再会の遺跡10
「お、おお! おおお! おおおおお!!」
青々と葉を茂らせる浄化樹が二十本。その様子を目の当りにして、イスメルは感極まって声を上げた。残像が残るようなスピードで突進し、それから恐るおそるといったふうにその葉っぱに触れる。緑の、植物の感触だ。それを確かめると、彼女はとうとう浄化樹の幹に抱きついた。まるで離ればなれになっていた恋人と再会したかのように。
……そこで終わっておけばそれなりに感動的であったろう。だがイスメルのイスメルたる由縁は、そこで終わらないことだ。「うへへ」とだらしない顔をしながら樹の幹に頬擦りする彼女の様は、どこからどう見てもただの駄目エルフである。この姿を見て彼女が凄腕の剣士であることを信じるものはいないだろう。
「彼女、外からのお客さんでしょう? どうしたの、アレ?」
その当然の疑問を発したのは、これらの浄化樹を育てているガーベラだった。彼女に疲れ果てた様子で事情を説明するのは、イスメルの弟子であるカレンだ。曰く「プラントロスなんです。生暖かく見守ってあげてください」。
「それは大変ねぇ。エルフってみんなそうなの?」
「いいえ違います」
全エルフの名誉のためにそう即答したのは人間のカレンである。実際、別の拠点で出会ったエルフの方はまともだった。というより、エルフが種族的にああだなんてちょっと勘弁して欲しい。
「ああもう、ほら師匠、行きますよ。これから呉羽さんと稽古をするんじゃないんですか!?」
「稽古をするのはあなたですし、私はここにいても……」
「師匠がセッティングしたんじゃないですか!? ほら、行きますよ!」
「イ~ヤ~だ~!?」
カレンはイスメルの首根っこを引っ掴み、強引に浄化樹から引き剥がした。わりと簡単に引き剥がせたが、それはイスメルが自分で力を緩めたからだ。あまりつよくしがみ付くと樹の幹が折れてしまいそうで怖かったのである。
浄化樹から引き剥がしたイスメルを引き摺りながら、カレンはズンズンッと歩いた。目指すのは拠点の外れの、何もない荒野だ。呉羽と稽古をするにはちょうどいい。
「あの二人はいつもああ、なのですか?」
若干引き気味になりながらそう尋ねたのは呉羽だ。彼女は昨日の〈侵攻〉で二人の、特にイスメルの戦いぶりを見ている。それで彼女が凄腕の剣士であることを呉羽は十分に察していた。察していたのだが、その確信がちょっと揺らぎそうである。カレンと稽古をした後に、できればイスメルとも稽古をしてみたいと思っていたのに。
「そうじゃな。おおむねいつもあんな感じじゃ」
「飽きない。ここ重要」
ミラルダとキキがそう答えた。それを聞いた呉羽は「そう、ですか」と呟いて、少し失望したような顔をする。だがすぐに気を取り直して表情を引き締めた。普段がだらしなくても、それは剣の腕とは関係ない、と思いたい。いや願いたい。
さて拠点から程よく離れたところで、呉羽とカレンは向かい合う。二人のすぐ近くには審判役のイスメルが立っていて、さらにカムイ、ミラルダ、キキ、リムの四人が彼らを遠巻きに見守った。
アーキッドとアストールの二人は、この場にはいない。彼らは今、〈世界再生委員会〉のテントで、ロナンやデリウスらを相手に話し合いを行っている。主な内容は遺跡の調査報告と、拠点の外の事柄であろう。参加してもなんだか眠くなりそうだったので、カムイはこうして稽古の見学に来たというわけだ。
(女ばっかでちょっと肩身が……)
少々の誤算はあったものの、それはそれとして。相対する呉羽とカレンの間には、程よい緊張感が漂っている。双方とも手にしている獲物は木刀だ。呉羽は普通のサイズの長刀で、カレンは小太刀に似た二刀を持っている。ちなみに呉羽の愛刀【草薙剣/天叢雲剣】はカムイが、カレンの双剣はミラルダがそれぞれ剣帯ごと預かっていた。
「木刀を使ってはいますが、二人とも大怪我などしないように。危ないと思ったら私が止めます」
イスメルが稽古を始める前に幾つかの注意点を述べる。その姿には凛然とした女剣士の風格が漂う。さっきまでだらしない顔で浄化樹に頬擦りしていたのと同じ人物だとはとても信じられない。豹変と言っていいレベルだ。はたから見ているカムイは、いっそ感心さえした。
「では構えて……、始め!」
始めの合図をしてから、イスメルは邪魔にならないよう数歩下がる。そして視線を鋭くしつつも、どこか優しげな雰囲気を漂わせて、二人の稽古を見守った。
呉羽とカレンの稽古は、探り合いから始まった。いや、カレンが一方的に探っているというべきか。彼女は双剣を構えて少しずつ移動し、攻め込む取っ掛かりを探す。その姿はなかなか様になっているようにカムイは感じた。
他方の呉羽は、完全に受けに回る姿勢だ。移動するカレンに合わせて少しずつ身体の向きを変え、常に相手を正面に見据える。彼女は落ち着き払って隙を見せず、そのためカレンはなかなか攻め込めない。
「どうしました、カレン? 胸を借りるつもりで行きなさい」
イスメルの声が響く。その師の声にカレンは赤面する思いだった。勝てないことなど、最初から分かっている。今は挑むことにこそ意味があるのだ。
「……はい、行きます!」
そう叫ぶと同時に、カレンは一気に前に出た。その踏み込みは、なかなか鋭い。だが呉葉がいつも稽古しているカムイと比べると、速度もそうだがなにより迫力と暴気に欠けている。それで呉羽はいたって冷静に対処した。
左上方からの攻撃を、呉羽は下からすくい上げるようにして弾く。さらに右下方からの攻撃を、上から叩くようにして防ぎ、そこから手首を返してカレンの胸元を狙う。その逆襲をカレンは右手の木刀で辛くも防いだ。そしてその反動を利用して身体を回転させつつ、横に逃れて間合いを取る。
(やっぱり強い……!)
