ゲームスタート9
「さ、そろそろ行こうぜ」
「……ああ。そうだな」
カムイの言葉に、呉羽は名残惜しそうにしながらそう答えた。そして呉羽は少し寂しげな笑みを浮かべながら彼の方を振り返る。彼女が背を向けた拠点は荷物が片付けられて空っぽになっている。今日、二人はここを旅立つのだ。
呉羽が盛大に吐いたのは五日前のこと。この五日間、高濃度の瘴気の中を移動する方法に目途がついたカムイと呉羽は、この拠点を離れて他のプレイヤーたちを探す準備を行っていた。
『荷物はどうする?』
拠点にはカムイと呉羽の荷物が少なからずある。一番大きいのは寝袋だ。買ってしまった方が経済的なので購入したが、そのまま持っていこうとすると邪魔になる。また他にも細々とした物品があった。
『この際だからストレージ系のマジックアイテムを買うか』
カムイはそう決断した。ストレージ系のマジックアイテムは高い。一番安いものでも10万Ptもする。しかしこういうゲームでいわゆる“アイテムボックス”は必需品だ。その必需品がシステム的に用意されていない以上、ストレージ系のマジックアイテムはどうしてもこの先の攻略に必要になる。このタイミングで買っておくのもいいだろう。
それで、カムイと呉羽はそれぞれアイテムショップから、ストレージ系のマジックアイテムを購入した。カムイは20万Ptでボディバック風のものを選ぶ。メインの色はブラウンで、モスグリーンのラインが入っている。素材はレザーのように思える。身体にぴったりとしていて、激しく動いても邪魔にならない。
呉羽が選んだのはウェストポーチ風で、一番安い10万Ptのものだ。桜色のチェック柄で、素材は触った感じデニム生地のようだった。小さく、カムイのものと同じく動いても邪魔にならない。
『むう、なんだか格差を見せ付けられた気がする』
カムイが20万Ptのストレージアイテムを買ったことを知ると、呉羽はそう言って小さく頬を膨らませた。彼女が今までお風呂を我慢していれば、恐らく同等以上のものを買えたはずなのだが、それを指摘しないでやるだけの優しさがカムイにはあった。
『オレだって奮発したんだよ。この先もずっと使うだろうから』
カムイは苦笑しながらそう応えた。その言葉に嘘はない。ただ、彼も本当は呉羽と同じく、一番安いものを買う予定だったのだ。しかし、初期設定でヘルプさんから貰ったボーナス10万Ptをまだ使っていないことを思い出し、その分と自分を納得させて20万Ptのものを買ったのである。
二人が買ったのはそれだけではない。二人はこの機会だからということで、装備品を更新していた。とはいえ二人とも武器は必要ないので、主に衣服や防具の類である。
カムイはまずズボンとブーツを新調した。どちらもミリタリー仕様で、耐久性が高くて動きやすい。上は前に買った半袖の黒いボディースーツがまだ使えるのでそのままにしておき、さらに呉羽の勧めもあって皮製の籠手を新たに買った。ストレージアイテムを斜めに背負い、その上から厚手の生地で作られたポンチョを羽織れば、身支度完了である。色々買いこんだので結構な出費になったが、必要経費とカムイは割り切った。
呉羽の方はまず、胸当てを購入した。本当はカーボン繊維の防刃仕様の物が欲しかったらしいのだが、予算の関係で皮製になった。加えて、カムイと同じくブーツを新調。これから一日中歩くことになるだろうと言うことで、こちらは少々高いものを選んだ。シャツの代わりに長袖のレイヤードを買い、その上から新しいクロークを羽織ればこちらも身支度完了である。
『本当はわたしも籠手や脛当てが欲しかったのだが、むう……』
そう言ってポイントの残高画面とにらめっこしながら呉羽は唸る。だからお風呂を我慢していれば以下略。
ちなみにもう使わないブーツなどはシステムメニューにある【廃棄】のコマンドを使うと、例のシャボン玉のエフェクトと一緒に跡形もなく消し去ることができる。実にエコな仕様だ。加えて僅かばかりとはいえポイントが還元され、二人はホクホク顔だった。
