旅立ちの条件11
今年もよろしくお願いします。
遺跡の神殿。その地下にあった魔法陣の調査が終わった。カムイらが遺跡に戻って来てから、およそ二週間後のことである。
もちろん、解析が終わったわけではない。そもそも、アストールに魔法陣の知識はない。彼に出来たのは、その魔法陣がいかなる構造をしているかをつぶさに記録することである。それがおおよそ終わったのだ。
「いやあ、大変でした」
苦笑気味にそう言ってアストールは自分の頭を掻いた。呉羽やリムの様子も見る限り、どうやら本当に大変だったらしい。全くノータッチだったカムイとしては「お疲れ様です」としかいえないが。
「やはり見取り図をリクエストしたのは正解でしたね。コレがなければ、もっとかかるところでした」
そう話すアストールの手には、一本の巻物が握られていた。それこそが彼のリクエストしたアイテムで、名前を【空白の見取り図】という。ちなみにアイテムショップで売られている、プレイヤーが埋めていくタイプの世界地図は正式名称を【空白の世界地図】と言い、要するにそれと似たようなアイテムだった。
名前【空白の見取り図】
説明文【指定した建物で、プレイヤーが歩いた範囲の見取り図を作成する。ただし、細かい数値は自分で測らなければならない】
このアイテムを買うと、まずカメラのような画面が現れる。そして見取り図を作りたい建物を選び、カーソルを合わせてシャッターを切ると、選んだ建物に合わせて値段が決まり、本当に買うかどうかの最終確認が行われる。そしてそこで〈Yes〉を選択すると、エフェクトと一緒にこの巻物が現れるのだ。ちなみにアストールが買ったときは3,500Ptだった。
この【空白の見取り図】があれば、持って歩くだけで建物の様子を巻物の中に次々と自動的に記載してくれる。一階や二階はそれぞれ分けて記載され、巻物の上に並べて記録された。巻物を広げれば、一目で全体が俯瞰できる。また【空白の世界地図】と同じく、スマホのように拡大することもできた。
加えて、ありがたいことにゲージとパーセンテージが付いているから、残りがどのくらいなのかも分かりやすい。そして100%にすると、3Dのような立体図を見ることができる。これは考えてもいなかったようで、アストールはずいぶん喜んでいた。
これを持って少し歩き回るだけで、魔法陣の様子は見取り図に記載される。それで調査は終わる、はずだった。
「まさか屋根の上まで歩かされるとは思わなかったですよ」
そう言って呉羽は苦笑する。アストールに魔法陣の知識はない。だから彼は、魔法陣の図形的な部分だけを抜き出して記録できればそれで十分だと思っていた。しかし彼が相談している海辺の拠点にいるプレイヤーたちの意見は違った。
『どこにどんな意味があるのか分からない。建物そのものを含め、細部まで徹底的に調べて欲しい』
メッセージのやり取りをする中でそう言われ、アストールは腰をすえた。そしてまずは神殿の中を隅々まで歩き回り、その踏破率とでも言うべきものを100%にした。その過程で呉羽は彼に頼まれ、屋根に上がってその部分を【空白の見取り図】に記載したのである。確かに呉羽にしかできないことだし、そう難しくも面倒でもなかったが、しかしこれが魔法陣の調査と何の関係があるのか、今でも彼女には謎である。
「関係ないなら関係ないで、それはそれでいいんです。考慮すべき点が減りますから。むしろ関係があったら問題なんです。もう一度調べに来るのは手間でしょう?」
そう言われて呉羽は一応納得した。確かに拠点に帰ってからもう一度調べ直しに遺跡へ戻ってくるのは手間である。レンタカーを使えばポイントもかかる。なら初めから徹底的に調べておく。その方が結果的に手間は少なくて済むものなのだ。
