〈ゲートキーパー〉2
さてカムイたちが魔昌石の回収をした、その日の晩。彼らが【HOME】のリビングで夕食を食べていると、おもむろにアーキッドがこんなことを言い出した。
「……そういや【環境復元スフィア】のことなんだけどよ、アレって今のこの世界の状態で使っても、たぶん意味がないよな?」
「恐らくその通りでしょう。……実に口惜しいことですが」
そう応じるイスメルの口調は、心底口惜しそうだった。上辺はいつも通りのすまし顔だが、今にも舌打ちしそうである。そんな彼女の反応にカレンは頭を抱え、アーキッドたちは苦笑を漏らした。
クエスト攻略の報酬として手に入れた【環境復元スフィア】。それを使えば環境を復元できると考えられている。つまり緑の植物がこの世界に戻ってくるのだ。日々、植物喪失に苦しむ植物中毒者たるイスメルが、そのことに気付かないわけも、そして期待しないわけもなかった。
ただ今すぐに、というわけにはいかなかった。スフィアが使えないわけではない。アーキッドの言うとおり、使ったとしても意味がないと思われるのだ。その理由は、至極単純である。
「この世界は瘴気まみれ。どこにどんな環境を復元したとしても、またもとの荒野に逆戻りです。貴重なスフィアが一つ失われるだけです」
やらない方がまだマシでしょう、とイスメルは言葉を続けた。スフィアを使った場合、その効果によって瘴気が取り除かれるのかは分からない。ただスフィアが「瘴気がなかった頃の環境を復元するアイテム」であるなら、その可能性は十分にある。
ただ、それでもスフィアによって瘴気が取り除かれるのは、一つの地方に限った話だ。世界全体は瘴気に覆われたまま。だからいずれ時間が経てば、その地方も他から流入してきた瘴気に沈むだろう。
その時、復元した環境が無事で済むはずがない。そもそも最初、瘴気に覆われたときに無事ではすまなかったから、この世界は滅んだのだ。同じことがまた繰り返されるだけである。
つまり、スフィアを効果的に使うためには、最低限その地方の瘴気濃度を低く抑えておくための方策が必要ということだ。ただどれだけ濃度を低くしておけばいいのかは分からない。プレイヤー基準なら1.0(ゲーム開始時点での平均値)以下で済むが、しかしこの値では恐らくは高すぎる。
万全を期すならやはり瘴気濃度は0.0、つまり完全に瘴気を取り除いた状態が望ましい。その上で、他所からの瘴気の流入をやはり完全に防ぐ。しかしちょっと考えただけでも、それが途方もなくハードルの高い条件であることは、カムイにもすぐに分かった。
(ほとんど無理じゃね?)
少なくとも、〈魔泉〉をどうにかしない限りは無理だろう。カムイは直感的にそう思った。
(結局、そこに行き着くんだよなぁ……)
思わず難しい顔になる。確かに【環境復元スフィア】は世界を再生する上で切り札になるだろう。しかしそれだけで世界を再生することはできない。どうしても〈魔泉〉をどうにかする必要があるのだ。
しかも優先度としてはどう考えても〈魔泉〉が上だ。そう考えると【環境復元スフィア】を手に入れたと言っても、それを使えるようになるのはずいぶん先のことのように思えた。現時点では宝の持ち腐れ、と言うことだ。
(そういえば……)
ここでカムイはふとある可能性を思いついた。そしてすぐにそれを口に出してこう尋ねる。
「あの、スフィアを使えば〈魔泉〉が塞がる、なんてことは……?」
カムイが小さく手を上げながらそういうと、他のメンバーの視線が彼に集中した。メンバーの反応は大よそ二種類に分かれている。目を見開いて驚いている者と、苦笑しつつも面白そうにしている者だ。その反応を見て、カムイはその可能性について考えていたのが、自分だけではなかったことを知った。
スフィアは、その名前を見る限り環境を復元するためのアイテムだ。そしてその復元される環境とは、「この世界が瘴気に覆われる前の環境」であることは想像に難くない。先ほど「スフィアによって瘴気が取り除かれる可能性」を考えたが、つまりそこに瘴気は存在しなかったのだ。
