旅立ちの条件10
『お前は本当に見てくれだけの男だな』
二年ぶりに帰ってきた兄は、彼の様子を見てそう言った。兄の顔には、二年前にはなかった大きな傷が刻まれている。その傷は兄の秀麗な顔を台無しにしていたが、しかし同時にそれを越えるある種の凄みが滲む。それが、兄がこの二年で積み重ねてきたものなのだと、彼は嫌でも気付かされた。
彼は勇者と呼ばれる一族の直系だった。決して彼ら自身が、少なくとも開祖となった人物が自ら勇者を称したわけではない。しかし開祖の英雄的行動は多くの人々の命を救い、また希望となった。それで、いつしか人々は開祖を勇者と呼ぶようになったのである。
勇者を名乗らず、しかし勇者と呼ばれる。それは一族の誇りだった。父も兄もそうだったし、また彼も同じである。しかし彼にあるのは、その誇りだけだった。誇りを貫く強さを、彼は持っていなかったのである。
勇者の一族は先天的に強い力を持つ、わけでは決してない。開祖でさえ、自らのことを「凡庸」と書き残している。彼らが持つのは誇りであり、そして気高さである。ただその心のありようだけが、彼らを勇者たらしめているのだ。
ただ、誇りさえあれば困難に立ち向かえるわけではない。困難に立ち向かうには、どうしても現実的な力が必要になる。そして先天的に強い力を持つわけではない彼らがその力をどうやって身に付けるのかと言うと、ただひたすらに厳しい修練を己にかすしかない。全ては誇りのためである。
しかし彼はその修練に耐えることができなかった。
修練とは、誰かに言われてやるものではない。勇者たらんとする者が、己に修練をかすのである。しかし強制されたものではないからこそ、苦しい修練を続けるのは難しい。人間は楽な方へ流される生き物だからだ。そして彼もそうだった。彼は形ばかりの修練を行い、その実その苦しい修練から逃げ、そして逃げることを覚えた。
勇者の道を諦めた者が、今までにいなかったわけではない。むしろ勇者と呼ばれるのは一世代に一人か二人である。あとの者たちは皆どこかで身を引いて、それぞれ別の生き方を選んだ。そしてその時、彼らは一族の名を捨てる。誰かに強制されるわけではない。一つのけじめとして、彼らは自らそれを選ぶのだ。それさえもひとえに誇りのためと言えた。
しかし彼には、名を捨てることもできなかった。
一族の名には、名声がある。さらにこれまで多くの美姫を娶ってきただけあって、一族の特に直系は美形揃いだ。生まれ持った名声と甘い顔立ちは、確かに彼を特別にした。そして特別であることに溺れるのは簡単だった。
前述したとおり、勇者の一族は勇者になることを宿命付けられているわけではない。それはあくまでも個人の選択なのだ。だからこそ、彼が落ちこぼれてしまったことを指摘してくれる人は誰もいなかった。そして彼自身、それを頑として認めようとはしなかった。
『真摯になれ。他の誰でもない、自分と自分の誇りに対して真摯になれ』
修練をサボり、街で女の子を侍らせて遊ぶ彼に、父はそういい続けた。勇者と呼ばれた父は、まだ彼を見放してはいなかったのだ。しかし彼がそれに気付くことはついぞなかった。
『世に己を問いたい』
二年前、そういい残して兄は旅立った。風の便りと共に聞こえてくる兄の活躍は目覚しい。彼はそれを聞くのが、嫌だった。目を閉じ、耳を塞いで、ぬるま湯のなか、彼は特別であり続けた。
『お前は本当に見てくれだけの男だな』
酔っ払い、流行の服をだらしなく着崩した彼を見て、二年ぶりに帰ってきた兄はそう言った。兄を目の前にして、彼は圧倒される。兄はまさに本物の勇者で、その本物を目の前にして彼は自分がいかに矮小であるかを思い知らされたのだ。
さて、兄の隣には一人の少女がいた。美しく、儚げな少女で、兄と将来を誓い合ったと言う。
『一族の名を、捨てようと思う』
少女を父と母に紹介した兄は、穏やかな声でそう言った。そして兄はさらにこう続ける。
『誇りのありかを、見つけたから』
それを聞いた父はただ一言「そうか」とだけ言い、母は微笑みながら涙を流した。兄こそが両親の誇りであることは明らかだった。
彼はこの時初めて、目を背け続けてきた劣等感を直視せざるを得なかった。悔しく、情けなく、彼は這いつくばって涙を流した。
『僕は、勇者だ……! その一族なんだ……!』
血を吐くようにして、その声を搾り出す。その時だった、頭の中にあの声が響いたのは。
そして彼はデスゲームに参加した。プレイヤーネームには開祖の名前を使った。真なる勇者の名前。自分はそんな勇者になれると、いやそんな勇者であると信じて。
― ‡ ―
「はあああぁぁぁぁ、ハァ!」
斜めに振り下ろした剣の刃は、やすやすとモンスターの身体を切り裂く。それを成した男性プレイヤーはブロンドの髪に青い瞳を持ち、まるで物語の中の王子様のように甘く端正な顔立ちをしていた。彼の名前は【Larthur】。勇者の力を持つ、17歳の少年だ。
「ネル! 回収任せたぞ!」
「任せて! ラーサー様!」
名前を呼ばれて、一人の少女が残された魔昌石に駆け寄って手を伸ばす。先ほどラーサーがその名前を呼んだように、彼女は【Nel】という。ピコピコ動く猫耳がトレードマークの猫人族で、年は13歳。栗色の髪と瞳を持ち、人懐っこい顔立ちをしている。彼女が魔昌石を回収している間に、ラーサーは次なる獲物を求めて視線を巡らせた。
「ネルもラーサーも、前に出すぎです! 一旦戻ってください!」
そんな二人を後ろから嗜めるのは、修道服を来た一人の女性プレイヤーだ。髪はくせのないプラチナブロンドで、瞳の色はエメラルド。優しげな容貌をしているが、今はその顔に心配性の姉のような憂いを浮かばせている。
彼女の名前は【Claris】。年の頃は21。とある世界でシスターとして神に仕えていた。その頃からの性分なのか、あるいは最年長者としての責任感ゆえか。彼女は面倒見が良く、そのためすぐにやんちゃをする二人に振り回されっ放しだった。
「大丈夫だ! 僕はこんな連中に負けたりはしない!」
ラーサーは明るい笑顔でそう答えた。それはクラリスも分かっている。ラーサーのユニークスキルは強力だ。その名を【True-Braver】という。「勇者の力を強化する」という能力で、その能力のおかげで彼の戦闘能力は三人の中で突出している。しかしハラハラとしてしまうのは、それとは別問題なのだ。