ただ、準備が整ったからと言っても、二人はすぐに出立することはしなかった。旅の途中は、どれだけポイントを稼げるかが不透明だ。多少は余裕のある状態にしておかなければならない。
『ポイントなら、オレが融通してもいいぞ?』
カムイにはアブソープションがある。そのおかげで彼はポイントに余裕があった。加えて移動中アブソープションはほぼ使いっぱなしになるので、ポイントに困ることは考えられない。それで彼は呉羽にそう言ったのだが、彼女は頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
『わたしの移動に付き合ってもらっているんだ。そこまで甘えられない』
自分のことは自分でする。協力しているとはいえ最低限の線引きは必要だ、呉羽は言った。
『でもまあ、本当にいざという時は頼むよ。必ず返すから』
片目を瞑って手を合わせ、茶目っ気のある笑みを浮かべながら呉羽はそう付け加える。それを見てカムイは苦笑し、そして「分かった」と言った。
準備するべきはポイントのことだけではない。実際の移動がどんな感じになるのか実験しておく必要があった。それにこれからは一人ではなく二人で戦うのだ。最低限お互いに邪魔しないよう、動きを確認しておかなければならない。加えて、新しい装備に慣れておく必要もある。
それらの準備にカムイと呉羽は五日を費やした。この五日間は、今までの日々とは全然違ったように呉羽は思う。明確な目標があるおかげで、毎日が充実していた。ただそれでも、いざ旅立ちの時を迎えると、ある種の寂しさが胸にこみ上げてくる。
「どうかしたか?」
「いや、なんでない。さあ、行こう!」
カムイに明るい笑顔を向けて呉羽はそう応える。カムイは一つ頷くと拠点の外に出る。彼女はその背中を追った。
「さて、と……」
拠点の外に出ると、カムイはポケットから新たに購入した【導きのコンパス】を取り出し、その針の指し示す方向を確認する。
《ここから一番近い、瘴気濃度が平均以下で、五十人以上のプレイヤーが拠点としている場所》
それが、今回【導きのコンパス】に設定した条件である。エラーは出なかった。つまりこの世界には、すでに五十人以上のプレイヤーが集まっている拠点があるのだ。そのことにカムイと呉羽は少なからず心を躍らせた。
そして五十人以上もプレイヤーがいれば、かなり色々なことができるだろう。いかにして世界を再生するのか。その具体的な方策も、なにか手がかりがあるかも知れない。
ここから大きく物事が動くという予感が、カムイと呉羽にはあった。その予感が二人の心を躍らせる。この旅立ちに希望があることは、この瘴気にのまれた世界では幸運なことなのだろう。カムイはふと、そう思った。
― ‡ ―
「デカイな……」
後ろ足で立ち上がり、前足を大きく振り上げる熊に似たモンスター。そのモンスターを、腰を落とした状態から見上げてカムイはそう呟いた。身長は目算だが2メートル以上。体重も200キロ以上あるだろう。これまでに遭遇したモンスターのなかでは、間違いなく一番の大物である。
カムイと呉羽が拠点を旅立ってからおよそ五時間。拠点があったあの小高い山はもう見えない。距離的にはさほど離れては居ないと思うのだが、視界が瘴気に遮られて遠くを見通すことができないのだ。
予想していたことではあるが、二人は度々モンスターと遭遇した。いつかのように浄化した結界内で地面から瘴気が湧き出てきてモンスターとなることもあれば、結界の外にいたモンスターが二人を見つけて襲い掛かってくることもあった。
『結界で防げないのかよ……』
結界の中にモンスターが入ってきたのを見たとき、カムイは思わずそうこぼしてしまった。それを聞いて、呉羽が申し訳なさそうな顔をする。
『すまない。頑張れば防げるかもしれないけど……』
『いや、無理はしなくていい』
カムイは慌ててそう言った。ただでさえ、呉羽は結界をずっと維持し続けているのだ。本人は「慣れた」と言っているが、負担が大きいのは変わらない。彼女がヘタって結界を維持できなくなるのが、最悪の状況なのだ。それを避けるためにも、これ以上頑張らせるのは気が引けた。