ということは当然、〈魔泉〉も存在しなかったことになる。その環境を復元するのであれば、もしかしたらスフィアを使うことで〈魔泉〉を塞ぐことが出来るかもしれない。それがカムイの思いついた可能性だった。
「まあ、それを否定する要素は今のところありませんね」
「そうだな。〈魔泉〉が塞げるなら、それに越したことはないだろうな」
アストールとアーキッドはそう言って、カムイが指摘した可能性を否定はしなかった。ただ二人の口調や表情からして、その可能性に期待しているわけではなさそうである。結局のところ、実際にスフィアを使ってみるまでは分からないので否定はしなかったものの、このデスゲームはそんなに甘いものじゃないと、そう考えているのだ。そしてその雰囲気は、カムイにも十分に伝わった。
「やっぱり、望み薄ですかね……?」
「少なくとも、自分のスフィアで試して見る気にはならないなぁ」
アーキッドが苦笑しながらそう応じる。やはりスフィアで〈魔泉〉を塞げる可能性は低いと考えているのだ。少しガッカリとした様子を見せるカムイに、彼は苦笑したままさらにこう言葉を続けた。
「まあ、仮に塞げるとしても、今の俺達が持ってるスフィアでそれが出来るかは別問題だしな」
「ふむ、スフィアは地方ごとに区別されているからな……」
ロロイヤのその呟きに、アーキッドが頷いて応じる。つまり〈魔泉〉がある地方をカバーするスフィアを持っていなければ、塞げるかどうか試してみることすらできない、と言うことだ。ただアーキッドが言いたかったのは、それだけではない。彼はこんなふうに話を続けた。
「ほら、スフィアにはシリアルナンバーが振ってあったろう?」
「まあ、そうですね」
「ってことは、やっぱり番号通りの順番じゃないと使えないんじゃ? って思ったわけだ」
「…………その可能性は、十分にありますね」
少し考え込んでからそう応えたのはアストールだった。わざわざ番号が振られているのだから、使用順がそれに縛られるというのは十分にありえる話だ。その場合、〈魔泉〉がある地方のスフィアを持っていたとしても、Serial-No1のスフィアがなければ使い物にはならない。そしてそれは、〈魔泉〉の有無に関わらず全ての地方に適用される。
「やれやれ……。思った以上に使用条件が厳しいですねぇ……」
アストールがそう嘆息した。もっとも、これらはすべて可能性の話なので、実際にはそういう縛りはないのかもしれない。ただそうだとしても、言い換えればシステム的に縛られていないとしても、番号順に使わないと意味がないということもありえる。
つまりスフィアごとに復元されるものが決まっている、という可能性だ。その場合、環境を復元するためには順番が非常に重要になってくるのは言うまでもない。植物が生えていないところに草食動物を放っても餓死するだけだし、十分な数の草食動物がいなければ肉食動物を連れて来てもまた同じ結果になる。
「……その場合、順番だけでなくタイミングも重要になってくると言うことか」
ロロイヤは顎先に手を当て、呟くようにそう言った。一つのスフィアでどれくらい環境が復元されるのか、それはやって見なければ分からない。ただその程度によっては、すぐさま次のスフィアを使うというのは難しいだろう。
場合によってはせっかく復元した環境がダメになってしまうことさえ考えられる。せっかくの貴重なスフィアが無駄になってしまうのだ。
「そこらへんことを弁えないバカ共がスフィアを無駄にしてしまうくらいなら、いっそコッチで回収して管理した方がいいかも知れないな……」
アーキッドが誰にともなくそう呟いた。スフィアを無駄なく効率的に使うことを第一に考えるなら、それも有効な手段だろう。しかしカムイは安易に同意することはできなかった。
回収とは言うが、相手の「バカ共」が大人しくスフィアを渡すわけがない。となれば奪い取るしか方法はない。それはつまり殺し合いをするということ、運営側に煽られるままデスゲームに邁進するということだ。カムイからすれば、それは考えるだけもでおぞましい選択だった。
「まあ、所詮は仮説じゃ。そう思い詰めずとも良かろう」