「ラーサー様! また敵が!」
ネルがそう声を上げる。彼女が指差す先に視線を向けると、五体のモンスターが接近してくるところだった。
「心配するな、僕が倒す!」
「ラーサー、そろそろ【聖域】が限界です」
意気込んで飛び出したラーサーの背中に、クラリスはそう落ち着いた声をかける。それを聞いてラーサーは一瞬だけ不快げな顔をした。彼にはまだ余力があり、ようするにまだ戦い足りないのだろう。クラリスにしても戦いたいのであれば戦わせてあげたいと思う。稼ぎにもなることだし。
とはいえ今の場合、そうも言っていられない。彼ら三人がここで戦えるのは、クラリスのユニークスキル【聖域】のおかげなのだから。
その能力は「一定時間、一定範囲内にいる味方の全能力を底上げする」というもの。この能力により三人は、筋力や敏捷性、魔力はもちろんのこと、瘴気耐性も底上げされている。そのおかげで普通ならば動けなくなってしまうような瘴気濃度の中でも、こうして戦うことができているのだ。
ちなみになぜそんな場所で戦っているのかと言うと、稼ぎの効率がいいからだ。三人のお財布事情はなかなか厳しいのである。
「……分かった。ネル、ジャンプの準備をしてくれ。連中を片付けて魔昌石を回収したら、拠点に戻ろう」
「分かった!」
ネルが元気よく返事をする。その時、彼女の猫耳がピンッと伸びて、その様子が微笑ましい。そしてそうこうしている間に、ラーサーが接敵した。
「吹き飛べ!」
そう叫びながら彼は左手を振るった。すると次の瞬間、金色の嵐が吹き荒れモンスターを滅していく。
この〈レガリス〉と名付けられた金色の嵐は、ラーサーの魔力の奔流である。要するに彼の魔力そのものをモンスターにぶつけているのだ。勇者の力を持つ彼の魔力はモンスターに対して絶大な効力を持っており、なまじ魔法を唱えるよりもよほど効率がいいのだ。また直感的かつ反射的に使えるという利点もある。
「よし、魔昌石を回収した。ネル、頼む!」
「うん、いっくよ~! 【Nel-Jump】!」
次の瞬間、三人の身体が宙に飛び上がる。そしてそのままある方向を目指して空を駆けた。強い向かい風が髪を乱して耳元で鳴る。その滑空はほんの数秒で終わり、次に地面に下りたとき、そこは三人が拠点として使っている洞窟の入り口前だった。
これがネルのユニークスキル【Nel-Jump】だ。その能力は「事前に登録しておいた地点にジャンプする。天井があると頭をぶつけるので注意」というもの。ちなみに後半部分はあまりにおバカなネルを心配したヘルプ院長が、ご親切に書き足してくださった注意書きである。
当初【Nel-Jump】はネル個人にしか効果がなかった。最初に使ったときには彼女一人がジャンプして拠点に戻ってしまい、クラリスとラーサーは唖然としてそれを見送ったのが良い思い出である。ちなみに二人が慌てて後を追うと、一人で戻ってしまったネルは拠点でメソメソ泣いており、それを宥めるのにまた少し苦労した。
今ではこうして三人纏めてジャンプすることができるようになった。帰りがこうして一瞬ですむので、稼ぎの効率は当初に比べて格段に良くなった。
「少し休みましょう」
そう言ってクラリスは洞窟の中に入っていく。そんな彼女を、不意にラーサーが抱きしめた。
「きゃ、ラーサー……」
彼の腕の中でクラリスは恨めしそうな、あるいは呆れたような、もしくは責めるような声で、そう言う。それでも、抵抗もせず大声も出さないのは、もう慣れてしまっているからだ。
「ごめん。でも落ち着くんだ。少し、こうさせて?」
「……はぁ。仕方ありませんね。少しだけですよ?」
甘えるように懇願され、クラリスは彼を許した。そもそも毎回こうで、彼女自身も頬を薄紅色に染めている。もはや許すも何もないと言っていい。自分のその弱さに、彼女はそっと嘆息した。
クラリスはシスターだ。神に仕える身である彼女は、戒律によって異性との過剰な接触を禁じられている。もといた世界であれば、このように男性に抱きすくめられることなど、突き飛ばしてでも許しはしなかっただろう。それが今やあろうことか純潔さえも捧げてしまった。それがラーサーを繋ぎとめるためだと言い訳をして。
クラリスのいた世界は酷く荒廃していた。世界は救済と救世主を欲していたが、それはどこからも与えられることはなかった。彼女はそのことに心を痛め、何もできない自分の無力を憂いていたのである。
そんな時である。クラリスがこのデスゲームへの参加を決意したのは。つまり彼女は自分の世界を救うためにここへ来たのだ。
ゲームの開始地点でラーサーと出会い、彼が勇者であることを知ったとき、クラリスはこれが自分の運命だと思った。彼と一緒にこのデスゲームをクリアし、そして願うのだ。「私の世界を救ってください」と。
そのためには、その時まで彼を繋ぎとめて置かなければならない。だからこそ、それを求められたとき、クラリスは純潔を捧げたのだ。自分の世界を救うためと信じて。その義務感を盾に、自分の心を偽りながら。
「あ~、ズルイ! ネルも、ネルも!」
「いいよ、おいで」
ラーサーに抱きしめられたクラリスを見て、ネルが自分もとねだる。ラーサーはそんな彼女を、片腕を差し出して抱きしめた。ネルは気持ち良さそうに頬ずりし、まるで子猫のように喉を鳴らす。彼女がラーサーと男女の仲になったのはクラリスよりも早かった。そんな彼女の素直さが、クラリスには少しだけ羨ましい。
「ラ、ラーサー!」
ラーサーがクラリスのうなじに顔をうずめる。彼の吐息が熱い。ここから先もいつも通りだ。
他のプレイヤーが近づかない、三人だけの孤立した拠点。動けないことに行き詰まりと焦りを感じているのは事実だ。しかし同時に、そこは幸福な箱庭でもあった。その箱庭に来訪者が現れるのは、この数日後のことである。
― ‡ ―
「ぜひ連れて行ってくれ!」
孤立した三人だけの拠点を訪れた来訪者であるアーキッドら。彼らの話を聞くと、ラーサーは目を輝かせながら海辺の拠点へ行くことに同意した。クラリスにも否やはない。ここにいても行き詰ってしまうことは目に見えているからだ。
