冊か読んでみたが、窓際に座って周りの情景を描写できるから、書きやすいのだろう。


 そんなことを思っていた。読んでいても頭に等入ってこない。むしろ、周囲の声が耳に入り込んで彼女の思考の邪魔をする。


 教室の中心から少しずれた場所、そこが美幸の席だった。ダーツで中央から外してしまった。そんな場所。


 教室の中心でもなければ、窓際でもないし、廊下側に近いわけでもない。中途半端な位置、まるで自分みたいだと卑下もした。


 だが、もう関係がないことだ。もう何も思わないようにしたのだ。


 猫の潰されたあの悍ましい内臓が飛び出した遺体を見た時に、

 自分がすでに同級生たちとは別の世界の住人になったのだと。

 美幸は思っていたのだった。


 それでも、まだ声が耳に入ってきていた。子供の皮を被った醜悪な獣。

 そいつらが多くいて、

 友人のふりをして近づき、無邪気さを盾に、

 一時の楽しさを剣にして笑っていた。


 本へ目を向けているが、読書の環境としては劣悪そのものだった。

 幼稚な恋の悩み。

 結論が出ている答えを肯定して欲しいだけの無駄な傷の舐めあい。


 見え透いた嘘と虚栄を並べた無知な笑い。背けたくなる卑猥な視線、それを助長する淫乱な言葉。



 それら全てが、活火山の溶岩のように火孔まで昇り詰めてきた。

 それに付帯した低い気圧が脳を締め付けて痛みを伴った。


 目が醒めた時に最初に見たのは、路傍の石が夜空の星を真似して埋め込まれたような天井だった。


 息をする度、生きようとする意志とこの世界から逃げ出したい悲しみが、吸ったり吐き出したりしているように感じた。


 保健の先生は面倒くさいと思えるような素振りはなかった。でも、決まったセリフしか言えない自動音声の言葉には、嫌悪と虚無感を深く根付かせた。


「大丈夫? お家に帰る? 一人で大丈夫?」


「家には帰りません。大丈夫です。ありがとうございました」


 無意味な会話を長々とすることなく、今度は何も言わずに一礼だけして保健室を出た。その直後に後悔に襲われた。


 お礼に至るほどの献身的な治療がなされたわけでもないのに、

 ただベッドを使用しただけで感謝を告げた自分に吐き気を催した。


 深く考えてはまた気分が滅入ってしまうと思い、少しふら付きながら教室へと足を向けた。


 しかし、ひとたび歩を進めれば、授業中の校内の静寂さ。その心地良さに惚れ惚れした。いっそ、静けさの世界に閉じこもっていたいと強く願った。


 叶いはしなかったが。

 教室の前まで着いた。教壇側の前からでも後ろからでも関係ない。自分の席は何処から入ろうとも中途半端な位置だからだ。


 少しだけ美幸は自分を守ろうと一瞬脳裏を過った考えに縛られて、教壇側から入ろうと決めた。


 教室にいる化け物たちと自分は違う。同じ生き物ではない。自分は決して負けない。その意思がまだ微かに残っていた。


 しかし、教室の扉を開ける時、寒いわけでもないに手が震えていた。目に涙も溜まっている。だけど、そんな弱い自分はもういない。


 美幸はもうすでに、この世界に心を置いていないのだ。そう言い聞かせ引き戸を開けた。


 クラスメイト達は一斉に彼女を見た。彼女を見て会話も始まった。騒めきではない。影の中に隠れる鬼たちの声がクスクスと笑っている。そんな風に思えた。


「大丈夫? 友繁さん?」


 めかしこんで飾り立てる自分に惚れ込んでいる若い女。

 薄化粧に見える厚い仮面を被った醜悪。


 このクラスの担任も兼任しているこの若い女が、気にもしていないことを、さも気にしているように聞いていた。


 辟易する。中立でいることができないのに、自分を心配する偽善を香り立たせる承認欲求の塊が。


 矢面に立って守ろうとせず、強い方へ媚び諂い、一緒に笑える方に味方をして、自分を突き放した人形。


「大丈夫です。すみませんでした」