ミラルダがそう言うと、アーキッドは苦笑して肩をすくめた。たったそれだけで、彼を中心に漂っていた危険な匂いが霧散する。カムイも人知れずため息を吐く。そして努めて別のことを考えるようにした。
(もしスフィアに使用順があるのだとしたら……)
その場合、同じ地方のスフィアであっても番号によって価値に差が出てくるだろう。例えばカムイが所有している【環境復元スフィア:ボルネシア地方】はSerial-No3で、No1とNo2はまだ所有者がいない。つまり現状ではどうやっても使えない、ということだ。
一方で【環境復元スフィア:イム・イルル地方】はSerial-No1だ。つまりイム・イルル地方においては真っ先に使うことになるスフィアだ。逆を言えばこれを使わない限り、二番目以降のスフィアを使うことはできない。
(七並べでいうところの八止めみたいなもんか……)
昔、鈴音にそれをやられて惨敗を喫し、おやつを分捕られたことを思い出す。まあスフィアはトランプとは違うし、なにより勝ち負けを競っているわけではない。むしろ使える状況なのに嫌がらせを優先して使わないでいれば、スフィアの価値は下がっていく。周辺地域の環境が復元されればその影響は波及的に及んでくるだろうし、また環境を回復する手段はなにもスフィアだけではないのだから。
まあそれはそれとして。要するにスフィアに使用順があるとすれば、「使いたいのに使えない」という状況が起こりえるのだ。しかしSerial-No1だけは、いつでも使える。そういう意味で、他の番号と比べ価値が高いと言えるだろう。二十個あったスフィアの割り振りは適当だったが、Serial-No1を手に入れられたことは幸運だった。
(まあ、その代わりいろいろと実験台にされそうだけど……)
スフィアには一度使ってみなければ分からない情報が多すぎる。となれば「試しに一つ使ってみよう」という話になるのは当然だ。そしてその場合、Serial-No1のスフィアを使うと言うのは自然な流れだろう。
(こうなると使用条件が厳しいのはかえってラッキーだったかな……?)
少なくとも瘴気をどうにかしないことには、スフィアは使ったところで意味がない。それで暫くは時間が稼げるはずだ。そして瘴気をどうにかできる頃になれば、スフィアを持つプレイヤーも現れているはずだ。検証は彼らにやってもらうとしよう。
「それにしても、可能性の話ばっかりじゃのう……」
カムイがそんなちょっと下衆いことを考えていると、ミラルダの声が嘆息気味に響いた。それをきっかけにして、カムイも思考を切り替える。彼女の言うとおり、ここまでにしたスフィアの検証はすべて可能性の話だ。仕方がないこととはいえ、確実な情報は何も出てきていない。するとそこで、アーキッドがニヤリと不敵な笑みを浮かべながらこう言い出した。
「それなら、実は一つやっておきたいことがある」
そう言ってアーキッドはメンバー全員に地図を一枚ずつ配った。ちなみにこの地図は彼がプレイヤーショップに出品している〈お狐様印の世界地図〉と同じもの、つまり彼が持っている地図を複製したものだ。そして全員に地図が行き渡ると、彼はおもむろに口を開いてさらにこう続けた。
「知っての通り、スフィアはそれぞれ地方が指定されているだろう? その地方が一体どこにあるのか、大まかにでも特定しておこうとかと思ってな」
それぞれ地方が指定されているということは、指定された地方以外ではスフィアは使えないと考えられる。そうである以上、スフィアを使うためには指定された地方がこの世界のいったいどこにあるのか、それを知る必要がある。
一番確実なのは、アイテムショップで売られている完成された【世界地図】だろう。これを見れば全ての地理情報が載っているはずだ。ただべらぼうに高いので、スフィアが今すぐに使える状態ならばともかく、ただ地方を調べるためだけにこれを買うのはちょっと割に合わない。
そうなると別の手段で調べるしかないのだが、自分で歩き回って地図を作っても、そこに地方の名前は出てこない。加えて、この世界にいた全ての知的生命体は絶滅している。それで地元の方に「ここは何地方ですか?」と尋ねることもできない。全ての情報は一度失われているのだ。それで本来であれば、地道に遺跡などを発掘して情報を集めていくしかない。