それで、戦闘の半分以上はカムイが担当した。とはいえ、呉羽もただ守られているだけではない。慣れてきたと言っていたその通り、今は結界を維持しながら戦いに加わるだけの余裕があった。それで、モンスターの数が多いときには彼女も愛刀を振るって戦った。
さて、そして現れた熊型のモンスター。コイツは結界の外からやって来た。大物ではあるが、単体である。それで、まずはカムイが一人で戦うことになった。
「呉羽、頼む」
「分かった」
カムイの求めに応じ、呉羽は愛刀の切っ先を逆さにして地面に突き刺す。そして草薙剣の力を使って、地面から瘴気を少しずつあふれ出させる。カムイはアブソープションを使ってその瘴気を吸収し、白夜叉のオーラを炎のように激しく揺らめかせた。
結界内で、特にカムイが戦うに当り、どうしても考えておかなければならない問題があった。それは「白夜叉を維持するためのエネルギーをどこから補充するのか」という問題である。普段であれば空気中に漂う瘴気を吸収しているのだが、結界内の瘴気濃度は低く保たなければ意味がなく、そのため補充できるエネルギーには限りがある。
モンスターから瘴気を奪うことも可能だったが、そのためには接近して直接触れなければならない。加えて一瞬で奪いきれるわけでもなく、やはり危険だった。
そこでカムイと呉羽が目を付けたのが、地面に蓄えられている瘴気だった。これを呉羽が外に押し出し、カムイが使えるようにしてやるのだ。これによってカムイは戦闘がかなり楽になったし、また呉羽も地面から瘴気を取り除くことによってポイントを得られる。まさに一石二鳥の解決策だった。
『慎重にやれよ、慎重に』
『わ、分かっているさ』
カムイから厳重に念を押され、呉羽はなんども頷いた。彼女だってそう何度もゲロを吐きたいわけではなのだ。
ちなみにカムイ一人だけでは地面から瘴気を吸収することはできなかった。本人曰く「手応えが硬すぎる」だそうだ。なんでも「空気中の瘴気は砂を掘るみたいにサクサクいけるけど、地面に蓄えられているヤツは岩みたいで手が出ない」と言う。この辺の感覚は呉羽には理解しがたかったが、とりあえず「出来ない」ということだけは分かった。
地面から靄のように漂ってくる瘴気を吸収して白夜叉を全開にすると、カムイは獰猛な笑みを浮かべた。すると彼の気配が変わったことを察したのか、後ろにいる呉羽から「冷静に」と注意される。彼は苦笑して「あいよ」と答えると、そのまま軽やかに前に出てモンスターとの間合いを詰めた。
「ギギィ!」
モンスターの耳障りな声にはいつまでたっても慣れない。わずかに顔をしかめながら、カムイはモンスターの鋭い爪をかわした。
「らぁ!」
鋭い声と共に、カムイは立ち上がったモンスターの脇腹を狙って蹴りを放つ。するとモンスターの巨体が、少しとはいえ宙に浮いた。重い手応えにカムイは会心の笑みを浮かべたが、しかしその一撃で倒せるほど弱い相手ではなかったらしい。
「ギギ……」
苦しげと言うよりは不快げなモンスターの唸り声。どうやら巨体に相応しい体力と耐久性をお持ちのようだ。体力お化けの称号はこういうヤツにこそ相応しいだろう。
モンスターはカムイから距離を取り、前足を地面について四つん這いになる。そのため高さはなくなったが、それでもその巨体は隠しようがない。むしろ小山のような威圧感がある。赤い不気味な目で睨みつけ、鋭い牙の覗く口で唸り声を上げているのだからなおさらだ。
「ギギィ!」
四つん這いになったモンスターが四肢に力を込めて飛び掛る。それをカムイはバックステップでかわす。後ろに下がった彼を追うように、モンスターが身体を伸ばして口を大きく開けた。噛み付く気だ。
「この……!」
カムイは斜めに右の拳を振り上げる。彼の拳はモンスターの下あごに当たり、そのまま口を強制的に閉じさせた。舌でも噛んだのか、モンスターは頭を振りながら後ろに下がった。
「ギィ!」
モンスターが再び立ち上がる。そしてそのまま身体をそらせて顔を空に向ける。一見して隙だらけのように見えるが、嫌な予感がしたカムイは姿勢を低くして警戒する。するとモンスターの口元に赤い炎が見えた。
(まさか!?)