(ここでの生活も終わり、ですか……)
それでも、一抹の寂しさが胸をよぎる。クラリスはそれを認めつつ、しかし見てみぬ振りをした。
「それじゃあ、皆さんに【守護紋】をマーキングしますね」
そう言ってカレンと名乗った少女がクラリスらの背中に軽く触れる。特に変わったことは感じないが、これで彼女の傍にいる限り瘴気の影響を受けることはないのだという。これまでさんざん瘴気に苦しめられてきた身としては、にわかに信じ難い話ではある。だがユニークスキルなのだと言われれば納得せざるを得ないし、なにより彼らがここへ来られたことが何よりの証拠だった。
「んじゃ、付いて来てくれ。明るいうちに距離を稼ぎたいからな」
そう言って歩き出したアーキッドに先導され、クラリスたちは移動を開始した。いつもならすぐに高濃度瘴気の影響を受けて気分が悪くなってくるのだが、今はどれだけ歩いても体調に異常はない。マーキングしてもらった【守護紋】のおかげだった。
それから延々と歩き続け、辺りが暗くなったところで、アーキッドが【HOME】を呼び出し、八人は連れ立って屋敷の中へ入った。ネルが「ほえ~」と大きな口を開けてその内装に見惚れる。クラリスもここまで大きくまた綺麗に整えられた屋敷を見るのは初めてだった。
「こっちじゃ」
ミラルダと名乗った妖弧族のプレイヤーに案内され、クラリスらはリビングへと通される。柔らかいソファーに腰掛けると、ほぼ一日歩き通しだったその疲れが一気に噴出してきたようで、どうにも動くに動けない心地だった。
「疲れたか? とりあえずメシにしようぜ」
アーキッドらが用意してくれた夕食を食べながら、クラリスたちは彼らからさらに詳しい話を聞いた。その中で赤ちゃんを妊娠したと言う女性プレイヤーの話が出て、クラリスは思わずドキリとした。下腹部を摩ってしまったのは無意識である。妊娠の兆候は今のところない。ないはずである。
「い~な~。ネルもラーサー様の赤ちゃん産みたいなぁ~」
「ネ、ネル! お、女の子がそんなことを言うものではありませんっ!」
無邪気すぎるネルの言葉にクラリスはさらに動揺し、慌てて彼女を嗜めた。
「だ、そうだぜ、色男?」
「色男は貴方の方だろう。四人も侍らせて」
絡むアーキッドを、ラーサーが軽くあしらう。ただその声に険があるように聞こえたのは、クラリスの聞き間違いだろうか。
「はは、あいにく誰彼構わず手を出してるわけじゃないからなぁ。特にそこのカレンなんて婚約者持ちだ」
「ちょ……。アードさん、今それ関係ないでしょう!?」
「しかもこの前、その彼と劇的な再会をしてだな……」
「止めてくださいってば、アードさん!」
顔を真っ赤にしたカレンが叫ぶ。その様子が微笑ましくて、クラリスたちはクスクスと微笑を漏らした。きっとその婚約者のことが本当に好きなのだろう。そう思いながら。胸に感じるかすかな痛みを無視して。
「それはそうと、さっき話に出た【PrimeLoan】のことなのだが……」
頃合を見計らってラーサーが話題を変える。そのユニークスキルのことはクラリスも気になっていた。借金であることは間違いないのだが、最初の手数料以外は無利子だし催促もない。もちろん必ず返さなければならないが、しかしお財布事情が厳しい彼女らにとってはかなりいい話だ。それで彼らは三人全員が【PrimeLoan】の上限ギリギリまでポイントを借りた。
それから三人はそれぞれ客室に案内されそこで休んだ。使い方を教えてもらってシャワーを浴び、身体を清めてからクラリスはベッドに倒れこむ。久しぶりの柔らかいベッドだ。いや、こんなに柔らかいベッドは初めてかもしれない。この世界に来てからずっと寝袋だったし、元の世界で使っていたベッドはもっと粗末だった。
実際のところはともかく、クラリスにとってこのベッドは高級寝具であると言っていい。しかしそれなのに、なぜだかどこか薄ら寒い。いや寒いのではなく寂しいのだと、彼女は気付いていた。
(きっと、ネルは……)
きっと、ネルはラーサーのところへ忍び込んでいるだろう。クラリスの感覚からすれば、それははしたないことだ。しかし同時にその素直さを眩しくも思う。そしてこう思うのだ。その素直さが自分にもあったら、と。
「いけませんね……。いえ、今更、ですか……」
小さくそう呟き、クラリスは目を閉じる。疲れているはずなのに、どうしてか寝付きは良くなかった。
そして三日目の夜、夕食のときに「明日の昼には山陰の拠点に着くだろう」と地図を見ながらアーキッドが話した。そこで別のプレイヤーが一人待っていて、彼と合流してからもう一組を回収し、そして海辺の拠点を目指すことになる。
「クラリス、後で僕の部屋に来てくれないか。話したいことがあるんだ」
「あ……。は、はい。分かりました」
夕食後にラーサーからそう誘われ、クラリスは少し動揺しながらそれを了解した。もちろんはっきりとは言われなかったが、しかし「もしや」という予感がある。しかし彼女のその予感は、明後日の方向に裏切られることになる。
「実は、海辺の拠点に行くのはやめようと思う」
全員がラーサーの部屋に揃ったところで、彼は唐突にそう宣言した。それを聞いてクラリスは一瞬頭が真っ白になる。そして彼が何を言っているのかようやく理解できると、彼女は身を乗り出してラーサーを問いただした。
「な、何を言っているのです、ラーサー!? あ、貴方だってこの話には賛成していたではありませんか。それが今になってどうして……?」
ラーサーの考えていることが、クラリスには分からない。そして彼の返答を聞いてさらに分からなくなった。
「よくよく考えてみたけど、別の拠点に行ったとしても、そこでまた動けなくなるだけだ。それじゃあ、今とたいして変わらない」
「……それでは、一体どうしようというのです?」
「僕が勇者としてこの世界を救うためには、もっと自由に動き回れる術が必要だと思うんだ」
「アーキッドさんたちと一緒に行く、と言うことですか?」
「う~ん、ちょっと違う。カレンとキキに協力してもらおう」
