〈ゲートキーパー〉9
黒狼族の戦士フレクの身体から立ち昇る、ダークレッドのオーラ。その様子はカムイの〈白夜叉〉に似ていると言えなくもない。ただ色彩のせいなのか、どうしても禍々しさが先に立つ。
午前中の戦闘では使っていなかった。だから呉羽にとって初見ではある。それでも予想はできた。
「それが〈凶化〉……」
「左様。今はまだ抑えているが、な」
呉羽の言葉にフレクは頷き、それからニヤリと獰猛に笑った。つまりまだギアを上げられる、ということだ。今のままでも十分に重苦しいプレッシャーにのまれないよう、呉羽は愛刀を握る手に力を込めた。
ふわり、と彼女の周囲で風が舞う。それを見てフレクが「ほう」と声を漏らした。ルペと空中戦の訓練を繰り返したその副産物とでもいうべきか、呉羽はここ最近で風や大気の扱いにかなり習熟してきている。その熟練度の高さに彼も気がついたのだ。
お互いに準備が整ったところで、二人はほぼ同時に前に出た。そして激しい戦いを繰り広げる。先ほど行われたキュリアズとカレンの模擬戦は、どちらかというと技巧派の戦いだったが、今回はかなり荒々しい。
風切りの音に、重い打撃音が混じる。さらにそこへ、まるで金属が軋んでいるかのような音が加わった。フレクの身体から噴出すダークレッドのオーラと、呉羽が纏う風の防御膜が干渉して弾きあっているのだ。
「素晴らしいな。初見のはずなのに、よく心得ている」
「オーラ自体は見慣れているので」
鍔迫り合いをするような形で力比べをしながら、二人はそんなふうに言葉を交わした。呉羽の言葉を聞くと、フレクは「ふむ?」と言って小さく首をかしげる。そして彼女をより強く押した。
衝撃を受け流すだけなら幾らでも出来るのだが、やはり単純な力比べになると呉羽には分が悪い。それでタイミングに合わせて、彼女は後方に大きく跳び距離を取った。そしてまた油断なく愛刀を正面に構える。そんな彼女にフレクはこう告げた。
「我々はこれを〈覇気〉と呼んでいる。別にオーラでも構わないのだが、一応な」
「……了解しました。覚えておきます」
呉羽がそう答えると、フレクは「うむ」と言って一つ頷いた。構わないといいつつ訂正してくるということは、もしかしたらそこは彼ら黒狼族にとって譲れない部分だったのかもしれない。
短い会話が終わると、二人はまた揃って集中力を高めていく。先に飛び出したのはフレクのほうだった。フェイントもなにもない、ただの突撃。しかしフレクがダークレッドの覇気を噴き上げ迫ってくるその光景は、足がすくみそうになるほどの迫力だった。
「……っ、〈風切り〉!」
呉羽が風の刃を放つ。それをフレクは片腕で振り払った。造作もない様子だ。しかし「そよ風の如く」とはいかなかったようで、一瞬足が止まる。そこを狙い、呉羽はもう一度〈風切り〉を放った。
有効打になることは、最初から期待していない。目的は足止めだ。フレクが風の刃に対処しているその間に、呉羽は素早く彼の側面へと回りこんだ。そして鋭い突きを放つ。フレクは身体を回転させるようにして回避したが、呉羽はその動きを追うようにして白刃を横に薙いだ。その刀身には風の力が渦巻いていて、回避されればすぐに〈風切り〉を放てるようになっている、いわば二段構えだった。
「……っ!」
フレクもそのことに気付き、回避ではなく防御に転じた。横から迫る白刃を、彼は両腕に装備した手甲で受け止める。思いがけず固いその手応えに、呉羽はわずかに顔をしかめた。
フレクの手甲は見たところ革製。手袋のように指も付いているが、ガードが付いていて防御を重視したデザインになっている。ただそれでも【草薙剣/天叢雲剣】の刃を防ぐほどの防御力があるようには見えい。
しかし現実に防がれてしまった。となると手甲が見ため以上にいいモノなのか、あるいは覇気も使って防御しているのか、もしくはその両方だろう。