そう思った瞬間、まさに思った通りのことが起こった。モンスターが火炎弾を吐き出したのである。カムイは驚きはしたが、しかし予想通りだ。回避は十分に可能だった。しかしいざ動こうとして彼は固まった。射線上には呉羽がいる。
「カムイ!?」
呉羽が悲鳴を上げる。カムイは顔の前で両腕を交差させ、火炎弾を受け止めていた。白夜叉のおかげでダメージはほぼない。しかしそうと感じられるだけの衝撃と、炎の熱は確かに彼に届いていた。
「このぉぉぉぉぉおお!!」
カムイが叫ぶ。攻撃を受けたからなのか、湧き起こる獣じみた衝動が抑えられない。叫びながら彼はモンスターに襲い掛かった。
「ギギ!」
モンスターもまた、雄叫びを上げながらカムイを迎え撃つ。太い前足を振るって、その鋭い爪で彼を狙う。襲い来るその爪を、彼はさらに加速することでタイミングを外し、モンスターの前足を肩で受け止める。衝撃は大きかったが、倒れるほどではない。
「ギィ!」
爪をかわされたモンスターは、大きな口をあけて再び噛み付こうとする。その口の中に、カムイは自分から腕を突っ込んだ。
「ギィ!? ギィギィ!」
モンスターがもがく。牙を立てているようだが、しっかりと噛み付けていないし、なにより白夜叉のオーラがある。カムイにダメージはない。モンスターは苦しげに前足を地面に付いた。
「おっと!?」
その衝撃でカムイも少しだけ体勢を崩す。しかし致命的ではない。なにより、これでモンスターの首の位置が下がった。彼にとってはむしろ好機だった。
「らぁ!」
空いている右手で、カムイは手刀を振るう。その手刀はモンスターの首の付け根を切り裂いた。その瞬間、モンスターの口に突っ込んだままの左腕に感じる力が弱まる。ほとんど反射的にカムイは叫んだ。
「アブソープション、全開!」
「ギィィィィィィィイイイイ!?」
彼のユニークスキルが唸りを上げる。モンスターは苦しげに悲鳴を上げるが、口に腕を突っ込まれたままでは逃げようもない。結局、カムイに瘴気を喰い尽されて消滅した。そして後には、ただ薄紅色の魔昌石が残る。
「ふう……」
モンスターを倒すと、カムイは一つ息を吐いてアブソープションと白夜叉の出力を抑える。それから魔昌石を拾ってポイントに変換した。呉羽のほうを振り返ると、彼女はすでに愛刀を鞘に戻していた。
「カムイ……、もうちょっと冷静に戦え。見ていて心臓に悪いぞ」
「あ~、悪い」
カムイは素直に謝った。彼自身、あの獣じみた衝動に流されてしまったという自覚がある。「流されるな」というのは、稽古のときから呉羽に散々言われてきたことだ。正直、「またやってしまった」と思っている。
「それと、あの火炎弾くらいならわたしは回避できた。盾になんてならなくていい。カムイは自分のことを優先してくれ」
叱ると言うよりはどこか懇願するように、呉羽はそう言った。どうやら心配をかけてしまったらしい。そう思ってカムイは素直に「おう」と応えた。それを聞くと、彼女も「うむ」と言って頷く。表情が少し柔らかくなった。
「さ、先を急ごうぜ」
そう言ってポケットから【導きのコンパス】を取り出し、方向を確認するとカムイはまた歩き出した。その背中を呉羽が小走りに追って隣に並ぶ。そして二人はまた瘴気の黒い霧が漂う中を進んでいく。まだ見ぬプレイヤーたちとの出会いを求めて。
― ‡ ―
人間の心理というのは、不思議なものである。例えば、同じ距離であったとしても、見知った道であれば近く感じ、全く知らない道であれば遠く感じる。時計を見れば移動にかかった時間も同じなのに、なぜかそう感じるのだ。そんな経験は、誰しも一度くらいはあるのではないだろうか。
