ゲームスタート7
カムイと呉羽が出会って四日目。この日も二人は朝一の稽古をしていた。5メートルほど離れて向かい合うと、カムイは少し躊躇しながらも刀を構える呉羽に話しかける。
「あの、呉羽さん?」
「なんだ」
「目が据わってて怖い」
その原因は大体カムイにある。彼は今、上半身裸だった。その理由は呉羽が木刀ではなく真剣を使っているおり、服を着ていてもどうせ切り刻まれてダメになってしまうからなのだが、それが彼女には気に入らないらしい。昨日は散々「破廉恥だ!」と言って騒いでいた。
「カムイ、わたしは気付いたんだ」
「な、何に?」
非常にイヤな予感がしつつも、カムイはそう聞き返す。そして全くありがたくないことに、彼の予想通り呉羽の答えはロクでもないものだった。
「血まみれにしてやれば破廉恥も何もない」
「怖いわ!?」
アレか。スプラッタはエロスを凌駕するということなのか。確かにカムイも血まみれの女性に欲情する趣味はないが、いやしかし……。
「さあいくぞ。避けなくてもいいんだぞ?」
「死ぬわ!?」
突き出される刀の切っ先を、カムイは必死に避ける。最初の突きを彼は何とかかわしたが、呉羽はすぐに刀を引き戻してまた次の突きを放つ。今度の突きは、切っ先が三つ見えた。
「ッ!?」
カムイは何とか一つは避けた。しかし、残りの二つには対応できない。身体に鋭い痛みが走る。右の上腕と左の肩が浅く切られていた。
(一応、手加減はしてくれているみたいだな……)
少しだけカムイは安心した。「血塗れにしてやる」と凶悪な宣言をしたものの、呉羽は手加減まで忘れたわけではないらしい。そしてこの程度の傷ならすぐに回復できる。アブソープションによって力が、つまり生命力が常に補充されているからだ。
「あまりその力を過信するな」
そんな、まるで内心を見透かしたかのような呉羽の言葉に、カムイは思わずギクリとした。彼を真っ直ぐに見据えつつ、呉羽は冷静な声でさらにこう続ける。
「確かに傷はすぐに治るかもしれない。だけど失った血液まで回復しているわけじゃない。『失血死』という言葉を知っているか、カムイ。大きな外傷の場合、傷そのものが原因で人は死ぬんじゃない。そこから大量の血液を失うことで死ぬんだ。それはお前だって例外じゃないぞ」
カムイの場合、傷はアブソープションの力ですぐに治る。それはすぐに止血されるという意味でもあるから、出血量を減らすという意味でも彼のユニークスキルは有効だ。
しかし、出血量がゼロになるということではない。現に今だって、浅い傷口からは血が出た。もちろん、この一回に限れば出血量は大したことはないし、まして死ぬことなど有り得ない。だが血を流しすぎれば、それだけで人は死ぬ。それはカムイとて同じだ。
「死なないにしても、血を失えば動きが鈍る。いわゆる『貧血』というやつだな。力が出なくなって、戦える状態じゃなくなる。戦闘中にそんな状態になれば、それはもう死ぬのと同じだ。だからわたしは口をすっぱくして言ってるんだ。『受けるな、避けろ』って」
「……さっきは『避けるな』と言っていた気が……」
「それはそれとして」
カムイの抗議を呉羽はさらっと流した。
「戦闘というのは削り合いだ。実力が伯仲していれば特にそうなる。その時、できるだけ有利な状態を維持するためにも、出血はできるだけ避けなければならない。一度出血してしまえば、あとはどんどん不利になるだけだからだ」
逆を言えば、その点カムイは他のプレイヤーと比べて有利ということだ。なにしろほとんど自動で傷が治癒されてしまうのだから。敵からしてみれば、一度の攻撃で削り取れる体力の量が非常に少ないのだ。別の言い方をすれば、削り合いの容量がずば抜けて大きいともいえる。
「まあ要するに、体力お化けだな」
「そのまとめ方は納得いかない!」
カムイのその抗議を、呉羽はまたしてもさらっと流した。
「カムイには、他の人より有利な点がある。だけど、それを使い潰して勝つんじゃなくて、有利なまま勝てるようになって欲しい。わたしはそう思っている」