それを聞いて、クラリスは本当にラーサーの言わんとしていることが分からなくなった。その二人に協力してもらうと言うことは、つまりアーキッドらと一緒に動くという事ではないのか。
「二人とも最初は嫌がるかもしれないけどね。なに、しばらく一緒にいれば分かってくれるさ。これが正しい道だと言うことをね」
何しろ僕は勇者なんだから、とラーサーは嘯く。彼の話を聞き、そして彼が何をしようとしているかを悟って、クラリスは血の気が引いた。要するに彼はカレンとキキの二人を無理やり連れ去ろうと、つまり拉致しようと言っているのだ。
カレンを連れて行くのは、高濃度瘴気の中を移動するため。キキは、ようするに金づるだ。あの【PrimeLoan】というユニークスキルはあまりにも簡単にポイントを稼げる。それを逃す手はない、ということだろう。
つまりは、アーキッドらに成り代わろうというのだ。そしてそのために、彼らの中核であるカレンとキキを攫う。それがラーサーの考えていることだった。
「いけません! そのような非道、神が許すはずが……!」
「どうして? どうしていけないの?」
クラリスは声を荒げたが、しかしネルに問い返され思わず押し黙る。振り返ってみれば、彼女はきょとんとした表情のまま小首をかしげていた。無邪気な子供は時として大人よりも残酷になる。クラリスはそのことを不意に思い出した。
「ラーサー様は正しいって言った。正しいことなのに、どうしていけないの?」
「そうだねぇ、ネル。正しいことなのに、どうしてクラリスは『いけない』なんて言うんだろうねぇ?」
「ラーサー!」
無邪気な顔をしてネルと小首を傾げあうラーサーを、クラリスは思わず怒鳴りつけた。彼がその程度のことに堪えるはずがないと分かっている。しかしそのやり口は、あまりにも卑怯だ。
ネルにとってラーサーは絶対の基準なのだ。彼が白と言えば、例えそれが黒であっても彼女にとっては白になる。依存しているのではない。妄信しているのだ。
元の世界で、ネルはスラムにいた。親の顔は知らない。13歳まで生き残れたことさえ、半分は奇跡と言っていい。盗み、ゴミ漁り、ネズミ捕り。生きるためにあらゆることをやった。勉強をしたことはない。教養はなく、読み書きも計算もできない。そんなことをしていては死んでしまう。そういう場所で、彼女は生きていた。
そんなネルだが、宝物にしていたモノがあった。薄汚れた一冊の絵本である。字が読めないネルでも、絵本ならばその内容は何となく理解できた。「王子様が国を救ってお姫様と結ばれる」というお話で、ネルはそこに描かれた王子様が大好きだった。
自分がお姫様になれるとは思わない。けれどもせめて、せめて王子様の傍にいたい。それがネルの願いだった。そして、その願いをかなえるために彼女はこのデスゲームに参加した。
彼女のその願いは、ある意味ですでに叶ったと言っていい。ラーサーは絵本の中の王子様より王子様然としており、そしてネルはその彼と結ばれた。彼女の幸せは、ある意味でもう完結してしまっている。ネルは、ラーサーさえいれば幸せなのだ。
「ラーサー、やめましょう。それをしてはいけません。勇者たらんとするのなら……!」
必死に説得しようとするクラリスの唇を、ラーサーは自分の唇で塞いだ。そして舌を入れて彼女のそれと絡ませあう。クラリスは砕けそうになる理性をなんとか保ち、彼の身体を押し返した。
「ラーサー! 話を聞いて……!」
「だって、クラリスは僕の話を聞いてくれないじゃないか」
「話を聞かないのはあっ……!」
ラーサーの唇が、クラリスの首筋を這う。同時に身体をまさぐられ、彼女は喘ぎ声を上げそうになるのを必死に堪えた。そして口を閉じてしまった彼女に、もう抗う術は残されていなかった。
「……それじゃあ、決行は山陰の拠点に着いたその時だ。まずはカレンを確保して、次にキキ。二人を確保したら、ジャンプして拠点に戻る。いいね?」
事が終わると、ラーサーは左手でネルを抱き、右手でクラリスの髪を梳きながらそう言った。疲れきったクラリスは、しかしそれでもラーサーに批判的な目を向ける。彼はその目を見てふっと苦笑する。
「そんな眼で見ないで。大丈夫だよ。装備だって新しくしたし、彼らはネルのユニークスキルを知らない。絶対に成功するよ」
クラリスは諦めたようにため息を吐き、それから目を閉じた。それが消極的な同意になると知りながら。案の定、次に聞こえてきたラーサーの声は明るかった。
「ありがとう。好きだよ、クラリス」
こんな時でも好きと言われれば心が弾む。自分の事ながらその単純さにクラリスは嘆息した。耳年増な同僚のシスターが話していた、手のひらで男を転がす悪女にはなれそうもない。そんなことだけは確信せざるを得なかった。
そして次の日、クラリスらは努めて平静を保ちながらその日の行程を歩いた。様子が変だと思われたかもしれないが、深く問い詰められることはなかった。たぶん、昨日の夜のことが原因だと思われたのだろう。それはそれでクラリスにとっては悩ましい。
アーキッドらの予想通り、山陰の拠点にはその日の昼前についた。そしてそこには聞かされていた通り一人のプレイヤーが待っていた。安楽椅子に身体を伸ばし、何かレポートのようなものを読みながら。
「寛いでんなぁ、爺さん」
呆れたように苦笑しながら、アーキッドがそのプレイヤーに近づく。彼は爺さんと呼んでいるが、そのプレイヤーは若い青年だ。少なくとも見た目は。彼の名前はロロイヤだと聞いている。
「ん、やっと来たか、おっさん」
アーキッドらに気付いたロロイヤは、やおら安楽椅子から身体を起こした。そんな彼の周りにアーキッドらが自然と集まる。その彼らの後ろに、ラーサーらは固まった。
ラーサーがネルに目配せして合図する。彼女は無言で頷くと、音も無くカレンの背後に忍び寄った。
これが最後のチャンスだ。クラリスはそう思った。今ここで声を上げれば、何事も無く済ますことができる。ラーサーから嫌われてしまうだろうが、しかし罪を犯さずにすむ。声を上げるべきだ。彼女の信仰と理性はそう訴える。しかしドロドロに溶かされてしまった心はもう、それを受け入れることができなくなっていた。
「動くな!!」
ネルがカレンの首に腕をかけ、さらに逆手に持ったナイフを突きつける。そこから三つのことが同時に起こった。