カムイと呉羽が進むのは、その全く知らない道である。その上、目的地の方角は分かっているが、どれほどの距離があるのかは分からない。人間は分からないことに強いストレスを感じると言う。カムイは同じような旅をしたことがあるためか平然とした顔をしているが、呉羽はこれが初めての旅だ。そのせいか、目指す目的地にいつまでもたどり着けないような気がした。
辺りは真っ暗だ。この世界では、星の明かりはおろか、月の光さえも瘴気に遮られてほとんど地表には届かない。【簡易結界(一人用)】の中で輝く光熱石がなければ、明日の朝まで何も目には映らなかったことだろう。夜の濃い暗闇は、呉羽に漠然とした不安を覚えさせる。
だからなのかもしれない。呉羽はふと、カムイにこんなことを尋ねていた。
「カムイは、どうしてこのゲームに参加したんだ……?」
彼は呉羽のすぐ近くで、やはり【簡易結界(一人用)】を使い、その中で寝袋をしいて横になっている。呉羽が横になったまま顔を動かして視線をそちらに向けると、仰向けになった彼は小さく苦笑を浮かべていた。
「叶えたい願い事があったからだよ」
苦笑しながらカムイはそう答える。答えになっていない答えだ。このゲームをクリアしたらポイントに応じて願いを叶えられると言うのは最初に説明されていたことで、全てのプレイヤーは自分の願いを叶えるためにこのゲームに参加しているのだから。
「どんな願いを、叶えたいんだ?」
「それを聞くのはマナー違反だと思うんだけどな……」
カムイはこれまで、いわゆる“リアル”の話をほとんどしたことがない。呉羽が知っているのも、彼が日本人であることだけだ。一度聞いてみたことがあるのだが、今と同じく「マナー違反だ」と言われてそれ以来話題にしたことはない。そして彼が話さないものだから、呉羽もまた自分のリアルの話はほとんどしたことがなかった。
その話題を今持ち出したのは、やっぱり不安だったからかもしれない。呉羽が何も言わず、つまりその話題を切り上げないでいると、カムイは苦笑しながら「まあいいか」と言った。
「実はオレ、リアルでは植物状態なんだ」
カムイはなんでもないことのようにまずそう言った。もちろん、ゲームに参加したのだから意識はある。しかしいかなる手段においても、その意識を外に表現することができない。身体を動かすことはおろか、声を出すことも、瞬きをすることもできない。だからこそ自分のことを周りの人たちは植物状態だと思っているはずだ、と彼は言った。
「最初はさ、意識はあったし、すぐに何とかなるんじゃないかって思ってたんだ」
しかし、何とかはならなかった。症状は僅かにも改善せず、カムイは植物状態のままだった。努力はしたつもりだ、と彼は言う。だがどうしても、彼は意思を外に出すことはできなかった。
「意識はあるのにそれを伝えられない。地獄だよ」
ぞっとするほど穏やかな声で、カムイはそう言った。どれだけ必死に念じても、身体は動かず声も出ない。やがて植物状態になってから一年が経つころ、彼は生きることに、いや生かされることに絶望していた。
「ずっと、いっそ死にたいって思ってた。このゲームだって、『最悪でも死ぬだけだ』って思って参加したんだ」
でも、とカムイは言う。
「できることなら、死ぬ前に礼を言いたいヤツがいるんだ」
「……誰?」
「婚約者」
思いかげないその単語に、呉羽は思わず息をのんだ。そんな彼女の様子には気づかず、カムイはさらに言葉を続ける。
「オレが植物状態になったそもそもの原因は、事故のときにソイツを庇ったことなんだ」
きっと打ち所が悪かったのだろう。恐らく病院のベッドの上と思われる場所で気が付いたとき、彼はもうすでに意識を外に出せなくなっていた。しかしそのことで婚約者を恨んでいるわけではない、とカムイは言う。