「……おう」
その真っ直ぐな呉羽の言葉が妙に気恥ずかしくて、カムイは少しぶっきらぼうにそう答えた。それを聞いて、呉羽は少しだけ頬を緩める。
「よし。それじゃあ稽古を続けるぞ。……血塗れにならないよう、せいぜい気張って逃げ回れよ?」
そう言って呉羽は凄みのある笑みを浮かべた。そこに含まれたある種の凄惨さに、カムイは思わず背中に冷や汗を流した。なんだか本当に狩られる獲物の気分である。
呉羽は劣悪な足元をものともせず、滑らかな動きで間合いを詰める。その動きはきちんとした訓練を受けて初めて身につくもので、カムイには到底真似できない。そのため彼の動きは大雑把で、どこか獣じみたものにさえなる。
呉羽が斜めに切り上げた刀を、カムイは両手を地面につきほとんど四つん這いになりながら身体を低く屈めてかわす。次の瞬間に頭上から振り下ろされた刃は、低い状態からむしろさらに間合いを詰めて飛び掛り、刀の軌道を避けつつ同時に反撃する。
低い状態から繰り出されたカムイの爪を、呉羽は余裕をもってかわした。次の攻撃が来る前に刀を振るい、牽制して間合いを開けさせる。落ち着いた、危なげのない対応だ。だというのに、呉羽は肌が粟立つのを止められなかった。
(まったく……。どういう動きをするんだ、コイツは)
カムイの動きは、呉羽から見ればまったく出鱈目だ。武術と言う、ある程度論理立てて系統付けられた枠組みからは大きく外れている。
しかし、速い。恐らく白夜叉のおかげなのだろうが、彼の動きは桁外れに速い。どれくらい速いかと言うと、呉羽が目で追えなくなるくらい速い。そんな速度で出鱈目に動くものだから、本当に獣か、それこそ妖でも相手にしているような気分だった。
だが呉羽が本当に恐ろしいと思うのはそこではない。速いだけなら、対応の仕方はいくらでもある。問題なのは、彼の動きが人間離れしていることだ。
例えば、車が時速100キロで急カーブに進入したとする。するとどうなるか。答えは簡単で、曲がりきれずにコースアウトする。これがいわゆる慣性であり、慣性があるために物体の動きというのは基本的に直線的ではなくて曲線的になる。ようするに、急激な方向転換はできないのだ。
人間にも同じことが言える。全力疾走しているときに、いきなり直角に曲がることなんてできない。どうしたってその時の動きは膨らみを持ち、つまり曲線的になる。そうしないとベクトルの方向を変えられないのだ。
ではこの時、無理やりベクトルの方向を変えたらどうだろうか。例えば全力疾走の状態から、一瞬で静止するような運動である。その時身体に、特に脚に大きな負担がかかることは想像に難くない。普通であれば、耐え切れずに転んでしまうだろう。止まれたとしても、またすぐに動き出すことは無理だ。それが普通の人間の動き方である。
しかし、白夜叉を使った状態のカムイは違う。彼はこういう、非常識な動きをむしろ得意とする。全力で動いていたかと思えばいきなり静止し、そこからまたすぐに動き出す。大きく曲線的に動くべきところを、直線的に、まるで稲妻のように動く。
繰り返しになるが、呉羽にしてみれば人間ではない別のナニカを相手にしている気分だ。姿形は人間なのに、動きはそれを逸脱している。対人戦に慣れている人間ほど、強い違和感を覚えるだろう。非常にやりにくい相手、と言わざるを得ない。
さて、ここまでであれば、誰しもが考えの及ぶ範囲だろう。ここから先に考えが及ぶ呉羽は確かに有能だった。そしてだからこそ、彼女はカムイにある種の恐怖を覚えずにはいられない。
(一体、どれだけの負荷が身体に掛かっているのか……)
一回程度であるなら、呉羽でもカムイと同じような動きはできるだろう。しかしその場合、身体には巨大な負荷が掛かることになる。自分の動きに身体がついていかないのだ。最低でも、身体中の筋肉がボロボロになって悲鳴を上げる自信がある。