こうして打ち合ってみて、カレンはそれをしみじみ感じ取った。しかし強いからこそ、挑まなければならない。そうでなければ、何のために剣を持ってイスメルに弟子入りしたのか、分からなくなる。
(でも、どう攻めれば……)
すぐに思いつく大きな違いは、カレンが二刀流で呉羽が一刀流であることだ。単純に考えて、得物の数は二倍。
(手数で押す!)
それが順当なところだろう。迷いを振り払ってカレンは前に出る。そして左右の双剣を縦横無尽に振り回して呉羽を攻めた。
カンカンカンッという、小気味いい乾いた音が響く。呉羽には一本しか得物がないが、しかし押し込まれることなくカレンの連続攻撃を凌いでいた。それは手数の差を技量で補っているからに他ならない。
(へぇ……)
打ち合いを演じる呉羽の姿に、カムイは少し意外なものを感じた。カムイ自身がそう言ったように、呉羽のスタイルは回避主体である。少なくとも彼と稽古するときはそうだったし、モンスターと戦うときもそうだったように思う。そもそも彼女の教えからして、「受けるな、避けろ」である。とすれば、今の戦い方はそのポリシーに反する。
(カレンに付き合ってる、ってことか?)
たぶんそういうことなのだろう。カムイはそう思った。そして彼がそう思った次の瞬間、唐突に呉羽が動き方を変える。
「くっ……!」
カレンの木刀が空を切る。呉羽がかわしたのだ。そしてそれを皮切りに、次々とカレンの攻撃が空を切り始めた。ものの十数秒のうちに呉羽はほとんど木刀を使わなくなり、カレンの攻撃のおよそ九割がただ虚しく空振りする。攻撃が当らなくなったカレンは苦しそうな顔をするが、一方の呉羽は涼しい顔のままだ。
すいすいと呉羽はカレンの攻撃をかわす。一分ほどもかわし続けただろうか。一瞬だけ呉羽がイスメルのほうに目配せする。彼女が少し頷いたのを見て、呉羽は回避の合間に少しずつ攻撃を挟み始めた。
鋭く振るわれた木刀を、カレンはかろうじて避ける。返す刃を片手の木刀で受け、さらにもう片手の木刀を突き出す。しかし呉羽はそれを体を捻って避け、木刀を跳ね上げてそのまま大上段から振り下ろした。その強烈な一撃を、カレンは双剣を交差させて受け止める。
「ぐぅ……!」
重い一撃に、カレンは思わずうめき声を漏らす。呉羽はそのまま押しつぶさんと上から圧力を掛け、彼女は脚を踏ん張って何とかそれに抗する。拮抗は数秒。長期戦の不利を悟ったカレンは、曲げた膝を伸ばすと同時に両の木刀を左右に振り払い、なんとか呉羽の木刀を押し返して間合いを取った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩で息をするカレン。呉羽はそんな彼女を正面に見据えて木刀を隙なく構える。そのまま呉羽はチラリとイスメルのほうに視線を向けるが、彼女はまだ稽古を止めない。それを見て、呉羽は視線を戻すと今度は彼女の方から前に出た。
「……っ!?」
初手は突き。顎先目掛けて突き出された木刀の切っ先を、カレンは何とか打ち払う。しかし呉羽の攻撃は止まらない。彼女はまるで双剣使いの十八番を奪うような連続攻撃でカレンを攻め立てた。
(速い……!)
カレンは瞠目する。相手は一刀であるはずなのに、その攻撃は二刀で振り払わなければ間に合わない。カレンはその理由が速いからであると思ったが、実はそれ以上に攻撃が的確であるからだった。さらに巧みに緩急が付けられていて、カレンからしてみればペースがつかみづらい。
さらに打ち合いを続けるうちに、カレンはあることに気付く。
(攻撃が、届かない……!)
