第210話メールを一週間ほったらかしにする光
「ねえ、楓ちゃんから連絡あったの?」
春奈は珍しく土曜日の朝早くから着替えが終わった光に声をかけた。
光は、普段の土曜日になると、まず八時にならないと起きてこないので、不思議に感じている。
「うん、十時に神田明神前で待ち合わせだってさ・・・」
光にしては明確な答えが返って来た。
心なしか、少し焦っているように見える。
「ふーん、それで焦っているの?」
春奈も気になっていることを聞いてみた。
「いや・・・その後、この家に泊まるんだってさ、急に言うから・・・」光
「え?・・・」
春奈も、驚いた。
どうして、そういうことを事前に言わないのだろうと思う。
食べ物の準備や何やらしなければならない。
掃除や洗濯は、光が割と丁寧にやるので心配はないけれど、食べることに関しては光の準備はない、しいてやると言えば珈琲豆や紅茶や緑茶の茶葉程度の準備をするぐらいである。
「うん、さっきメールが来たばかりだもの」
光はメールを見ている。
「・・・さっき?」
春奈は、どうにも信じられない。
案外、楓は「マメ」でしっかりタイプであって、少なくとも、光の十倍はキチンとしている。
「ねえ、ちょっとスマホ見せて?なんて書いてあるか見たいの」
春奈は、光の手からスマホを奪い取った。
何しろ「亀」の光から、スマホを奪い取るなど、簡単このうえない。
「・・・全く・・・思った通りだ」
春奈は、呆れた。
メールの日付は一週間前、しかも春奈が圭子と連絡を取った直後。
つまり、光により、「さっき見た」ということで、一週間メールは「ほったらかし」にされたのである。
「・・・ところで返信まだだよね・・・」
春奈は、当たり前だと思ったけれど、一応確認をする。
「・・・え・・・あ・・・」
久々に光の「うろたえ顔」である。
思わず蹴飛ばしたくなったが、さすがに「大人」なんとかこらえた。
しかし、こらえたのも、他に原因があったから。
玄関のチャイムが高らかに鳴っている。
「う・・・来やがった・・・」
春奈の舌打ちとほぼ同時に、明るく元気な華奈の大音声が鳴り響く。
「光さーん、出発ですよーーー」
「華奈ちゃん、怒っていますよー」
「甘酒、飲ませろってさ」
華奈はわざわざ、インタフォンで大声を出す。
「・・・そうか・・・甘かった・・・圭子経由、楓経由、華奈かあ・・・」
「せっかく、揺れる中央線では静かにと思ったのに・・・」
春奈が、再び舌打ちをしていると、案の定、華奈は、どんどんリビングに入ってきてしまう。
「あら・・・ジャケットなど着て、賢い文学少女風ですこと」春奈
「いえ、当たり前でございます、神田明神様参拝の後、本の街、御茶ノ水、神保町を歩くのですから」
「まあ、もともとお嬢様の私でございます」
華奈も、一歩も引かない。
「ふーん・・・ルシェールには連絡なかったのかな」
春奈は、珍しくルシェールがいないことで、違和感がある。
少なくとも、ルシェールのほうが、光を上手にフォローする。
華奈なんて、光の足を引っ張っているだけと考えている。
「ああ、ルシェールはね、東京駅で楓ちゃんを迎えています」
「ルシェールも御茶ノ水詳しいって」
華奈カラ春奈の予想もしない言葉である。
「そういえば、御茶ノ水ってアテネ・フランセあった・・・」
春奈は、御茶ノ水に百年の伝統を誇る語学系の老舗があることを思い出した。
おそらくルシェールも東京に出て、そこに通っていると思った。
「うん、またにぎやかになるね、神田明神様も喜ぶかなあ」
光も、やっと口を開いた。
どうしても、「亀」なので、口を開くのが遅い。
「うーん・・・喜びついでに、私もこの家に泊まるかなあ」
本当に「ついで」であるけれど、華奈の口からとんでもない言葉が飛び出す。
「あのね、まだ高校一年生なんだから、そういうことは親の許可を得るんですよ」
「美紀さんに確認しましょうか?」
春奈は、学園の教師という立場を十分に生かさねばならないと思った。
「・・・う・・・」
結局、何も考えていなかった華奈は、あっけなく撃沈。
どうにも、華奈は母の美紀には頭があがらない。
「ロクに玉子焼きも出来ない」
今日の朝も、しっかりと叱られたばかりである。
結局、春奈と華奈は胸のうちに厳しい攻防戦を行いながら、井の頭線に乗り吉祥寺乗り換えで中央線、十時少し前に御茶ノ水駅に着いた。