「まあ、私に魔法陣の知識があれば一番良かったのでしょうが……」
申し訳無さそうに、そして少し悔しそうにアストールはそう言った。何が重要で何がそうでないのか、知識のない彼には判断ができない。それがしらみつぶしに調べなければならない大きな理由の一つだった。そのせいで思いのほか時間がかかったと言っていい。
アストールらは魔法陣を徹底的に調べた。まずは見取り図を完成させ、それからさらに魔法陣の細かい寸法を測っていく。水路の幅や長さ、深さに渡る際の角度。水槽の直径、縁の厚さ、高さと、そしてそこから求められる容量など。細かく細かく、彼は数値を調べていった。
加えてどのような順序で魔法陣に水が流れていくのかもアストールは調べた。取水口の位置などを確認して推測していくのだが、この時に瘴気に汚染された真っ黒な水が妨げになった。瘴気そのものもそうだが、なにより真っ黒なのがいけない。水槽を覗き込んでみても、全く何も見えないのだ。これでは調査どころではない。
この問題を解決したのは、リムのユニークスキル【浄化】だった。要するに水槽の水を浄化したのである。ただ瘴気で汚染された水に手を突っ込むのはさすがに躊躇われ、代わりに愛用のミスリルロッドが投入された。効率がよくなるよう、リムはミスリルロッドで水槽の水をかき混ぜながら浄化を行った。
『なるほど。つまり、魔女の真似事をしたわけだな? ちゃんと三角帽子かぶったか?』
その時の話を聞いたカムイは、大真面目な顔をしてそうのたまった。ただし彼の本心はその眼に現れていて、そこには悪戯っぽい光が輝いている。ようするに、からかっているのだ。
『もう! わたし、魔女じゃありません!』
『そうだぞ、カムイ。漏れ出していた瘴気がものすんごい毒々しかったけど、別に毒薬煮込んでいたわけじゃないんだぞ』
ぷりぷり起こるリムを宥めながら、呉羽がそうフォローする。ただ微妙にフォローになっていないようなに感じるのは、カムイの気のせいだろうか。まあ肝心のリムは丸め込まれていたのでそれでいいか、とカムイは思った。
ちなみに、瘴気汚染水に突っ込んだミスリルロッドをそのまま使い続けるのはさすがに嫌だったのか、リムは魔法陣の調査が終わったときに装備を更新した。新たに購入したのは【女神の聖杖】というもので、杖やロッドのカテゴリーでは最上級のシロモノである。当然お値段もそれなりで、なんと1,200万Ptもした。これまでにアイテムリクエストをしたことのないリムは、その分のポイントをこれまでずっと溜め込んでいたのである。もっともこの買い物で一気にスッカラカンらしいが。
さらにちなみに。不要になったミスリルロッドは、カムイが5万Ptで買い取り、しっかり洗ってから、15万Ptでプレイヤーショップに売りに出した。次の日には売れていたから、中古の装備と言うのは結構需要があるのかもしれない。
閑話休題。アストールが徹底的に調べたのは魔法陣だけではない。彼は神殿そのものもつぶさに調べた。塀の寸法や石柱のサイズ、部屋の面積や窓の位置、中庭の水場はもちろんのこととして、花壇の高さや廊下の幅まで事細かに数値を測定した。付き合わされた呉羽は軽くグロッキーになっていたという。
『温泉だ……。人類には温泉が必要なんだ……』
『ああ、うん。止めないから好きにしろ』
虚ろな目をする呉羽にカムイはそう言ったそうな。ただし、温泉に入るのは拠点に戻ってからである。
そんなこんなで(主にアストールが納得いくまで)魔法陣と神殿の調査を行った四人は、得られた情報を手土産に海辺の拠点へと帰還した。行きと同じく帰りもレンタカーを使用し、運転は呉羽が行った。ほぼ二週間ぶりで、そのせいか最初はぎこちなくて乗っている方もおっかなびっくりだったが、オートマで運転が簡単なおかげだろう、二十分もした頃には危なげなくなっていた。