さて呉羽がそんなことを考えていると、それを隙と受け取ったのかフレクが動いた。彼は鋭く踏み込んで蹴りを放つ。呉羽は慌てて距離を取った。その際、置き土産として〈風切り〉を放ったのだが、それも簡単に防がれてしまう。
ただその時も、彼は手甲で風の刃を防いでいた。先ほどといい、よほどその籠手の防御力に自身があるらしい。それで呉羽はこう尋ねてみた。
「その手甲、何か特別製なんですか?」
「ふふ、気付いたか。この籠手にはな、拙者の尻尾の毛が織り込まれているのだ」
ニヤリと笑い、フレクはそう答えた。一方の呉羽は、少々反応に困る。尻尾の毛とは想像の斜め上だ。ただ、伊達や酔狂でそんなものを使っているわけでは決してない。フレクはその辺の事情をこんなふうに説明した。
「自らの体毛は覇気と相性がいいのだ。髪を伸ばし、それを使う者もいるな」
それを聞いて呉羽は「なるほど」と納得した。元の世界の陰陽士や退魔師のなかにも、儀式の触媒や呪具の素材として自らの髪の毛や血液を使う者がいる、と聞いたことがある。それと同じと考えれば、理解はしやすい。
「すごい防御力ですね」
呉羽は素直にそう思った。なにしろ彼女の愛刀【草薙剣/天叢雲剣】はユニークスキルだ。その刃はカムイの白夜叉であっても防げない。つまりフレクは、少なくとも手甲を用いた場合は、それ以上の防御力があるということだ。プレイヤー由来の素材を使っているからなのかな、と彼女は思った。
「なに、防御力だけではないぞ」
獰猛な笑みを浮かべながら、フレクはそう応じた。そしてまるで見せ付けるように、拳を開いたり閉じたりする。攻撃力にも自信あり、ということだ。まともに喰らうわけにはいかないな、と呉羽は気を引き締めた。
フレクが拳を握り、そして構える。相手の出方を窺ったりはしない。完全に自分のタイミングだけにあわせ、彼は前に出た。一方の呉羽だが、慌てることはない。突っ込んでくる彼を真っ直ぐに見据え、そして眉間を狙い鋭く突きを繰り出した。
まるで銀光のような白刃を、フレクは左の手甲を沿わせてそっとずらす。その動作はあまりにも滑らかで、呉羽はわずかに身体をつんのめらせた。その隙を見逃さずフレクは低い姿勢で踏み込み、そして強烈な掌底を叩き付ける。
「ぐっ……!」
呉羽は低いうめき声を漏らした。防御はかろうじて間に合っている。しかしもともと掌底打ちとは、衝撃を内部に浸透させるための技だ。それで大きく吹き飛ぶようなことはなかったが、重い衝撃が彼女の身体を揺らした。
そこへフレクの追撃が襲い掛かる。四肢を駆使した彼の格闘術には、まるで獣のような荒々しさがあった。しかしそれだけならば、呉羽もカムイ相手の稽古で慣れている。むしろデタラメで予測困難な動きをするという点では彼の方が厄介だ。
だがフレクの格闘術は荒々しいだけではなかった。先ほど突きをいなして見せたように、荒々しくもその中に巧さがある。確たる技術が、その根底にあるのだ。その完成度たるやカムイなど足元にも及ばない。
全てを押し流すだけの破壊力を秘めながらも、しかし水のような柔軟さを失わない。それはまさに怒涛なる激流の如し、だ。
一撃ごとに呉羽の骨が軋んだ。彼女も攻撃の八割方は対処できている。しかしそれもフレクの思惑通りなのだ。そして残りの二割で確実にダメージを入れてくる。狡猾だ。それを表向き匂わせないところが、さらに狡猾だった。
呉羽もなんとか喰らい付いてはいる。しかし戦いにくそうにしているのは、傍から見ても一目瞭然だった。白刃は届かない。さすがに警戒されている。ならばと〈風刃円舞〉を使い風の刃を周囲にばら撒いているが、一向に効果はない。
フレクの方がまるで無視しているのだ。ダークレッドの覇気で身体を覆った彼は、手甲ほどではないしろ防御力が底上げされている。それで大したダメージにはならないと割り切っていた。そしてその分の余力を、全て攻撃につぎ込んでくる。呉羽はますます押された。
(どうする……!?)