カレンがどれだけ双剣を振るっても、その切っ先が呉羽に届くことはない。彼女がかわしているのではない。単純に距離が遠いのだ。
要するに間合いの差である。呉羽の方がカレンよりも間合いが広いのだ。その差は単純に得物の差から生まれる。だがその差を利用し、一方的に攻撃できる距離を保ち続けているのは、間違いなく呉羽の技量によるものだった。
カレンは一刀流と二刀流の勝手の差を、まざまざと見せ付けられたと言っていい。そしてその意味において、呉羽はイスメルが意図したとおりの働きを見せた。そのためなのだろう。二人の稽古を見守る彼女の口元には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
やがて呉羽の木刀がカレンの首筋にピタリと添えられる。カレンは身体を強張らせ、「参りました」と口にした。それを聞いてから、呉羽も木刀を引く。そしてようやく、カレンは息を吐いて力を抜いた。
「……そこまででいいでしょう。クレハさんもありがとうございました」
二人の距離が開いたところで、イスメルが二人にそう声を掛ける。彼女がそう言ったことで、二人の稽古はこれで終わりと言うことになった。二人は最後に向かい合い、日本人らしく綺麗に一礼する。
「やっぱり強いなぁ、呉羽さんは。ぜんぜん歯が立たなかった」
稽古が終わると、カレンはそう言って清々しい笑みを見せた。悔しさは感じているようだが、もともと勝てるとは思っていなかったので、それが後ろ暗い嫉妬に結びつくことはない。それで彼女の言葉は純粋で、呉羽も笑顔を見せながらこう応じた。
「カレンさんが剣を習い始めたのは、そのデスゲームが始まってからなのだろう? それなら十分すぎる腕前だと思うよ。……あと、わたしのことは呼び捨てにしてくれ。カムイから聞いたが、同い年らしいしな」
「あ、じゃあわたしのこともカレンって呼んで」
呉羽は「分かった」と言って一つ頷く。稽古を終え、女子二人はずいぶん仲良くなったようだ。そんな二人の下へイスメルが近づく。
「二人とも、とても良い稽古でしたよ。クレハさんもありがとうございました」
「いえ。わたしも双剣士と立ち合うのは初めてだったので。いい経験になりました」
呉羽の言葉を聞いてイスメルが微笑む。
「それは何よりです。カレンはどうでしたか?」
「間合いの差がこんなにも大きいとは、思っても見ませんでした。勉強になりました」
まさにそれこそがこの稽古の狙いだったのだろう。イスメルは嬉しそうに笑みを浮かべて何度も頷いた。
「ではこれで……」
終わりにしましょう、とイスメルが言う前に呉羽が声を上げた。
「あの、イスメルさん!」
「なんでしょうか、クレハさん?」
「もしよろしければ、一手御教授願えないでしょうか!?」
それを聞いて、カムイは驚くよりも「ああ、やっぱりな」と思った。呉羽がイスメルに稽古を申し込むと確信していたわけではまったくないが、しかしこうなってみると確かにこの方が彼女らしい気がする。
「……ふむ、まあいいでしょう。構いませんよ」
イスメルは少しだけ逡巡してからそう答えた。それを聞いて呉羽は顔を輝かせる。そして勢いよく頭を下げると、「ありがとうございます!」と礼を言った。
「それで、木刀でやりますか? それとも真剣でやりますか?」
「真剣……、でもいいのですか?」
呉羽の声がわずかに緊張する。カムイと稽古するときはいつも真剣を使っているはずなのだが、それを信頼の現われと受け取るべきなのか、彼は一瞬本気で悩んだ。ただ、まあそれはそれとして。
「ええ。構いませんよ」
呉羽に答えるイスメルの声は、穏やかでいつも通りだ。それがまるで余裕の現われのように見えて、呉羽はちょっとだけ自尊心を刺激された。
「分かりました。では、真剣でお願いします」
呉羽はそう言うと、一礼してからカムイのもとへ駆け寄る。彼に預けていた愛刀【草薙剣/天叢雲剣】を受け取るためだ。受け取った剣帯を【青龍の外套】の上から腰に巻く呉羽に、カムイはポツリとこう問い掛けた。
「大丈夫なのか?」
「それはわたしが、と言う意味か?」
「……どっちも、かな」
苦笑気味にカムイはそう答える。腰に巻いた剣帯とそこに吊るした愛刀の具合を確かめてから、呉羽は彼にこう言った。
「イスメルさんはかなりの腕だよ。わたしだって、それなりに自信がある。素人みたいな事故は起こらないさ」
「ならいいんだけどな」
さて、カムイと呉羽がそんな会話をしていたころ、イスメルもまたミラルダと話をしていた。
「ミラルダ、念のため【上級ポーション】の準備しておいてください」
「手持ちに二本ある。これで十分じゃろう」
ミラルダが取り出した二つの小瓶を見て、イスメルは一つ頷いた。そんな彼女にキキがこう尋ねる。ミラルダの尻尾に頬擦りしながら。
「ケガ、させる?」
「……ケガをするのはわたしのほうかも知れません」
イスメルは苦笑しながらそう答えた。それを聞いてミラルダとキキは揃って肩をすくめる。「それだけはない」と二人の表情は雄弁に語っていた。
それぞれ準備を整えてから、呉羽とイスメルは向かい合った。二人とも、手にはすでに得物を持っている。呉羽は愛刀を両手に持って正面に構え、イスメルは双剣を左右の手に持って腕を伸ばし、その切っ先を地面に向けて構えた。
「カレン、合図を」
「え!? あ、は、はい。じゃ、じゃあ……、始め!」
呉羽とイスメルの立ち合いも、まずは静かな探り合いから始まった。先ほどと違いがあるとすれば、それは呉羽の方が探りを入れている点か。彼女は稽古が始まった瞬間から、いや双剣を手に持った瞬間から、イスメルの気配が変わったことを敏感に感じ取っていた。
(やっぱり……、強い……)
呉羽は生唾を飲み込む。うなじとこめかみがピリピリとした。イスメルは強い。おそらくは今までに出会ったどのプレイヤーよりも。恐怖と歓喜が、彼女のなかに湧き起こった。
「……ふむ。では、初手はこちらからいきましょうか」
呉羽がなかなか動かないのを見て、イスメルがそう言った。そしてその言葉に反応した呉羽が警戒を高めたのを見て取ってから、彼女は動いた。
イスメルはスッと前に出る。そのスピードは決して速くはない。しかし非常に滑らかだ。その動きに呉羽は一瞬見惚れる。それに気付いたイスメルは、ほんの少しだけ口の端に苦笑を浮かべた。
ヒュン、と風切り音を立てて白刃は振るわれる。イスメルの双剣ではない。呉羽の【草薙剣/天叢雲剣】だ。カレンの場合と同じく、間合いの差を利用して相手を一方的に攻撃しようという胆だった。
しかしこの場合、相手が悪い。イスメルは呉羽の振るった白刃を簡単に避けると、そのままあっさりと歩を進め、そして彼女を双剣の間合いに入れてしまう。それを見て、呉羽は思わず目を見開いた。
イスメルの動きは、あまりにも自然で無理がない。はたから見ていると、誰にでも出来そうに思えてしまう。それくらい、特別な動きというものがない。だがそれが簡単であろうはずがないことは、先ほどのカレンとの稽古を見ていれば容易に想像がつく。つまり特別に見えないと言うことそのものが、イスメルの高い技量を証明しているのだろう。カムイはそう思った。
同じことを、呉羽はより強く感じ取っていた。まるで背筋に氷刃を差し込まれたかのように、全身に鳥肌が立つ。ほとんど何も出来ずに、間合いを詰められてしまった。
(でも……!)