「い、言っておくが、お前の運転だってそうだったんだからな!?」
呉羽のその指摘にカムイは視線を泳がせる。そして窓の外を眺め、努めてスルーすることにしたのだった。
さて道がなくて自由に走れるとはいえ、いやかえって道がないからか。地図を確認しながらとはいえ、思いっきり車を走らせて目的地へドンピシャにたどり着くのはなかなか難しい。それで車は海辺の拠点の外れ、浄化樹の植樹林のさらに外れに到着した。
「やっほ~。おっかえり~!」
陽気な声でカムイら四人を出迎えたのは、言うまでもなくガーベラである。彼女は小走りで四人に近づくと、まず真っ先にこう尋ねた。
「レンタカー、まだ時間余ってる?」
ガーベラの趣味は車だ。そして運転もそこに含まれる。どうやらレンタカーの時間が余っていたら乗り回して楽しもうと思っていたらしい。
しかしそんな彼女の目の前で、無情にもレンタカーはシャボン玉のエフェクトに包まれる。時間切れだ。エフェクトと一緒に消えていくレンタカーを、ガーベラは「ああ~」と呟きながら悲しげに見送る。そしてカムイに恨みがましい目を向けてこう言った。
「もうちょっと早く帰ってきてくれればいいのに。具体的には五十分くらい」
「十分でここまで来いと!?」
呆れるつもりが驚いてしまった。というか、五十分も乗り回すつもりなら、それ相応にレンタル料金も支払って欲しいものである。
「何と言うか。相変わらず元気そうで何よりですよ、ガーベラさん」
「もちろん。お肌だってピッチピチよ、ピッチピチ」
そうやって強調するところがおばさん臭い、とは賢明にもカムイは口にしなかった。その代わりに「あ~、はいはい」とあしらう。この手の人間は相手をしてやるとかえって付け上がるのだ。
「……ところでガーベラさん、なんだか若くなりました?」
不意にそう尋ねたのは呉羽だ。車を降りたときから、彼女の雰囲気と言うか様子が前とは違う気がしていたという。それを指摘されたガーベラはどこか気まずそうに視線を泳がせた。しかしカムイは首をかしげながらよくよく観察し、そしてこう言った。
「そうか……? あんまり変わらないように思うけど……」
「失礼ね! ちゃんと若返ったわよ! 七歳ぐらい!」
ガーベラが目じりを跳ね上げた。そして一瞬後に若返ったことを自白してしまったことに気付き、顔を固まらせた。
「【若返りの秘薬】ですか……」
というか、それ以外にありえない。具体的なアイテムまで指摘されてしまったことで、ついにガーベラは開き直った。
「そーよっ! 【若返りの秘薬】よ! みんなでポイント出し合って買ったのよ! いいじゃない、若返ったって。呉羽ちゃんだってね、今は若いかもしれないけど、四十が見えてきたら思い知るわよ。アタシたちのこの気持ちを!」
「あぁ~、ええっと……、なんか、すみません……」
「すみません……」
なんだかとても居た堪れなくなり、カムイと呉羽は揃って頭を下げた。別に二人とも、【若返りの秘薬】を使ったことを責めているのではないのだ。高価なアイテムで、今使う必要があったのかとは思うが、特別他のプレイヤーに迷惑をかけているわけではない。それなら自己責任の範疇である。
それに若い身体のほうがよく動くのは事実だ。また呉羽などはカレンとのメッセージのやり取りを通して、このデスゲームのクリアまでに百年単位の時間がかかるかもしれないという事を知っている。もしその予測が当っているなら、どこかで必ず【若返りの秘薬】を使う必要があり、遅いか早いかの問題でしかない。