しかしながら、アーキッドはもちろんそんな面倒くさいことをするつもりはなかった。大まかに特定するだけでいいのなら、もっと簡単な方法がある。【導きのコンパス】を使うのだ。その方法を説明され、カムイは「なるほど」と大いに感心した。
早速、説明された方法を試してみる。用意するのは地図と【導きのコンパス】を二つ。コンパスが二つなのは、スフィアが二つあるから、つまり調べるべき地方が二つあるからだ。
(そんで、コンパスに条件を入力して、っと……)
カムイが入力した条件は「かつてボルネシア地方と呼ばれていた土地」だ。これで後はシステムが勝手に検索してくれる、という寸法だ。マジックアイテムって便利だな、とカムイは改めて思った。
ただカムイが指定した条件にはエラーが出た。エラー内容は「範囲が広範です」というもの。それで「範囲を絞り込んでください」と言われてしまった。それで彼は少し考えてから入力する条件をこう修正した。
《かつてボルネシア地方と呼ばれていた土地の、その中心地点》
今度はエラーも出ることなく、カムイの指定した条件は承認された。【導きのコンパス】の針がグルグルと回り、そしてある一方をピタリと指し示す。その方角を確認すると、彼は地図上で現在地からその方角へ線を一本引いた。
この線上のどこかに、「かつてボルネシア地方と呼ばれていた土地の、その中心地点」があるのだ。あとは別の地点からもう一本同じように線を引いてやれば、二本の直線の交点が目的地である。アーキッドが全員に地図を配布したのは、全てを一枚の地図に書き込むと線ばっかりで訳が分からなくなるからだろう。
もちろんこれで分かるのは、ずいぶんザックリとした情報である。正確な座標や周囲の地理情報などは分からない。ただ少なくともどこへ行けばスフィアを使えるのか、それが分かるだけで今は十分だ。
ボルネシア地方を指す線を引き終えると、次にカムイは二つ目の【導きのコンパス】に手を伸ばし、イム・イルル地方についても同様に行った。後はコンパスを保管しておき、もう一度ほどほどに離れた別の場所から同じ事をしてやればいい。クエストの報告を兼ねて〈廃都の拠点〉に立ち寄る予定だから、そこでやればいいだろう。
カムイが二つのコンパスをストレージアイテムに片付けてから顔を上げると、他のメンバーにはまだ終わっていない者もいた。特にリムは手間取っているようで、隣に座っていたカレンがアレコレと世話を焼いている。それを見てまだ時間がかかりそうだと思ったカムイは、二本の線を書き込んだ地図に改めて視線を落とした。
二本の線は、現在地からそれぞれ西北西と南西の方向に伸びている。ボルネシア地方が西北西で、イム・イルル地方が南西だ。もっとも、この方角はそれぞれ真逆かもしれないがそれはそれとして。
(やっぱり海を越えた先、かな?)
二本の線を眺めながらカムイはそんなことを考えた。今いる大陸の大きさや形さえカムイには分からないが、しかし西へ進めば海が近いのは何となく分かる。そして書き込まれた線は二本とも西の方角へ延びているから、二つの地方がそれぞれ海を越えた先にあると考えるのはそう的外れたことではない。
もっとも場所を特定できているわけではないし、地図にしたって全体から見れば記載されている範囲はまだほんの一部で、空白の部分の方が圧倒的に多い。陸続きで、しかも意外と近場ということもありえるのだ。
(どっちがいいんだろ、それは……)
カムイは苦笑気味にそう逡巡した。海を越えた先であれば、当面は地図上で場所を確認することしか出来ない。陸続きの近場であれば、実際に赴いて状況を確認できる。現場に行くことで得られる情報は多いはずだ。しかしながらだからこそ、いろいろと実験台にされる可能性も高い。
まあ、どちらであったとしてもそれは場所が確定してからの話だ。そう思い、カムイは頭を切り替えた。次に思い浮かんでくるのは、また別の疑問である。
(この地方って、どれくらいの広さと言うか規模なんだ?)
