第9話興福寺国宝館の地蔵菩薩
「まあ、逃げ足は速いかな、子供の頃から」
楓の笑い声は気にしなかった。
光としては、とにかく早く涼まねば、生きた心地がしない。
たいした距離ではないけれど、懸命に歩いた。
そんな光にとって目指すのは国宝館の阿修羅だけ。
金堂との共通入場券など考えもしない。
国宝館に入っても他の仏像など見ない。
ただ、地蔵菩薩立像のところで、何故かブルッとしてよろけたけれど、振り返ることはしない。
「何か、ゾクゾクする、下手に見たら後が怖い」
そう思って足を更に進めようとすると、光の腕が突然引かれた。
「ちょっと待って」
振り返ると春奈先生が立っている。
「え?」
春奈先生は真面目な顔だ。
今までの優しい笑顔ではない。
「どうかしました?」
光は少し心配になる。
「ああ、ちょっと早すぎるかなあと思ってね、そして阿修羅を見る前にもう一度、このお地蔵さんをゆっくり見てごらん」
春奈先生は真面目な顔のまま。
少し遅れて楓も春奈先生に並んだ。
「ああ、このお地蔵さんね」
楓も、地蔵菩薩をじっと見る。
「うーん、あまり気にしたことはなかったけれど」
春奈先生にそこまで言われては仕方がない。
光は、春奈先生の言う通り、その地蔵菩薩立像をじっくりと見ることにした。
木造で、寄木造、漆箔、玉眼。鎌倉時代の作らしい。
像の高さはそれ程ではない。五十㎝ぐらいと思う。
右手に錫杖、左手には宝珠を持ち、蓮華座の上に立っている。
「ふぅーん、綺麗なお顔ですね、それに全体が綺麗に整っている」
「お地蔵さんは、元興寺にもたくさんあって、子供の頃から大好きだったなあ・・・」
「このお地蔵さん・・・静かなんだけど、光背とかじっと見ていると、迫力・・・というか・・・すごい光かなあ・・・ゾクゾクしてきます」
率直に感じたことを言うが、実はゾクゾクしていたのは見かけた瞬間からである。
通り過ぎようとしてよろけたのは、それが原因なのである。
「うんうん、あのね・・・」
春奈先生は、光の反応に満足した顔で、頷いた。
そして続けた。
「特に仏像を見て、ゾクゾクする時ってね、その仏像がその人に何かを言いたい時なの。特に古い仏像には、本当に昔から人の想いが寄せられているから、その想いが光君に何か言いたいのかもしれない」
春奈先生は不思議なことを言うが、楓も頷いている。
春奈先生は、話を続けた。
「神様や仏様って人の想いを集める、それだから神様や仏様なんだけど」
「その想いが光君に何か言いたいのかもしれないよ」
春奈先生はようやく笑顔になった。
光は春奈先生の笑顔にほっとする。
そして、もう一度地蔵菩薩を見た。
「あれ?光が増している・・・光背の光かな」
どう見ても、さっき通り過ぎようとした時よりは輝いている気がする。
「想いねえ・・・」
光は、地蔵菩薩が、自分に一体何を言いたいのかわからない。
ただ、身体の中が熱くなってきていることは事実。
せっかく冷房の中に入ったのに、汗が吹き出ている。