もっとも、ガーベラやそのお仲間たちがそんな理論武装をしていたかは疑わしい。いやむしろしていなかったはずだ。彼女たちはきっと、「若返り」という言葉にだけ引かれて秘薬を買い、そして使ったのだ。その自覚があるから、ガーベラは今こうして露骨な開き直りをしているのである。
ちなみにこの後、開き直りから暴走に移行したガーベラはリムまでも巻き込み、その挙句に「わたしは早く大きくなりたいです」と言われて撃沈した。これこそがまさに「埋められないジェネレーションギャップ」と言うヤツである。どれだけ若作りしようとも、真の若者にはなれないのだ。
さて、大げさに撃沈したガーベラが復活すると、アストールは彼女に留守にしていた間の拠点の様子を尋ねた。それに対し彼女は、特に大きな変化はないと答える。相変わらず三日に一回のペースで〈侵攻〉が起こっていて、その防衛で拠点の戦力は手一杯だと言う。
「まあ、手が足りてなかった頃に比べれば、百倍もマシだけどね。アーキッドさんたちのおかげもあって、ここにいるプレイヤーたちはずいぶん表情が明るくなったわ」
きっと希望を持てるようになったのね、とガーベラは穏やかな表情でそう言った。そしてそう話す彼女自身も、希望を持てるようになった者の一人なのだろう。カムイはそう思った。
(アンチエイジング的な意味でも……)
カムイもさすがにそれは口にしなかったが。彼がそんな失礼なことを考えているとは気付かないまま、ガーベラは「そういえば」と言って何か思い出したように手を打った。
「浄化樹林のほうに、ちょっと手を入れたのよ。よかったら、ちょっと見てく?」
せっかくなので見せてもらうことにすると、ガーベラは「こっちよ」と言って四人を案内した。一分弱ほど歩くと、視界の先にあるモノが見えてきた。それを見てカムイは「あっ」と声を上げる。そこにあったのは井戸だった。
ロープで桶を下ろすタイプ、ではない。ポンプ式の井戸で、一メートルほどの高さの台の上に設置されている。そしてその下には300Lは入ろうかという大きな青い水槽が置いてあった。どうやらここに水を溜めるために、わざわざポンプの位置を高くしたようだ。
「井戸、掘ったんですか?」
「まさか。検索したら、アイテムショップにあったのよ」
呉羽の質問に、明るく笑いながらガーベラはそう答えた。値段は設置する場所によってことなり、高さをつける台はオプションだそうだ。ちなみに今回は全部で57万Pt、水槽を合わせると60万Pt弱であったという。
「井戸を売ってるって……。本当に何でもあるんですね、アイテムショップ」
「ホントねぇ。おねーさんもビックリよ」
そう言ってカムイとガーベラは苦笑気味に笑い合う。尤も、文字通りの意味でアイテムショップでは何でも売っている、というわけではもちろんない。だからこそ、カムイらはこれまで何度もアイテムリクエストをしなければならなかったのだ。
そういう例があるから、ガーベラも井戸が売られているとは期待していなかったと言う。検索するだけしてみて、無かったらリクエストするつもりだったそうだが、結果としてあったのでそれを買ったのだそうだ。
「それにしても、水、飲めるんですか?」
大いに疑わしい、と言う顔をしながらカムイはガーベラにそう尋ねた。言うまでもなく、水というのは人間が生きていくうえで欠かせない。当然カムイもこれまで何度も水を飲んできたが、しかしそれらの水は全てアイテムショップで購入したものだ。つまりこの世界の水を飲んだことは一度も無い。