しかしそれで勝負が決するわけではない。呉羽はすぐさま二の太刀を振るった。斜めに掬い上げるその斬撃を、イスメルはまたしてもいとも簡単にかわして見せる。そして次の瞬間、二人の視線が交錯した。
「っ!」
偶然ではない。呉羽は瞬時にそれを理解した。イスメルがタイミングを見計らって視線を合わせたのだ。何のために? その答えはすぐに出た。
『いきますよ?』
その幻聴は、つまり呉羽の直感である。しかしイスメルの目は確かにそう語っていた。そしてそれが正しかったことがすぐに明らかになる。
イスメルが双剣を振るう。その速度と激しさは、先ほど見たカレンのそれと同じ程度だ。呉羽にしてみれば、ついていけないことはない。実際、その双剣をかいくぐりつつ、彼女自身もまた愛刀を振るう。そしてそれをイスメルもまた回避する。双方が双方の攻撃を受けずに回避するものだから、二人の立ち合いは見た目の激しさに反して静かなものになった。
「二人とも、すごい……」
呉羽とイスメルの稽古を食い入るように見つめながら、カレンは小さくそう呟いた。自分なんかとは、レベルが違いすぎる。二人の躍動的な動きを見ながら、彼女はそう思った。あまりにも差がありすぎて、嫉妬するどころか悔しさもわいてこない。彼女はただ、憧憬の眼差しで二人の立会いに見入った。
(本当に、強い……!)
さて立ち合いのなか、不利な状況にあったのは呉羽の方だ。彼女はなんとか自分に有利な間合いを取ろうとしているのだが、イスメルがそれをさせてくれない。ただ動きづらいわけではないし、また圧倒的に不利と言うわけでもない。イスメルの方が技量が上であることは認めなければならないが、しかし十分についていくことが出来ている。
(動きも見えている……! この機会に盗めるものは盗ませてもらって……)
呉羽がそんなことを考えたその矢先、イスメルがふっと口元に笑みを浮かべた。その笑みを見た瞬間、彼女の背中に悪寒が走る。そしてまるでそれを見抜いたようなに、イスメルの振るう片方の刃が呉羽の首筋を狙った。速さはこれまでと変わらない。しかしこれまでにないタイミングだ。
「っ!」
避けられない。呉羽はそれを直感した。身体が動かないのだ。そういうタイミングを狙われてしまった。しかしだからと言って、このまま刃を受ける気などない。
キィン、と甲高い金属音がなった。呉羽の刃とイスメルの刃がかみ合ったのだ。この立ち合いが始まってから初めてのことだ。刃を合わせた二人は、一瞬だけ動きを止める。そして次の瞬間から、また激しく動き始めた。
「くっ……!」
しかしその様子は先ほどまでとはずいぶん違った。呉羽がイスメルの攻撃をかわせない。いくつかはかわしているのだが、それ以上の攻撃をかわしきれずに【草薙剣/天叢雲剣】で受け止める。
「やあぁ!」
呉羽もやられてばかりではない。間隙を縫って攻撃を繰り出す。ただいかにも苦し紛れで、そんな攻撃がイスメルに通用するはずもない。すべて簡単に回避されてしまう。それどころか鋭い反撃を受けてさらに守勢に押し込まれる。悪循環だった。
たまらず、呉羽は後ろへ下がって距離を取った。イスメルはそれを追わない。悠然と見送り、さらに肩で息をする呉羽が呼吸を整えるのを待った。そして彼女がまた愛刀を正面に構えるのを見てからこう言った。
「まだ全力ではないのでしょう? 遠慮はいりませんよ」
「そういう……!」
そういうイスメルこそ、全力を出していないではないか。呉羽はそう言いそうになって、しかし悔しげに口をつぐんだ。確かに呉羽はまだ全力を出してはいなかったが、しかし使っている得物はユニークスキルの【草薙剣/天叢雲剣】だ。その力は、確かに彼女に及んでいる。要するに、彼女はちゃんとユニークスキルを使っている状態なのだ。
一方イスメルはユニークスキルの【ペルセス】をまだ召喚していない。彼女はまだユニークスキルを何も使っていないのだ。彼女の使う双剣は業物に違いなく、何か特殊な能力を持っているのかもしれないが、しかし今のところそれを使う様子もない。
それなのに、呉羽はもう手も足もでないような状況に追い込まれている。二人の間には、確かに大きな実力差があるのだ。そんな中で相手の出し惜しみを指摘するというのは、まさに不毛でしかない。それがイヤならば、実力を持って相手の全力を引き出すしかないのだ。呉羽はそう思い切ると愛刀の柄を握り直し、強い視線をイスメルに向けた。
「……分かりました。全力でいかせてもらいます」
「どうぞ」
そう応じるイスメルは、緊張した様子もなく自然体だ。呉羽はその風格にのまれそうになり、しかしそれを振り払うようにして愛刀【草薙剣/天叢雲剣】を大きく一振りする。
「〈風切り〉!」