不穏な声を聞いたアーキッドらが反射的に振り返る。その顔は多かれ少なかれ驚きに彩られていた。
カレンを捕まえたネルが、彼女を引きずるようにして後ろに下がる。訳が分からない様子のカレンはされるがままだ。
そして彼女と入れ違いに、ラーサーが前に出る。カレンに続き、キキを確保するためだ。殺してしまうわけにはいかないので剣は抜かない。代わりに魔力を衝撃波として飛ばす。吹き飛ばしてしまえば、それで動きは封じられる。
しかしそこへ、人影が一つ割り込んだ。アッシュブロンドの髪をなびかせ、手には双剣を持っている。イスメルだ。彼女はまず一振りでラーサーの放った魔力を切り裂いて無力化し、さらにもう一振りで彼の突き出した右腕を根元から斬り飛ばした。
「ギャアアアぁァアアアあ!?」
「ラーサー!」
「ラーサー様!?」
ラーサーが絶叫を上げ、クラリスとネルは悲鳴を上げる。そしてイスメルが持つ剣の切っ先がラーサーに向けられ……。
「っ、ネル!」
「ネ、【Nel-Jump】!」
これ以上はもう無理。クラリスは咄嗟にそう判断し、ネルに声をかけた。彼女はその意図を正確に察し、ユニークスキルを発動する。たちまちラーサーら三人と、ネルが捕まえたカレンの合計四人は空へと飛び上がり、そのまま猛烈な勢いで飛び去った。
静寂の中、イスメルは彼らが飛び去った方向を睨みつける。それからゆっくりと頭を振り、双剣を鞘に戻した。そして背後に庇ったキキへと視線を向ける。
「大丈夫ですか、キキ?」
「う、うん。でも、カレンが……」
少し怯えた表情でキキがそう答える。イスメルがすぐにカレンを助けなかったのは、彼女を庇ったからだ。それが分かるのか、彼女は申し訳無さそうな顔をする。そんな彼女の頭をミラルダが優しくなでた。ちなみに彼女が動かなかったのは、アーキッドを庇っていたからである。
「やられたな……。今までこういう手合いがいなかったわけじゃないが、あのユニークスキルは予想外だった」
嘆息し残されたラーサーの腕を蹴りながら、不機嫌に頭を掻いてアーキッドはそう唸る。そんな彼に応えたイスメルの声は、対照的にどこまでも淡々としていた。
「ラーサーを人質にしようと思ったのですが、逃がしてしまいました」
「あのユニークスキルまでは読めないさ」
肩をすくめながらアーキッドはそう応じる。それから不意に真剣で鋭い目をイスメルに向けた。
「で、後は任せていいか?」
「もちろんです。あの手の能力なら、どこへ行ったのかは大よそ予想が付きます。恐らく彼らが使っていた拠点でしょう。必ず、カレンを助けてきます」
「頼んだぜ」
そう言ってアーキッドが差し出した【瘴気耐性向上薬】をイスメルは一息で飲み干した。そして【ペルセス】を呼び出し、その背に跨る。そして猛然とラーサーらの後を追った。
「……大変だな」
一連の出来事を見物したロロイヤが、顔に笑みを貼り付けながらそう嘯く。そしてまた安楽椅子に身体を伸ばすと、手に持った資料を読み始めた。
「他人事だな、爺さん。カレンが戻らなきゃ、俺たちもここから動くに動けないんだぞ?」
「なに、それはそれで一興さ」
資料から目を離すことなく、喉の奥で笑うようにロロイヤはそう応える。彼は本当にそれでもいいと思っているのだろう。そのことに気付き、アーキッドは嘆息する。彼はそれでいいかもしれない。しかしアーキッドらはそれでは困るのだ。ここでこんな変人とずっと一緒など、御免被る。
「頼んだぜぇ、イスメル」
そう言いつつも、アーキッドはあまり心配していない。なにしろあのイスメルが本気で動いたのだ。普段はただのダメエルフだが、本気になった彼女は理不尽の権化と言っていい化け物だ。
(ま、一時間以内には終わるだろうさ)
そして彼のその予感は、ちょっとだけ外れた。
― ‡ ―
「ぐぅ……! あ、アアァア!」
三日ぶりに戻ってきた拠点の入り口。そこへ着地すると、ラーサーは崩れ落ちた。額に脂汗を浮かべながら、無くなってしまった右腕の付け根を押さえる。大量の血が零れ落ちて、地面をどす黒く染めた。
「ラーサー! 今、治療を! ネル、【エリクサー】を買ってください!」
クラリスは蹲るラーサーに駆け寄ると、彼の傷口に回復魔法をかける。同時にネルに指示を出して【エリクサー】を買わせる。以前にアイテムショップをチェックしておいたからあるはずだ。
「う、うん。でも、ネル、字が……」
そうだった、と思いクラリスは舌打ちするのを何とか堪えた。ネルは字が読めない。そもそも字が読めなければ、【自動翻訳能力】は働かないらしい。いや、働いたとしても意味がないというべきか。
となれば、【エリクサー】はクラリスが買うしかない。しかしそのためには、回復魔法を止める必要があった。回復魔法をかけきってからではダメなのだ。つまりラーサーの傷口を完全に塞いでからでは、【エリクサー】は意味がない。
【エリスサー】はいわゆる完全回復薬だ。身体の欠損さえ回復できる。ただしそれには条件があって、つまり傷と認識されなければ回復できないのだ。
だからクラリスは、今は回復魔法を全力でかけていない。あくまで止血にとどめ、傷口があえて塞がらないようにしている。だから、いま回復魔法を止めると、また血が止めどなく流れ出てくることになる。
迷いは一瞬。クラリスはすぐに覚悟を決めた。
「ネル、傷口を押さえてください!」
「え、で、でも」
「いいから早く! ラーサー、これから魔法を止めます。痛みが強くなりますが、耐えてください」
有無を言わせずネルに指示を出す。そして青白い顔をしたラーサーが頷くのを見てから、クラリスは回復魔法を止めた。その瞬間、彼の傷口からまた血が出てきて、抑えるネルの手を赤く染める。痛みが強くなったのだろう、ラーサーがまたうめき声を上げた。それがクラリスを焦らせる。
しかしここで焦りにのまれてはいけない。そうなると何もかも上手く行かず、余計に時間がかかってしまうことをクラリスは経験として知っている。だからむしろ意識して一つ一つの動作を確実に行っていく。