例えて言うなら、三陸地方なのか、東北地方なのか、それとも東日本地方なのか、ということだ。【導きのコンパス】で指定したのはそれぞれの地方の中心なので、その地方がどれほどの広さを持っているのかは現地へ行っても分からない。ただスフィアを使用するだけなら、広さや規模はそれほど問題にはならないだろう。
それでカムイが気にしているのも、実はそういう事ではない。もちろん個々に差はあるのだろうが、それぞれのスフィアが受け持つ範囲が広く設定されていれば、その分スフィアの総数は少なくなる。逆に範囲が細かく設定されていれば、スフィアの数は多くなるだろう。
スフィアの総数は一体幾つなのか。それは個々のスフィアの価値に直結してくる。単純なレア度の問題だけではない。クリアするべきクエストの数にも関わってくるし、デスゲームである以上命にだって関わってくるのだ。そういう意味で重要な問題と言えた。
(まあ、それも【世界地図】を買うか、実際に使ってみるまでは分からない、か……)
結局またそこに行き着いてしまい、カムイは苦笑を浮かべた。そうこうしている内に、メンバーもそれぞれ自分の地図に線を引き終えた。それでなんとなしに回して、それぞれの地図を眺めてみる。まだ大まかな方角が分かるだけなのだが、そこはお約束と言うやつだ。
「ふうむ……。〈魔泉〉の方にはない、か……」
地図を眺めていたアーキッドがいきなりそんなことを呟き、カムイは思わずギョッとした。振り向くと、視線が合って彼はニヤリと笑う。それを見てカムイは頬を引きつらせた。要するに彼は「スフィアで〈魔泉〉が塞げるのか、試してみたかった」と言っているのだ。それは分の悪い賭けであることを承知の上で。
(ギャンブラーだなぁ……)
しかも楽しそうである。攻略戦ではかなり慎重に立ち振る舞っているように思ったが、もしかしたらこちらが彼の素なのかもしれない。
(とりあえず……)
とりあえず、試すなら自分のスフィアでやってもらおう。そう思いながら、カムイは戻ってきた自分の地図をストレージアイテムに仕舞うのだった。
さて、その次の日。カムイたちは〈廃都の拠点〉を目指して出発した。アストールはもう少し城砦跡の調査を行いたかったようだが、昨日の段階であまり成果が見られなかったので打ち切られた形だ。
来たときと同じく、魔道具〈スカイウォーカー〉を使って川を越える。あとはひたすら荒野を南下するのだが、まずはレンタカーを使わず歩くことになった。その理由をアーキッドはこう説明する。
「アラベスクのおっさんからのメッセージによると、ここでのモンスターの出現率はかなり落ち着いたって話なんだが、まあ一応な」
〈北の城砦〉を攻略したことは、その日のうちにアーキッドがメッセージで〈廃都の拠点〉のまとめ役であるアラベスクに伝えていた。もちろん詳細なレポートではなく簡単な報告だけだが、そのとき彼はアラベスクに荒野でのモンスターの様子について尋ねていたのである。
数日前、〈北の城砦〉を目指して荒野を北上していた時、そこでは大量の人型モンスターが闊歩していた。それらのモンスターが邪魔で、カムイたちはレンタカーを使うことが出来なかったのである。
これら大量の人型モンスターは、放っておくと徐々に集団を形成する。そして最終的には10万規模の〈軍団〉となり、〈廃都の拠点〉へ襲い掛かっていた。これを防ぐために拠点のプレイヤーたちは日々モンスターの間引きに勤しんでいたわけだが、まあそれはそれとして。
この〈軍団〉だが、〈北の城砦〉のクエストの一部だと考えられる。ということはクエストを攻略したからには、荒野におけるモンスターの出現率が他の地域と同じ程度に落ち着き、〈軍団〉も形成されなくなることが期待できるのだ。