余談になるが、人間は無意識のうちに力をセーブして使っている。そうしないと自分で自分を傷つけるからだ。しかしカムイと同じ動きをするためには、そのリミッターを外さなければならない。だから彼と同じ動きをしようとすると、それだけで身体はダメージを負う。いや、それを覚悟しなければ同じ動きはできない、といった方が正しいのかもしれない。
ではカムイの場合はどうなのか。彼は自分の動きでダメージを負っているようには見えない。筋肉痛にさえならないのだ。しかし全くのノーダメージであるはずがない、というのが呉羽の見立てである。
出鱈目な運動とその負荷に耐えられるよう、白夜叉によって身体能力が強化されている。普通に考えれば、それが妥当な線だ。しかしそう考えたとき、呉羽は違和感を覚えた。「白夜叉の能力が強力すぎやしないだろうか」と。
瘴気を防ぎ、身体能力を強化する。その防御力たるや驚異的だ。さらに手刀の例を見るように、ある程度性質を変化させることも可能なようだ。実に、強力な能力である。ほとんどユニークスキルに匹敵する、と言っていいだろう。
それほど強力な能力を、そう簡単に覚えられるものだろうか。呉羽はその可能性を否定した。それはいくらなんでも都合が良すぎる。そして彼女はある仮説を立てた。つまり白夜叉はそこまで強力なスキルではない、と考えたのだ。
しかし現実に、白夜叉は強力であるように見える。その矛盾をどう説明するのか。呉羽は次のように考えた。
白夜叉には確かに身体能力強化の効果もあるのだろう。しかしそれは、今目に見えているものより、もっと弱いものなのではないだろうか。白夜叉の真価は、おそらく防御力の方にある。カムイは自分の身を守るためにその能力を発現させたのだから、ある意味でそれは当然のことと言えた。
では凄まじいあの身体能力は何なのか。呉羽はあれをプレイヤー本来の身体能力であると考えた。ただし、身体のリミッターを解除した状態の。
呉羽の考えた仮説はこうだ。白夜叉の身体能力強化の効果は弱い。その代わりに、白夜叉は身体のリミッターを解除している。カムイは本当の意味での〈全力〉を発揮して戦っているのだ。そりゃ、身体能力が強化されているようにも見えるというものだ。
余談だが、これは白夜叉を使った時、カムイの獣性が増していることにも繋がる。理性を薄れさせて、身体のリミッターを解除しているのだ。そう考えると、色々辻褄があう。
しかしこれでは動くたびに、少なくとも人間離れした動きをするたびに身体にダメージが蓄積されていく。だが今のカムイにその様子どころか兆候さえない。そのことはどう説明するのか。
その理由を、呉羽はアブソープションに求めた。つまり「カムイはダメージを負っているものの、アブソープションで吸収したエネルギーによって即座に回復している」と考えたのだ。
出鱈目である。常にドーピングしながら戦っているようなもので、普通であれば破綻する。そうでなければおかしい。しかし破綻させないだけの力が、ユニークスキルである【Absorption】にはあるのだろう。そう考えたとき、呉羽は空恐ろしいものを感じた。
(それだけじゃない……)
筋肉がどうやって強くなっていくかをご存知だろうか。ある大きな負荷が掛かると、筋繊維は切れてしまう。そして再生するときにより強くなるのだ。次に同じ負荷が掛かったとき、今度は耐えられるように。
同じことが、恐らくカムイの身体の中で起こっている。彼があの出鱈目な動きをするたびに、身体中の筋繊維は悲鳴を上げて千切れてしまっている。だが次の瞬間には再生する。しかもより強力になって。
しかし身体のリミッターが外れているものだから、彼はさらにむちゃくちゃな動きをする。そしてまた筋繊維が切れ、そして再生する。より強力になって。その上、再生にかかる時間は一瞬だから、そのサイクルは通常よりもはるかに早い。
要するにカムイは今、通常を遥かに超える速度で身体を鍛えまくっているのだ。この世界にレベルアップはない。しかしこれはもう、パワーレベリングと言っても差し支えのないやり方だ。尤も、ゲーム慣れしていない呉羽はそんな単語知らなかったが。
(お前は、どこまで強くなるんだ、カムイ?)