呉羽は押し込まれたこの状況から挽回する手を必死に考える。ただコレは模擬戦だ。〈雷樹・絶界〉のような、強力すぎる技は使えない。そもそもフレクの方も、〈凶化〉の具合を低く抑えているのだ。暗黙の了解を破るわけにはいかない。
(なら、これで……!)
フレクの攻撃をしのぐその合間を縫って、呉羽は片足で地面を蹴った。その瞬間、地面が波打つ。〈震脚〉だ。突然起こった局地的地震に、さすがのフレクもバランスを崩す。そこへ【草薙剣/天叢雲剣】が振り下ろされた。
「ぬぅ!」
顔をしかめつつ、フレクはその白刃をかわした。そのまま流れるように反撃に移ろうとするが、しかしそのタイミングでまた地面が揺れる。彼はまたバランスを崩し、そこを目掛けて白刃が跳ね上がった。
回避はできず、フレクは両手の手甲で防御を固めた。さらに攻撃に合わせて後ろへ退き、一旦間合いを取る。改めて向かい合い、呉羽が荒い息をしながらもその口元に笑みを浮かべているのを見て、フレクは思わず苦笑を浮かべるのだった。
(まさか……)
まさか、こんな手で来るとは。なんだか搦め手を真正面からぶつけられたような感覚である。とはいえフレクにこれを卑怯と誹る気はない。彼が渡り歩いて来た戦場では、もっと汚いやり口を幾らでも見てきた。それと比べれば、まだまだ上品な方である。
ともあれ手札を一つ切られたからには対応しなくてはならない。さてどうしたものかとフレクが考えていると、解決策は意外なところからもたらされた。審判役をしていたイスメルがこう言ったのである。
「クレハ、観客の迷惑になるので〈震脚〉は禁止です」
「ええ~」
途端に呉羽が不満そうな声を上げた。「せっかく上手く行っていたのに」とその顔には書いてある。しかしイスメルはすまし顔でそれを黙殺した。相手が彼女だと呉羽もそれ以上言いにくいのか、不承ながらも了解してまた愛刀を構えた。力関係を垣間見て苦笑するフレクも、それに応じて拳を握る。
空気が再び張り詰める。今回先に動いたのは呉羽だった。彼女は正面に構えていた愛刀を逆手に持ち替えると、その切っ先を地面に突き刺す。フレクが警戒を強めるその目の前で、彼女は愛刀に力をこめた。
「ぬ!?」
反射的に、フレクは立っていた場所から飛び退いた。そこを地面から伸びた土の槍が貫いている。「こんなことも出来るのか」と感心していると、また別の土槍が彼を狙う。それを彼は身体を捻ってかわした。
(器用だな。だが……)
さほどの脅威をフレクは覚えなかった。また地面から伸びてくる土槍を、今度は回避せずにかき裂くようにして打ち払う。すると呉羽の土槍は脆くも崩れ去ってしまった。ソレを見て呉羽は焦ったように顔を歪ませた。
「くっ……」
また愛刀に力を込め、呉羽は土槍を生み出す。今度は複数だ。しかしフレクはその全てをへし折っていく。そして間隙を見つけると彼はすかさず前に出る。その圧力に冷や汗を流しつつも、呉羽はその瞬間を見切り、そして仕掛けた。
「そこ!」
狙いはフレクが踏み出した、その足。その足が踏みしめるであろうその場所から、呉羽は土槍を伸ばした。貫ければよし。そうでなくとも何かしらの反応はするだろう。それで一歩目のバランスを崩せれば、主導権を握れると思ったのだ。
「ぬるい!」
フレクは吼えるようにそう一喝した。そして呉羽の筋書きと一緒に土槍を踏み砕く。足へのダメージは決してないわけではない。だが気にするほどでもない。彼はそのまま猛然と間合いを詰めた。
「……っ、〈地走り〉!」
その様子を見て、呉羽は土槍では効果がないことを悟った。そして向かってくるフレクを迎え撃つべく愛刀を順手に持ち直し、掬い上げるように切っ先を地面から引き抜きつつ同時に〈地走り〉を放つ。
蛇のように地面を這って迫り来るその衝撃波を、フレクは先ほどの土槍と同じく足で踏み砕いた。ただ流石に虫を踏み潰すようにはいかず、その瞬間だけ動きが鈍る。そこを狙い呉羽が仕掛けた。
「はああああ!」
彼女が繰り出したのは突き。それも身体ごと飛び込むような強烈な突きだ。その裂帛なる一閃に、フレクもうなじを寒くする。危機感を覚えた彼は、迎え撃つことはせずに回避を選択した。
フレクのすぐ脇を、呉羽が疾風のように通り抜ける。フレクはあわよくばその背中に攻撃を仕掛けようと思っていたのだが、彼女の動きが思ったよりも速くただ見送るしかなかった。
(ちっ……)
動きを止めた呉羽がこちらを振り返るのを見て、フレクは内心で舌打ちを漏らした。また間合いが広がってしまった。しかも彼女の顔には、何かひらめきを得たような表情が浮かんでいる。厄介だな、と彼は苦笑した。
彼のその直感は確かに当っていた。この時呉羽は何かを掴みかけているような、そんな感覚を得ていたのである。そのきっかけは、間違いなく先ほどの突きだ。
(一撃離脱なら、反撃されない……?)
