クロワッサン事件 ルシェールの笑顔復活
「お昼を食べてもいないのに寝ちゃいそう」春奈
「寝かしちゃって私たちだけ食べると、後で泣くかな」ソフィー
「あ、それ、昔、やったことある、光君、大泣きになった」
ようやくルシェールの深刻な顔が消えた。
「あれは、何の料理の時だっけ」ソフィー
「クロワッサンを作っていてさ、光君パン生地こねるだけで疲れてね、寝ちゃった」
ルシェールが笑っている。
「でも、あの時は、光君の分も残したんだよ、私は」
ソフィーは、しっかり思い出している。
「ああ、それはね、楓ちゃんがどうせ起きないって言い張るから」
ルシェールは楓のせいにしている。
「楓ちゃんが食べちゃったの?」
春奈は、驚いた。
「うん、もちろん、止められなかった」
ルシェールは、やっといつもの顔に戻った。
「華奈ちゃんはいたの?その時」
春奈は、少し華奈のことが気にかかった。
「ああ、いたよ」
ソフィーは、フフンと笑う。
「うん、いたんだけどねえ・・・」
ルシェールが意味深な顔になった。
「もしかして,大失敗とか?」
春奈は何となく予想がついた。
「そう、小麦粉ひっくり返してさ、全身真っ白」
ソフィーは真実を言ってしまう。
「お母さんに怒られるって大泣きになってね」ルシェール
「それでも食べることは食べていたかなあ」ソフィー
「ああ、口の周りも汚して、またお母さんにね・・・」ルシェール
しかし、過去の話ばかりしていても仕方がない。
本当に光は、眠りそうだし、最近は食欲が少々回復しているとはいえ、まだまだ「少々」レベル。
聖母マリア様のご心配もあるし、なんとかお昼ご飯を食べなければならない。
「ああ、そうだ、あれがあった」
春奈は、一つ思い出したことがあった。
年末に、光の父、史から届いた「そば粉、小麦粉、蕎麦打ちマシーン」である。
本来は光家で「年越しそば」を、それで食べる予定だった。
「ねえ、光君、お蕎麦にしようよ」
「お父さんのマシーン使ってさ」
春奈は、光の身体を少し揺する。
「え?お蕎麦?ああ、二八で?」
意外なことに、光は居眠り顔から突然復活。
いきなり、キッチンに歩き出し、そば粉と小麦粉を蕎麦打ちマシーンに入れている。
「え?使い方知っているの?」春奈
「うん、簡単だよ、蕎麦つゆは、母さんの本棚にレシピがある」
「ソフィーとルシェールにも協力してもらって、天ぷらそばにしよう」
「昨日、ニケからもらった海老とイカを揚げて」
信じられないような、光のテキパキとした指示である。
本来、年上の春奈、ソフィー、ルシェールも、ほぼ否応もなく天ぷらそば作りに加わっている。
「わーーーおそば、そのものが美味しい」春奈
「菜穂子叔母さんのおつゆも、強めだけどいいなあ」ソフィー
「それに負けないくらい、海老も美味しい」ルシェール
ようやく元気になったルシェールである。
ソフィーが春奈にささやいた。
「ルシェールね、なんだかんだと言ってね、光君に甘えたかっただけだよ」
「一芝居打ったのさ、たまにだから許してあげて」
春奈は、その言葉にため息が出そうになったけれど、なんとかこらえた。
ただ、昼食後、その日の晩は、どうしてもルシェールが光家に泊まると言い張り、仕方なくソフィーも母のニケに了解を取り、一緒に泊まることになった。
「さて、何しようか?」
ルシェールは、表情が全く異なるものとなった。
とにかく明るい笑顔、光り輝いている。
「何だろう?どうしてここまで、急に?」
春奈は、ルシェールが、ここまで言い張るとは思わなかった。
夏休みに再会して以来、数か月もあったのに、ルシェールは光家に泊まりたいとか言い出すことは全くなかった。
ルシェールの内心では、あったかもしれないけれど、そもそも性格温厚、真面目であり、言い出せなかったのかもしれないと考えている。
春奈としても、ルシェールが一番、光には適任者だと思うし、特に光が音楽家として世界で成功するためには、ルシェールの語学力、マネージメント力を欠かすことは出来ない。
春奈には、逆立ちしてもルシェールにかなわない部分があるし、楽しそうに光と話をするルシェールの姿を、どうしても羨ましく感じてしまう。
「おそらくね」
ソフィーが春奈に声をかけた。
もちろん、光とルシェールが話をしているリビングではなく、隣のキッチンである。
「ルシェールの変化は、寒川様のところで、特別御祈祷を受けてからだと思う」
「今までは、光君のお嫁さんに当選確実と思い込んでいて、のんびりしていたルシェールなんだけど」
「しっかりとしているけれど、ちょっと、おっとり娘なの」
「ただ、爆発力もあるよ、冬のコンサートの日みたいにね」
ソフィーはルシェールの状況をほぼ完全に把握しているようだ。