それを考えると恐ろしい。恐ろしくて、思わず笑ってしまう。そう易々と追い越されるつもりはない。呉羽にも矜持というものがある。先達として、高い壁でなければならないのだ。
「オオオオオオオ!!」
カムイが雄叫びを上げながら大きな岩を持ち上げる。どう見繕っても100キロ以上はある。その怪力に内心で呆れつつ、しかし呉羽は鋭く叱責する。
「その衝動に振り回されるな、と何度も言っているだろうが!」
ここは一つぶっ叩いて正気に戻してやらねばなるまい。そう思い、呉羽は一気に前に出た。その彼女目掛けて、カムイが持ち上げた岩を投げつける。呉羽はその軌道を精密に予測し、そして大きく跳んだ。彼女が着地したのは、他でもないカムイの投げた、まだ空中にある岩の上だった。
そしてまた、彼女は大きく飛翔する。より高く、普通では到達できない高さへ。そして跳躍の頂点から一気に降下し、上段に振りかぶった刀をカムイの脳天に叩き込む。重い手応えに呉羽の頬が緩んだ。
「……安心しろ、峰打ちだ」
「死ぬわ!?」
「大丈夫、お前は死なない」
「……キメ顔のつもりだろうが、思いっきり笑ってるからな」
「はっはっは。ピンピンしてるじゃないか。まだまだいけそうだな」
そう言って呉羽が浮かべる凄惨な笑みに、カムイは思わずゾッとしたものを感じた。そして次の瞬間、銀色の閃光が幾筋も走る。彼は慌てて両腕を身体の前で交差させて防御し、同時に後ろに飛んで間合いを取る。腕には切り傷がついたが、それもすぐに回復した。
改めてカムイは呉羽と相対する。刀を正面に構える彼女に、さっきまでのふざけた様子は少しもない。まるで彼女自身が一本の刀になったかのように、触れれば切れそうな鋭い雰囲気をかもし出している。
緊張で頭がピリピリする。だけどそれも悪くない。カムイの顔に自然と笑みが浮かんだ。
(さあて、どうするよ……?)