考えてみれば、フレクは生粋のインファイター。懐に入り込めば強いが、しかし中・遠距離の攻撃能力を持たない。つまり懐に入り込ませないことが胆になる。とすれば一撃離脱の戦法は確かに有効だろう。
(気をつけるべきは……)
気をつけるべきはカウンター。それをさせないためには、まず何よりもスピードが求められる。加えて攻守一体であることが望ましい。
(スピードは【草薙剣】の力で、あとは【天叢雲剣】の力で風を纏わせれば……!)
呉羽は頭の中で技を組み立てる。そして引き絞るようにして愛刀を顔の横で水平に構えた。そして入念に力を練り上げる。その間、フレクは微動だにすることなく構えたままで、彼のほうから仕掛けてくることはない。恐らくは警戒したとおりカウンター狙いなのだろう、と呉羽は思った。
(そうだとしても……)
そうだとしても、退くわけにはいかない。この模擬戦には実力を見せる意図がある。そこにはデリウスたちに呉羽たちの実力を見せることも含まれているのだ。なにより、この感覚をはやく形にしたい。
フッ、と鋭く息を吐きながら呉羽は地面を蹴って前に出た。愛刀を水平に構えたまま、彼女は一歩ごとに加速していく。同時に渦巻く風の力が彼女を覆う。そして最後の一歩を彼女は猛然と踏み込んだ。
「やああああ!」
身体ごと飛び込むようにして、愛刀を突き出す。その切っ先を、フレクは柳のようにひらりと回避した。さらに彼の手刀が呉羽を狙う。ただ回避を優先したせいで、彼の手刀は風に弾かれ彼女を傷つけることはなかった。
「くっ……!」
呉羽は顔をしかめた。カウンターは警戒していたはずなのに合わされてしまった。フレクの動体視力を褒めるべきなのかもしれないが、呉羽にとっては痛恨事だ。ダメージがなかったのは結果論に過ぎない。
着地し、制動をかけながら呉羽は背後を振り返る。するとフレクは右手の手首を揉み解すように押さえていた。その顔に浮かんでいるのは苦笑。彼としてもカウンターを決められなかったのは意外だったのかもしれない。
先ほどの一瞬の攻防は、双方にとって不満の残るものだった。次はそれをふまえ、さらに精度を上げてくるだろう。少なくとも、フレクは。実際、呉羽を見据えて構える彼の顔には闘志が漲っている。ならば彼女とて負けるわけにはいかなかった。
(もっと、速く……!)
再び愛刀を水平に構えながら、呉羽は強くそう念じた。そしてそれを実現するための方策を考える。フレクを見れば、かわらずカウンター狙いらしく、動く気配はない。それをいい事に、彼女はじっくりと力を練った。
「いきます」
そう、宣言する。
「うむ、こい」
フレクがそう応じてから一拍後に、呉羽は地面を蹴って駆け出した。そして一歩ごとに加速していく。とはいえ、ここまではさっきまでと同じだ。かなりの速度には違いないが、フレクは確実に見切っている。彼のほうも対策を講じているようだし、このまま飛び込めばほぼ間違いなくカウンターの餌食だろう。
しかしそれは呉羽も同じこと。彼女とて、無策で仕掛けたわけではないのだ。ぶっつけ本番でどこまで上手く行くかは分からない。しかし不思議としくじる気はしなかった。
(ここ!)