その期待通り、アラベスクからの返信によると、荒野におけるモンスターの出現率はクエスト攻略後、一気に下がった。しかも人型モンスターだけでなく、他のタイプのモンスターも出現するようになっている。瘴気濃度もかつては極端に低かったのに、今では1.08程度まで上昇していると言う。
さらにアラベスクはかつて一度失敗した、ディーチェによる【誘引の歌】も試していた。クエスト攻略前は危うく〈軍団〉が出現しかけ慌てて実験を中止したが、今回はそのようなことはなかったそうだ。
明らかにこれまでにはなかった傾向である。クエストの攻略を契機としてこれらの変化が現れていることは疑いない。ここは他と同じく、ただの荒野になったのだ。
ただそういうアナウンスがあったわけでも、システムからのメッセージがあったわけでもない。それでいきなりレンタカーを使うことは避け、まずは徒歩で移動して様子を見よう、と言うことになったのだ。
そんなわけで、一行は荒野を歩いて南下する。行きは随分と苦労させられたので、最初はカムイも気を張っていたのだが、襲ってくるモンスターの数は拍子抜けするほど少なかった。そのせいか、だんだんと緊張が薄れていく。
(のどかだなぁ……)
のんびりと荒野を歩きながら、カムイはそんな感想を抱いた。場違いと言えば、場違いである。空は瘴気によって閉ざされ、荒野に命の瑞々しさはない。散発的なモンスターの襲撃もある。普通の日本人の感覚からすれば、のどかとは程遠い、むしろ地獄のような環境だ。
それでもカムイにしてみれば、こうしてのんびりと歩いていられるのだから、十分にのどかだった。〈北の城砦〉の攻略戦では、ほとんど常に緊張を強いられていたから、その反動もあるのかもしれない。
すっかり気が抜けた様子なのは、なにもカムイだけではない。呉羽やカレン、それにリムとキキも同様で、彼女らはずっとかしましくお喋りに興じていた。かろうじて呉羽は周辺に気を配っているが、それも注意散漫気味。他の三人に至っては、ほとんど無防備な状態である。
そんな年少組の様子を、大人たちはおおよそ微笑ましく見守っていた。イスメルはその気の抜けた様子になにか言いたいことがありそうだったが、しかし実際に口に出すことはしない。代わりにモンスターを斬り捨てて、安全の確保に勤しんでいた。
そんな感じで小一時間ほども歩いただろうか。適当なところでアーキッドが「休憩にするぞ」と声をかけ、それから【HOME】を展開する。そしてリビングでお茶を飲んで寛いでいると、彼はさらにこう言った。
「レンタカー使うか」
「私は大歓迎ですが……。大丈夫なんですか?」
そう尋ねるアストールに、アーキッドは軽く頷きを返した。そしてこう言葉を続ける。
「アラベスクのおっさんから教えてもらったとおり、モンスターの出現率はかなり下がっているみたいだしな」
それに歩くのも面倒になってきた、と言ってアーキッドは肩をすくめた。どうやらそちらが本音らしい。
「歩きたいならそれでもいいが、どうする?」
アーキッドは改めてそう尋ねたが、別に苦痛ではないものの、誰も強いてまで歩きたいわけではない。それで後はレンタカーを使って移動することになった。
ゆっくり三十分ほど休憩してから、カムイたちは移動を再開した。やはりレンタカーを使うと早い。お昼頃に地図で確認すると、すでに荒野を三分の二ほども踏破している。今日の移動はこれで終わりの予定だが、この分なら明日の午前中には〈廃都の拠点〉に到着するだろう。
「カムイ君、ちょっといいですか?」
昼食後、カムイがリビングのソファーでだらけていると、一度部屋に戻っていたアストールが顔を出して彼に声をかけた。彼が身体を起こして振り向くと、アストールは手に持った【魔法符】の束を掲げながら顔に微笑を浮かべる。それだけで、カムイは彼の用件がなんなのかを察した。