「ソイツさ、オレが入院するようになってから毎日来るんだ。ホントに毎日」
そして手を取って話しかけてくれる。それはカムイにとって、ほとんど唯一と言っていい楽しみだった。
「でもさ、泣くんだよ、ソイツ。『わたしのせいで、ゴメンなさい』って。だから、『お前のせいじゃない』って言ってやりたくてさ。それと、『毎日来てくれてありがとう』って、礼も言いたくてさ。死ぬ前にそれができれば、何かもういいかな、って」
どこか気恥ずかしそうな声で、カムイはそう言った。
「……好き、なのか? その、婚約者のこと」
「どうかな……。実質、幼馴染みたいな関係だったし、嫌いではなかったけど……。まあ、感謝はしているよ」
カムイは「好きだ」と明言はしなかったが、声音からはその婚約者が彼にとって特別な存在であることがありありと伝わってきた。それが、なぜか呉羽の胸を苦しくさせる。
「オレの方は、もうコレくらいでいいだろ。呉羽の願い事は何なんだ?」
そう言ってカムイは話題を変えた。婚約者の話をするのは気恥ずかしかったのかもしれない。そして呉羽も、なんだかこれ以上この話は聞きたくなかった。それで彼女はこれ幸いとばかりに自分のことを話し始めた。
「わたしは、退魔士としての力が欲しいんだ……」
「へ、へぇ……」
予想の斜め上を行く呉羽の願いに、カムイはかろうじてただそれだけを返した。内心では「電波ちゃんなの?」と失礼なことを考えているのだが、曲がりなりにもそれを表に出さなかったのは、彼女の声があまりにも深刻で真剣だったからだ。
「カムイも知っていると思うけどディメンション・ハザード以来、世界中で妖怪や魔物と言ったオカルトの類が現実のものとなった。それに対処するために、退魔士や陰陽師は常に必要とされているけど、現実問題その数は足りていない」
退魔士や陰陽師としての能力を持てるか否かは、おおよそ血筋によって決まる。二親がその力を持っていれば、子供にもほぼ確実にその才能が受け継がれる。一方、二親が共に一般人の場合、その才能を持つ子どもが生まれる確率はおよそ百万人に一人と言われている。
「だから、退魔士や陰陽師の家に生まれた子供は、その血と才能を絶やさないよう、小さいうちに許婚が決められるんだ」
しかし問題がないわけではない。個人の意思を別としても、いわば制度的な欠点として大きな問題が二つある。適当な相手がいない場合があることと、狭い範囲で婚姻を繰り返すので血が濃くなることだ。これらの問題を解決する特効薬は外から別の血を入れることだが、当然対象者は退魔士や陰陽師の才能を持っていなければならず、そしてそういう人間は少ない。それでどうするのかと言うと、結局あまり気持ちの良くない方法が取られることが多かった。
「愛人をな、囲うんだ。外に」
嫌悪というよりはどこか諦めの滲む声で呉羽はそう言った。片親に退魔士や陰陽師の力がある場合、子供がそれを受け継げる確率はおよそ三割。百万人に一人と比べれば十分に高い確率だ。
「わたしも、そうやって生まれた子供の一人だ。……つまり、私は庶子なんだ」
「そして力を受け継がなかった、か……」
「そうだ」
仰向けになったまま、呉羽はそう答えた。そういう子供は決して珍しくない。そして才能を受け継げなかった彼女は母親と二人で暮らしていた。しかしその母親が、病気のために他界する。彼女が五歳のときのことだ。
「わたしは一旦、父方の津守家に引取られたんだ」
津守家は代々続く退魔士の家だ。しかし前述したとおり、呉羽には退魔士としての力がない。それで彼女はまたすぐに養女に出された。それが、今の藤咲家である。