最後の一歩を踏み込む。その瞬間、呉羽は〈瞬転〉を発動させた。正確にはその技術を応用することで爆発的な加速を得たのだ。加えて風の力を操って空気抵抗を出来る限り軽減する。
さらにここで、ルペと行っていた空中戦の訓練の成果が現れた。ほとんど無意識のうちに、呉羽は風の力を使って身体を浮かせていたのである。それで彼女はまるで地面すれすれを滑空するように飛んだ。
その様子はさながら弾丸のよう。後に〈一迅閃〉と名付けられる突撃用剣技がお目見えした瞬間だった。この時点ではまだまだ荒削りだったが、それでも速度において比肩するもののない絶技である。
その絶技を、フレクは真正面から迎え撃った。文字通り、真正面からである。彼はほとんど回避しなかったのだ。
もちろん、【草薙剣/天叢雲剣】の白刃は避けた。最小限の動きで、身体のすぐ脇にやり過ごす。だがそれだけでは風を纏った呉羽をかわすことはできない。ほとんど体当たり気味にぶつかることになる。それがフレクの狙いだった。
要するに、彼は回避ではなく攻撃を優先したのだ。ダメージ覚悟で攻撃を当てにいく。かなり荒々しいカウンターだ。ただ黒狼族の男は強健で知られるし、抑えているとはいえ今は〈凶化〉も発動させている。耐え切れるという自信が彼にはあった。
誤算だったのは、呉羽のスピードだ。先程よりは速くなるだろうと予想はしていたが、しかしそれを超えていた。結果としてフレクは、白刃は避けたもののそこからカウンターにつなげることができない。さらに彼女が纏う風の力も強かった。体当たりも遮られ、フレクはまるで白刃を脇に抱えるようにしながら、巻き込まれ気味に後方へ押し込まれていく。
これは呉羽もフレクも考えていなかった展開だった。そしてその展開にいち早く対応したのはフレクのほうだった。彼はひとまず攻撃を諦め、風に弾き飛ばされないようにしながら足を踏ん張り、地面を削って呉羽の勢いを相殺していく。
ただ呉羽が、特に刀身が纏う風の力は強力だ。鋭く渦巻くその風は、まるでカマイタチのようになっている。そんなものを抱える格好になったフレクの腕や脇腹は、いかにダークレッドの覇気に覆われているとはいえ無事ではすまない。削られ抉られ、鮮血が風に混じって舞った。
しかしフレクはそんなことを一向に気にしない。血霞の向こうで獰猛に笑う彼の姿を見て、呉羽もまた壮絶な笑みを浮かべた。
呉羽が地面に足をつける。一撃離脱がかなわなかったからには、これ以上滑空を続けても無駄だからだ。地面を削るようにして制動をかけ、同時に突き出していた愛刀を引き戻す。
そのタイミングを見計らい、フレクは逆に一歩踏み込んだ。傍から見ると、【草薙剣/天叢雲剣】に彼が引っ張られたような形である。実際、刀身に渦巻いていた風と彼の覇気が干渉しあっていたのでタイミングが計りやすかったのだ。
フレクのその動きに呉羽は目を見開く。あまりにも滑らかに懐に入られてしまった。この間合いでは思うように刀を振るえない。その焦りを見透かしたかのように、フレクが牙をむき出しにして笑い、そして拳を振り上げる。彼の眼は本気だった。
(やられる!?)
呉羽は身の危険を感じた。背中には冷や汗が流れる。それで咄嗟に地面を踏み鳴らして〈震脚〉を使った。至近距離で盛大に地面が揺れ、フレクがバランスを崩す。それは致命的な隙だった。
(殺った!)