放たれた風の刃が、イスメルに襲い掛かる。しかし彼女はその風の刃を、左手に持った剣を一振りして切り払う。
それ見て呉羽は思わず顔をしかめた。通用するとは最初から思っていない。だがアレは実体を持たない風の刃。回避するより切り払う方がよほど難しい。風の刃を構成している力に、それも一瞬で干渉する必要があるからだ。それを、ああも容易くやられてしまった。まるで「こんなものを全力とは認めない」と、そう言われている気分だ。
(なら……!)
呉羽は四肢に力を込める。そして【草薙剣/天叢雲剣】と【玄武の具足】の力を併用し、一気に前に出て彼我の間合いを潰す。その動きは、カレンの目にはまるで消えたようにさえ見えた。
カレンのみならず、並大抵の者が初見でこの動きに対処するのは難しい。しかし幸か不幸か、イスメルは並大抵の範疇には収まらない。彼女は呉羽のこの急加速に、わずかに目を見開いて驚きを示しはしたものの、しかし相手を見失うようなことはなかった。
ほう、とイスメルの口が動くのを呉羽は見た。見切られている。それを悟りながらも、しかし彼女に止まるという選択肢はない。彼女は速度を落さず、愛刀の切っ先を真っ直ぐに突き出した。狙うのはかわしにくい身体の中心、みぞおちだ。
呉羽の突きは神速である。それはイスメルも認めた。しかしその程度、彼女はもう見慣れてしまっている。それで焦ることもなく片方の剣を【草薙剣/天叢雲剣】の腹に沿わせ、さらにそっと外側へその軌道をずらす。たったそれだけで、呉羽の突きは的を外されてしまった。まさに神業である。
「え……!?」
呉羽は思わず声を出した。何をされたのか、理解できない。いや、理解はできるが納得できない。いささかの抵抗も感じず、またわずかな抵抗も出来ず、攻撃をいなされてしまった。そのことに頭よりも心がついていかない。だが呆けている暇もなかった。
『いきますよ?』
イスメルの強い視線に射すくめられ、呉羽はその声を確かに聞いた。そして次の瞬間、イスメルのもう片方の剣が振るわれる。呉羽はそれを大きく体を横にそらしながらかわした。そのせいで彼女は体勢を大きく崩したが、しかしイスメルはその隙に付け込まない。
『さあ、来なさい』
イスメルの口元に浮かぶ笑みが、呉羽にはそう言っているように思われた。彼女は強引に脚を踏ん張り、同時に受け流された愛刀を引き戻して体勢を立て直す。そしてそのまま彼女はまた愛刀を振るった
最初の一振りは大雑把で乱雑だ。イスメルはあっさりとそれをかわす。しかしその一振りの間に、呉羽は万全の体勢に戻っていた。
「おおおおお!」
呉羽が吼える。それに呼応するかのように、彼女の周りでは風が吹き始めた。【青龍の外套】の力である。彼女はユニークスキルと装備の力を最大限に使い、縦横無尽に動いてイスメルを攻め立てた。
右と見せて左。かと思えば今度は後ろ。呉羽は苛烈に攻め立てた。さらに彼女は〈風刃円舞〉を用い、愛刀を一振りする間に複数の風の刃を散らす。こちらは制御できているとはいい難いが、しかしだからこそ読みにくい。決定打にはならないとしても面倒くさい攻撃、のはずだった。
しかしそれらの攻撃を、イスメルはその場からほとんど動くことなく、淡々と処理していく。呉羽は神速で縦横無尽に動くが、イスメルは円を描くように身体の向きを変えつつ、常に正面から相対する。斬撃は受け流すか回避してまともには切り合わず、風の刃は体に当るものだけ切り払った。
攻めているはずの彼女は、しかし心理的に押され始めていた。何をやっても通じない。どんな技を繰り出しても、まるで子猫がじゃれ付いているかのように容易く受け流されてしまう。そこへ、止めとなる一言が投げかけられる。
「差し出がましいとは思いますが、一つ助言を。動きは速ければ良いというものではありません。現に、雑になっていますよ?」
「っ!?」
イスメルの言葉が耳に届いた瞬間、呉羽は反射的に距離を取った。それは仕切りなおしのつもりだったが、しかし内心の焦燥が顔に出て隠しきれていない。要するに、彼女は臆してしまったのだ。
そこへ、さらにイスメルの追撃がくる。心理的なものではなく、物理的なものだ。
「上手く受けなさい」
そう言ってイスメルはことさら大きく右手の剣を振りかぶる。それを見て、呉羽は反射的に愛刀を構えた。それを確認してから、イスメルは剣を振り下ろす。次の瞬間、呉羽の手に重い衝撃が加わった。
この剣技の名を〈伸閃〉という。単純ではあるが少々特殊な技で、斬撃を飛ばすのではなく伸ばす、という技だった。イスメルが得意とする剣技で、というか彼女が使う特殊な剣技はこれ一つのみであると言っていい。
そのような細々とした事情を、呉羽が知る由もない。彼女に分かったのは、イスメルにもまた遠距離からの攻撃手段がある、ということだ。そしてその同じ点を、イスメル当人が指摘する。