その理由は、いまさら説明する必要もないだろう。瘴気で汚染されているからだ。少なくともこれまでにカムイが見てきた水は全てそうだった。しかしもしかしたら、地中深くからくみ上げる地下水は綺麗で飲めるのかもしれない。もしそうなら朗報だ。しかしガーベラは肩をすくめてあっさりとこういった。
「まさか。汚染されていて真っ黒よ」
飲んだらお腹壊しちゃうわ、とガーベラは苦笑する。本当に飲んだらお腹壊す程度では済まない気がするのだが、それはそれとして。
ガーベラに促されて巨大な水槽の中を覗き込んでみると、そこには案の定真っ黒な水が溜まっている。【瘴気濃度計】で濃度を測ってみると、数値は15.51。遺跡の外を流れる川ほどではないが、やはりかなり高い。
「それじゃあ、井戸なんて一体何のために……」
「そりゃもちろん、浄化樹にお水をあげるためよ」
そう言われてカムイは気付く。確かにこの汚染された水を、プレイヤーは飲めないだろう。しかし浄化樹は瘴気を糧に成長する。だから浄化樹にとってこの汚染水は、極上の肥料も同じなのだ。
ガーベラが井戸を設置しようと思ったのは、浄化樹の稼ぎの効率が悪くなってきたからだった。つまり数が増えたことで、周辺の瘴気が足りなくなってしまったのだ。この世界は瘴気まみれだと言うのに足りないと言うのも変な話だが、実際に足りていないのだから仕方がない。
海辺の拠点の周りは基本的に瘴気濃度が低いから、それも関係しているのだろう。樹という、一度地に下ろしてしまえば簡単には動かせないその特性も、この点に関しては悪い方向に働いた。植え直すことは難しいし、また根が吸収する地中の瘴気は大気中のそれとは違って簡単には増えも回復もしない。
その場所を浄化し清浄に保つという点において、浄化樹は十分にその偉力を発揮したといっていい。しかしそのためにポイントが稼げなくなってしまうのはいただけない。少なくとも、今はまだ。
ではどうすればいいのか。瘴気を補充してやればいいのだ。だが大気中の瘴気濃度を上げたり、人工的に雨を降らせたりするのは不可能だ。土の入れ替えは、物理的には可能だが、ちょっと考えただけでも大変すぎるということが分かる。現実的ではない。それで選ばれたのが、この「井戸を設置して汚染水をくみ上げる」という方法だったのだ。
最大の問題はやはり初期費用がかかること。だがそれも前述したとおり60万Pt弱。その程度であれば、日々の稼ぎでもう十分にまかなえる。むしろこの先の収入を安定させるために必要な投資だ。水を効率よく行き渡らせるための簡単な水路は、土属性のユニークスキルを持つ〈世界再生委員会〉のメンバーに頼んで造ってもらった。
「……まあ、そんなわけでえっちらおっちら水を汲むのがアタシの日課になったってわけ」
そう言ってガーベラは自分の近況報告を終えた。そして茶目っ気を交え、冗談めかして科を作りながらこう言い添える。
「だから稼ぎの効率は上々よ。気が向いたら、また投資よろしくね?」
「あ~、はいはい。気が向いたら考えておきますよ」
よろしく~、と手を振るガーベラに見送られ、カムイら四人は浄化樹林から拠点の方へと向かった。その途中にリーン会ったので、挨拶をする。後で聞いた話だが、この浄化樹林はプレイヤーたちのちょっとしたリラックススポットになっているそうだった。この時の彼女も仕事をサボりに、もとい休憩に来ていたのだろう。
「……ところでリンリンさん、お若くなりましたか?」
「そ、そんなことないわよ!?」
呉羽にズバリと聞かれ、リーンはあからさまにうろたえた。その反応からしてすでに白状しているようなものである。別にやましいことではないと思うのだが、やはり300万Ptは安くないと言うことなのか。