今度は一転して呉羽が改心の笑みを浮かべる。必殺のタイミング。彼女は迷うことなく愛刀を振りぬこうとし……。
「模擬戦だと言っているでしょう」
突然、後頭部に強烈な衝撃が走り、全ての動作が強制的に中止させられた。呉羽は頭を抱えて悶絶する。ついさっきまでフレクと緊迫した戦いをしていたこともすべて吹き飛んだ。とにかく痛い。しかしその痛みもすぐに吹き飛ぶことになる。
「殺気が出ていましたよ。寸止めにする気、ありませんでしたね?」
「ひぃ!?」
般若が出た。呉羽は本気でそう思った。もちろん実際には般若ではない。イスメルだ。全身から寒気がするほどの怒気を滲ませて、彼女は蹲る呉羽を見下ろしている。顔を上げて目があってしまった呉羽は、情けない悲鳴を上げた。
反射的に逃げようとするのだが、しかし金縛りにあったように身体が動かない。決して押さえつけられているわけではない。身体がいう事を聞かないのだ。イスメルの怒気にあてられ、呉羽は真っ青になりながら冷や汗をダラダラと流した。
同時に、頭の冷静な部分で何が起こったのかを理解する。つまりイスメルが〈伸閃〉で彼女の頭をぶっ叩いたのだ。頭に血が上っていたのは事実だが、危うく命の危機に陥りそうなくらい痛かった。とはいえもうちょっと優しく、という苦情は受け付けてくれそうにない。
「〈震脚〉は、まああのタイミングなら仕方がないとしても、その後はいただけませんね。後でじっくりとオハナシしましょうか?」
そう言って、にっこりと般若が微笑んだ。呉羽は壊れた玩具みたいにガクガクと首を縦に振る。それしかできることがない。ちなみに外野ではカムイとカレンが揃って合掌していた。助けに入る気配はない。誰だって自分の身はかわいいのである。
さて呉羽はイスメルから怒られていたわけであるが、怒られていたのは彼女一人ではなかった。彼女から少し離れたところでは、フレクが目じりを吊り上げたキュリアズに詰め寄られている。
「この馬鹿犬! なに暴走しているんですか!? 模擬戦なんですから怪我をした時点で止めればよかったんです!」
「何を言う、あそこで止まれるものか! それに【ミネルヴァの抱擁】があるから暴走はしていないぞ。あと犬扱いはやめろといつも言っている」
素直に謝ればいいものを、フレクがいちいち反論するものだから、キュリアズの怒気はうなぎ上りで天を突く勢いだ。
「だまらっしゃい! 頭に血が上って模擬戦だってこと忘れて! こんなお馬鹿は狂犬で十分です!」
「狂犬……。ふむ、悪くない」
それでもキュリアズに叱られてもフレクに堪えた様子はない。このへんは彼女の迫力不足だろう。そして彼に反省の色がないことを見て取ると、キュリアズはさらに目を吊り上げ完全に据わった声でこう言った。
「そんなに血塗れになって戦いたいのなら、私が祭儀術式の的にして差し上げましょう。アーキッドさんたちにも一度見せておかなければいけませんし、ちょうどいいです」
「まてキュリー、それは洒落にならん……!」
「もちろん洒落ではありません。本気です。……【スターダストシューター】などいかがですか? 楽しく踊れること請け合いです」
「すまなかった。勘弁してくれ」
そう言ってフレクがようやく謝ると、キュリアズは「はあ」と頭痛げにため息を吐いた。そしてダガーを引き抜くと、彼の傷に回復魔法をかける。あらかた血が止まると、彼女はわざわざフレクの耳を引っ張り呉羽とイスメルのところへ向かった。