「手伝ってもらっていいでしょうか?」
「ええ、いいですよ」
そう言ってカムイはすぐにソファーから立ち上がった。そして二人は連れ立って外へ出る。それから慣れた様子で〈魔法符:魔力回復用〉を作成していく。枚数はなんと300枚だ。ここ数日、ずっと在庫切れのままにしていたのを気にしているらしい。相変わらずの人気ぶりだった。
ちなみに他の種類はまだ在庫があったので今回は補充しない。こちらは相変わらずの不人気ぶりである。
プレイヤーショップに出品するための〈魔法符:魔力回復用〉を作成し終えると、まるでそのタイミングを見計ったかのようにイスメルとカレンと呉羽の三人が外へ出てきた。これから稽古らしい。カムイも誘われたので(半ば強制的に)参加することになったのだが、そこでキキの姿が見えないことに気付きそのことをカレンにこう尋ねた。
「あれ、キキはどうしたんだ?」
「部屋に篭っているわ。〈鑑定〉のスキルレベルを上げて、スフィアからもっと情報を抜き取ってやる、って息巻いていたわよ」
「つまり、逃げたってことか」
「そういうことね」
カムイの台詞はなんの脈絡もないいわば理論の飛躍だったわけだが、カレンも当然のごとくに頷きを返した。つまり稽古がイヤだったので別の予定をねじ込んだ、ということだ。まあ攻略戦は終わったし、なにより稽古は自主参加が基本なので、逃げるのが悪いと言うわけでもない。
それに、キキが〈鑑定〉のスキルレベルを上げようとしているのも事実だ。今一番欲しいのはスフィアに関する情報。しかし気軽に使ってみることはできない。それなら〈鑑定〉スキルに期待してみるのも一つの手だろう。
実際、そのスキルのおかげでキキはスフィアを一目見た瞬間に、それが「とんでもないもの」であることに気付いたのだ。レベルを上げれば新たな情報を入手できる可能性は十分にあった。そんなわけでキキにはスキルのレベル上げを頑張ってもらいたいところである。まあ、傍目にはスフィアとにらめっこしているだけにしか見えないのだが。
「キキのことはいいでしょう。それより稽古を始めましょう」
イスメルがそう声をかけると、カムイとカレンと呉羽はそれぞれ了解の返事を返した。そして【HOME】の領域の外に出てから、適当に距離をとって得物を構える。稽古はいつもどおり、カムイたちがボロボロにされて終わった。
そして次の日。予定ではお昼過ぎには〈廃都の拠点〉に到着するはずだったのだが、あいにくとこの日は朝から雨。動けないほどの土砂降りというわけではなかったのだが、わざわざ雨の中を濡れながら移動する気にもならず、止むまでは【HOME】の中で待機、と言うことになった。
「やれやれ……。雨が降ると尻尾が重いのぅ……」
そう嘆息気味に呟きながら、ミラルダがリビングで尻尾の毛づくろいをしている。どうやら湿気を吸ってしまっているらしい。妖狐族には妖狐族の悩みがあるものだ。湿気がダメということは日本の夏なんて天敵かも知れないな、とカムイは他愛もないことを考えるのだった。
同じく雨のため、この日は稽古も無しになった。ぽっかりと空いてしまった時間を、カムイたちはトランプやボードゲームなどをしながらのんびりと過ごす。ちなみにこの日、イスメルは部屋から出てこなかった。思いがけない休日を最も満喫していたのは、間違いなく彼女であろう。
さて次の日。雨は上がり、大地はみごとにぬかるんでいた。【全身クリーニング】があるから、全身泥まみれになったとしても問題はない。ただ、なりたいかと言われれば話は別だ。特に自らの足で走らなければならないミラルダなどは、それがイヤなのか露骨に顔をしかめていた。
「泥が身体に付くのはイヤなんじゃがのう……」