システムメニューの画面を開き、そこからアイテムショップへ進み、【エリクサー】を検索する。値段は1,000万Pt。かなりの高額だが、【PrimeLoan】で借りておいたポイントのおかげで何とか足りた。恩を仇で返した人たちに助けてもらっているようで、クラリスの心が罪悪感で軋んだ。
「ラーサー、【エリクサー】です!」
購入したばかりの【エリクサー】の小瓶を開け、ラーサーの口元に近づける。そしてゆっくりと彼に飲ませた。その効果は劇的だ。彼の右肩がシャボン玉のエフェクトに包まれ、さらに腕の長さにまで伸びていく。そしてそのエフェクトが消えると、そこには傷一つない綺麗な腕が再生されていた。
「ぐっ、はぁ、はぁ、はぁ……」
腕が再生されても、ラーサーは蹲ったままだった。彼は肩で荒い呼吸をしながら、再生された腕を掴んで何度もさする。まだ痛みが残っているのだろうか。しかしそれ以上に、腕がそこにあることを確かめているようだとクラリスは思った。
「はぁ、はぁ、はぁ……。コノヤロウ……、よくもこの僕に……!」
ようやく呼吸を整えたラーサーがそう言って憎悪の目を向けたのは、突然拉致されて訳が分からず、挙句に大量出血を見たせいで腰を抜かしてしまっているカレンだった。ペタンと座り込んでしまった彼女の頬を、ラーサーは力任せに殴り飛ばした。
「ラーサー!」
さらに暴力を振るおうとするラーサーを、クラリスが後ろから抱き着いて止める。しかし彼の怒りは収まらない。
「放せっ、クラリス! この野郎、ナメた真似しやがって!」
「ラーサー、それよりも今はこの場所を離れましょう!」
クラリスがそう叫ぶと、ラーサーはようやく少しだけ冷静さを取り戻した。【Nel-Jump】で向かった先としてアーキッドらが真っ先に疑うのはまず間違いなくこの場所である。もし彼らが移動に特化したユニークスキルを持っていたら、すでにこちらへ向かっているかもしれない。だからまずはこの場を離れて行き先をくらますべき。クラリスはラーサーをそう説得した。
「……分かった。行くぞ。クラリス、双剣を回収しろ。ネル、ソイツを逃がすな!」
「う、うん!」
怒りが収まらないのか、ラーサーはネルの返事さえ聞き捨てにして歩き出した。そんな彼の背中を見つめ、クラリスは苦しげに頭を振る。それから殴られた頬を押さえるカレンに近づいた。彼女は怯えた目に涙を浮かべている。クラリスは彼女の傍にしゃがみこむと、彼女の手の上からその頬に触れ、そして回復魔法をかけた。
「あ……」
「許してくださいとは言いません。ですが……」
クラリスはそこで口を噤んだ。どんな言葉も今は言い訳にしか、いや言い訳以下の自己満足にしかならない。
「双剣を、お預かりします」
そう言ってクラリスはカレンの腰から剣帯を解き、そこに吊るされた双剣を回収した。それから彼女を立たせてラーサーの後を追う。ナイフを抜いたネルが後ろにいるからなのか、カレンは大人しく従った。
一行は無言のまま進む。その先頭を、ラーサーは肩を怒らせながら歩く。彼がこのような凶行に及んだ理由は、ひとえに彼の劣等感に起因する。ようするに気付いてしまったのだ。大きな拠点に合流すれば、そこには容姿・実力共に自分よりも秀でているプレイヤーがいるかもしれない、ということに。
その点、三人だけでいた時、彼は満たされていた。戦闘力で彼に比肩する者はおらず、その実力と甘い容姿はクラリスとネルの心を容易に溶かした。二人を守る限り、彼は勇者でいられた。そして美しいクラリスと可愛らしいネルの、その二人の心も体も手に入れたとき、彼はようやく兄に勝ったと思うことができた。
しかし環境が変われば、つまり大きな拠点に合流すれば、それは変わってしまうかもしれない。ラーサーより強いプレイヤーがいれば、わざわざ彼に頼る必要はない。ラーサーより容姿の美しいプレイヤーがいたら、二人は目移りしてしまうかもしれない。
それが彼には耐えられなかった。彼は全てにおいて一番でなければならなかった。それが彼の思い描く真の勇者というものなのだ。そのアイデンティティーを脅かす要素を、彼は受け入れることができなかった。
さらにカレンには婚約者がいるという。それを聞いたときに彼の脳裏に浮かんだのは、あの日に紹介された、兄の隣で微笑む義姉の姿だ。兄に決定的に負けたあの日を、彼は思い出した。
そしてあの言葉が甦る。「お前は本当に見てくれだけの男だな」と。
(違う、違う、違う!)
兄の言葉を、彼は必死に打ち消した。彼は真の勇者になったのだ。ユニークスキル【True-Braver】の力によって。その能力は「真なる勇者の力を得る」というもの。だから彼こそが真の勇者、のはずだった。
自分は兄を越えたのだ、と彼は自分に言い聞かせる。力でも、容姿でも、そして女でも。それなのになぜ、今もまだ兄の言葉に悩まされなければならない。まるで呪いのようだ、と彼は思った。
(奪ってやろう……)
彼はそう思った。カレンを奪ってやろう、顔も知らない婚約者とやらから。そしてクラリスやネルと同じように、身も心も手に入れるのだ。その時、婚約者とやらはどんな顔をするだろうか。醜男が絶望する様を想像し、彼は暗い愉悦に浸った。
復讐の代替だった。違う世界にいて手が出せない兄と義姉の代わりに、彼はカレンとその婚約者を標的にしたのだ。さらにカレンを手に入れれば、拠点に合流しなくても自由に動けるようになる。さらにキキも手に入れれば、もう言うことはない。
結果として、拉致できたのはカレンだけだった。とはいえ彼個人にしてみれば上々の結果であるはず。しかし今の彼の心の中にあるのは、泥のような屈辱と重石のような恐怖だけだった。
それを植えつけたのはイスメルだ。無機質で、人を見下し、何もかも見透かしたような、あの眼。彼女の眼は、兄の眼によく似ていた。
斬り飛ばされた右腕。焼け付くような痛みと、流れる鮮血。それは敗北と屈辱の記憶だ。そして同時に、恐怖の記憶でもある。
(くっ……)
再生された右腕を、彼は力任せに掴んだ。右腕は防具に包まれておらず、むき出しだ。【エリクサー】で回復できたのは腕だけで、装備はそこにふくまれないのだ。右腕に装備していた手甲などは、もとの腕と一緒にまだあそこに転がったままだろう。
(なぜだ、なぜ僕の前に現れる。あの眼をしたヤツが! 今更、どうして!?)