正直に言えば、有効な手は何もない。しかしだからと言ってやられっぱなしは気に入らない。それに今のカムイには新しい手札もある。それも試してみたかった。
ただ、今この向かい合った状態から新しい手札を使って見せても、たぶん普通に対処されて終わりだろう。せっかく呉羽の知らない手札なのだから、もう少し効果的に使いたい。そう思い、カムイはまずするすると前に出た。
呉羽が刀を振りかぶり、そして振り下ろす。カムイはそれを難なく避けた。いい加減、間合いくらいは計れるようになっているのだ。
そして刀を避けると同時に、彼は一気に加速して呉羽の側面に回りこむ。だがそれを簡単に許す彼女ではない。彼女は身体を回転させてカムイの正面を向き、さらにその勢いを利用して刀を斜めに振り上げる。
迫り来る白刃を、カムイは身体を斜めにそらせて避ける。そして彼がさらに間合いを一歩詰めた所へ、呉羽が刀を返して今度は振り下ろす。それをカムイは避けなかった。
「なっ……!?」
呉羽が驚きの声を上げる。カムイが彼女の腕を左手で掴んで止めたのだ。そうやって攻撃を止め、彼はさらに一歩間合いを踏み込む。そして同時に右手を振りかぶり、フック気味のパンチを鋭く繰り出した。
「くっ……!」
堪らず呉羽が下がる。それこそがカムイの待っていた好機だ。彼は大きく息を吸い込んでエネルギーを吸収し、そして息を吐き出すと同時に一気に放出する。
「ハッ!」
カムイの口から衝撃波が放たれる。呉羽はそれを感知したのか大きく目を見開き、そして次の瞬間、刀を一閃して切り捨てた。
「は……?」
カムイは思わず間抜けな声を出した。もちろんこれで呉羽に勝てるとか、そんな都合のいいことを考えていたわけではない。しかし初見で、しかも体勢を崩しているところへ放った一撃である。それをあまりにも簡単に防がれてしまった。正直に言ってショックだった。
しかし、当の呉羽の感想は違うらしい。彼女は目をキラキラと輝かせながらカムイに詰め寄ってこう言った。
「凄いじゃないか、カムイ! こんなのいつ覚えたんだ!?」
「お、覚えたのは昨日だけどさ。だけど、そんな大したモノじゃないだろう。呉羽は簡単に防いじゃったし」
「ふふん。まあ、この手の衝撃波っぽい攻撃はわたしのユニークスキルの、特に天叢雲剣の十八番だからな」
そう言って呉羽は得意げな笑みを浮かべる。ということは、彼女が使うあの斬撃を飛ばす技はやはり天叢雲剣の能力を使っているのかもしれない。そうであれば、そう簡単に再現できないのも納得である。
「それで何と言う技なんだ?」
無邪気な笑みを浮かべながらそう尋ねる呉羽。逆にカムイは「しまった」と言わんばかりに苦笑を浮かべる。
「まだ考えてない」
「じゃあ、わたしがつけてやろう!」
呉羽はそう宣言すると、さっそく腕を組んで考え始める。カムイも、まあ面白そうなので任せてみることにする。しばらくすると、呉羽は得意げな笑みを浮かべながら大きく頷いた。
「命名、【ガオガオ砲】!」
「却下」
神速の判断速度でカムイは切って捨てた。ジト目のカムイに睨まれ、呉羽は頬を引き攣らせて冷や汗を流す。
「ワ、【ワンワン砲】!」
「ボツだ!」
「【ニャンニャン砲】でどうだ!?」
「いい加減鳴き声から離れろ!」
「Cock a doodle doo!」
「ああもう意外とノリいいな、お前!」
こうして呉羽には意外とネーミングセンスがないことが明らかになり、彼女が出した案は順当に全て却下された。それでカムイは自分で考えてこの新しい手札に名前を付けることになる。
すなわち、【咆撃】と。
― ‡ ―
「お風呂に入りたい」
カムイが自分の新しい手札を【咆撃】と名付けたその日の晩、夕食を食べ終えると呉羽は唐突にそんなことを言い出した。彼は思わず「は?」と聞き返す。
「だから、お風呂に入りたいと言ったんだ」
「いや、入ればいいんじゃないのか? ってか、入れるのか?」
「アイテムショップに【お風呂セット】というものがあるんだ」