まだ仕事があるから、と言い訳してリーンは逃げるようにその場を後にした。その背中を、カムイらは苦笑して見送る。そしてふと気付く。また名前の訂正を忘れたな、と。リーンが呉羽に正しく名前を呼んでもらえる日は果して来るのだろうか。面白いから別に来なくてもいいか、というのがカムイの意見である。
「それじゃあ、ちょっと行ってきます」
〈世界再生委員会〉が使っている大きなテントが見えてくると、アストールは少し浮かれた様子でそう言った。その手には、例の見取り図がある。まずロナンに報告し、それからアドバイスをくれたプレイヤーたちと検討会をするのだと言う。
『魔法陣のことは分かりませんが、投げっ放しというのもなんだか、ね……』
そう言ってアストールは少し悔しげに微笑んでいた。きっと彼のことだから、検討会に参加してそこから何でもいいから知識を得ようとしているのだろう。もしかしたら、すでに独学で学び始めているのかもしれない。カムイとはまた違った方法と方向だが、彼は彼で前に進もうともがいているのだ。それがカムイには心強く思えた。
アストールの背中を見送ると、カムイはなんだかポツンと取り残された気分になった。呉羽も同じなのか、横顔は少し寂しげだ。理由は分かっている。顔を見に行こうと思える知己がここにはいないのだ。
顔見知りは何人かいるが、それもそう深い仲ではない。拠点にいることはあまり無いからと、積極的な交流をあまりしてこなかった、そのツケが回ってきた形である。しかしだからと言ってあまり深刻にならないのは、彼らが若いからなのかもしれない。
「よしカムイ、ちょっと久しぶりにモンスター退治に行くぞ。リムちゃんも一緒に来る?」
リムが頷いたので、三人はまた拠点から少し離れて、その周辺でモンスターを狩った。そして日が暮れる少し前に拠点に戻る。アストールの検討会はまだ続いていて、その日の夕食は別々に食べた。
翌日は午後から〈侵攻〉が起こり、それをしのいでから呉羽待望の温泉に入った。アーキッドらが帰ってきたのはその三日後、また起こった〈侵攻〉をしのいだ直後のことだ。
「ソイツは大変だったな。奢るから、パーッとやってくれ」
そう言ってアーキッドはまた拠点のプレイヤーたちに夕食を振舞った。そこに連れて来たプレイヤーを馴染ませるための、懇親会の意味があったことは疑いない。外見は少々危険な匂いのする男だが、こういう気配りはなかなか細かい。
「早かったですね、アードさん」
懇親会の最中、カムイは近づいてきたアーキッドにそう声をかけた。事前の予定では一ヶ月以上はかかるという見立てだったのに、実際には三週間もかからずに彼らは帰ってきた。
「あ~、まあそうだな。思ったより数が少なくってな」
アーキッドはちょっと誤魔化すようにしながらそう言った。ただ連れて来たプレイヤーの数が少なかったので早く帰ってこられた、というのは本当だ。
今回彼らが連れて来たのは、【Susia】と【Sigurd】と【ROLOYA=ROT】という三人のプレイヤーだ。この内、スーシャは妊娠していたことで、紹介されたときに驚きの的となっていたのだが、まあそれはそれとして。
当初、帰路は完全な歩きというのがアーキッドらの予定だった。しかし連れて来るのが三人だけになったことで、その予定に拘泥する必要がなくなった。それで彼らは一日に一時間だけレンタカーを使うことにしたのだ。ちなみになぜ一時間だけなのかと言うと、それ以上はミラルダの体力が持たなかったからである。
レンタカーにはアーキッド、カレン、シグルド、ロロイヤの四人が乗った。キキは〈獣化〉したミラルダの背に乗り、スーシャはイスメルと一緒に【ペルセス】の背に横座りで乗った。なお、スーシャとイスメルのペアになったのは、【ペルセス】はやろうと思えば地に足を付けずに駆けることができ、そのためそこが一番振動が少ないからである。