ギリッ、と彼の歯が鳴った。認めなくない。負けたことも、そして恐怖におののいていることも。だから、歩く。逃げるために。しかし……。
「そんなに急いで、どこへ行こうというのです?」
「なぜ……、お前がここにいる……!」
慄きつつ、ラーサーは震える声でそう呻いた。その姿を見間違えるはずもない。彼らの前に姿を現したのはイスメルだった。なぜ彼女がここにいるのか。その姿を見ても、ラーサーはまだ信じることができない。幻と言われた方がまだ受け入れやすかった。しかし現実はどこまでも現実である。
「見つけて回り込んだだけです。そう驚くようなことでもないでしょう?」
少し不思議そうにしながら、イスメルはそう応じた。それを聞いて、ラーサーは思わず「ふざけるなっ!」と声を荒げた。
本当に冗談ではない。道があったわけではないのだ。そもそも、先頭を歩いていたラーサーだって明確な目的地があって歩いていたわけではない。言うなれば出鱈目に歩いていたのだ。
本来であれば、見つけることすら、いやそれ以前に追って来ることすら難しいはずなのだ。それなのに追いつかれ、それも後ろから追って来るのではなく、あろうことか回り込んで待ち伏せされた。それを「驚くようなことではない」と言われては、馬鹿にされるどころか「眼中にない」と言われているのと同じだった。
「さて、これが最後のチャンスです。カレンを返しなさい。そうすれば双方ともこれ以上、不愉快な思いをせずに済みます」
イスメルがそう告げる。彼女の表情と声は厳しいが、しかしまだ双剣は鞘に収まったままだ。言われた通りにカレンを返せば、イスメルは何もせずにそのままここを去るだろう。クラリスはそう直感した。
返すべきだ。クラリスに残されたなけなしの良心は、最後の力を振り絞ってそう叫ぶ。しかしその声を、ラーサーの声が押しつぶした。
「断るッ!」
「そうですか……。では、仕方がありませんね」
イスメルがそう言った瞬間、泥のように重くて息苦しい空気がラーサーら三人に圧し掛かった。その空気の中、イスメルがゆっくりと双剣を抜く。それを見て、ラーサーも慌てて剣の柄に手を伸ばした。しかし身体が震えて上手く鞘から抜けない。ようやく引き抜いて両手で構えても、その切っ先は怯えたように震えていた。
「う、動くなっ! ひ、人質がどうなってもいいのか!?」
カレンの首筋にはネルのナイフが当てられている。ネルの顔面はイスメルの剣気にあてられて蒼白だ。しかしだからこそ、この人質が最後の生命線であることを本能的に理解している。その本能が今の彼女を動かしていた。
「カレンを殺したら、自分たちがどんな目に遭うのか、想像できないのですか?」
「殺さなくても、痛めつける方法ならいくらでもあるぞ。耳を切り落とし、鼻をそぎ落とし、目を抉り出してなぁ! そっちこそ、想像できないわけじゃないよな!?」
額に脂汗を浮かべながら、ラーサーが精一杯の虚勢を張る。しかしある意味で、それは最低の悪手だった。
「ふむ。こんなふうに、ですか?」
そう言った瞬間、イスメルの右手が霞んだ。つまり剣を振るったのだが、あまりに速すぎて目に見えないのだ。そして半瞬遅れてラーサーの右耳がボトリと落ちて血が噴出す。斬りおとされたのだ。
ラーサーとイスメルの間には、だいたい十歩ほどの間合いがあった。槍どころか、弓でも使わなければ届かない距離である。しかしイスメルにとってその間合いは問題にならない。なぜなら彼女は斬撃を伸ばす特殊な剣技〈伸閃〉を得意としているからだ。彼女はその剣技でラーサーの右耳を斬りおとしたのだ。
「ぎゃあああぁぁああ!?」
「ラーサー!?」
「ラーサー様!」
ラーサーが悲鳴を上げる。クラリスとネルも声を上げたが、実は三人ともそんなことをしている場合ではなかった。イスメルが動いていたのである。
ラーサーの耳を斬り飛ばしたイスメルは、そのまま一気に前に出ていた。そして一瞬のうちに間合いを詰め、ラーサーの脇をすり抜けてネルに肉薄する。そして彼女が気付くより早く、今度は左手に持った剣を振るった。
「えっ……」
呆けたようなネルの声。その声が早いか、彼女のナイフを持った右の手首がズルリとずれる。斬ったのだ。しかも驚くべきことに、カレンの体には傷一つ付いていない。そしてイスメルは手首を斬られたネルが痛みを感じるより早く、側面に回りこんで彼女を蹴り飛ばす。同時にカレンの身体を右腕で抱きかかえるようにして捕まえ、そのまま後ろに大きく跳んだ。
「【ペルセス】!」
そしてユニークスキルを発動し聖獣【ペルセス】を召喚する。そして空中でその背に跨り、抱きかかえたカレンを自分の前に横乗りにして乗せた。
本当にまばたきの間の出来事である。一秒足らずのその時間で、イスメルは人質になっていたカレンを救出したのだ。しかも彼女には傷一つ付けずに。
「ネル! ラーサー!」
あっという間の出来事の後、クラリスは悲鳴を上げた。そしてまずはネルに駆け寄り、斬り飛ばされた彼女の右手首を回復魔法で繋げる。手首が繋がった後も、痛みが治まらないのかネルは手を抱えるようにして声を上げて泣いた。慰めてあげたかったが、クラリスは次にラーサーの治療をしなければならない。
「早くしろっ!」
ラーサーに怒鳴られ、クラリスは彼のもとに駆け寄った。そして斬りおとされた彼の耳を拾って、やはり回復魔法で繋げる。
クラリスが二人を治療する様子を、カレンは呆然としながら見守った。何が起こっているのか、目の前の事柄が理解できない。ここ数十分の間に色々なことが起こりすぎて、彼女の頭はパンク寸前の状態だった。そんな弟子にイスメルが後ろから声を掛ける。
「カレン、大丈夫ですか?」
「あ……、し、師匠……?」
イスメルの姿を瞳に映し、彼女が今後ろにいて、自分が【ペルセス】に乗せられていることをようやく理解すると、カレンの目に涙が浮かんだ。そしてイスメルにフッと笑いかけられ、その涙は決壊する。カレンはイスメルの胸に縋りついて泣いた。
「ふざけやがってぇぇえええ! このアマがぁぁああああ!?」
カレンの後ろ、つまりイスメルの反対側で罵声が上がる。びっくりしたカレンが振り返ると、ラーサーが立ち上がって剣の切っ先をイスメルとカレンに向けていた。クラリスが制止しようとするが、しかしラーサーは彼女を振り払って突き飛ばした。
「舐めやがって……。殺してやる……! 殺してやるっ!」
ラーサーの眼は憎悪と殺意に燃えていた。ぶつけられた大きな負の感情にカレンは身体を強張らせてイスメルに縋りつく。イスメルは小声で「大丈夫ですよ」と呟いてから、【ペルセス】の馬上で双剣を構えた。
「舐めやがって……。舐めやがって……! 舐めやがってぇぇええええ!」
ラーサーが剣を大きく振りかぶる。その刀身は光を放っていた。そして彼が剣を振り下ろすと同時にその光が放たれる。全てを一刀両断する勇者の刃、〈ブレイブ・セイバー〉だ。しかしその光の刃がイスメルとカレンに届くことはない。イスメルが振るった剣に切り捨てられて霧散した。
「ふざ、けるなぁあああああ!」
怒りに我を忘れたラーサーが【ペルセス】に跨ったイスメル目掛けて突進する。彼が出鱈目に振るう剣を、イスメルは馬上から冷静にさばいていく。途中からネルも加わったが、イスメルはそれも苦にしない。【ペルセス】を巧みに操りながら、彼女は二人の相手をした。
イスメルはわずかな傷を負うこともない。一方でラーサーとネルは完全にイスメルの剣を避けきれない。ただ、傷を負ってもすぐにクラリスが回復した。尤も、そのために彼女は【聖域】を使えない。
(どうして……?)