そう言って呉羽はシステムメニューを開き、アイテムショップへ進んで【お風呂セット】なる商品を選び、その画面をカムイに見せた。ちなみに、メニュー画面は本来プレイヤー本人にしか見えないが、可視化設定をしてやれば他のプレイヤーに見せることも可能だった。
「どれどれ……」
カムイが画面を覗き込むと、そこにはお湯の張られた猫脚のバスタブが表示されていた。説明文を読むと、さらにボディーソープとシャンプー、リンス、洗顔フォーム、バスタオル、そして風呂桶がついているらしい。制限時間は一時間とあるから、どうやら購入ではなくレンタルのようだ。
(これはなかなか……)
良いかもしれない。カムイはそう思ったが、しかし値段を見た瞬間その考えも吹き飛んだ。お値段何と10,000Pt。追加でさらに500Pt支払えば、湯船にたらす香油を幾つか有る中から選べるらしい。
「馬鹿じゃねーの!?」
思わずカムイはそう叫んだ。お風呂に一時間入るだけで10,000Pt。ぼったくりである。少なくともカムイはそう思った。
「システムの全身クリーニングを使えばいいじゃんか」
全身クリーニングを使えば、身体だけでなく着ている衣服まで全て綺麗にしてくれる。湯船に浸かることはできないがさっぱりはするし、身体を清潔に保つだけならこれで十分だった。なにより全身クリーニングは一回1,000Ptと、なかなかリーズナブルである。これと比べると【お風呂セット】は十倍の値段で、そのためカムイはぼったくりと思ったのだ。
「良いじゃないか! 週一回の楽しみなんだから!」
呉羽は言う。確かに身体を清潔にするだけならば、全身クリーニングを使えば良いだろう。しかしお風呂に入るのは身体を洗うためだけではない。むしろ、お風呂に入ることそれ自体が目的なのだ。温かい湯船に浸かって身体を暖めてリラックスし、ストレスを解消して英気を養う。それが目的なのだ。
「ようするに気晴らしか」
「その通りだ!」
悪びれもせずに呉羽は胸を張った。ちなみにまるで関係のない話だが、彼女の胸部装甲はなかなかの厚さを誇っている。
アイテムショップを別にすれば、この世界には娯楽が少ない。ほぼない、と言ってもいいだろう。そんな環境で毎日命がけの戦闘を繰り返しているのだ。当然、ストレスがたまる。どこかで息抜きをしないと精神的に参ってしまう。
その息抜きが、呉羽にとってはお風呂なのだろう。そう思えばカムイもことさら文句を付けようとは思わなかった。どうせ彼自身の懐は痛まないわけだし。
「まあどうせ呉羽のポイントだし? 入りたいのなら入ればいいんじゃねぇの?」
「そうか! じゃあこれからお風呂に入るから、カムイは外で待っていてくれ」
「は?」
思わずカムイは間抜けな声を出した。いや、考えてみれば普通のことなのだ。この拠点には個室などないし、また仕切りもない。そんな場所で、しかも男の目の前でお風呂に入るなんて、よっぽどの痴女でもなければありえない。
それは分かる。そして分かれば、呉羽の言うとおり外で待っているのもやぶさかではない。しかしそれより前にカムイは呉羽によって外へたたき出されてしまった。それがどうにも面白くない。
「覗いたら殺すからな?」
しっかりそう釘を刺されて。これはむしろ逆に「覗け」というフラグなのかとも思ったが、しかしカムイは即座に頭を横に振った。呉羽はあれでなかなかノリがいいが、しかし男の上半身裸で「破廉恥」と騒ぐような初心なところもある。入浴を覗いたと知られれば本当に殺されかねない。
「はあ……」
ため息を吐いてカムイはシステムメニューを開いた。辺りはもう真っ暗なのに身一つで外へ叩き出されたので、ともかく何か明かりが欲しかったのである。
アイテムショップから使い捨ての松明(これが一番安かった)を買うと、カムイはそれを地面に突き刺し、その傍らに座った。特にすることもなく、頬杖をつく。その顔が少々不機嫌そうなのは、仕方がないことなのかもしれない。