「距離を取れば攻撃から逃れられる、などとは考えないことです。間合いは重要ですが、それゆえにこそ多くの者が対策を考えるもの。〈風切り〉、といいましたか。貴女にその手段があるように、敵にも似たような手段がある。それを常に頭に置きなさい」
だれか他のプレイヤーがこれを口にしていたら、きっと嫌味に聞こえたことだろう。しかし今しがた呉羽の苛烈な攻撃を容易く捌いて見せたイスメルが言えば、それはまるで高尚な教えであるかのようにその場に響いた。
もっとも、当の呉羽にそれをありがたく拝聴するような余裕はない。距離を取って相手の間合いから逃れたはずなのに、しかし逃れられてはいなかった。攻撃手段なら彼女にも〈風切り〉があるが、それが役に立たないのはすでに知れている。
呉羽は顔を強張らせ、イスメルを睨みつけるようにして【草薙剣/天叢雲剣】を構えた。劣勢を自ら白状しているような有様だが、しかし彼女の眼にはまだ力がある。そういう呉羽の様子は、イスメルに微笑ましく映った。
イスメルがまた右手の剣を掲げた。それを見て呉羽は顔を強張らせる。しかし逃げ腰にはなっていない。その様子にイスメルはフッと小さく笑みを漏らすと、掲げた剣を振り下ろした。
キィン、と甲高い金属音が響く。イスメルが放つ〈伸閃〉は一度で終わらず、二度三度と立て続けにその斬撃を放った。その斬撃は基本的に不可視で、そのため視認による回避は酷く難しい。ただその性質上、剣を振るった先にしか斬撃は伸びてこない。それで呉羽はイスメルの一挙手一投足に意識を集中して彼女がどう剣を振るうかを観察し、そこから斬撃の軌道を推測してこれを防ぐ。それを見て、イスメルはまた小さく笑みを浮かべた。
一方の呉羽は、非常に苦しい状況にあった。軽く振るっているように見えて、イスメルの一撃一撃は非常に重い。これをまともに受け続ける呉羽の腕には、すでにかなりの負荷が掛かっていた。
(このままじゃ……!)
このままでは、ジリ貧である。もう勝てるなどとは考えていない。少なくとも今は。しかし負けるにしても負け方というものがある。何かをつかめるような、次に繋がるような負け方をしなければ、せっかくこうして稽古をしたかいがない。
呉羽は不可視の斬撃をまた一つ弾くと、【草薙剣/天叢雲剣】を水平に構えた。それを見てイスメルは小さく「ほう」と漏らす。そしてまた右手の剣を振るう。
襲い来る不可視の斬撃を、呉羽はかわさなかった。その代わり、彼女の周りには猛烈な風が吹き荒れる。【草薙剣/天叢雲剣】と【青龍の外套】の力を最大限に用いた、風の防御陣だ。ただ、全方位をカバーできる代わりに、あまり防御性能自体はよろしくない。今もイスメルの〈伸閃〉を完全には防げず、鈍器で殴られたような衝撃が呉羽の体を襲っている。
とはいえ、この防御陣は副産物でしかない。本命の練り上げられた力は、愛刀【草薙剣/天叢雲剣】の方へ送り込まれている。二重螺旋を描き、白刃を覆うように吹き荒れる風は、やがて紫電を帯び始めた。
「よせ、呉羽!」
思わずカムイは叫んだ。アレはヤバイ。彼はそれを身を持って知っている。アレは全力展開していた白夜叉の防御を突き破り、彼の意識を刈り取るほどの威力を持っている。そんなものを生身の人間に使えばどうなるか。致命的なことになるのは、目に見えているように思えた。
カムイのその声は、確かに呉羽にも聞こえていた。しかし彼女は止まらない。カムイの制止を無視して、彼女はその技を放つ。
「〈雷刃・建御雷〉!」
これこそが現状で呉羽の放てる最大の威力の攻撃である。十分にタメを行えた分、例の遺跡で使った〈雷鳴斬〉よりも威力は高い。放たれた雷はまるで龍のようにイスメルに襲い掛かった。
「『斬り裂け』」
イスメルのその呟きは、雷鳴にかき消されて誰の耳にも届かなかった。さらに強烈な閃光が走ってその場にいる人々の網膜を焼く。その二つが収まったとき、カムイはようやく何が起こったのかを知ることができた。
彼はまず呉羽の姿を探した。彼女は動いておらず、愛刀を振りぬいた姿勢のまま固まっていた。次に彼はイスメルの姿を探す。彼女もまた、先ほどまでと同じ場所にいて動いていなかった。そして右手に持った剣を振り上げている。
カムイはその剣を振り下ろすのだと思った。振り下ろし、またあの伸びる斬撃で反撃するのだと、そう思った。しかしそうはならなかった。イスメルはそのままゆっくりとその剣を下ろしたのである。
「お見事。思わずひやりとさせられる威力でした」
イスメルは微笑みさえ浮かべながらそう述べる。その声には、明らかに賞賛の響きがある。だがその賞賛は、呉羽に届いてはいなかった。
「そ、そん、な……!」