そのおかげで、アーキッドらは予定よりかなり早く海辺の拠点に戻ってくることができた。カムイたちにはそれから連絡を入れるつもりだったらしいが、彼らはすでに拠点にいたのでその手間も省けた。
「まあ、食費が四人分増えちまったけどな」
そう言ってアーキッドは陽気に笑った。それから彼は不意に頭を掻いて視線を泳がせる。
「それと、なんだ……、カレンとは何かもう話したか?」
視線を合わせないまま、どこか聞きづらそうにしながらアーキッドはそう尋ねた。カムイは内心で首をかしげつつも、正直に「まだですけど……」と答える。すると彼は「……そうか」といって嘆息した。
「……何かあったんですか?」
アーキッドの態度に、カムイは嫌な予感を覚える。するとアーキッドは顔を背けたまま肩をすくめ、どこか諦めたようにしてこう言った。
「そうだなぁ。お前さんには、話といた方がいいなぁ」
そしてため息を吐いてから、やおら彼はカムイの目を見た。そして何があったのかを掻い摘んで話す。それを聞いてカムイが襲われたのは、訳の分からない焦燥感だった。
「そ、それで、カレンは……!?」
「大事にはなってねぇよ。いや、大事ではあったけど、無事だよ。イスメルが上手くやってくれた」
しかし言葉で言うほど彼女が無事ではないことは、アーキッドの口調からも明らかだった。あの平和な国、日本で生きていた人間が、目の前で人が殺されるのを見たのだ。しかも、自分も大きく関わっている。加えて引き金を引いたのはある意味で彼女自身だ。それでショックを受けないはずがない。ほぼ同じ環境で生きてきたカムイには、それが容易に想像できた。
「なあ、こんな事をお前さんに頼むのは筋違いなんだろうけどよ。アイツになんか声かけてやってくれないか」
俺じゃあダメなんだ、とアーキッドはいう。彼は裏社会で生きてきた。そこでしか生きられなかったとも言える。そこでは報復や復讐は当たり前。むしろ躊躇えば舐められて潰される。だから今回イスメルがやったことに、彼は何ら罪悪感を覚えていない。むしろ良くやったとさえ思っている。
そうカレンに言ってやることは簡単だろう。良くやった、コレでいいんだ、気に病むな、と。そう言ってやるのは簡単だ。そしてそういい続ければ、たぶんカレンもその価値観に染まっていくだろう。
そういう人間を、アーキッドはこれまで何人も見てきた。いや、むしろ彼こそが引きずり込んできたと言っていい。そのことを後悔しているわけではない。言い訳かもしれないが、彼らもそれを望んでいたはずだ。あの薄汚れた世界で生きていくためには、それが必要だったのだから。
しかしカレンには、それは必要のないものだ。ミラルダにも釘を刺された。「お主の物差しで、あの娘の強さを測ってやるな」と。彼女の言うカレンの強さが一体何なのか、アーキッドには想像もできない。けれどもその強さは、自分にはきっと無いものなのだろうなと思う。諦めてしまったものなのかも、今となってはもう分からない。
だからきっと、今のカレンに必要なのは、その強さを理解してやれる人間の言葉なのだろう。その強さを当然の強さとして認められる。そんな人間の言葉こそが、今のカレンには必要なのだ。
「ま、頼むぜ。婚約者殿?」
そんな内心は一言も言葉にせず、アーキッドはカムイの肩にポンと手を置いた。そして彼はそのままその場を離れる。後に残されたカムイは、しばし呆然として立ち尽くした。
壮絶な体験だ。幼馴染の身に降りかかったことを聞いて、カムイはそう思った。そんな体験をした彼女に、一体どんな言葉をかけてやればいいのだろう。思わず、逃げ出したくなる。
(っ!)