 悪いのは自分ではないのに、どうして謝罪の言葉を口にしたのか。癖になっている。謝ることが癖になっている。それが悔しくて、また目に涙が溜まってきた。


「謝らなくて良いのよ。さぁ、席に座って。体調が悪くなったら、すぐに手を挙げてね」


「はい」と心無い返事をして席へ戻った。その短い道すじで向けられる視線は、自分を異端や奇異の目で見ていた。


 影法師の中で笑みを浮かべる鬼どもは、どうして自分にばかり興味を示すのだろう。


 その日、あとは心置きなく自由でいられる家へ帰るだけだった。だが、今日は違った。


「友繁さん、このあと先生と一緒に来てくれる?」


「どうしてですか?」


「ちょっと先生ね、友繁さんとお話がしたいの。ほんの少しだけ良いかしら?」


 後々面倒なことになりたくない。何よりも両親に迷惑を掛けたくない。それが結論を導き出した。


「解りました」


 そうして担任と職員室へ向かった。にこやかと言うよりは、色気を安売りしている大人の女性。そんな風に担任を見ていた。


「ここにいてね。すぐ戻るから。座って待ってて」


 連れてこられたのは職員室ではなかった。心の相談室。美幸は今まで避けてきた場所に放置された。


 ここは長テーブル一つと二人掛けソファーが向かい合う以外に何もない部屋だった。連なった二つの腰高窓は校庭で部活動を懸命に行っている絵のように思えた。



 やがて、担任は身軽になっていて一言「ごめんなさいね」と口にしていた。彼女は手帳と数枚の紙をクリップして束ねたものを脇に抱えながら目の前のソファーに腰掛けた。


「それでね友繁さん、体調は大丈夫なの? 先生、すごく心配しているの」


 まるで妹にでも気さくに話しかけているように感じた。家族でもないのに、自分のことを心配してくれる人間などいない。家族以外は全て化け物だ。


「はい。大丈夫です」


 その返事を聞いた担任は、美幸にも聞こえるほどの鼻からの深い溜息を漏らしたが「怖がらなくて良いのよ」と続けた。


「先生はね、あなたの味方なの。だからね、ちょっとだけ話をしましょう」


 美幸は怪訝な表情が表に出ないよう踏ん張って口を開いた。


「何を話されているのか解りません」


 そんな人間などいるわけがない。善行を成す人間も、悪行を犯す人間も、どちらも何も変わらない。他人に干渉する人間は、最後に自分の優劣を証明したいだけの滑稽者でしかない。


「あのね、友繁さん、今無理に話してくれなくても良いよ。少しずつ、少しずつで良いから、先生に何でもいいから話をしてくれない?」


 その穏やかでいて暖かい視線と言葉に揺らぐような軟な人間ではない。美幸は自分にそう言い聞かせ、小刻みに震えている身体と背中を覆う冷たい悪寒に苛まれながらも立ち上がった。


「すみません。帰ります」


「友繁さん! 待ってっ!」


 担任は咄嗟に立ち上がった勢いでソファーが少し後ろに下がり木材が擦れる嫌な音が響いた。その嫌な音で美幸は立ち止まってしまった。すかさず、担任は言葉を繋げた。


「友繁さんを無理に引き留めはしないけど、先生、毎日放課後、ここであなたを待ってるわ。今日はごめんなさいね、また時間がある時に、ここで話しましょう」


 その言葉に、美幸はついこの世界の住人だった時の癖を出してしまった。


「はい、子猫の世話があるので、今日は失礼します」


「子猫を飼ってるのね。私も猫を飼ってるのよ。猫のことなら何でも相談して欲しいの」


 それに対して何も答えることなく美幸は引き戸の取っ手に手を伸ばした。背後の視線を感じながら、相談室を背に下駄箱へ向かった。


 無言を貫いているつもりだったが、それはふと心の声が現実世界に漏れてしまったのだろう。


「早く、早く帰りたい……」


 普段通り歩いていながら、彼女は家路に着くまでボロボロと涙を流していた。

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