彼女はそう嘆息する。ちなみに【ペルセス】は浮いているので泥がはねることはほぼないし、【レンタカー】に乗っているメンバーも泥を被ることはないだろう。〈獣化〉したミラルダは巨体なので、その背に乗っているアーキッドたちも泥が飛んでくるのを心配する必要はあまりない。要するに泥うんぬんで被害に遭う可能性が高いのはミラルダ一人なのだ。
まあ、どのみち道路事情が悪いくらいのことで、何日も足を止めているわけにはいかない。別に誰かと何かを競っているわけではないものの、時間が有限で貴重であることに変わりはないのだ。
それで渋るミラルダを宥めつつカムイたちは出発したのだが、悲劇はその直後に起こった。いつものフォーメーションでは【ペルセス】に跨ったイスメルとカレンが先頭を走り、その後ろを〈獣化〉したミラルダとレンタカーがそれぞれ左右に付く形なのだが、その位置関係のせいでレンタカーが盛大に跳ね上げた泥が、もろにミラルダの身体にかかってしまったのである。
「…………」
無言のまま立ち止まるミラルダ。顔面から脇腹にかけて、彼女の綺麗な毛並みが汚され泥水が滴っている。無言の空気が痛い。そこへレンタカーに乗っていたカムイたちが慌てた様子で駆け寄る。ミラルダは視線を鋭くして彼らを一瞥すると、泥水を被ったままただ一言こういった。
「何か、言いたいことは?」
「お昼は最大限ご要望に沿わせていただきます!」
プレッシャーに耐え切れず、ハンドルを握っていたカムイは腰を九十度曲げながらそう言った。呉羽とアストールも、申し訳無さそうに謝罪の言葉を口にしている。ロロイヤだけは謝る素振りも見せなかったが。
ともあれ、カムイたちがそうやって誠意を見せたのが良かったのだろう。彼女は「はあ」とため息を吐いて彼らから視線を外した。そして彼女はシステムメニューを開き、迷うことなく【全身クリーニング】を選択する。どうでもいいことだが、〈獣化〉したままなのに器用だな、とカムイは思った。
シャボン玉のエフェクトがミラルダの巨体を包み込む。全身を清めてようやく人心地ついたのか、彼女は「ふう」と大きく息を吐いた。そしてもう一度視線をカムイたちのほうに向けてこう言う。
「それでは、お昼は期待しておるぞえ?」
悪戯っぽい口調でそう言われ、カムイたちはむしろホッと胸を撫で下ろした。それですっかりチャラ、ということだ。余裕ができた彼は、「油揚げをお供えしたら喜ぶかな?」なんてことを考えていた。
その後はフォーメーションを変更して、一行は〈廃都の拠点〉を目指した。先頭がイスメルなのは変わらないが、その後ろにミラルダ、そのさらに後ろにレンタカーと続き、一列になって彼らは進む。
フォーメーションを変えたおかげで、その後はミラルダがレンタカーに泥を跳ねかけられることはなかった。ただ、ぬかるんだ大地を全力で疾走しているのだ。どうしても身体に泥は付く。乾いて張り付いてしまった泥が不愉快なのか、彼女はまた昼食前に顔をしかめながら【全身クリーニング】を使っていた。
「もうイヤじゃ!」
そう言ってミラルダはむくれてしまった。やはり盛大に泥を跳ねかけられたことが尾を引いているのかもしれない。すっかり拗ねてしまった彼女に、アーキッドは肩をすくめてさっさと降参した。どうやら〈廃都の拠点〉に到着するのは明日になりそうだった。
ちなみにミラルダの機嫌だが、オーダーされた子牛の丸焼きをテーブルの上に鎮座させたところ、瞬く間に回復した。カムイが「意外とチョロい」と思ったのは秘密である。それと、一緒に稲荷寿司も用意したのだが、どうも大好物というわけではないらしい。むしろ「初めて食べた」と言っていた。
迷信は当てにならない。カムイはしみじみとそう思った。それを呉羽に言うと「まったくだな」と同意してくれたが、カレンに言ったら「当たり前でしょ」と呆れられてしまった。こういう反応の違いも面白い。カムイはそう思うのだった。




