壱の書『或いは平和の賛歌たる物語』 ・ⅰ
どこまでも澄み渡った青空が、薄黒い路地の合間からのぞいている。
……義父と義母に拾われたあの日もこんな空だったなと想いながら、ケル・ソンソナテは苦笑を浮かべて周りを見渡した。
「うーん、今日も良い天気だなぁ」
その薄暗がりの中で響いた低く重たい声は、ドスのきいたと言う表現が似合っている……筈なのだが、そののんびりした口調のせいかどこかコミカルさを覚えさせた。
「……さてと、早く仕事を済ませないと」
ぼそりと呟いて、目の前にある物を凝視するケル。
種々の野菜が詰め込まれた縦一メートル、横と高さが五十センチの木箱が二十個、裏路地の半ばまでを占領している。
早く倉庫に収めないと余所の邪魔になる。
そう考えながら、ケルはそのまま無造作に手を伸ばした。
手早く五個一列に積み上げて、まるでそれがマッチ箱か何かのように軽々と持ち上げるケル。
例え筋骨隆々の体格であろうと人間には非常に厳しい事を平然とやってのけ、ケルは店の裏口に入っていく。
大陸を東西に二分する勢力・《光輝》(エルドラド)の中でも、イクサーバドルと呼ばれるこの都市は首都に次いで有名であった。
人口二十万を超える大都市であることも理由の一つだが、それ以上に、非常に高名でありながら忌むべき英雄が住んでいることがその理由だった。
イクサーバドル東南部のイキケ街区、そこにあるセアラ商店街は、イクサーバドルの台所と呼ばれている。
そんなセアラ商店街の裏路地は、滅多に人が入ってこない。
最後の荷物を倉庫に運び入れて、ケルは手早く仕分けをすませていく。
ひんやりとした空気が流れるうす暗い倉庫の中でも、ケルには全く支障がなかった。
普段は猫のように細い瞳孔が、限界まで開いているから。
全てをすませたケルは、そのまま裏路地に出て大きく伸びをする。
二メートルという長身では倉庫の中で伸びをすることもままならないのだから。
そろそろ昼時。
高く昇った日の光が路地裏にも差し込んできて、ケルの身体に降り注ぎその姿をあらわにした。
白いTシャツと生成りの麻パンツに包まれている身体は、細身だが鍛え上げられており、無駄な贅肉など一切付いていない。
その肌の色は朱で、人間とはあまりにも違いすぎていた。
黒く縮れた髪は短く刈られて清潔さを感じさせたが、その貌は岩から直接掘り起こしたようにごつごつとしていて、誰もが恐ろしいと言うであろう形。
明るいところにいる今は目の瞳孔も縦に細く、人間なら白目に当たるところが金色に光っていた。
何よりも特徴的なのが、額に生えた二十センチ前後の鋭く細い漆黒の角。
それは、《冥昧》(イルルヤンカシュ)の三族類――魔族類・邪妖族類・魔獣族類――の中で、肉弾戦に置いては最強と噂されていた滅びし種族、《一角鬼人族》(モノケルヌンノス)の証。
「ケルーーーっっ!」
不意に店の表から届いた声に、ケルはおもわず小首をかしげる。
「はいなんですか、オヤジさん?」
倉庫を突っ切って、表通りの店側に顔を出すのと同時。
「いつまで片づけやってんだ! とっとと店番せんかい!」
強烈な声が投げかけられた。
その声の主。
ケルが働くこのボリスク青果店の店長のボリスク・ミノリサが、店の表口あたりからじろっとこちらを睨んでくる。
禿頭で腹の出た中年親父、一言で言えばそんな外見のボリスクに、軽く頭を下げてケルは表通りの方へ顔を出した。
ちり一つ落ちていない、綺麗な石畳の上を様々な人々が歩いていた。
無論、ほとんどは人族類――《光輝》の三族類の一つで、もっとも神に愛されていると言われる――だが、耳が長く長身痩躯と言った様子の長耳族や、背が低くずんぐりむっくりと言った様子の短躯族、さらには背に翅を持つ小さな体の妖翅族と言った、妖精族類も歩いている。
そんな中で、ケルの姿はひときわ目立っていた。
大陸を二分する《光輝》と《冥昧》の間で二百年近く続いた大戦が終結したのは、わずか三年前。
《光輝》と《冥昧》の間にあるのは所詮警戒的平和でしかない。
当然、《光輝》に《冥昧》の三族類が現れるなど本来あり得ないこと。
だからこそ、ケルの姿は確かに目立つものだった。
「いらっしゃいませ、何にしましょう」
だが、ケルが出てきたところで、店先にいる客からはおびえの感情は見られなかった。
「旦那が久しぶりに帰ってくるんだよ、なんかお勧めないかい!」
「今日は新キャベツが入ったところですよ。ロールキャベツなんかはいかがです?」
先頭にいた小太りの女性の言葉に、笑顔を浮かべて応対するケル。
厳つい顔立ちが浮かべる笑顔はどこか剽げた雰囲気を持っていて、他の客達も笑みを浮かべる。
「よし、今日はソレにしとくよ。ソレと、フルーツなんかもらえるかい?」
「はい、イチゴの美味しいところが入ってますよ」
「私はナスとトマトをもらえるかしら? 今日は久しぶりにパスタにしようと思うの」
「ねぇ、ケル兄ちゃん。母ちゃんにダイコン買ってこいって言われたの。はやくはやくぅ」
「あ、なんか適当に野菜を見繕ってくれないかな。今日は僕の所パーティーがあるんでね」
あっという間に集まってくるお客達に頭を下げつつ、てきぱきと動くケル。
集金しながら商品を袋に詰めて、手渡しながら次の商品を用意する。
それでもケル一人では追いつきそうにない。
「父さん、何一人でぼけてんのよ!」
非常に元気な可愛らしい声と、背中を叩いた様な音が響き渡る。
「あいだっ! わぁっとるわい! ちょっと休憩しただけだろうが!」
ソレに続いて、聞こえてきたボリスクのだみ声に、思わず苦笑が浮かぶ。
それでも、振り向くことなく、お客の相手をするケル。
僅かに甘い香りが薫って、すぐ隣にボリスクをしかりつけた声の主が来る。
「もう、ケル君も一人で何でもやろうとしないで、あの馬鹿親父くらいこき使いなさいよ」
「いや、そう言うわけにも。はい、有り難うございます。これはおまけと言うことで」
お客の相手をしながら、ケルは隣に来た少女にちらりと視線を向けた。
其処にいたのは、170センチ前後というかなり背の高い少女。
真っ赤な長い髪をポニーテールにして、発育の良い体を生成りのシャツにデニムパンツで包んでいる。
「はい、いつもご利用有り難うございまーす! はい、ポテトにブロッコリーですね、はい。そうですね、ブロッコリーはゆでるよりも蒸し煮にした方が美味しいですよ」
意志の強そうな中性的な顔立ちに、満面の笑顔をうかべて客の相手をする姿に、何故ということもなく笑みが浮かぶ。
「ケル君、ぼけっとしないで! お客さん待ってるわよ!」
「あ、はい。はい、有り難うございます」
目の前の長耳族の男性に袋に入れた野菜を渡す。
「はい、有り難うございましたー! 父さんもとっとと働く!」
「全く、親使いが荒いんだから、困ったもんだ」
文句を言いながら、少女と反対側に立つボリスク。
本当に親子らしくない親子だよなぁと内心苦笑しながら、ケルはもう一度だけ少女――ボリスクの娘、アスティン・ミノリサに視線を向けた。