呉羽が呻く。その彼女の様子を見て、カムイはようやく理解した。イスメルの先ほどのあの姿勢は残身だったのだ。剣を振るうためではなく、振るった後の残身だったのである。そこまで理解して、カムイは衝撃を受けた。つまり彼女は剣を振るい、そして斬ったのだ。呉羽の〈雷刃・建御雷〉を。
その事実を前に最も愕然としていたのは呉羽だろう。彼女は文字通り捨て身の戦術を敢行し、ダメージと引き換えに力を溜めて〈雷刃・建御雷〉を放ったのである。その一撃は間違いなく全力で、彼女にはもうほとんど力が残されていない。
それなのに、その必殺の一撃を、イスメルはたった一振りで、切り捨てた。
実はこのとき、イスメルは使うつもりのなかった双剣の力を使っていた。彼女の双剣はもとの世界で〈双星剣〉と呼ばれていた業物であり、銘は片方が〈アウラ〉、もう片方を〈アウロラ〉という。言うまでもなく特殊な剣であり、天空より飛来した〈星鋼〉より削りだして作られたのがこの双剣だった。
なぜ鍛えずに削りだしたのか。その理由は単純で、鍛えることが出来なかったからだ。どれだけ高温で熱しようとも星鋼は赤熱化せず、そのため叩いて鍛え剣と成すことができなかったのだ。
この時、星鋼の精錬加工に失敗したうちの一人のドワーフが、こんな言葉を残している。
『コイツはもう、鍛え上げられちまってる。天と地によって、な。おこがましくって、俺様の出る幕じゃねぇよ』
なんにせよ、通常の方法では加工できず、そのため苦肉の策として削り出しという方法が用いられた。そしてその結果生み出されたのが、イスメルが持つ〈アウラ〉と〈アウロラ〉だったのである。
この双剣は最初から、つまり人手によらず、ある能力を持っていた。その能力とは〈切断〉。つまり斬ることに特化した能力である。しかもこの能力は単なる物理的なものに留まらず、いわば概念的な力だった。つまり単純に物を斬るだけでなく、魔力や力場といった、本来であれば物理的な作用を超越したはずのものにさえ、その力は及ぶのである。
要するに、いかなる物も切り捨てる最強の剣であると思えばいい。これを防ぐための最強の盾は、今のところ確認されていない。よって矛盾は存在せず、文字通りの意味で至高の二振りと言えた。
その、双剣の〈切断〉の力を用い、イスメルは呉羽の〈雷刃・建御雷〉を斬り捨てたのである。使うつもりはなかったものの、それを使わなければまずいと判断したということで、彼女の賞賛は本心からのものだった。
しかし呉羽にそんなことは分からない。彼女にしてみれば、いっそ回避してくれたほうが自信になった。受けるのはまずくて、避けるしかないのだと示してくれれば、それはそれで一つの自信になったのである。今は無理でもいずれ当てられるようになれば、そこに勝算を見出せるのだから。
だが実際にはどうだ。いとも簡単に斬り捨てられてしまった。それはつまり、当てたとしてもイスメルには対処法があるということだ。勝算をどこに見出せばいいのか、呉羽はもう分からなくなった。
「う……、あぁ……」
恐怖と絶望が、瞬く間に呉羽を雁字搦めにした。〈魔泉〉に現れたあの巨大モンスターに敗北した時でさえ、こんな気持ちにはならなかった。強くなり、いずれ再戦して、そして勝つ。あの時はごく自然にそう思うことができたのだ。
しかし今は、そういう気持ちが沸いてこない。ただ恐ろしく、ひたすら絶望的だ。こんな気持ちになるのは、陰陽士の力がないゆえに実父と暮らせないことを悟った日以来である。
自分の力で何とかできる事柄なら、それは呉羽にとって問題ではない。例えそれが将来の期待値込みの話だとしても、呉羽にとって絶望する理由にはならない。彼女が絶望するのは、自分ではどうしようもない事柄に関してである。どれだけ願い、どれだけ努力したとしても、それでは陰陽士の力を得られなかったのと同じように。
つまるところ、イスメルは圧倒的過ぎた。呉羽だって一角の剣士であるし、その自負がある。例え格上であっても、彼我の差くらいは測れる。その自信があった。しかしイスメルに関しては、その底を見ることができない。どれだけ強くなったとしても追いつけない。それを思い知らされた気分だった。
呉羽の呼吸が浅くそして速くなる。身体が震え、それが両手に構えた【草薙剣/天叢雲剣】の切っ先まで震わせた。酷い有様で、しかしそれでも彼女はイスメルを睨みつける。
「ここまでにしましょう」
呉羽の様子を見て、もう稽古ができる状態ではないと判断したのだろう。イスメルは構えを解きながらそう言った。その声が聞こえなかったわけではないだろう。しかし呉羽は震える体で愛刀を構えたまま、涙が浮かんできた目でなおもイスメルを睨む。その有様はまるで、震える子犬が全身の毛を逆立てながら、眠れる獅子を威嚇しているかのようだった。