「ウチの馬鹿犬が馬鹿をいたしまして……。本当に大変なご迷惑をおかけいたしました。本当に申し訳ありません。」
「いえ、クレハも似たようなものです」
丁寧に謝罪するキュリアズに、イスメルはそう応じた。そして二人でそのまま話し合い、フレクと呉羽の模擬戦はここまでということにしてしまう。フレクは少し不満げな顔をしていたが、呉羽は一も二もなく頷いた。これ以上オハナシのネタを増やすわけにはいかないのである。
「クレハ殿。いずれ機会があれば、また」
「あ、はい。…………わたしが生き残れたら」
呉羽がそう応じると、フレクは少し不思議そうな顔をしたが、しかし深くは追求せず一つ頷いてギャラリーのところへ戻っていった。その背中をキュリアズが「あの馬鹿……!」と呟いて追う。
「フレク! いいかげんにしないと【ボルテック・ゾア】で消し炭にしますよ!?」
「まてまて、あんなものを使われては消し炭も残らぬぞ」
そんな和やかな会話が、呉羽は羨ましい。恐るおそるイスメルの方を見ると、再びにっこりと微笑まれてしまった。そして彼女に「戻りますよ」と言われ、頭の中でドナドナをBGMにしながらその背中に従った。
「……さて。では気を取り直しまして。デリウス対カムイの模擬戦を始めましょう」
イスメルが何事もなかったかのようにそう言う。それにあわせて一つ頷いてから、カムイは観客の中から進み出た。少し遅れてデリウスがそれに続く。彼の装備は午前中とは少し違っていた。
「どうしたんですか、その鎧」
カムイがそう問い掛ける。彼の言うとおり、デリウスは重々しい鎧を装備していた。兜は外しているが、左手には盾も装備している。それらの装備は機能的であることが素人目にも分かるシンプルなデザインだった。背中にはほとんど唯一の装飾としてマントが揺れている。ちなみに表は紺碧で、裏地が深紅だ。
午前中から使っていた剣も腰間に佩いているが、よくよく見ればこれも鎧や盾と同系統のデザインである。ということはこれこそが、デリウスのフル装備なのだろう。ただカムイがこの姿を見るのは初めてだった。
「この装備は〈海辺の拠点〉で揃えたものだからな。【PrimeLoan】のおかげで、納得のいくものが買えた」
それを聞いてカムイは納得した。どおりで〈魔泉〉の調査の際には見なかったはずである。ただ見ての通りの重装備で、長距離の移動には向かない。それで午前中はストレージアイテムに仕舞っていたのだと言う。
「模擬戦の相手がカムイ君と聞いてね。これは手を抜くわけにはいかないと、引っ張り出してきたのだよ」
「……なら、思いっきりぶん殴っても大丈夫ですね」
「もちろんだ。ただし、できるならば、な」
そのささやかな挑発に、カムイは戦意を滾らせた。それに呼応するかのように、デリウスは腰を落として盾で身体を隠し、さらに剣を抜いて斜め下に構える。準備は万端だ。カムイも〈オドの実〉と【Absorption】を発動してエネルギーを蓄えていく。そして「始め!」の合図と同時に白夜叉を発動した。
白いオーラが彼の身体を包み込み、まるで白い炎のように揺らめく。その様子を見たフレクは「ほう」と呟いた。「自分の覇気と似ている」と思ったのだろう。一方のデリウスはその様子を見据えつつ、しかし微動だにしない。
どうやら先手は譲るつもりのようだ。盾を装備しているのだし、もしかしたらそれが騎士の常道なのかもしれない。とはいえ警戒していつまでも睨み合っているわけにもいかないだろう。
(いいさ、乗ってやる……!)
