第162話祈祷書と阿修羅の考え
光は教会の別室で、ピエール神父と向い合せに座っている。
二人の前のテーブルには、かなり古びた分厚い本が置かれている。
「はい、これが祈祷書でございます」
ピエール神父は、本当に慎重な言葉遣いである。
少し震えているようにも見える。
「うん・・・日本に来たのは・・・信長の時代、ルイス・フロイスか」
光の言葉遣いも変化している。
かなり重々しい。
「あ・・・はい・・・確かに西暦なら千五百八十一年、確かにフロイスのメモが挟んであります」
ピエール神父の声と身体の震えが大きくなった。
「まあ、震えることはないぞ、ここにあることが心配なら・・・滅却する」
光はピエール神父の目を見つめた。
その目は異様に光っている。
「・・・滅却と・・・言いますと・・・」
ピエール神父も不安げな顔になる。
千年、いや数千年かもしれない可能性がある祈祷書である。
それをいとも簡単に「滅却する」という光の考えが読み取れない。
「ピエール神父・・・誰と話をしていると考えているんだ」
光の声は一層重くなった。
「いや・・・既に阿修羅様・・・光君ではありません」
ピエール神父は、素直に白状した。
阿修羅でなければ、信長、フロイスの名前は出てこないと考えた。
信長が援助しなければ、あの当時はフロイスが日本国内を歩くなどはありえない。
ただ信長とて、旧来の仏法勢力への対抗手段のため、先端技術の香がする西洋文明にとびついただけであるが・・・
「それならば滅却してもかまわない」
「その祈祷書とかの中身は、全てわかっている」
「アラム語は・・・母国語だ」
「阿修羅は、お前たちのあがめるイエスより古い」
阿修羅は言い切ってしまった。
そして両手を一旦左右に開き、ゆっくりと正面で合わせた。
光の姿も阿修羅に変化している。
「う・・・阿修羅様の合掌・・・何もためらうところなく・・・」
ピエール神父の身体全体が硬直した。
と同時に「祈祷書」がテーブルの上に浮き上がった。
「これは・・・」
ピエール神父は硬直したまま身体を動かすことが出来ない。
その硬直した神父の目の前を「祈祷書」が阿修羅の合掌に向けて動いていく。
「あ・・・」
ピエール神父は腰を抜かしてしまった。
「祈祷書」が阿修羅の合掌の上で一旦留まった後、合掌の中に消えてしまったのである。
「気にすることはない」
腰を抜かして立ち上がれないピエール神父に阿修羅が声をかけた。
「・・・」
ピエール神父は、声も出ない。
「そんなに大切なものなら、騒動が終わったら返す」
「ああ、古いから新品に磨きなおしてからな」
阿修羅の重々しい声がピエール神父の耳に響いた。
その瞬間、阿修羅の姿が消えた。
光がぼんやりと座っている。
「はい、お疲れさま」
別室から戻った光の前に、洋菓子サヴァランが置かれている。
「へえ・・・」
「ルシェールこんなの出来るんだ」
光はうれしそうに食べてしまう。
「えへへ、料理はオムレツ以外は、母ナタリーにほとんど任せたけれど、私だって光君にもう少し何か作らないとね」
ルシェールは、光の隣に座った。
「うん、全部美味しかった」
「さすがだなあ」
いつもぼんやりとしている光が、珍しくほめている。
「ほめられると、うれしいなあ・・・」
「お土産もあるから持って帰ってね」
ルシェールは、大量のサヴァランとフレンチトーストの入った袋を光の前に置いた。
「うん、気が利くね」
光も感心した顔になる。
「うん、そろそろ楓ちゃんと華奈ちゃん来るから持たせる、あ、春奈さんの分もね」
ルシェールは光の予想しないことも言った。
そして首をかしげて教会の前に出た光の前には、ルシェールの言葉通り、楓と華奈が歩いてくるのである。