藤咲家は名家で、しかも資産家だ。主に、代々受け継いできた不動産を中心にして事業を営んでいる。歴史も古く、政界とのつながりも深い。そんな家に呉羽は引取られた。
「もしかして、イジメられたりとか……?」
カムイは躊躇いがちにそう尋ねた。名家に貰われた養女がイジメられる。なんだかドラマとかでよくありそうな展開である。しかし呉羽は苦笑してそれを否定した。
「いやいや、藤咲の両親は優しい人たちだよ」
藤咲家には呉羽よりも十五歳年上の息子が一人いるだけで、彼らは「ずっと娘が欲しかった」と言って彼女を喜んで引取り、そして可愛がった。一回り以上年上の義兄もこの年の離れた妹を可愛がり、つまり家族仲は良好だった。名家らしくしつけは厳しかったものの、呉羽は愛情を注がれて育った。
「それでも、どうしても考えてしまうんだ……。津守の、父のことを……」
それはある意味で仕方のないことだろう。五歳といえば、物心はもう十分についている。そして時間が経てば、自分の境遇について嫌でも考えてしまう。その時、実の父の顔が浮かぶのは当然のことといえた。しかしそれは同時に、藤咲の両親への裏切りのようにも思えてしまう。
「……津守の父は、わたしのことをちゃんと考えてくれた。それは、分かるんだ」
実際、退魔士の力を受け継げなかった呉羽には、津守の家に居場所はないだろう。その家に居たとしても辛いだけ。それが分かっていたからこそ、実父は彼女を養女に出したのだ。藤咲と言う、彼女を幸せにできる家を探して。実際、実母と暮らしていたときも生活に困ることはなかった。実父が援助していたからだ。それは彼なりの愛情表現だったに違いない。
「だけど、思ってしまうんだ……。もしわたしに退魔士の力があったら、って。そうしたら、父は……」
もっとわたしを愛してくれたかもしれない。捨てられずに済んだかもしれない。その考えは、呉羽の頭にこびりついて離れなかった。
「きっと藤咲の両親も、薄々は気付いているんだと思う……」
だからこそ、呉羽が古武術を習うのを許した。それで彼女の気が済むのなら、と。科学が発達した現代に、古武術などいうものを実際に使うのは退魔士か陰陽師くらいなもの。彼女の心が、少なくともその一部が津守の家に向いていることは容易に察しが付いただろう。
「藤咲の両親のことは好きだ。感謝してる。だけど……、それでも、わたしはやっぱり退魔士の力が欲しいんだ……!」
そうすればきっと、呉羽は津守の家に帰れるから。実の父と一緒に暮らせるから。それが彼女の願いだという。
「なんか、長々と話してしまったな。すまない。でも、聞いてくれてなんだか楽になったよ」
少し涙声になりながら、呉羽はそう言った。しかし「楽になった」と言うのは本当なのだろう。その声は明るかった。
「呉羽……」
「そんな声を出さないでくれ。少なくとも、こうしてチャンスを得ることはできたんだから」
「ゴメン。ディメンション・ハザードが分からない」
「そっちか!? というか知らないのか、ディメンション・ハザードを!?」
――――次元融合災害。
それは世界大戦終結直後の1919年に起こった世界的大災害だ、と呉羽は言う。なんでも異世界と地球世界が接触してしまい、その結果二つの世界は一つになってしまった。ただし、完全に融合したわけではなく、いわば〈ゲート〉が繋がった状態であるという。
「ディメンション・ハザードが起こった結果、まず世界中で天変地異が起こった」
地震とそれに伴う津波、火山噴火、巨大台風や竜巻、洪水、干ばつ。ありとあらゆる自然災害が世界中で起こった。これは二つの世界が衝突したために起こったものである。しかしディメンション・ハザードの影響はそれだけにとどまらなかった。