顔が歪む。なんだかもう食欲がない。ああでももしかしたら……。
――――彼女も、そうだったのだろうか。
植物状態の幼馴染を見舞う彼女も、こんな気持ちを抱えていたのだろうか。それでも毎日来てくれたのだろうか。
そんなことを考えたら、もうこんなところでウジウジしている場合じゃなかった。カムイは周囲に視線をめぐらしカレンの姿を探す。けれども近くには見当たらない。カムイは彼女の姿を探して歩き始めた。
カレンがいたのは、暗い海岸線だった。そこに一人、ランプを傍に置いて佇んでいる。懇親会の会場からは離れていて、その喧騒もここまでは届かない。いや届いているのかもしれないが、それよりも暗闇の向こうから響く波の音の方が鮮明だった。
わずかな明かりしかなく、瘴気は暗闇に隠れている。そのせいか、なんだか元の世界の海辺にいるような気分だった。
「よう、こんなところにいたのか」
努めていつも通りの調子で、カムイはカレンに話しかけた。そしてそのまま、彼女の隣に腰を下ろす。カレンはちょっとだけ視線を動かして彼の方を見たが、すぐにまた俯くようにして視線を足元におとした。
「アードさんから聞いた。その、いろいろと」
カムイがそう言うと、カレンは肩をビクリと震わせてから、ますます顔を俯かせた。今にも泣きそうになっているのを隣で察し、カムイは焦った。この反応はまずい。幼馴染である彼には良く分かる。これは、本当に……。
(本当に、落ち込んでいるんだな……)
目の前で人が死んだのだ。それは自分たちにとって、あまりにも重過ぎる。カムイはそう思った。
しかし、ここはそういう世界なのだ。カレンだって頭では分かっていただろう。しかし目の前に突きつけられた今、こんなにも落ち込んでいる。そしてカムイだって、いざ同じようになれば、同じように落ち込むのだろう。テッドのことだって、まだ整理を付けられたわけではないのだから。
(ああもう、本当になんて声かければいいんだよ……)
内心で、焦る。言葉が見つからない。
仕方がなかった? 気にするな? 無事でよかった? あれは相手が悪い?
どんな言葉もなんだか薄っぺらい。仮にカムイがカレンの立場だったとして、そんな言葉で「うん、そうか!」と納得して立ち直れるだろうか。
(無理だ……)
なら、きっとカレンだって立ち直れない。だいたい、そんなこと彼女だって分かっているはずなのだ。分かっていて、それでも落ち込んでしまうのだ。
頭の中がグルグルと回っているようだった。グルグル回りながら落ちていく。だんだん訳が分からなくなって、気がついたらこんな事を口走っていた。
「……なんか、ありがとうな」
「えっ……?」
まさか礼を言われるとは思っていなかったのだろう。カレンは小さく声を上げて、ちょっとだけ俯いていた頭を上げた。そんな彼女と目が合って、カムイは内心でうろたえる。彼自身、自分が何を言っているのか良く分かっていなかった。それでもなぜか、言葉はつっかえることなく口から出てくる。
「ずっと、言おうと思ってた。ありがとう、って」
「えっ、何に……? わたし、お礼を言われるようなことなんて……」
「オレのこと、治そうとしてくれて、ありがとう」
「っ!」
カレンが息を呑む。そんな彼女に、カムイは照れくさそうにしながら、さらに続けてこう言った。
「毎日見舞いに来てくれて、ありがとう」
「……っ! そんな、わたし! そんなことしか、できなかった! わたしの、せいなのに!」
ついにカレンは泣きだした。泣きじゃくる彼女に、カムイはこわごわと手を伸ばす。そしてゆっくり、恐るおそる彼女を引き寄せる。カレンは抵抗しない。カムイはそのまま彼女を抱きしめた。
「そうだとしてもさ、オレは嬉しかったよ。だからさ、ありがとうな、鈴音」
カムイの腕の中、その胸にすがりつくようにして、カレンは泣きじゃくった。もう一体、何が理由で泣いているのか、彼女自身にも良く分からない。分からないが、涙は止めどなく流れ出てくる。
――――それで、いいんだ。
カレンは、そう思った。
― ‡ ―
暗がりの中、小さなランプに照らされるカムイとカレンの姿を、細い浄化樹の影から一人の女性プレイヤーが見つめていた。呉羽である。彼女は二人の背中から目を背け、細い浄化樹の幹に身体を預けると、星の見えない空を見上げて小さくこう呟いた。
「かなわないなぁ……」
呟いてから、「おかしな言葉だな」と呉羽は思った。敵わないのか、それとも叶わないのか。だとしたら何に、いや何が。自分の言葉のはずなのに、その意味が分からない。けれども……。
「かなわないなぁ……。うん、かなわない」
もう一度、そう呟く。
「胸が、痛いよ……」
それだけは、分かった。