そう思い、カムイは一歩踏み込むと同時に左手を前に突き出した。そこから“アーム”がまるで槍のように伸びる。その一撃をデリウスは盾の真ん中で防いだ。まるで隙のない、お手本みたいな防御である。
カムイもまた、その一撃が通るとは思っていない。これはほんの挨拶代わりだ。最初の一撃が弾かれると同時に、彼は駆け出した。その動きに合わせてデリウスが剣の構えをわずかに変化させる。そしてタイミングを合わせて斜め上へ鋭く振り上げた。
彼の振るう剣が青白い光を放っているのを、カムイは見逃さなかった。剣の刃そのものは彼を捕らえてはいない。だがその光が鋭い刃となってカムイへと襲い掛かる。これがデリウスのユニークスキル【ARCSABER】であることを、彼はすぐに理解した。
カムイはその攻撃を、横へ跳んでかわした。〈伸閃〉という不可視の斬撃を見慣れている彼からすれば、目視できる分こちらの方が回避はしやすい。そしてそのまま、彼はデリウスの側面、盾を持つ左側へと回り込んだ。
「む!?」
カムイの急激な方向転換に、デリウスが驚いたように声を漏らす。それが聞こえて、カムイは小さく笑みを浮かべた。さらにそのまま右手にオーラを集中させ“グローブ”を形成。大きく振りかぶって打ちかかった。
一方のデリウスはカムイが横へ跳んだ時点から、その動きを追うように身体を捻っていた。そして斜めに振り上げた剣を、手首を返し足を踏み込みながら、今度は大きく横へ振るう。同時に【ARCSABER】を発動し、青白い光の斬撃でカムイの“グローブ”を切り払った。
切断こそされなかったものの、しかし“グローブ”は大きく弾かれてしまった。奇しくも遮るものがなくなり、カムイとデリウスの視線が擦れて火花が散る。“グローブ”を弾かれた衝撃で身体が泳ぐのを無視し、カムイは無理やり一歩を踏み込んだ。そして口から〈咆撃〉を放つ。
「はぁ!」
その衝撃波を、デリウスは避けることなくどっしりと構え盾で防いだ。体勢を微塵も崩さなかった彼は即座に反撃に移る。一歩踏み込みながら、剣を斜めに振り下ろしたのだ。やはり剣それ自体はカムイに届かないが、【ARCSABER】の青白い光がその動きに合わせて彼を襲う。
「ぐっ」
その一撃を、カムイは“グローブ”で防いだ。予想以上に重く、彼は思わずうめき声を漏らす。とはいえ受け止めることには成功したし、盾代わりにした“グローブ”も健在だ。傷は付いたが、それもすでに修復されている。その結果を見て、彼は内心で「よしっ」と頷いた。
とはいえ、一度防いだぐらいで安心はできない。【ARCSABER】はユニークスキル。白夜叉の防御を突破するだけのポテンシャルは、十分に持ち合わせているはずだ。模擬戦だから手加減しており、それで防げたと考えた方が良いだろう。そう思いながら、カムイは一旦距離を取った。
(それにしても、動かないな……)
カムイは胸中でそう呟いた。もちろんデリウスのことだ。まったくの不動ではないが、彼は模擬戦が始まってからその場所をほとんど動いていない。今もまた距離を取ったカムイを追うことはせず、大きな盾に身体を隠してどっしりと構えている。彼のその様子は、堅牢な城門を連想させた。
(こじ開けてやる……!)
そう意気込むと、カムイは【Absorption】と〈オドの実〉の出力を少しだけ上げた。そして左手にも“グローブ”を形成する。できあがった“グローブ”を一瞥して確認すると、彼はまたデリウス目掛けて突撃した。
真正面から向かってくるカムイを見据えると、デリウスは剣を垂直に振り上げそのまま真っ直ぐに振り下ろした。放たれた青白い光の斬撃を、カムイは半身になってかわす。そして次の一歩を踏み出すと同時に、左手の“グローブ”をラリアット気味に振るった。
その一撃を、デリウスは身をかがめて回避する。そこへ、カムイは右手の“グローブ”で殴りかかる。その巨大な白い拳をデリウスは盾で受け止め、そして強烈に弾いた。
「え?」
一瞬、カムイの思考が停止する。何が起こったのか分からない。“グローブ”が弾かれたわけだが、その弾かれ方が普通ではない。デリウスは普通に盾で防御しただけに見えた。それなのにまるで殴り返されたかのような、あるいは強力なバネで弾かれたかのような、そんな感じの手応えだ。
一体何が、と考える暇はしかしない。攻撃後の隙を見逃さず、デリウスが仕掛けてきたのだ。彼の剣が狙うのはカムイの首元。その鋭い一閃を、カムイは身体を仰け反らせて避けた。
しかしデリウスの攻撃はそこで終わらない。彼は流れるようにさらにもう一歩を踏み込み、盾を押し出しながらカムイに体当たり気味のシールドバッシュを仕掛ける。カムイはそれを左手の“グローブ”で防御し、そしてそのまま大きく弾き飛ばされた。
「ぐっ!?」
うめき声を漏らしつつも、地面にたたきつけられる前に“グローブ”で地面を掴み、カムイは何とか両足で着地した。何をされたのか本当に理解が追いつかない。混乱している様子の彼を見て、デリウスはにやりと笑みを浮かべた。