そんな呉羽を見て、イスメルは苦笑した。そして切っ先を向けられたその状態で、彼女は率先して双星剣を鞘に収める。そうする事で敵意も害意もないことを、そしてなにより稽古がもう終わったことをはっきりと示したのだ。
それでもなお、呉羽は構えを解こうとしない。イスメルを睨み、愛刀の震える切っ先を向け続ける。そんな彼女に言い聞かせるようにして、イスメルはこう言った。
「退きなさい、クレハさん。稽古はもう終わりました。貴女は十分に強い」
呉羽は、それでも退こうとしなかった。無様なのはよい。しかし彼女の意固地な姿を見て、とうとうイスメルはその端正な眉を跳ね上げた。
「退けと言っているのが分からないのか、小娘!」
その瞬間、イスメルの気配が暴力的に膨れ上がり、そして吹き荒れた。傍で見ていただけのカムイでさえ、全身を縛り上げられ、呼吸を禁じられたように感じた。ミラルダも顔を険しくし、その背中にカレンとキキとリムを庇う。であれば、それを正面からまともに浴びせかけられた呉羽にかかる圧力はいかほどか。
だが呉羽はそれに耐えていた。呼吸は荒く出鱈目で、今にも泣き出しそうにたくさんの涙を溜め込んでいるが、それでも耐えていた。耐えて、イスメルに愛刀の切っ先を向け続けていた。
「……これに耐える。そのことは褒めてあげましょう。ですが不毛です。貴女が抱え込んだ重荷は、こんなことで軽くなりはしない。むしろ余計なものを加えるだけ。さあ、お退きなさい」
イスメルの言葉は厳しい。だが最後の言葉だけはどこまでも優しかった。それが呉羽の心を溶かしたのかは分からない。だが彼女はようやく震える手で【草薙剣/天叢雲剣】を鞘に収め、そして頭を下げた。
「あり、がとう、ござい、まし、た……」
震える涙声で、呉羽はそう言った。ポタリポタリと涙が落ちたのは、見間違いではないだろう。
「はい、ありがとうございました」
イスメルもまたそう言って一礼した。彼女の声は穏やかで、先ほど怒って見せた様子がウソのようだった。
「……っ!」
最後の礼が終わると、呉羽は顔を伏せたまま駆け出した。逃げたのである。イスメルは苦笑しながらその背中を見送り、次にカムイのほうへ視線を向けた。
「カムイ君、追ってください!」
「え……? あ、いや、でも……」
カムイは躊躇う。追ったところで、どんな言葉を掛ければいいのか分からない。
「男子であろうが、追え!」
躊躇うカムイをミラルダが叱咤する。まるでケツを叩かれるようにして、カムイは呉羽の後を追った。
呉羽は小さな岩陰にいた。そこで座り込み、膝を抱いて声を殺しながら泣いていた。カムイが近づくと、足音でわかったのだろう。彼女は顔を上げず、涙声でこう言った。
「こない、で……。一人に、して……!」
それを聞いてカムイは苦笑する。苦笑するしかなかった。もし何も言われていなければ、彼は呉羽の希望通り彼女を一人にしていただろう。だが彼は「追え」と言われてしまった。それはつまり、「一人にするな」という意味だ。
やけくそ気味に頭をかいてから、カムイは呉羽に近づいた。そして声を殺して泣く彼女の肩に手を伸ばす。しかし呉羽はその手を乱暴に振り払った。
「来る、なぁ! もう、見るなぁ!」
駄々っ子のように腕を振り回し、呉羽はカムイの手を拒絶する。そのせいで呉羽の顔がちょっと上がって、カムイはようやく彼女の顔を見ることができた。涙が幾筋も流れていて、目はもう真っ赤だ。
カムイが手を戻すと、呉羽はまた顔を膝に埋めた。そんな彼女の隣に、カムイは腰を下ろす。彼女は、今度は拒みも逃げ出しもしなかった。そうやって少し待っていると、彼女はようやくポツポツと喋り始めた。
「……わたし、弱い……」
「そうだな」
「……わたし、イスメルさんに失礼なこと、しちゃった……」
「やっちゃったなぁ」
「……わたし、みっともなかった……」
「ああ。みっともない、みっともない」
「……わたし、思いあがってた……」
「はは。未熟、未熟」
「ちょっとは否定しろぉ!」
とうとう呉羽は怒って顔を上げた。相変わらずの泣き顔だが、目じりがつりあがってさっきよりはマシになっている。けれどもカムイの顔を見てまた何かこみ上げてきたのか、彼女の眼にまた大粒の涙が溜まり始めた。
「うぁああぁん! ああぁあ……!」
呉羽は、泣いた。声を上げ、カムイに縋りつきながら。そんな彼女を、カムイはいつぞやのように抱きしめる。やっぱりその肩は細かった。
(追ってきて良かった……)
呉羽を抱きしめながら、カムイはそう思った。本当に辛いとき、口では「一人になりたい」と言ったとしても、心の深いところでは誰かが一緒にいてくれることを願っている。人間とはそんなものだろう。
だって人間は、寂しがり屋なのだから。




