「特別のケーキ 桜」のレシピ
春奈は、話の途中で美紀をキッチンに呼んだ。
美穂のピアノの先生との一件や、内田先生と小沢先生の来訪はともかく、光の「特別のケーキ作り」が、効果が無かったことが心配になった。
「でもね、春奈ちゃん、今日、いろいろ思いがけないことが連続したでしょ」
美紀は、春奈の目を見た。
そして、言葉を続けた。
「こういう思いがけないことが続くのは、きっと阿修羅の考えがあると思うの」
「多少違うかもしれないけれど、特別のお菓子に近いものを作ったよ」
「大丈夫、内田先生も小沢先生も来た、菜穂子さんの縁のある曲も光君と弾いた」
「心配いらない、きっと菜穂子さんの想いは、光君に通じている」
「もちろん、春奈ちゃんの心もね」
美紀の言葉で、春奈は泣き出してしまった。
夕方には全員が帰り、家の中には、いつもの通り光と春奈だけになった。
夕食を食べながら春奈は光に話しかけた。
「今日も、いろいろだったね、お疲れさま」
光もホッとした顔になっている。
「うん、美穂ちゃんのことはありがとう、助かった」
光は春奈に頭を下げた。
「いやいや、気づいてくれてよかった、あの手じゃ家に帰ってお母さんに電話も出来ないもの、ずっと夕方まで苦しんだと思うよ」
春奈も、美穂の件については、本当に驚いたし、今思い出しても心が痛む。
光は、話題を変えた。
「ああ、サントノレのケーキもありがとう、美味しかった」
光は、少し笑っている。
「いや、光君のお母さんのレシピで作ったんだけど、上手に出来たかどうか」
春奈は、「特別なケーキ」のはずのサントノレのケーキを食べたにもかかわらず、それ程表情に変化が無かったことが、疑問であり、不安になっている。
「うん、母さんのサントノレに近い味だったよ、懐かしかった」
光は、ここでも表情を変えない。
「そうかあ・・・近いねえ・・・何が違うのかなあ・・・」
春奈は、少し難しい顔になる。
光は、そんな春奈の顔をじっと見た。
「ねえ春奈さん、お願いがあるんだけど」
光は珍しく真顔である。
「え?なあに?急にそんな顔しちゃって、出来ることならするよ」
春奈は、少しドキドキしている。
光も、少し顔を赤らめて、話し出した。
「卒業式が終わったら、みんなで奈良にお花見に行こうよ」
「伊豆から奈津美叔母さんも呼んでね、母さんだけのオリジナルの・・・」
光は、唇をきつく結んだ。
春奈は、光の次の言葉に注目した。
「ごめん・・・上手に言えないけれど・・・その時に・・・」
光は、一旦席を立って、自分の部屋に入った。
そしてすぐに春奈のところに帰って来た。
「あの時のケーキはこれだよ」
光は、少し涙ぐみながら、母菜穂子の書いた「特別のケーキ 桜」のレシピを、春奈に渡した。
春奈は光が再び自分の部屋に入った後、奈良の圭子に連絡を取った。
圭子も喜んでいる。
「そうかあ、光君が自分からお花見の話ねえ・・・うれしいなあ」
「それから、近所の女の子のことも解決したんだ、成長して来たのかな」
「まあ、内田先生と小沢先生の件は、それ程驚かないけれど、これからも光君の後ろ盾ということで、私からもお礼の連絡をしておくよ、ああ、内田先生も懐かしいなあ」
様々、喜びながらケーキの話になった。
「うん、あのケーキはね、サントノレなんだけどさ、クリームがちょっと違うの」
「特別なエキスが必要でね、それについては楓が詳しい」
「ああ、若い子ばかりで、みんなで作ったことは内緒にしておくよ」
「それでなくても、寂しい寂しいで、過食症だからさ、さっきも叱ったんだよ」
「まあ、奈津美さんも呼んで、大花見大会かあ、楽しみだなあ」
圭子は、本当にうれしいのか、言葉が止まらない。
「きっとね、光君は、菜穂子さんのお菓子レシピから、そのページを抜き取ったのさ」
「光君にとってはね、菜穂子さんの最後の手料理だったから、本棚に置きっぱなしということには、出来なかったんだよ」
「でも、春奈ちゃんが、音頭を取ってくれてさ、楓はともかく若い女の子が全員集まってくれて、美紀さんまで来てくれたんでしょ?」
「光君、ああ見えて感激していると思うよ」
「だから、一番信頼できる春奈ちゃんに、ずっと大切にしてきたレシピを渡したのさ」
「まあ、そうやって、少しずつ心を開いて・・・やがてはね・・・」
「菜穂子さんの最期を乗り越えようとしているのさ」
圭子の声が、湿って来ている。