カレンは【ペルセス】に乗せられているから、ある意味でその戦闘の真っ只中にいる。しかし馬上から落ちないようにイスメルにしがみ付くだけの彼女は、またある意味では戦闘から最も遠いところにいた。
だからなのだろう。彼女は不思議だった。どうしてイスメルが戦っているのか、彼女は不思議だった。
カレンを助けることが目的なら、それを達した以上もう戦う必要はない。【ペルセス】に乗っていることだし、さっさと離脱してしまえばよいのだ。あるいはラーサーらを倒すつもりなら、こうして延々付きあっている理由が分からない。イスメルがそのつもりなら、もう終わっていてしかるべきだ。
ということは、イスメルには何か意図があって、この膠着状態を維持しているのだろう。ではその意図とは一体何なのか。激しさを増す戦闘の中、しばらくそれを考え続けたカレンは、ふとイスメルの視線が時折自分に向けられていることに気付いた。
その瞬間、カレンは気付いた。いや、悟ったと言った方がいいだろう。カレンは悟ったのだ、イスメルの意図を。
――――自分の手でけじめを付けろ、とそう言っているのだ。
その手段が、カレンにはある。ラーサーたちに付けた【守護紋】のマーキングを解除するのだ。ここは高濃度の瘴気のど真ん中だ。【守護紋】の力が無くなれば、その影響をもろに受けてしまう。ただでは済まないだろう。
もちろん、それで彼らが死んでしまうとは限らない。むしろ、何かしらの手段で生き残る公算の方が大きいだろう。
しかし【守護紋】を解除するということは、つまり死んでも構わないということ。明確な殺意を向けるということだ。それは安全で平和な国、日本で生きてきたカレンにとってそれは最大のタブーと言っていい。
カレンはイスメルに縋りついた。「できません」。その言葉が何度も喉にせりあがる。言ってしまえば楽になる。分かっていた。分かっていたが、彼女はそれを堪え続けた。そしてイスメルは、ただ彼女の選択を待った。
「……【守護紋】……、解、除……」
そしてイスメルに縋りついたまま、カレンは搾り出すようにそう言った。復讐ではない。報復でもない。まして子供っぽい仕返しなどでは決して無い。それは覚悟だ。このデスゲームを生き残ると言う、覚悟だ。
「が、ああぁあ!?」
「う、ぐぅぅ……」
「ぎにゃぁ……!?」
【守護紋】が解除されたことで、ラーサーら三人はすぐに高濃度瘴気の影響を受けた。それぞれ途端に顔色を悪くし、口元を抑えて蹲る。そしてその瞬間、イスメルが動いた。
【ペルセス】を走らせ、まず左手の一振りでラーサーを仕留める。そして続けて右手の剣を振るい、五歩ほどの位置にいたネルを〈伸閃〉で斬り捨てた。そしてそのまま右手を大きく振り上げ、最後にやはり離れた位置にいるクラリスを袈裟切りにした。
「あ……」
その声は果して誰のものだったのか。判然としないまま、その声は三人が倒れる音にかき消された。「なぜ殺したのか?」。カレンはそれをイスメルに聞けなかった。答えなど分かりきっているからだ。
(わたしを、人殺しにしないため……)
そして気付く。イスメルは決して人殺しをさせたかったわけではないのだ、と。そんな当たり前のことにようやく気付く自分が、カレンは情けなかった。
「……カ……、レ……」
擦れたその声が耳に届いたとき、カレンは頭を跳ね上げた。クラリスの声だ。間違いない。彼女はまだ、生きている。
カレンは反射的に【ペルセス】から飛び降りた。そして仰向けに倒れるクラリスに駆け寄る。彼女は身体を斜めに大きく切り裂かれていた。間違いなく致命傷である。血が止めどなく流れ、彼女の最期が一秒また一秒と近づいていた。
「泣かないで、ください……」
クラリスにそう言われ、カレンは自分が泣いていることに気付いた。ポタポタと涙を流す彼女を、死に際のクラリスはフッと微笑みこう諭す。
「気にする、必要は、ありません……。これ、は、当然の応報、なのですから」
本当に愚かな自分には相応しい最期だ、とクラリスは思う。彼女は自分の世界を救うためにこの世界に来た。しかしデスゲームをクリアするためには、この世界を再生、つまり救わなければならない。つまり、自分の世界を救うためには、まず別の世界を救わなければならないのだ。
その矛盾に、クラリスは早いうちから気付いていた。いや、これが矛盾なのかは分からない。しかし彼女の内なる声はいつだってこう言っていたのだ。「まずは自分の世界を救うべきではないのか」と。
ラーサーを勇者と仰ぎ、彼に望みを置くことで、クラリスはその声を聞き捨てにした。後悔と葛藤から目を背け、ラーサーを救世主に仕立てることで、彼女は自分の選択こそが正しいのだと言い続けてきたのである。他でもない、自分自身に。
その末路が、コレだ。
最初から気付いていた。ラーサーの子供っぽい自己顕示欲と抱え込んだ劣等感に。彼が勇者と呼ばれるほど立派な人間ではないことに、クラリスはちゃんと気付いていた。気付いていて、それでも拒否することも離れることもできなかった。
惚れた弱みである。自分が傍にいてあげなければと思わせる年下の彼に、クラリスは相当ほれ込んでいたらしい。自分が救いたかったのは世界ではなく彼なのではないだろうか。今となってはそんな気さえする。
建前を貫けるほど高潔にはなれず、されど建前を捨てられるほど素直にもなれない。どちらも選べず、結局どちらも失った。本当に、愚かしい。そう思う。
「……腰の、ポーチに、あなたの、双、剣が、入っています……」
カレンにそう告げる。彼女は泣きながら何度も首を縦に振った。そしてカレンはクラリスの手を取ると、その手を両手で握りながらこう言った。
「ほっぺ、治してくれて、ありがとうございました……」
それを聞いて、クラリスは胸に温かいものが満ちるのを感じた。アレは彼女の自己満足だった。それをこんなにも喜んでくれるなんて。
ああ、自分は何て浅ましい女なのだろう。救うべき世界に背を向け、道を外れ、罪を犯し、それでも最期にこんなにも満ち足りた気持ちで死のうとは。本当に、何て……。
「…………」
クラリスの手から、力が失われる。カレンは乱暴に涙を拭うと、彼女の目蓋を閉じてその手を胸の上で組ませた。それから彼女が言っていた通りに、腰のポーチから自分の双剣を吊るした剣帯を回収する。カレンは立ち上がると、それを自分の腰に巻いた。
「あの、師匠。埋葬してあげて、いいですか……?」
「……分かりました。手伝いましょう」
それからカレンはイスメルに手伝ってもらって、三人を埋葬した。備えるお花はない。買ってもいいが、すぐに瘴気にやられて枯れてしまうだろう。それで大き目の石を探してきて、それを墓石の代わりにした。
埋葬が終わっても、カレンはなかなかその場を動こうとしなかった。イスメルはそんな彼女を後ろからただ静かに見守った。
― ‡ ―
アーキッドがそのメールを受信したのは、イスメルがカレンの救出に向かってから、一時間と少しが経過した時のことだった。
〈From:【Ismel】〉
〈終わりました。カレンも無事です。もう少し落ちついてから戻ります〉
〈To:【Ismel】〉
〈了解した。ゆっくりして来ていいぞ。どうせ出発は明日だ〉
今回はここまでです。
そして年内の投稿もコレが最後になると思います。
また来年宜しくお願いします。