「妖怪や魔物、悪魔なんていうオカルトの存在が現実のものになったんだ」
これを異世界から流れ込んできた“力”によるものだと説明している学者もいれば、そうではなく物理法則が変化しているのだと考える学者もいる。つまりなぜそうなったのか、正確なところはまだ分かっていない。ただ、現実問題としてそういうオカルトの存在が跋扈するようになってしまった。
「それで、さっきも言ったように退魔士や陰陽師と言った人たちが必要になるわけだな」
「ふうん……。オレの世界では次元融合災害なんて起こってないけどな……」
もう少し詳しく話を聞いてみると、例えば戦国時代や江戸時代などは、呉羽の知る歴史とカムイの知るそれと同じだった。もっとも呉羽があまりにも詳しく、カムイが付いていけない部分もあったが。
「平行世界、か……?」
おそらく次元融合災害が起こるか、起こらないかで世界が分岐したのだろう。
「ずいぶん簡単に納得するんだな」
「異世界ってヤツはたくさんあるみたいだからな。平行世界の一つや二つ、むしろあって当たり前だろう」
カムイはなんでもないような口調でそう言った。それにしても異世界転移に平行世界。空想の産物でしかなかったものがこうも身近になるとは。
「それより、呉羽の世界は今どうなってるんだ?」
興味を引かれカムイはそう尋ねた。彼に乞われるままに、呉羽はディメンション・ハザード後の歴史を話す。
1919年に終結した世界大戦というのは、どうやらカムイの知る第一次世界大戦のことらしい。この大戦ために疲弊していたヨーロッパは、立て続けに起こったディメンション・ハザードのために致命的な損害を被った。そのため呉羽の世界では現在、ヨーロッパは発展の遅れた貧しい地域になっているらしい。さらに世界大戦は一度だけで、つまり第二次世界大戦は起こっていない。
「日本はどうなんだ?」
「日本も、ディメンション・ハザードで大きな被害を受けたよ。特に富士山の噴火と、津波の被害が大きかった。大きな地震も、あちこちで起こったしね。ただ、こう言ってはなんだけど、当時の日本はまだそんなに発展していたわけじゃなかったから、相対的に見れば被害は小さかったんだ。
それと退魔士や陰陽師の血筋が、その技術と一緒に残っていたのが大きい。オカルト的な存在にも上手に対処できて、国の立て直しは世界でもトップレベルに早かった。異世界にも進出して土地を獲得し、今や日本帝国は世界でも一、二を争う大国だよ」
呉羽はどこか誇らしげにそう語った。それを聞くて、カムイもまた嬉しくなる。平行世界であっても、日本が巧く生き抜いているのであれば悪い気はしない。
「カムイの世界の日本はどうなんだ?」
「さっきも言ったけど、オレの世界ではディメンション・ハザードは起こらなかった。その代わりかは知らないけど、もう一度世界大戦が起こったんだ」
第二次世界大戦である。そしてその戦争で日本は負けた。
「そうか、日本は負けたのか……」
「ああ。原爆も落とされて、日本中焼け野原になったって話だ」
しかしその後、日本は奇跡のような復活を遂げる。高度経済成長だ。
「今は世界でも有数の経済大国だ。それに安全な国だ」
「……そうか。それは良かった」
「ま、問題は山済みみたいだけどな」
「それは、わたしの世界だってそうさ」
そう言って二人は笑いあう。不思議な気分だった。平行世界から来た、本当なら出会うはずの無かった二人。それがこのゲームで出会った。本当に不思議な縁だと思う。
(だけど、出会えてよかった)
カムイと呉羽は、それぞれ同時にそう思った。