余談になるが、人間の聴覚というのは面白いもので、静かな環境にいると音を拾おうとしてその感度が良くなることが知られている。静かな部屋で安静にしていたら、自分の血が流れる音が聞こえてきた、などという話まであるほどだ。
「……あぁ……、んん……、ふぅ……」
静かな夜の帳の中、そんな妙に色っぽい息遣いが聞こえてきて、カムイは思わずギョッとした。その声は間違いなく呉羽のものである。恐らく風呂に入ったのだろう。温かいお湯に身を浸せば、そういう声も出る。
それは分かる。しかしコレばかりは、分かったからと言ってどうしようもない。カムイが内心で焦りまくっているのを尻目に、拠点の方からは湯の跳ねる音やら楽しげな鼻歌が聞こえてくる。そして時折そこに、思い出したかのように色っぽい小さな喘ぎ声が混じるのだ。
カムイはまだ十代半ばの、言ってしまえばまだ少年である。しかし少年ではあるが、まったくの少年ではない。その身体と心は着実に大人へと成長を続けている。そんな彼に、コレは少し刺激が強かった。
「散歩でもしてくるか……」
暴れる内心をひた隠し、ことさら何でもないふうを装ってカムイは立ち上がった。呉羽に一声かけておこうかと思って、しかし止める。もし理由を聞かれたら気まずくて仕方がないではないか。
松明を手に持ってカムイは歩き始めた。そう遠くへ行くつもりはない。拠点から少し離れるともう呉羽の声も聞こえなくなって、カムイは「ふう」と安堵の息を吐いた。
さて、一方の呉羽である。「覗いたら殺すからな?」と脅してカムイを外に叩きだした後、彼女はいそいそとシステムメニューを開き、アイテムショップからお目当ての【お風呂セット】を購入した。10,000Ptと割高だが、楽しみの少ないこの生活の中、入浴の魔力には抗えない。最近ではカムイに稽古を付けてお時給をもらっているおかげで、比較的ポイントには余裕もあった。
購入の確定ボタンを押すと、シャボン玉のエフェクトと共に猫脚のバスタブが現れる。すでにお湯がたっぷりと入っていて、白い湯気が立ち上っている。呉羽は拠点の入り口の方を見てカムイが覗いていないことを確認すると、いそいそと簪を抜いて髪を下ろし、服を脱いで裸になって湯船に浸かった。
「あぁ……、んん……、ふうぅ……」
至福だ。呉羽は、お風呂さえあればあと十年は戦える。
身体が温まってきたところで、呉羽は髪や身体を洗い始めた。最初はこの洋式、つまりバスタブの中で身体を洗うことに慣れなかったが、今となっては手馴れたものである。チャプチャプと水音を立て、ご機嫌に鼻歌を歌いながら彼女は身体を洗う。システムの全身クリーニングも手軽で良いが、やはり呉羽はこうやってしっかりと身体を洗う方が好きだった。
さて一時間をかけて十分にお風呂を堪能した呉羽は、十分前を告げるアラートが鳴ったところでバスタブから出た。そしてバスタオルでしっかりと身体を拭く。やがて【お風呂セット】がエフェクトと一緒に消えると、脱いだ衣服を着て身嗜みを整える。ちなみに下着は寝袋の中に隠しておいた綺麗なヤツだ。
「カムイ、もう良いぞ。ありがとう」
以前にアイテムショップで購入しておいたタオルで髪をさらに念入りに拭きながら、呉羽は外にいるはずのカムイに声をかける。しかし返事はないし、彼が中に入ってくる様子もない。
「カムイ~?」
もう一度彼の名前を呼ぶ。しかし反応はない。ざわり、と呉羽の心に不安が芽生えた。
「カムイ? いないのか?」
拠点の中を照らしていたLEDランタン(電池式)を手に持ち、呉羽は入り口から外を窺う。しかしそこにカムイの姿はない。そして外に出て拠点の周りを探しても、彼の姿は見当たらない。
(まさか……)
不安が、大きくなる。
まさかカムイは愛想を尽かして出て行ってしまったのだろうか。自分がお風呂に入りたいなどと我侭を言って彼を外に叩き出してしまったから。そんな不吉な予感が呉羽の頭をよぎる。
(イヤだ、イヤだ、イヤだ……!)
