第71話魔笛の指揮を始める
「うん、そこで指揮して欲しい」
「私、ここで聞いているから」
「少し腰が痛くてね」
祥子先生は、そのまま黒板の下の椅子に座ってしまった。
「いきなり・・・」
光は、指揮など何しろ中学生以来。
それも合唱を適当に指揮しただけ。
「仕方ないか・・・」
光は、どうしようもなかった。
そして、そのまま指揮台に進んだ。
譜面台の上には、モーツァルトの魔笛序曲が置いてある。
「知らない曲でもないし」
光は、子供の頃から音楽は何でも聞いてきた。
魔笛も好きな曲だった。
光は何のためらいもなく、指揮棒を振りおろした。
いや、後から考えると、振りおろしてしまったのである。
「うん、思った通りだ」
祥子は、演奏が進むにつれ、身体が熱くなることを感じている。
何しろ、テンポがちょうどいい。
速すぎず、遅すぎず、しかもタメを作る部分はしっかりと作る。
そのタメには、嫌らしさがない。
特に大指揮者で、リズムのタメを強調する場合もあるけれど、ワザとらしくて気持ちが悪く感じて来た。
しかし、光の指揮になると、それが爽やか。
また、音楽のいろいろなアクセントが、次第にクッキリとしてきている。
「すっごいなあ、これ、才能かなあ」
祥子は自分が指揮をする時、何度注意してもできなかったことを、光は一回の指揮で部員全体に浸透させている。
それが、うらやましいと思う。
「聞いていて、歯切れが良くて、楽しいな」
「それでいて聞かせる所、メロディを強調する部分は、しなやかに」
祥子は、ここで光の才能を確信した。
「何しろ光君自身が楽しそうに振っている」
「音楽部の生徒も楽しそうだ」
「のびのびと身体動かして弾いているもの」
「これなら観客も、乗っちゃうな」
祥子は、若い頃、とにかくコンクールで上位に入賞するための「ミスをしない演奏」「勝つ演奏」の練習に明け暮れた嫌な時期がある。
それに我慢が出来なくなって、今の生活を選んだけれど、他の部活の顧問とのトラブルもあり、ここでもまた我慢の生活であった。
しかし、この光の音楽を聴いているだけでも、幸せ。
「本当にモーツァルトを上手に鳴らしている」
そう思っていると演奏が終わった。
「ああ、ありがとう」
「うん、よかった」
祥子は満面の笑みで光に声をかけた。
光は少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「多少修整したいところもありますので、それは個別に奏者に伝えます」
光は楽譜を見ながら祥子に伝えた。
「うん・・・任せる」
祥子は、今の演奏で十分だと思った。
しかし光は、まだ修整したいという。
ここは、任せるしかないと判断する。
「出来れば・・・本番の指揮も・・・」
魔笛以外には、モーツァルトのヴァイオリン第二番協奏曲、ソリストは祥子の卒業した音大の後輩を頼んだ。
メインは、ブラームスの交響曲第二番である。