一人になるのは、もうイヤだ。
このゲームが始まってからカムイがやって来るまでのおよそ一ヶ月間、呉羽はずっと一人だった。システムのおかげで生活に困ることはなかったが、しかし周りには誰もいない。
すごく、寂しかった。
ウサギは寂しいと死んでしまうというが、人間だってそうだ。元の世界を、特に家族を夢に見て涙を流したことは、もう両手の指では数え切れない。
帰りたい、と何度も呉羽はそう思った。それでも挫けずにいられたのは、叶えたい願いがあったからだ。しかしそれでも、孤独の毒は彼女を蝕んでいく。体ではなく心を。
そんななか出会ったのが、まさに特効薬とも言うべき存在のカムイだった。歳が近く、また出身が同じ日本ということで、二人はすぐに仲良くなった。そして彼の存在は呉羽の孤独を癒してくれた。
カムイでなければならなかった、ということはないだろう。極端な話、よほど凶悪なプレイヤーでない限り、呉羽は誰とでも仲良くなって孤独を紛らわすことができただろう。しかしここへ来てくれたのはカムイだった。そして彼は、出て行こうと思えばそうできたにも関わらず、ここに残って呉羽に付き合ってくれた。ゲーム攻略の観点からすれば、恐らく無駄足でしかないというのに、だ。
「カムイ……、カムイ……! どこだ、返事をしてくれ!」
不安は止めどなく膨れ上がる。呉羽は叫ぶように声を上げた。返事は、ない。不安は絶望へと変わり、呉羽はその場に崩れ落ちた。彼女の目の前の夜の帳は、どこまでも暗くそして深い。お風呂に入って温まったはずの身体が冷え切っていく。彼女の目じりから涙が一筋、零れ落ちた。
「呉羽……? どうしたんだ?」
頬を流れ落ちる涙が、呉羽の端正な顎先にたどり着くより前に、彼女の横から彼女以外の声がした。彼女は反射的に声のした方に顔を向ける。そこにいたのは、松明を手に持ったカムイだった。
「カムイ!」
叫ぶようにしながら、呉羽は彼に抱きついた。カムイは困惑するが、彼女はそれにさえ気付かず彼にきつく抱きついた。
「ど、どうしたんだよ?」
「どこに行ってたんだ、バカ!」
「あ、いや、ちょっと散歩に……」
視線を逸らしながら、カムイは歯切れ悪くそう答えた。しかし呉羽は自分が置いていかれたわけではないことを知って、ようやく安堵した。
「わたしを、一人にしないで……」
気付けば、涙を流しながらそう言っていた。
「……分かった」
カムイはそう答えてくれた。それが嬉しくて、呉羽は彼に縋りついてまた泣いた。いつもは簪で止めてある彼女の髪は、今は下ろされていてそのせいかずいぶんいつもと雰囲気が違う。カムイが縋りつく彼女の姿に弱々しさを覚えたのは、あるいはそのせいもあったのかもしれない。
(細い、な……)
ぎこちない手つきで、しかも松明を持っているから片手で、泣きじゃくる呉羽の身体に手を回して支えるカムイは、ふとそう思った。毎朝の稽古では、毎回いいように叩きのめされている。だから自分より遥かに強い相手だと、そう思っていた。
それが間違っているとは思わない。けれども……。
(強いだけじゃ、ないんだな……)
カムイはやっと、そんな当たり前のことに気付いた気がした。
泣きじゃくる呉羽の頭を、そっと撫でる。さっきまでお風呂に入っていた彼女の髪はしっとりと濡れていて、シャンプーの匂いがした。そしてそんな事に気付く自分に、そこはかとない罪悪感を覚える。
(ああ、もう……)
こういう時、どうすれば良いのかさっぱり分からない。カムイの人生経験は、少年相応だった。
ただそれでも。呉羽が泣き止むまでずっと、傍にいて抱きしめていてあげられる、そんな少年だった。